2024年5月17日金曜日

清少納言の墓

  昨日、鳴門の岡崎海岸に近い「あま塚」に行ってきた。ここは清少納言の終焉の地という伝説があり、墓もある。今年の大河ドラマでも清少納言が出てくるので、それと関連して、いまちょっとした観光のおすすめスポットではないだろうか。

 ただし墓と言っても確証のあるものではない。清少納言の終焉がこの地だったという地元の伝承(口伝によるものだろう)をもとにしていて墓がたてられたようである。現代人の常識的感覚では「墓」はその人の遺骸や火葬後の骨灰が埋められているところであるが、千年も前の歴史的人物にその常識は当てはまらない。清少納言のライバルといわれている紫式部の墓あるいは墓所というのも各所にいくつかあるようだが、この場合も、そこに彼女の遺骸、骨灰、あるいは髪の毛などがあるわけではない。むしろこれは墓というより「供養塔」とでも呼んだらいいものではないだろうか。

 地元民の口承ということで確証はないからここが墓というには疑問だ、と思われる方もいるかもしれないが、後世の人が建てた供養塔というならば広い意味で墓と称してもいいと思う。千年も昔の人である、そう目くじら立てることもあるまい。

 このお堂の中にその供養塔(宝篋印塔)がある。


 この墓所のあるあたりは今は住宅や農地(サツマイモ畑が多い)が広がっているが、下図の江戸時代の阿波名所絵図をみると、墓所のすぐそばまで磯浜が迫り、清少納言の塚と称する供養塔(五輪の塔)はかあるいはの中島にある(弁天社はこのように池の中にあるがそれとよく似ている)


 鳴門駅近くの観光案内所で簡単な地図をもらい案内所の人に説明を受けたが、かなりな距離があるようである、おまけに方角もわからない。しかし岡崎に家のあるA君がちょうどその観光案内所から帰るところで、道がわからない私のために一緒に歩いてくれた。道々ここ鳴門の歴史や風土、伝承などについての話をしてくれた。墓所の観光より、彼の話の方が面白かった。気のいい青年で記念に一緒に自撮りをお願いしたら快く引き受けてくれた。

2024年5月13日月曜日

虫刺されの季節がやってきた

  3日前の昼過ぎ、快晴だが気温低め、風がやや強く吹いている。五月の薫風とでもいうべきさわやかな風だ。例によって目的もなく日向の往還をウロチョロ歩いていると小公園があった。歩いても暑くはないが日差しがかなりキツイ。木陰を求め公園内に入り、木陰になっているベンチを見つけ腰を下ろし、手足を弛緩させてくつろいでいた。気分は上々、その時右わき腹に近い背中にチクリとした鋭い痛みがあった。その瞬間だけの痛みであったが、どうも虫に刺されたような痛みである。虫刺されとすると、下着とシャツ、薄手のジャンパを着ているので、それを通して刺されたのではあるまい。何かの虫が下着の裏に侵入し刺したことが考えられる。

 まさか公園内でストリップするわけにはいかないから、ズボンからシャツを外に出し、下着のなかに手を入れて刺された部位の皮膚を触ってみるがそれらしい虫を手指で確認することはできなかった。ベンチを見ると蟻が這っているので蟻かもしれないとおもったが、実のところわからない。まる一日以上たった昨日、その背中を手指でなでるとプックリ膨れている。触ると少し痛くて、しばらくするとかゆみも出てきた。これは虫刺されに違いないと、遅まきながら虫刺されの薬チンキをつけた。一日たった今もその部位は腫れていて軽度だが痛みともかゆみとも表現できないような複雑な違和感がある。普通、蚊などに刺されたらすぐにかゆみが出てくる。この発赤とかゆみの遅さは蚊とは違う害虫に刺されたのだろう。

 これから気温も上がり湿度も高くなる。害虫が出てくる季節となる。蠅だのゴキブリだのは、ワイはあまり気にしない。家にぞろぞろ這おうがブンブン飛ぼうが、なんちゃかんまん、と思っている。嫌なのはワイの身体を刺したり、吸ったりする害虫である。蚊、ダニ、南京虫、ムカデ、ハチ、などである。

 数年前まではそれが嫌さに、殺虫剤を必要以上にたくさん振りまいていたが、薬剤の方が体に悪いのでやめた。家の中は、ものすごっく、ひこづりさがしている。害虫発生には好条件を提供しているようだ。それなら片付ければいいと思うが、ものぐさなのでそれもよ~しない。言い訳としては我が家の昆虫の世界にも生態系があって、我が家独特の捕食上位者の昆虫の生態系ピラミッドが存在する。例えば蠅とかダニが増えればその捕食者のクモ類(ハエ取りグモ)が増え、ぞろぞろ出現して蠅やダニの数をある一定数に抑えてくれる。というものだ。それでいえばうちの家の最上位のプレデタァは(捕食者は)ムカデだ。それが証拠に害虫の季節になると、たくさんのハエ取りグモが元気に飛び回っているし、夜は大中小のクモが這いまわっている。クモはワイを刺したりもしない、完全な益虫である、クモはワイにとって、愛(ぅ)い奴よのぉ~!である。

 ただ蚊だけは家に中に関する限り、捕食者の昆虫はいないので「電気蚊取り器」を使っている。しかし蚊には外で思いがけず刺されることもあり、季節ともなればある程度蚊に刺されるのは覚悟している。大昔、まだワイが若かったころは、かなり重度の(偏りはあったが)害虫忌避症であった。蚊に刺されると日本脳炎にかかるかもぉ、とか、蚊によってフィラリア原虫が血中にもたらされ、金玉(陰嚢)がドッジボールくらいになり、タヌキの大金玉と陰口をたたかれ、日陰の身で一生過ごすのか、とか心配したが、この歳になるとまぁそんなのは杞憂だ。

 しかし数日前のように、蚊以外のわからん害虫に刺されるのはちょっと気になる。一年に数度はこのように何の虫やらわからぬものに刺された発赤、かゆみ、その部位の重い鈍痛がある。正体がわからぬだけに大事になりゃすまいかと心配する。


 大昔、アンモニャとか唐辛子チンキの入った水薬の「きんかん」というのがあり、虫刺され(肩こりにも)よく効いたが今はないようだ。祖父の薬箱にはいつも入っていて、かなりなかゆみでもこれを塗るとおさまった。ネットで見ると写真が出ていた。そうだこれだ(左写真)。大昔のこのコマシャルソングも思い出したぞ。♪~キンカンぬってまたぬって~肩の痛みに~キンカンぽん!何とかかんとかで・・嫁をもたさにゃ、なおらない~ て、治るのは薬じゃなく嫁を持つからなのかよ、と突っ込みを入れたくなるなんとも不思議な歌じゃった。

2024年5月4日土曜日

岡崎海岸から

  大昔、帆船しかなかった時代、本州から阿波への路(みち)は、できるだけ海路が短くなるようにたどるのが無難とされた。そらそうだろう、天候に左右され、海難の恐れも多分にある木造の帆船である。旅人もそれを望んだ。それでいうと阿波へのもっとも短い海路は明石海峡を渡り、淡路島の陸路をたどり、島の南端の福良から鳴門海峡を渡り、鳴門の岡崎海岸当たりに上陸するコースである。文字通り淡路島は阿波への通路、「阿波路島」(あわじしま)である。大昔の旅人は、できるだけ陸路をたどり歩くのである。歩きのみでは金はかからない。しかし舟を利用すれば船賃が入用になる。とくに路銀などない遍路や巡礼者は必要最低限の船旅しかしなかった。だから淡路島から漁船などの小舟をたのみ鳴門の岡崎あたりに上陸したのである。


 連休の今日、岡崎海岸は多くの人でにぎわっていたが、現在ここから淡路に向けての船の発着はない。しかし四国巡礼が盛んになる江戸中期以降ここ岡崎はその玄関口の役割を果たした。


 海岸から数百メートル進むと、このような石の道しるべが立っている。四国へんろ道と読める。このみちをたどり一番札所霊山寺へ向かうのである。


 四国へんろ道の道しるべは残っているが、もう今はここから四国へんろを始める人はいない。だが昭和60年ころまでは淡路の福良港とここ岡崎を結ぶ巡行船があった。ちいさなポンポン船で旅客と自転車しか乗せなかった。まだそのころはお遍路さんもこのコースをたどり八十八か所の打ち立てをここから始めた人もいた。遍路ばかりでなく無銭旅行に近い長旅をする貧乏学生もいた。そんなことを考えながら歩いていると70mくらいの高さの妙見山が迫ってきた。山上に公園があるので登ろうと登り口を探しているとこんな看板があった。


 もう廃業してずいぶんになると思うがなぜまだあるのかユースホステルの看板である。安く旅行をしたいと考えている昭和の若者が利用した格安の全国的な宿泊施設である。私も全国あちらこちらのユースホステルでよく宿泊した。右に見える手すりのある石段を上っていくと妙見山公園に行くが、途中廃墟になったユースホステルがあるはずだ。しかし草木がずいぶん生い茂っており見つけることはできなかった。山上には妙見神社があった。

2024年5月3日金曜日

5月3日新聞雑感

 憲法記念日

 あんまし政治向きの話はしとぅないんやけど、今日の新聞見ましたか?憲法記念日ということもあって憲法について話題が第一面にどの新聞もとりあげてました。憲法と言えばその改憲について様々な意見があるし、あって当然なんだけれど、個人がそれを表明したとたん保守か革新か、政治的に分けられ、レッテルをつけられるのが嫌ですね。

 おもっしょいことに国民をあいてに憲法改正についてアンケト調査をすると、調査したのが同じ日本国民であるにも関わらず新聞によってほとんど真逆と言っていいほど結果が違うようです。新聞社によって政治的主張が違うのはご存じのとおりですが、革新押しのA新聞はアンケト調査で国民は憲法改正には反対ないし慎重が多いちゅうし、保守的な新聞SやY新聞なんどは、過半数が改正支持と宣ってますわ。どっちゃが正しいやら、よ~記事を読むと、さすが頭の良い人が集まっている新聞社ですわな、アンケト調査の質問の文が、なにゃら誘導尋問みたいで、自分の新聞社の主張に近づけるよううまぁ~く作ってますなぁ。一応、どの新聞もどんなアンケト調査の質問か、その項目を書いてますから皆さん確かめてみてください。

 ところで、お前ぃは、いったい憲法についてどないに思うとんぞい、と聞かれるかもしれませんが、先ほどもゆうたように政治向きの話は、しとうおまへん。とくに改正賛成か反対かで保守じゃの革新じゃとレッテル貼られるのがねぇ。

 こちらもまたおもっしょいことに、革新と名乗る方が実のところ保守で、保守が革新的となってまへんか?77年間も憲法を変えてまへんが、それを一字一句も変えたらあけへんちゅう党もあります。これなんどはどう考えても保守でしょ。日本は西暦1640年ころからいわゆる鎖国(ホンマは貿易・出入国管理体制)を祖法とし210年間も(ペルリが黒船で現れるまで)守ってきましたね。これなんかはまさに保ち、守る、すなわち保守でしょ、憲法を80年も変えずさらにそのまま守ろうとするのは保守と言われても当然ですね。そして保守を名乗る党が時代にあった刷新を憲法に求めるのですから、憲法に対してはこりゃ革新でしょ。

 まぁ、鎖国をいう祖法を守り保ったため平和的で爛熟した江戸社会ができたのですから210年の保守もよかったとは思います。しかし、黒船の衝撃で、江戸社会は大衝撃を受け、あっちゅうまに、明治維新となり近代化社会に国民あげて突入しますから、憲法の保守も、いつか国家が生きるか死ぬかの大衝撃を受けたら、同じ日本国民のことですから、こちらもあっちゅうまに憲法は大きく変わるんじゃないでしょうか。それまでは別に憲法いじらんでも、ペルリが浦賀に来たような衝撃があるまで惰眠をむさぼるのもいいかもしれません。今は平和憲法のもと江戸時代と同じ太平の御代を生きよるんじゃと思うてまひょ。

映画の評論欄


 ワイの4月21日のブログで「異人たち」の映画を取り上げてワイの感想も書いた。人に積極的に薦める映画じゃないと書いたが、今日のローカル紙にその評論が載ってた。ワイの感じたこととよ~似たことを書いとった。ワイは次のようなことをブログに書いとったわ。

『イギリス映画で題は『異人たち』です。一昨日は封切り日でしたが、思っていた通り人気のない映画で午前11時から始まったのですが、ワイも含めたった二人の観客でした。事前に予想されていた通り地味で暗い映画でした。確かに人気が出るような映画ではないのですが、それでも惹かれていったのはこの映画は、35年前の日本映画、山田太一原作脚本、大林 宣彦監督の『異人たちの夏』のリメークだったからです。30代にそれを鑑賞し、感動したいい映画だった思い出があったからです。古い映画だがそのため筋も配役もよく覚えていました。

それでイギリス映画のリメーク版も見たのです。これは「面白いから見てみなはれ」と人に積極的に薦める映画ではありません。というのも日本のオリジナルの通り、幼い時に亡くなった父母と40歳になった一人息子の出会い、そして昔を取り戻すようなしみじみとした親子愛、別離の悲しみを描いているのはその通りなんですが、オリジナルでは(この世のものではない)彼女と(両親のとの再会と同時に)出会い愛し合うのですが、イギリス版ではその恋人が若い男になっているのです。つまりゲイということになります。現代風と言えばそうなんだけれども、大昔オリジナルを見て、よかったわぁ、と思い出のある人に(もう高齢になっているでしょう)見てみなはれとはちょっと言いにくいですね。

 でもそんな古い映画の記憶もない、まっさらピンピンの若者には見る価値のある映画かもしれません。大都会のロンドンでお互い孤独を抱え傷つきながら生きていく男二人がひかれあい、寂しさや冷たさをいやすためお互いすり寄り体を温めあう(象徴的にいえばです、映画ではもっと露骨だが)ことに現代の若者はそう拒絶感は感じないんじゃないかな。もちろんオリジナル通り一方は死せる者なんだけれど、日本版とちがいこちらの恋人同士はほのぼのとした終わり方になっているのがイイ。』

若者(わかいし)の惜しい生


 県南で18歳の青年が3人もなくなってから一週間たつ。しかし今日もY新聞のローカル欄にそのことが載っていた。それだけ若者の早い死は衝撃的で、いまだにあきらめきれない人々や社会の思いが渦巻いているのだろう。私もそうだ。このニュスを見るたび悲しくなる。ワイに子はいないが、もし自分の子がこんなに早く不慮の事故で旅立ったらどんなに悲しいだろうと充分想像はつく。ジジババばかり増えて若者は減っているのに、18歳のわかいしが死んでどなんなるんぞい。命を取り返すことができるなら、時を巻き戻せるなら、と不可能ではあってもそれを強く思ってしまうことが悲しい。



 そしてもう一人は20歳で老夫婦殺しに加担した若者である。全国的に耳目を集めたのはその若者は10年ほど前の大河ドラマで主人公の幼少時を演じた俳優だったことである。役は実年齢と同じ10歳くらいで、見るからにかわいらしいが、しかし凛々しさも兼ね備えたいい子役だった。なんでまた。どこでどう道を間違えた。よりによって殺人に加担するとは、多くの人、そして私が思ったのもそのことであった。続報が今日の新聞にも載っていた(ローカル紙に)。関心の高さがうかがえる。

 どちらの若者ももう取り返しがつかない。まったく惜しい生であることよ。



歯抜け老人の福音かと思ったが・・


 記事を見た途端、おお、これは、歯抜け老人にはいいニュースだ。とぬか喜びした。しかしよ~く読むと。

 毛生え薬ならぬ「歯生え薬」が開発されそうであるというニュス。昔から中高年の悩みは薄毛が進むことと言われていた。だから毛生え薬は切望されていた薬である。しかしワイに関してはずいぶん薄毛だが、それは全然気にしていない、薄毛が進み、つるてんピンカになろうがなんちゃかんまん。毛がのうて死ぬわけでもない。しかし歯は違う、歯抜けジジイは、見た感じがみっともないちゅうんもあるが、咀嚼できなくなれば、味わいもなくなってくるし、また消化にも悪く、いろんな病気になりやすくなるといわれている。統計を取ると歯抜け老人は平均寿命も短いそうだ。

 そんな歯抜け老人にとって歯生え薬は夢のような薬である。もう一度まっさらピンピンの歯が生えてくるなら、これほどうれしいことはない。回春剤にも匹敵する。しかし記事を読むとこれは先天的な無歯症の患者で対象は2~7歳とのこと、歯抜け老人は対象でない。最後まで読むとずいぶん気落ちする。しかし、これから発展すれば当然、歯抜け老人も治療の範囲に入ってくるとは思う、しかしそれが実用化されるにはかなりの年数かかりそうである。それまでワイはよ~生きとれへんわ。