土日に奈良、姫路、赤穂へ行ってきました。最近ブログのネタ切れだったのでこれでいくつかのネタができました。今日はその一つ平城宮跡を歩いた時のことです。
タイトルを見ると「平城」と書いて「なら」と読ませている。どう見ても平城がナラと読めるはずはないのだが、そう読むことになっている。ちょっと不思議だが、中学か高校の時に音楽の時間に『平城山』(ならやま)という合唱曲をうたった記憶があるからこう読むのは初めてではなくあまり違和感はない。また戦国時代後期、皇室が経済的に最も衰微していた時の天皇に「後奈良天皇」がいる。ご存知のように後○○天皇とは同名の名称の天皇がいて、あとのほうを後○○というのであるが、さて、奈良天皇なんかいたかしら?そういう名称の天皇がいたから後奈良天皇と呼ぶわけであるからそれ以前にいたのである。もったいぶらずに言うと、この奈良天皇とは正式名「平城天皇」という。このことからも平城=奈良と深く関係していることがわかる。
その平城宮跡、地図で見ると現代の奈良の市街地からはずれ、郊外の田園地帯にある。(だから買収整地がしやすかった) そのため奈良駅より二つ手前の西大寺駅で降りて歩くことになる。
私が初めて平城宮跡に行ったのは平成3年の初夏であった。この頃はただただ原野が広がるだけの広大な遺跡の敷地であった。大極殿やそのほかの大規模官衙や門の跡など位置がわかっているところは礎石が置いてあったり、また植木を植えてその位置がわかりやすくしてあり、石板プレートの説明でそれとわかったくらいで、何もないところだったので建物を頭のなかで想像することしかできなかった。しかし今は、復元建物も建てられ、平城宮跡を視覚的にイメージしやすくなっている。
広大な敷地に復元された建物は大極殿や朱雀門などごく一部、ほかは湿地や原野、その中をひたすら地図を見ながら歩く。復元遺跡以外は原野や湿地で自然の状態に任せているため、野鳥が多くいて、私が歩いたときはヒバリがあちらこちらでさえずり、知らない種類の野鳥の鳴き声が聞こえた。
大極殿から朱雀門へは一直線に向かわず、官衙の遺構跡や東院庭園を巡ったのでかなりの距離を歩くことになった。東院庭園を見たのは今回初めてであったが、平安時代以降の庭園とは趣が違っていて唐風(中国風)の印象を強く受けた。奈良時代の女帝、孝謙天皇(称徳天皇)がこの庭園の近くの宮殿に住まいしていたというから、このお庭も散策したのであろう。もしかすると愛人の僧・道鏡と乳繰り合いながらお庭で痴態を繰り広げ・・・なんどと想像をたくましくするのはゲサクなワイだけか。
あっちゃこっちゃに寄り道しながら歩いので朱雀門に着くまでにくたびれてしまい木陰で一服しながらようやと、朱雀門に着いた。
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