2026年8月25日火曜日

淡島海岸を歩いてきました

  先月の27日のブログは、友人とドライブで淡島神社に行ったときのものでした。タイトルに「淡島神社と淡島海岸」とありますが、実際に足を運んだのは淡島神社のみで、淡島海岸はその高台にある神社から見下ろしただけでした。それでもその風景を写真や動画におさめることが出来ました。境内をちょっと下りれば海岸に出られます。私一人ならば海岸を心行くまで散策するのですが、友人の車で来ているためその時は海岸の散策はやめました。


 ちょっと残念で、散策できなかったことが気にかかっていました。しかし近いうちに一人でゆっくり来ようと思いつつ帰りました。というのも私は「ながいき定期」というバスのフリー定期を持っています。この淡島海岸は徳島バスの「淡島海岸路線」の終点になるのです。ですから車を持たない私でも容易に来ることができます。

 そんなわけで一昨日の23日バスを乗り継いで淡島海岸にやってきました。ここは砂浜がきれいで青松こそありませんが美しい海岸です。遠浅になっているので海水浴場としても適しているのですが、海岸に人はほとんど見かけませんでした。


 砂浜に下りる小道には海浜植物でしょうか、下のような黄色い花の植物がたくさん咲いていました。後でググルレンズで調べると帰化植物の「メマツヨイグサ」でした。


 そう広い海岸ではないので20分も歩けば端から端まで歩けます。海岸からは陸の小山や沖の小島群が見えるのみで人工物はほとんど目につかないのですが、端まで歩くと、下のように高いプラントの塔が見えてきました。製紙工場の構造物です。これを見たとき、大昔みた有名なSF映画のラストシーンを思い出してしまいました。


 今から58年も前の映画(1968年製作)『猿の惑星』です。え?全然似ていないって、でも私はこのシーンを思い出してしまいました。もしこの海岸が人で賑わっていたらそんな印象は持たないでしょうか、みてもわかるように人は誰一人としていません。海岸の尽きるあたりには天を指す自由の女神のトーチのように赤白の煙突が屹立しています。そして同じように打ち寄せる波の音が孤独感寂寥感をいっそう際立たせているように感じます。


 下は南端にある淡島漁港から沖合の小島、淡島海岸、そして北端部を撮った動画です。

2026年8月20日木曜日

夏極まって晩夏へ

  先月30日から久しぶりの投稿です。この期間中の暑さで体も気力も参っていました。高齢者にはこたえます。

 「いやぁ~、本当にこの三週間の暑かったこと!」

 七月末日くらいから八月の初めにかけては最高気温が連日38~39度で40℃に達するのは時間の問題ではないのかと思っていました。明け方でも30度近くあり、長く生きてきた私ですがいままでに経験のない異質の暑さでした。

 ようやくボニ(盆)の支度(とはいっても仏壇の供え、墓の掃除、お参りくらいのものだが)をする時期になって、例年の暑さに戻ってきました。それでも盛夏の厳しい暑さなのですが、40℃に近い暑さを乗り越えたため、盛夏の暑さでも「おぉ、今日この頃はちょっとしのぎやすくなったぞ」と感じました。朝晩の気温が涼しさを感じるまでになってきました。


 日本の風土は四季の変化に富み、そのため季節の区分も明瞭だといわれてきましたが、近年の急激に進む地球温暖化、とくに今年は世界的に異常に暑い夏が続いたため日本でも、夏の季節が長くなる傾向があり、春も秋も短くなるのではないかといわれています。ボニ(お盆)を過ぎると時候のちょっとした変化に「初秋」を感じてきましたが、これだけ夏が大きな顔をして長くのさばると、極熱の盛夏を過ぎ朝晩を中心に気温も低下傾向が続くころでも、まだ秋というには、夏が幅を利かせています。初秋というより「晩夏」という言葉を私はこのころの時期に使っています。

 秋にはまだ間がある、しかしさすがの夏も衰え始める時期、それが晩夏である。日中の気温は盛夏と変わらぬが、太陽の運行は正直である。日出日の入りが遅くなり、太陽高度も低さをまし、影が長くなり、午後の日差しはすこし赤っぽくなったように感じる。陽の光にも夏の衰えを感じるが、大空のはるか高いところでも夏は衰えを見せ始めている。土用すぎの白く白熱したような空は、青空が広がり濃さも増している。そして高層雲である「巻雲」が白く筋をなしてたなびいている。数日前に見上げた空がこれだ。明瞭な筋雲は「飛行機雲」である。


 夜、九時半頃涼しさに誘われて少し夜の散歩に出た。昼間は枯れたようになっていたマツヨイグサが水銀灯の灯りの下で黄色い花ビラをいっぱいに広げて咲いていた。虫の音はまだ聞こえない。


 盆の送り火の時期は(新暦)では8月16日だ。ボニの最終日である。この日、わがふるさと鴨島駅前で一日だけの阿波踊りがあった。16日のボニ踊り、これも晩夏の風物詩になるだろう。

 下はその時の動画です。

2026年7月30日木曜日

淡島神社と淡島海岸その2 追加

  先日のブログ(淡島海神社と淡島海岸)に写真と動画を追加しておきます。

 神社の裏から淡島海岸が見える


動画 神社の裏からみた淡島海岸


2026年7月27日月曜日

淡島神社と淡島海岸

  今日、昼から阿南市へ友人と車でドライブしました。県内に長年住んでいますが、阿南市にある淡島神社とその下にある淡島海岸は一度も行ったことがありません。そこを目的地に定め神社にお参りし、眼下に広がる淡島海岸と海の景色を写真に撮ってきました。

 磐座のようなごつごつした大きな岩石がむきだしの小山の上に神社はありました。大きな神社ではありませんが、岩山自体が御神体のようで、いわゆる神さびた感じのする神社で、おまけに景色のよい場所にあります。


 鳥居をくぐるとすぐに急こう配の石段になる。


 途中、まるで階段の踊り場のようなところに百度石とお不動さんの石像がある。


 本殿はコンクリート製の小さなお堂である。


 その裏に回ると眼下に淡島海岸が広がっている。沖にはいくつかの小島が点在している。



2026年7月20日月曜日

妹の命日

  今日7月20日は妹が亡くなって三回目の命日である。年忌法要を行うとすれば「三回忌」に当たる。寺に頼んでの正式な法事などは今の私の状況ではとてもできないが、ささやかながらできる範囲で心のこもった供養をと思い、「仏壇の妹の位牌前の供養」「墓前での供養」「(地蔵菩薩さまが本尊の)立江寺に参って妹の冥福を祈る」の三つを今日行った。

 35℃をこえる猛暑の中、家~墓~立江寺(小松島市)の往復は60kmあまりある。汽車とバスを使い、歩いたのはわずかだがそれでも汗だくになり、かなりくたびれた。

2026年7月8日水曜日

今日は何の日 明日は何の日

 


 昨日7月7日は誰もが知ってる「七夕」だった(私のブログにもアップした)。そして今日はダジャレのようだが、「質屋の日」である(左の図は江戸時代の質屋)。7月8日を「しち(7)、や(8)」と読むのである。その話は今日友人から聞いた。そこで明日、7月9日もきっと何かの「日」になるに違いないと思い。ネットで調べる前にまず私が予想してみた。

 7と9か?単純に語呂でいうと、ナ・ク(泣く)つまり「泣く日」となる。まさかなぁ、そんな日なんぞ制定するはずはなかろう。で、ネットで調べてみた。するとなんと!本当に明日は「泣く日」として制定されているのである。いったい泣く日とは何を意味する日なのか。ネットにはその趣旨も説明されていたが「感情を豊かに表現しストレスを和らげることを目的とした泣く日」なのだそうである。まぁ心理学でいうところの「カタルシス」っちゅうやっちゃな。

 7月9日は他にも制定されている。「腸内環境を整える、おなかキレイの日」だそうだ。これは7月9日を三桁の数字079として、0・、7・か、、9・リーン(きれい)、という語呂になるそうだ。乳酸菌飲料の会社の販売促進に資するような日じゃなかろうか。

 なにやらふざけた言葉遊びみたいな制定過程である。そこで私もふざけ半分に独自に考えた。7月9日をシャックリの日とする、と。語呂合わせはシャックリの擬音語「ヒック、シャック」のヒックをとしたのである。

 これは私しか認めないシャックリの日だ。まさかこの日に限らず「シャックリの日」なんぞある筈がないだろうと思い、ネットに聞くと、なんと!日本にはないがアメリカには「シャックリの日」というのがあるそうだ。ナショナル・ヒックアップ・デイ(National Hiccup Day)というそうである。Hiccupはご存知英語でシャックリの意味である。3月16日となっている。


 ところで「ヒック、シャック」の擬音語で思い出したことがある。大昔、私が小学校の高学年くらいの時だから昭和35か36年、に藤山寛美主演の時代劇捕り物帳「しゃっくり寛太」という白黒テレビドラマがあった。推理が終わり犯人の目星がついたとき、シャックリが起こり、事件は解決に向かうのである。それで「しゃっくり寛太」といわれるのである。その主題歌はたしか橋幸夫さんが歌っていた記憶がある、そのフレーズはうろ覚えだがヒック、シャックのぉ~、しゃっくりぃぃ~、かんんん~たぁ~と歌っていたようだ。

 今、ヨウツベ、ネットでその歌を探したが、題名がヒットするのみで、その歌、歌詞とも全く情報が途絶えていた。

2026年7月7日火曜日

今日は七夕

  ここのところずっと雨の日が続いている。今日も朝から今にも降りそうな曇り空、低い乱雲が前山の上部付近にわだかまっている。

 昼近くになって薄日が差してきたが、スッキリしない空模様である。こんな空だが、今日は7日、「七夕」の日である。昔、子どもの頃、歌った歌に ♪~笹の葉サァラサラ~軒端に揺れる~お星さま、キィラキラ、金銀砂子~、とあるが、このぶんでは今夜の夜空はお星さまキラキラ金銀砂子(銀河・天の川)とはいかないであろう。

 そもそも7月7日頃は梅雨の時期であるから、美しい星空を眺める可能性は低い。それというのも7月7日を七夕(星祭り)として太陽暦の7月7日で祝うからである。本来は陰暦の7月7日が七夕である。この陰暦7月7日は今年は太陽暦では8月19日である。だいたい毎年8月上旬から中旬にかけてが陰暦の七夕となる。この頃は梅雨も終わっており、太平洋高気圧に覆われ暑い晴天が続くことが多い。夜にはいっても晴天は続く、だから涼しさの感じる夜、星空を見ながら七夕を祝うのである。

 とわいえ、イベントとしての七夕祭りの飾りである「笹の葉飾り」は今日7月7日に行われている。わが町の駅前通りもこのように七夕飾りをしている。短冊には地元の子供が願いをいろいろ書いているようだ、達筆になるよう、あるいは音楽などの技芸が上達するように祈るのが祭りの趣旨であるようだが、春秋に富む子供や若い衆ならいいが、老い先短いこのジジイに達筆じゃの技芸が上手になるじゃのは関係ない。それよか「長患いせんとポックリ逝きますように」とか「失禁だ脱糞だ、それオシメじゃと、下のトラブルにならんうちに楽に死ねますように」がジジイの願いじゃ。

2026年7月4日土曜日

初めてスマホから撮った写真をパソコンに取り込んだ

  一昨日列車に乗ったら下ろしたてのまっさらピンピンの新型車両だった。下浦駅で降りたときにホームからスマホで撮影した。


 さて、今までブログに挿む写真は、デジカメか使われなくなったガラケーのカメラ機能を利用して撮影したものだが、今日、上記の新型車両の写真は、初めてスマホのカメラで撮ってブログにアップしたものである。

 スマホで撮影した写真はスマホ内にたまる一方で、それをブログに使いたいが、どうしたらブログに取り込めるかわからなかった。というのもブログはすべてパソコンから作っているから、結局のところ、パソコンにどうやってスマホから写真を取り込めるか、といいうことに帰するのである。(厄介なことにスマホとパソコンのググルアカウントは違っている

 若い人なら何だそんな簡単なこと!といわれることでも、このジジイには難問となる。しかしよくしたもので、そのスマホに質問すればその方法・手順を丁寧に教えてくれた。試すと難なくスマホの写真ホルダーからパソコンのググルフォトに取り込めた。で、今日ブログで早速その写真を使ったわけである。

 下の写真もさる6月11日、鳴門・大毛島の潮明寺のアジサイをわがスマホで撮影したものである。


2026年6月30日火曜日

美味しそうな県木の実

  今日で6月も終わり、一年の半分が過ぎた。体力気力の衰えもあり更新が間遠くなっている。先ほど更新した前のブログ(今日6月30日)は、前月5月10日に散策した古戦場だ。6月は体調不良もあり、ブログにアップできるようなこれといった場所には行っていない。6月中に散策と言っていいのは小松島の立江八幡宮のあたりを歩いたことである。写真の日付を見ると6月15日となっている。

 八幡宮の境内は奥行きが広く、大きな神社である。「阿波花火発祥の地」という表示が境内にあった。


 境内にはおいしそうなヤマモモが実った木があった。このやまももの木は我が県の「県木」である。

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その7 中富川の合戦

  ちょうど今週の大河ドラマで、土佐の戦国大名の長宗我部元親信長から四国全土の征服を承認されるシーンが出てきますが、その征服の最終段階としての合戦が、阿波の国の当時の政治の中心地であった勝瑞城の近く、中富川のほとりで戦われた合戦です。長宗我部に対するのはわが阿波の戦国大名の三好氏一族及び諸将でした。結果は長宗我部軍の最終勝利となり、三好氏一族(十河)は敗れ讃岐に逃れます。

 今回の「中世の城ぶらぶら散歩」は古城めぐりでなく、古合戦場巡りとなります。まず当時の古戦場跡及び古城あとの地図を下に示します。


 破線矢印の進路が長宗我部軍で川を対して向かい合っているのが阿波の三好氏一族及びその諸将の軍です。

 中富というバス停で降りました。


 西へ向かって歩くと旧吉野川の堤防、そして旧吉野川が見えてきます。



 その手前、今は畑となっているところが中富川の古戦場とみられているところです。


 地元の人に聞くと、農地整理する前、昭和の初めころには、古戦場であったことを示す供養塚か?小塚があちらこちらに点在していたようですが、今は全くありません。

2026年5月31日日曜日

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その6 板西城、新居見城

 板西城 板野町

 5月22日に散策してきました。城址であるが明確な遺構は残っていない。言い伝えや地名の分析によりこのあたりではなかろうかというところの中心に現在地蔵堂が立っている。


 その入り口に板西城址の説明板がある。


新居見城 小松島市新居見町

 5月30日に行ってきました。南小松島駅から南へてくてく歩くと芝生川(しぼう)を渡りますが、その川を上流に向かって進むと新居見城址の小山があります。ここも明確な遺構は残っていない。板西城は平城、新居見城は山城である。


 その山のすそに城址の石柱が立っています。説明文も彫ってあります。以下のようなことが書かれています。『平安時代末期に近藤六家親が在城しており、源義経を先導して屋嶋に攻め入ったと云われている。その後、近藤六親家は板西城主となっていたが子に恵まれなかったため赤沢兵庫頭宗定に板西城を譲り新居見城へ移った。戦国時代には赤沢氏が城主で、天正10年(1582年)三好方として中富川合戦で戦った』

 近藤氏そして赤沢氏は、板西城、新居見城の城主と重なっているようである。


 芝生川は思っていたより川幅があった。30cm近い大きな亀が何匹もいる。外来種のアカミミガメ(みどりがめ)だ。そして川沿いに列をなしてさいている黄色いコスモスに似た花は外来種のオオキンケイギクだ。私が子どもの時の昭和三十年代は亀も野生の菊も在来種ばかりだった。60年以上経て環境も変わり植生も変わっていった。日本文化の基盤である風土がどんどん変わっていく。これからの日本はどうなっていくのだろうか。


2026年5月25日月曜日

季節の花 花菖蒲

  助任にある蜂須賀家菩提寺・興源寺横の公園に花しょうぶの花がきれいに咲いているというので見に行ってきました。これは花菖蒲とのことですが、よく似た、というか私には違いが全く分からない花にアヤメ、カキツバタがあります。まぁ違いは専門家に任せ、これから梅雨にかけて咲くこれらの花を愛でましょう。あ!今、(あやめ)とパソコンに打って変換をおすと「菖蒲」と漢字が出てきた。ということは、アヤメと花菖蒲(ショウブ)は同じなのかなぁ?

 有名な和歌を思いだし口ずさむ

  五月雨に 沢辺のまこも 水こえて いずれあやめと ひきぞわずらふ (源頼政



 水辺の花しょうぶと噴水、これからの季節、見るだけで涼しくなるような風景だ。


 ここの公園には十数代にわたる阿波藩主の墓もある。有名なお二人のお墓を紹介します。

十代藩主蜂須賀重喜公の墓、吉川英治作「鳴門秘帖」の小説・映画・テレビで有名なのはこの人


今年の大河ドラマで秀吉兄弟を助ける子分のような役、野武士風のキャラの蜂須賀正勝の墓、彼は藩祖である。

2026年5月24日日曜日

今日のローカルニュースに驚いた

 


 今日の徳島のローカルニュースに驚いた。昔、一緒に机を並べて働いていたいわば同僚が司法試験に合格したというニュースである。一介の受験生の合格が新聞に載ったのは、大学卒業後数度のチャレンジにも失敗し、その後別の職種に進んだが、何十年かたって、思うところあり再チャレンジして53歳という年齢で合格した奮起の人であったためである。

 今から28年前、私は徳島市内の某ビル五階にあった資格試験予備校で講師をしていた。講師といっても常勤ではなく、時間幾らのアルバイト講師である。受け持ったのは「公務員上級受験コース」と「行政書士受験講座」であった。公務員受験コースの講師は3人、人文・社会・自然科学及び小論文などの一般教養分野、憲法・行政法・民法などの法律分野、数的処理・空間把握・推理推論など数学分野、その三分野を三人が担当していた。私はその中の一般教養分野担当で、今日のニュースで話題の彼は法律分野であった。

 アルバイト講師をしたのは二年間であった。私は当時47から48歳、彼は25歳の青年である。気さくで愛想のよい若者であったため、空き時間などはよく世間話もしたし、自分の授業内容についても分野は違うが忌憚なく話をした。公務員試験の傾向や対策について講師の立場からあーすればよい、こーすればよいと話が盛り上がることもあった、資格予備校で講師をするなどは初めてであったため、最初は戸惑ったが、うんと年下の彼の方が落ち着いていてずっと講師らしく、彼と話すうちに少しずつ自信がついてきた。

 しかし私が講師をして二年過ぎた頃、予備校は県内から撤退することになり、結局、私も彼もその時点で講師をやめた。その後、私は某定時制・通信制高校の臨時雇い講師の口がかかりそちらの方へ行き出した。その高校の講師をしていた時(一年はたっていただろうか)、偶然徳島市内で彼にあった。「今どうしてるの?」と聞くと、彼自身講師から受験生に立場を変え、県庁の上級職を受験し、合格して新年度から県職員としてスタートするとのことで、「いやぁ、それ終身就職でよかったじゃないか」とお慶びをいったことを思いだす。そのご彼とは一度も会う機会がなかった。

 そして28年後、このニュースである。県庁の上級職に就いたことだけでも田舎ではエリートの職業なのに、今度は弁護士である。セレブといっていいのじゃないだろうか。いやぁ、すごい、本当に。まばゆいわ。片や私はその後も定職を持たず、ふらふらとフーテン暮らしのような人生を送っている。

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その5 飯尾城、立江城

 飯尾城・飯尾東城

 5月17日に散策しました。吉野川市鴨島町飯尾にある中世城館です。飯尾氏の居城です。飯尾氏は鎌倉幕府の幕閣の一人である三善康信の子孫で麻植郡内の荘園の地頭職を世襲していました。室町時代には細川氏の被官として京都中央政界でも需要な位置を占める飯尾氏でした。

 城館跡は近接して二か所あります。「飯尾城」「飯尾東城」です。飯尾城は現在飯尾敷地小学校の前にある飯尾神社に隣接した南一帯がその場所と推定されています。

 飯尾神社の境内から南方を写真に撮る。玉垣の向こうの畑が飯尾城館跡、次に述べる飯尾東城と同様遺構は残っていない。


 飯尾東城は飯尾城から300mほど東へ寄ったところにあります。下の動画に見える畑一帯が飯尾東城である。動画で黄色丸が現れるあたりに壊れた石仏があるが、以前はそこに飯尾東城跡と表示があったが現在は下の写真のように首のない石仏があるのみである。


立江城

 小松島市にある八十八ヵ所の一つである立江寺に近いところにある。5月18日に行ってきました。立江萱原行のバスに乗り「旧立江中学跡」のバス停で降りるとその前にある山の麓あたりが立江城跡です。遺構も表示もなく、この辺りといわれている場所で写真に撮りました。上の写真は元立江中学グランドから城のある方向の山を撮った。右の麓の方が城館跡


下が城館があったといわれている場所


2026年5月20日水曜日

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その4 国実城、鳥坂城、矢上城

 国実城 4月12日に見学

 中世~戦国時代にかけての近藤氏の城館と思われるが詳細は不明、JR下浦駅からすぐ近くなのでその伝承地の写真を撮ってきました。

下の祠周辺がその地といわれている。



鳥坂城 4月12日に見学

 石井町にある気延山から北へ派生した標高75mの茶臼山に築かれている。鎌倉期に阿波国・淡路国・土佐国の守護となった経高が阿波国の拠点として築いたが、 承久の乱の後は佐々木氏に代わって小笠原長清が阿波国守護となり、長清は佐々木氏の籠る鳥坂城を攻め佐々木氏を排除した。

 登り口にこのように城の表示はあるが、城館跡とみられる山中では明確な城の遺構は確認できなかった。


矢上城

藍住町矢上にあった中世から戦国末にかけての城館で、矢野氏の居城と伝えられる。天正10年(1582年)土佐の長宗我部軍の阿波進攻に対する勝瑞本城の最前線としての城館であった。遺構として明確なものはなく、場所は正法寺橋の北側一帯といわれている。

5月9日バスで行ってきました。矢上バス停で降りて南に少し行くと、正法寺川が流れ橋が架かっています。この辺りだろうと見当をつけ、取った写真です。この左岸あたりが矢上城跡とおもわれる。



阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その3 芝原城、桜間城、島田城

  もう一ヶ月以上前ですが、4月13日に自転車でぶらぶらと徳島~国府~石井にかけて中世の古城めぐりをしてきました。

芝原城 徳島市国府町芝原にあった城(もちろん中世の城ですから城館です)

 平山城で築城主は久米氏、廃城年は1553年(天文22年)

遺構は残っていません。このあたりにある八幡神社や蔵珠院あたりがその城館の跡といわれています。

八幡神社


蔵珠院


この蔵珠院にはサザエの泉(まいまい井戸とも)があります。螺旋の石畳をおりて井戸の水を汲んだようです(今は枯れている)


桜間城 徳島県名西郡石井町にある「桜間城跡(さくらまじょうあと)」は、平安時代末期頃の平城跡です。桜間氏の城館といわれています。現在は遺構は残されていません、町指定史跡「桜間神社」や「桜間の池跡」が残されている。

桜間神社遠景、横を流れるのは飯尾川

桜間の池の説明

現在の桜間池(昔はもっと広かった)

島田城 徳島市南島田町にあった「島田城(しまだじょう)」は、室町時代から戦国時代にかけて存在した平城(城館)です。遺構は残っておらず、また城主や歴史は不明です。しかし中世の小規模な領主の居城、あるいは城館であったと考えられています。

建造遺構や石垣などは発見されておりませんが、伝承地として南島田の「両八幡神社」がその城館跡とみられています。

両八幡神社、蔵本駅西踏切から歩いて数分

その場所の鳥瞰図