2019年5月31日金曜日

歴史ゲームのリアルさ?その6敬虔な鎌倉武士

20180624

 まず元寇歴史ゲームでヒーローが敬虔に額づく場面をご覧ください。プロモーション用の映像なので何に対して額づいているか右のほうは見えていませんのでわかりませんが、神仏を表す何かとみてよいでしょう。

 武士だから主君じゃないのと思う人もいるかもしれませんが、この武士、対馬において武士が蒙古兵によって全滅して一人残って戦います。自分より上位の武士どころか仲間もいませんから主君に敬虔な礼をしているとは考えられません。

 武士道というとやたらと忠義一筋、主君のためには命もささげる、と思っている人が多いですが、それは近世・江戸時代に構築された武士道であり、鎌倉時代のもののふ(武士)道はちょっと違います。むしろ一面では西洋の騎士の似通ったところがあります。鎌倉武士について言われるのはいわゆる『一所懸命』です。これは何より自分の領地が大事で、そのために命を懸けるというものです。主君に使えて主君のために義務を果たすのはその自分の領地を安堵保証してくれるためであり、軍役に活躍するのは主君からの恩賞を当てにして(恩賞も土地の支配権)のものです。だから西洋の騎士のように主君が自分に対する義務を果たさなければ自分の義務も果たす必要がないとまで考えるわけです。そのため仕える主人を代えたり(あくまで一人前の武士の場合ですが)、また恩賞が少ないと不平をいったり、果てはもっと上位の機関に訴えたりするわけです。だから鎌倉武士どうしの関係は土地の支配権が最重要でそのためお互い(上下も含め)かなりドライな関係ということができます。

 江戸の武士の最高法令の「武家諸法度」とやはり鎌倉武士の最高規範である「御成敗式目」を読むとよくわかります。江戸の武家諸法度の一条は『文武忠孝を励まし…』となっていて、忠義が第一に来ています。これに対し「御成敗式目」の一条は『神社を修理し祭祀を専らにすべきこと」続いて仏事等の勤行を大事にすべきことが述べられています。そのあとの式目も土地関係の規範が多いのです。忠義などはでてきません。

 一所懸命の鎌倉武士はそのため自分の一所懸命を侵すものには主君でも反逆したりします。もちろんそれ以外の者には容赦はしません。犬追物などで動く標的を常に訓練している武士たちは、自分の領地に入ってきた無害である遊芸人、旅人、よそ者を、犬追物にみたてて矢を射かけたり、追ってぶちのめしたりします。そうみると鎌倉武士はかなり獰猛な猟犬のようです。猟犬の前に獲物がウロチョロしていたら本能的に噛みつきますわな、そんなようなものです。

 当時の絵巻物で見てみましょう。館の前を通りかかる修験者か旅人かわかりませんがよそ者に矢を射かける武士、射かけられる旅人の一人は女性です。驚いて逃げようとして履物が脱げてしまいます。矢は鏑矢ですから、殺す気はないのかもしれませんが、知らない人は武士の前を通り過ぎるのも命がけです。

 そんな獰猛、無茶苦茶な武士も神仏には非常に敬虔な態度をとります。元寇ゲームで額づくヒーローのような真摯な礼拝をささげ、心から祈り、また供物をささげます。貞永式目の第一条と二条が神仏を崇め、寺社を修理し、寄進すること、と定めているのを見ても神仏に対する敬虔度は本物ですね。

 再び絵巻物より、三島権現(伊豆)の鳥居前に五体投地のような姿勢で祈る武士

 この三島神社は鎌倉武士の中の河野氏、越智氏の氏神のような存在ですから、この武士もその一族かもしれませんね。この河野氏はわが四国に関係のある鎌倉武士で伊予の三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を氏神のように信仰しています。この河野氏は元寇の役にも鎌倉御家人として出陣して大活躍していますから、この元寇ゲームとも関係ありますね。
 わが地元徳島にも当時この辺りの荘園の武士であった河野氏が勧請した三島神社が徳島の佐古、眉山のふもとにあります。

 反対側の狛犬さん

 その狛犬さんは鎌倉時代に作られ奉納されたものです。長年月の間にかなり風化しています。この狛犬さんは額づいて一心不乱に祈る鎌倉武士を見て知っているわけですね。そう思ってこの古びた狛犬さんを見ると貴重なものに見えてきます。

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