2019年5月31日金曜日

鎌倉時代と言われる石造物の信頼度

20180628

 わが町の鎌倉時代から残っているもので唯一目に触れられるものでは板碑である。何体かの仏像や若干の寺宝の類のものは由緒ある寺に残っているが、秘蔵されていて手ンごろ易く見せてはくれない。その点板碑は道端や田んぼのふちに野ざらし常態が多いので私でも見ることができる。

 ところでありがたがって鎌倉時代の板碑として手を合わせたり写真に撮ったりしているが、そもそもこの板碑が本当に鎌倉時代のものか、信頼していいのだろうか。去年、徳島の眉山山ろくの江戸時代のお墓を見て回った時、江戸時代と認識できたのは、墓石に年号が彫りこんであったからである。この鎌倉時代の板碑にも年号が彫りこんであったらまず間違いないと思うが、800年近くもたてばいくら石造とはいっても野ざらしの状態であれば風化が激しく、中にはどう見てもただの青石の塊としか見えないものもある。言い伝えや、古いから多分~、などというのはあまり信頼できない。文字が消えていても板碑の様式などから鎌倉期と推定もできようが、年号が刻んであるものに比べれば確実でない。

 わが町で鎌倉時代の年号が刻んであって鎌倉期の板碑が確実なのは以前のブログにも挙げた報恩寺さんの板碑と本行寺さんの板碑である。正和と元亨だから鎌倉末期である。この表面もかなり劣化が進み、拓本をとったり、いろいろな角度から撮影したり、あとは欠けた文字を補ったりして、専門家がかろうじて読めるものである。私がその場で確認できたのは「元」の文字と、「六月」の文字だけであった。結局、後で特殊な撮影をして画像処理した学術的な報告書の板碑の写真を見て間接的に確認できた次第である。

 わが町の隣、石井町に年号がはっきり読める鎌倉期の板碑があると聞いた。それも鎌倉中期、ワイの鎌倉時代のオベンキョをする動機付けとなったあのリアル元寇ゲームと同じ文永年間である。それで今朝、早い汽車にのってその板碑を見に行った。一応鉄道駅だがまるでバス停のような小さな駅「下浦」で降りて線路沿いに少し歩いたらその板碑はあった。町役場がたてた『文永七年の板碑』と書かれた新しい碑のそばに板碑群があった。線路のネキ、汽車の右側の石碑群がそう。

 黒く見えるのがその文永七年の板碑である。

 近寄って表を見るとこのようになっている。左の低いほうが文永七年の板碑、文字でなく線刻のようだ、なにかの模様か、調べると板碑には形式があって、表面には次のような線刻が刻まれている。これは今でも卒塔婆でよく見る「梵字」が刻まれている。主は南無阿弥陀仏の名号で下の二つも仏の名号である(阿弥陀三尊種子という)

 三つの梵字は円の中にあるがこれは「光背」を表すものだろうか。ところがこのような線刻は見えるが、どこにも年号がない。それもそのはず、この板碑は変わっていてふつう表にある年号が裏に刻まれているのである。裏に回ってみる。わかりますか?写真ではわかりにくいでしょう。この部分に注意してください。

 このように「文」が刻まれています、その下に「永」があるのですが写真では読みにくいうえにかなりのくせ字でよけいわかりにくくなっています。

 何とか私は読めましたが、この板碑のレプリカが県立博物館にあるということをたまたまこのそばで草刈りをしていた地主さんに教えていただいて、昼から、文化の森博物館へレプリカの写真を撮りに行きました。下がレプリカの写真、これならわかるでしょう。「永」の字はかなり歪んでいます。

 ついでにレプリカの表、こちらも三尊種子がよくわかるようになっている。

 このように年号が確実に読める鎌倉時代の石造物があるということで、ワイの目に触れるこの板碑は元寇の役の時代の文化遺産とみて間違いない・・・・・といいたいところだが、そこでワイはちょっと「?」をつけたい。博物館のお墨付きももらった年代確実な文化財になんとだいそれた疑問かと思われるでしょうが、ワイの疑問は疑問、ちょっと確実視できない。

 こんなことをふと思ったのである。「これ、後の時代の素人が、この碑が文永七年のものであることを後世の人間が忘れないようにするため、刻んだんじゃないのか?」 そう思ったのは形式からはずれて裏に年号が刻んであること、そしてその年号がおぶけかえるほど馬鹿でかく、かつええかげんな書体であることである。大昔の鎌倉時代とはいえこのような造形物は素人でなく「石工」のような専門職人がいたはず、それなのに裏にいわばへたくそな文字を歪みつつ大きく記した、とは考えられないのです。

 何十年後の人か知らないが、まだこの板碑が文永に作られたことを知っている人が、ワイが死んだら、誰もこの碑がいつ作られたかわからんよ~になる、知っとるワイが生きとるうちに裏にでもわかるように印でもつけとこやぁ~、といって、ノミと木づちを手にしてトンテンカントンテンカン、ブサイクやがまぁわかったらええんじゃわ、ちゅうて刻んだことも考えられる。

 刻んだ爺さんが文永のころを直接知ってるジジイならいいが、百年もたってワイのひい爺さんがそういやいいよったわ~、となったら、ホンマに文永のころかどうかわからん。だいたいジジイはワイもそうじゃが先祖の話はだいぶん盛って大げさにエエように言わんとも限らんからな。

 とか疑いだすとますます、信用できなくなる。まあ公式には文永の板碑と認められとんやからワイの妄想っちゅうことにしとこや。

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