2024年5月17日金曜日

清少納言の墓

  昨日、鳴門の岡崎海岸に近い「あま塚」に行ってきた。ここは清少納言の終焉の地という伝説があり、墓もある。今年の大河ドラマでも清少納言が出てくるので、それと関連して、いまちょっとした観光のおすすめスポットではないだろうか。

 ただし墓と言っても確証のあるものではない。清少納言の終焉がこの地だったという地元の伝承(口伝によるものだろう)をもとにしていて墓がたてられたようである。現代人の常識的感覚では「墓」はその人の遺骸や火葬後の骨灰が埋められているところであるが、千年も前の歴史的人物にその常識は当てはまらない。清少納言のライバルといわれている紫式部の墓あるいは墓所というのも各所にいくつかあるようだが、この場合も、そこに彼女の遺骸、骨灰、あるいは髪の毛などがあるわけではない。むしろこれは墓というより「供養塔」とでも呼んだらいいものではないだろうか。

 地元民の口承ということで確証はないからここが墓というには疑問だ、と思われる方もいるかもしれないが、後世の人が建てた供養塔というならば広い意味で墓と称してもいいと思う。千年も昔の人である、そう目くじら立てることもあるまい。

 このお堂の中にその供養塔(宝篋印塔)がある。


 この墓所のあるあたりは今は住宅や農地(サツマイモ畑が多い)が広がっているが、下図の江戸時代の阿波名所絵図をみると、墓所のすぐそばまで磯浜が迫り、清少納言の塚と称する供養塔(五輪の塔)はかあるいはの中島にある(弁天社はこのように池の中にあるがそれとよく似ている)


 鳴門駅近くの観光案内所で簡単な地図をもらい案内所の人に説明を受けたが、かなりな距離があるようである、おまけに方角もわからない。しかし岡崎に家のあるA君がちょうどその観光案内所から帰るところで、道がわからない私のために一緒に歩いてくれた。道々ここ鳴門の歴史や風土、伝承などについての話をしてくれた。墓所の観光より、彼の話の方が面白かった。気のいい青年で記念に一緒に自撮りをお願いしたら快く引き受けてくれた。

2024年5月13日月曜日

虫刺されの季節がやってきた

  3日前の昼過ぎ、快晴だが気温低め、風がやや強く吹いている。五月の薫風とでもいうべきさわやかな風だ。例によって目的もなく日向の往還をウロチョロ歩いていると小公園があった。歩いても暑くはないが日差しがかなりキツイ。木陰を求め公園内に入り、木陰になっているベンチを見つけ腰を下ろし、手足を弛緩させてくつろいでいた。気分は上々、その時右わき腹に近い背中にチクリとした鋭い痛みがあった。その瞬間だけの痛みであったが、どうも虫に刺されたような痛みである。虫刺されとすると、下着とシャツ、薄手のジャンパを着ているので、それを通して刺されたのではあるまい。何かの虫が下着の裏に侵入し刺したことが考えられる。

 まさか公園内でストリップするわけにはいかないから、ズボンからシャツを外に出し、下着のなかに手を入れて刺された部位の皮膚を触ってみるがそれらしい虫を手指で確認することはできなかった。ベンチを見ると蟻が這っているので蟻かもしれないとおもったが、実のところわからない。まる一日以上たった昨日、その背中を手指でなでるとプックリ膨れている。触ると少し痛くて、しばらくするとかゆみも出てきた。これは虫刺されに違いないと、遅まきながら虫刺されの薬チンキをつけた。一日たった今もその部位は腫れていて軽度だが痛みともかゆみとも表現できないような複雑な違和感がある。普通、蚊などに刺されたらすぐにかゆみが出てくる。この発赤とかゆみの遅さは蚊とは違う害虫に刺されたのだろう。

 これから気温も上がり湿度も高くなる。害虫が出てくる季節となる。蠅だのゴキブリだのは、ワイはあまり気にしない。家にぞろぞろ這おうがブンブン飛ぼうが、なんちゃかんまん、と思っている。嫌なのはワイの身体を刺したり、吸ったりする害虫である。蚊、ダニ、南京虫、ムカデ、ハチ、などである。

 数年前まではそれが嫌さに、殺虫剤を必要以上にたくさん振りまいていたが、薬剤の方が体に悪いのでやめた。家の中は、ものすごっく、ひこづりさがしている。害虫発生には好条件を提供しているようだ。それなら片付ければいいと思うが、ものぐさなのでそれもよ~しない。言い訳としては我が家の昆虫の世界にも生態系があって、我が家独特の捕食上位者の昆虫の生態系ピラミッドが存在する。例えば蠅とかダニが増えればその捕食者のクモ類(ハエ取りグモ)が増え、ぞろぞろ出現して蠅やダニの数をある一定数に抑えてくれる。というものだ。それでいえばうちの家の最上位のプレデタァは(捕食者は)ムカデだ。それが証拠に害虫の季節になると、たくさんのハエ取りグモが元気に飛び回っているし、夜は大中小のクモが這いまわっている。クモはワイを刺したりもしない、完全な益虫である、クモはワイにとって、愛(ぅ)い奴よのぉ~!である。

 ただ蚊だけは家に中に関する限り、捕食者の昆虫はいないので「電気蚊取り器」を使っている。しかし蚊には外で思いがけず刺されることもあり、季節ともなればある程度蚊に刺されるのは覚悟している。大昔、まだワイが若かったころは、かなり重度の(偏りはあったが)害虫忌避症であった。蚊に刺されると日本脳炎にかかるかもぉ、とか、蚊によってフィラリア原虫が血中にもたらされ、金玉(陰嚢)がドッジボールくらいになり、タヌキの大金玉と陰口をたたかれ、日陰の身で一生過ごすのか、とか心配したが、この歳になるとまぁそんなのは杞憂だ。

 しかし数日前のように、蚊以外のわからん害虫に刺されるのはちょっと気になる。一年に数度はこのように何の虫やらわからぬものに刺された発赤、かゆみ、その部位の重い鈍痛がある。正体がわからぬだけに大事になりゃすまいかと心配する。


 大昔、アンモニャとか唐辛子チンキの入った水薬の「きんかん」というのがあり、虫刺され(肩こりにも)よく効いたが今はないようだ。祖父の薬箱にはいつも入っていて、かなりなかゆみでもこれを塗るとおさまった。ネットで見ると写真が出ていた。そうだこれだ(左写真)。大昔のこのコマシャルソングも思い出したぞ。♪~キンカンぬってまたぬって~肩の痛みに~キンカンぽん!何とかかんとかで・・嫁をもたさにゃ、なおらない~ て、治るのは薬じゃなく嫁を持つからなのかよ、と突っ込みを入れたくなるなんとも不思議な歌じゃった。

2024年5月4日土曜日

岡崎海岸から

  大昔、帆船しかなかった時代、本州から阿波への路(みち)は、できるだけ海路が短くなるようにたどるのが無難とされた。そらそうだろう、天候に左右され、海難の恐れも多分にある木造の帆船である。旅人もそれを望んだ。それでいうと阿波へのもっとも短い海路は明石海峡を渡り、淡路島の陸路をたどり、島の南端の福良から鳴門海峡を渡り、鳴門の岡崎海岸当たりに上陸するコースである。文字通り淡路島は阿波への通路、「阿波路島」(あわじしま)である。大昔の旅人は、できるだけ陸路をたどり歩くのである。歩きのみでは金はかからない。しかし舟を利用すれば船賃が入用になる。とくに路銀などない遍路や巡礼者は必要最低限の船旅しかしなかった。だから淡路島から漁船などの小舟をたのみ鳴門の岡崎あたりに上陸したのである。


 連休の今日、岡崎海岸は多くの人でにぎわっていたが、現在ここから淡路に向けての船の発着はない。しかし四国巡礼が盛んになる江戸中期以降ここ岡崎はその玄関口の役割を果たした。


 海岸から数百メートル進むと、このような石の道しるべが立っている。四国へんろ道と読める。このみちをたどり一番札所霊山寺へ向かうのである。


 四国へんろ道の道しるべは残っているが、もう今はここから四国へんろを始める人はいない。だが昭和60年ころまでは淡路の福良港とここ岡崎を結ぶ巡行船があった。ちいさなポンポン船で旅客と自転車しか乗せなかった。まだそのころはお遍路さんもこのコースをたどり八十八か所の打ち立てをここから始めた人もいた。遍路ばかりでなく無銭旅行に近い長旅をする貧乏学生もいた。そんなことを考えながら歩いていると70mくらいの高さの妙見山が迫ってきた。山上に公園があるので登ろうと登り口を探しているとこんな看板があった。


 もう廃業してずいぶんになると思うがなぜまだあるのかユースホステルの看板である。安く旅行をしたいと考えている昭和の若者が利用した格安の全国的な宿泊施設である。私も全国あちらこちらのユースホステルでよく宿泊した。右に見える手すりのある石段を上っていくと妙見山公園に行くが、途中廃墟になったユースホステルがあるはずだ。しかし草木がずいぶん生い茂っており見つけることはできなかった。山上には妙見神社があった。

2024年5月3日金曜日

5月3日新聞雑感

 憲法記念日

 あんまし政治向きの話はしとぅないんやけど、今日の新聞見ましたか?憲法記念日ということもあって憲法について話題が第一面にどの新聞もとりあげてました。憲法と言えばその改憲について様々な意見があるし、あって当然なんだけれど、個人がそれを表明したとたん保守か革新か、政治的に分けられ、レッテルをつけられるのが嫌ですね。

 おもっしょいことに国民をあいてに憲法改正についてアンケト調査をすると、調査したのが同じ日本国民であるにも関わらず新聞によってほとんど真逆と言っていいほど結果が違うようです。新聞社によって政治的主張が違うのはご存じのとおりですが、革新押しのA新聞はアンケト調査で国民は憲法改正には反対ないし慎重が多いちゅうし、保守的な新聞SやY新聞なんどは、過半数が改正支持と宣ってますわ。どっちゃが正しいやら、よ~記事を読むと、さすが頭の良い人が集まっている新聞社ですわな、アンケト調査の質問の文が、なにゃら誘導尋問みたいで、自分の新聞社の主張に近づけるよううまぁ~く作ってますなぁ。一応、どの新聞もどんなアンケト調査の質問か、その項目を書いてますから皆さん確かめてみてください。

 ところで、お前ぃは、いったい憲法についてどないに思うとんぞい、と聞かれるかもしれませんが、先ほどもゆうたように政治向きの話は、しとうおまへん。とくに改正賛成か反対かで保守じゃの革新じゃとレッテル貼られるのがねぇ。

 こちらもまたおもっしょいことに、革新と名乗る方が実のところ保守で、保守が革新的となってまへんか?77年間も憲法を変えてまへんが、それを一字一句も変えたらあけへんちゅう党もあります。これなんどはどう考えても保守でしょ。日本は西暦1640年ころからいわゆる鎖国(ホンマは貿易・出入国管理体制)を祖法とし210年間も(ペルリが黒船で現れるまで)守ってきましたね。これなんかはまさに保ち、守る、すなわち保守でしょ、憲法を80年も変えずさらにそのまま守ろうとするのは保守と言われても当然ですね。そして保守を名乗る党が時代にあった刷新を憲法に求めるのですから、憲法に対してはこりゃ革新でしょ。

 まぁ、鎖国をいう祖法を守り保ったため平和的で爛熟した江戸社会ができたのですから210年の保守もよかったとは思います。しかし、黒船の衝撃で、江戸社会は大衝撃を受け、あっちゅうまに、明治維新となり近代化社会に国民あげて突入しますから、憲法の保守も、いつか国家が生きるか死ぬかの大衝撃を受けたら、同じ日本国民のことですから、こちらもあっちゅうまに憲法は大きく変わるんじゃないでしょうか。それまでは別に憲法いじらんでも、ペルリが浦賀に来たような衝撃があるまで惰眠をむさぼるのもいいかもしれません。今は平和憲法のもと江戸時代と同じ太平の御代を生きよるんじゃと思うてまひょ。

映画の評論欄


 ワイの4月21日のブログで「異人たち」の映画を取り上げてワイの感想も書いた。人に積極的に薦める映画じゃないと書いたが、今日のローカル紙にその評論が載ってた。ワイの感じたこととよ~似たことを書いとった。ワイは次のようなことをブログに書いとったわ。

『イギリス映画で題は『異人たち』です。一昨日は封切り日でしたが、思っていた通り人気のない映画で午前11時から始まったのですが、ワイも含めたった二人の観客でした。事前に予想されていた通り地味で暗い映画でした。確かに人気が出るような映画ではないのですが、それでも惹かれていったのはこの映画は、35年前の日本映画、山田太一原作脚本、大林 宣彦監督の『異人たちの夏』のリメークだったからです。30代にそれを鑑賞し、感動したいい映画だった思い出があったからです。古い映画だがそのため筋も配役もよく覚えていました。

それでイギリス映画のリメーク版も見たのです。これは「面白いから見てみなはれ」と人に積極的に薦める映画ではありません。というのも日本のオリジナルの通り、幼い時に亡くなった父母と40歳になった一人息子の出会い、そして昔を取り戻すようなしみじみとした親子愛、別離の悲しみを描いているのはその通りなんですが、オリジナルでは(この世のものではない)彼女と(両親のとの再会と同時に)出会い愛し合うのですが、イギリス版ではその恋人が若い男になっているのです。つまりゲイということになります。現代風と言えばそうなんだけれども、大昔オリジナルを見て、よかったわぁ、と思い出のある人に(もう高齢になっているでしょう)見てみなはれとはちょっと言いにくいですね。

 でもそんな古い映画の記憶もない、まっさらピンピンの若者には見る価値のある映画かもしれません。大都会のロンドンでお互い孤独を抱え傷つきながら生きていく男二人がひかれあい、寂しさや冷たさをいやすためお互いすり寄り体を温めあう(象徴的にいえばです、映画ではもっと露骨だが)ことに現代の若者はそう拒絶感は感じないんじゃないかな。もちろんオリジナル通り一方は死せる者なんだけれど、日本版とちがいこちらの恋人同士はほのぼのとした終わり方になっているのがイイ。』

若者(わかいし)の惜しい生


 県南で18歳の青年が3人もなくなってから一週間たつ。しかし今日もY新聞のローカル欄にそのことが載っていた。それだけ若者の早い死は衝撃的で、いまだにあきらめきれない人々や社会の思いが渦巻いているのだろう。私もそうだ。このニュスを見るたび悲しくなる。ワイに子はいないが、もし自分の子がこんなに早く不慮の事故で旅立ったらどんなに悲しいだろうと充分想像はつく。ジジババばかり増えて若者は減っているのに、18歳のわかいしが死んでどなんなるんぞい。命を取り返すことができるなら、時を巻き戻せるなら、と不可能ではあってもそれを強く思ってしまうことが悲しい。



 そしてもう一人は20歳で老夫婦殺しに加担した若者である。全国的に耳目を集めたのはその若者は10年ほど前の大河ドラマで主人公の幼少時を演じた俳優だったことである。役は実年齢と同じ10歳くらいで、見るからにかわいらしいが、しかし凛々しさも兼ね備えたいい子役だった。なんでまた。どこでどう道を間違えた。よりによって殺人に加担するとは、多くの人、そして私が思ったのもそのことであった。続報が今日の新聞にも載っていた(ローカル紙に)。関心の高さがうかがえる。

 どちらの若者ももう取り返しがつかない。まったく惜しい生であることよ。



歯抜け老人の福音かと思ったが・・


 記事を見た途端、おお、これは、歯抜け老人にはいいニュースだ。とぬか喜びした。しかしよ~く読むと。

 毛生え薬ならぬ「歯生え薬」が開発されそうであるというニュス。昔から中高年の悩みは薄毛が進むことと言われていた。だから毛生え薬は切望されていた薬である。しかしワイに関してはずいぶん薄毛だが、それは全然気にしていない、薄毛が進み、つるてんピンカになろうがなんちゃかんまん。毛がのうて死ぬわけでもない。しかし歯は違う、歯抜けジジイは、見た感じがみっともないちゅうんもあるが、咀嚼できなくなれば、味わいもなくなってくるし、また消化にも悪く、いろんな病気になりやすくなるといわれている。統計を取ると歯抜け老人は平均寿命も短いそうだ。

 そんな歯抜け老人にとって歯生え薬は夢のような薬である。もう一度まっさらピンピンの歯が生えてくるなら、これほどうれしいことはない。回春剤にも匹敵する。しかし記事を読むとこれは先天的な無歯症の患者で対象は2~7歳とのこと、歯抜け老人は対象でない。最後まで読むとずいぶん気落ちする。しかし、これから発展すれば当然、歯抜け老人も治療の範囲に入ってくるとは思う、しかしそれが実用化されるにはかなりの年数かかりそうである。それまでワイはよ~生きとれへんわ。

2024年4月28日日曜日

時代行列と椎の宮のツツジ

  三時ごろ徳島駅前でバスを待っているとお城まつりの行事の一環として時代行列が通ったので撮影しました。先頭は蜂須賀のお殿様に扮した鎧姿の市長のようです。



 その待っていたバスで駅から佐古七番町まで行き、椎の宮のツツジを見てきました。最盛期はもう過ぎていて、ツツジ山の遊歩道わきにはたくさんのツツジの落花がありました。




2024年4月24日水曜日

ツツジの季節

 ツツジのこの赤い色(厳密にいえば紫がかった赤かな)は目にしゅむる(しみる)ような色である。しゅむるというとツツジからくるその赤い色が目に染み入る方向になるが、また、逆方向に目から出た視線を強烈にその色に引き入れる。近づいてじっとその花の赤を見ていると吸い込まれ、その赤色の中に落ちていき、すべてがその赤にとけこみそうになる。それほどこのツツジの色は強烈である。

 いまツツジの季節を迎えている。ツツジは深山にもあるが、県内で最も交通量の多い元町交差点の分離帯の灌木として植えられてもいる。自然の深山のツツジと形や色、形態は変わることなくほぼ同じである。自然のツツジは火山の噴煙のすぐ近くまで群生を広げる。火山性の有毒ガスに強い植物である。そんなところから交通量が多く、当然自動車の排ガスも多い道路の分離帯の灌木として適しているのだろう。


 高校の漢文でよく出てくる杜甫の五言絶句でツツジは吟ぜられている 「燃えんと欲す云々、」の花は赤のツツジである。つつじを漢字で書くと躑躅、ずいぶん画数の多い文字になる。音読みで「テイチョク」といったりする(ちなみに英語では、azalea(アザレア)、化粧品会社に同じ名前がある


以下のように吟ずる

こう みどりにして とりいよいよしろく

やま あおくして はなもえんとほっす

こんしゅん みすみす またすぐ

いずれのひか これ きねんならん

2024年4月21日日曜日

エントロピとAI

  「若い時はなぁ~」、言いたくなるが、そんなに昔でのうてもええ、今から数えると五年から三年びゃぁ前まではたくさん本が読めていた。ところが最近、図書館から数冊本を借りてカバンに入れ、持ち歩いても、その本をモモグリまくるだけで(阿波弁で、いじる、もてあそぶの意味)身を入れて精読できないようになった。集中力、持続力がなくなったのを感じる。老化か、以前からあった怠惰がとうとう好きな読書にも及んできたか。ともかく趣味の読書からも離れつつあるのを感じる。こうやっていろいろな能力が衰え、趣味も興味がなくなり、それらが一つ消え二つ消えして人は死んでいくのだなぁ、と思い知る今日この頃。

 そのももぐりまくっている本は何度も借りなおして常に持ち歩いている。いったいどんなテーマの本かというと「エントロピの関係の本」と「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」、あわせて5~7冊ほどである。今日のブログはそれについて書いていこうと思っている。といってもももぐりまくるだけで精読していないから、本を理解した上での私の感想や考えは書けない。しかしなぜこの歳になって理系の若い衆(わかいし)でもちょっと理解が難しいエントロピや、棺桶に足を突っ込んでいるジジイのくせに最新のコンピュゥタ技術のメタバース、チャットGPTの概論や入門書を読む気になったか、その動機、きっかけは書ける。また本をモモグリ回している間に、本は最近集中して読む力は衰えたが、それらを取り上げた、あるいは関連した映画やテレビがあると意識してみるようになった。幸い本と違い娯楽性のある映画やテレビはまだ興味深く鑑賞できる。といってもその内容はやはり娯楽性優先なので学術的な理解を助けるというよりファンタジー性が強いSFっぽいものになっているのは仕方ない。しかしそれをきっかけに本をさらに精読する力がつけばと思ってみている。以下はそれらを含めてのブログである。

エントロピ

 60代後半のころ、ワイは70歳まではとてもよぉ~生きんわ、と思っていた(ところが今ワイは算え74!生きながらえております)。だから終活という大げさなものでなく、心構えだけでも死ぬ準備のようなものがいるなぁ、と漠然と思い、そのころ仏教の本をよく読んでいた(この頃のブログをみるとよ~わかるわ)。特にどの宗派の本ということはなく、経典でいえば「初期仏教」の解説書が中心であった。その中でもブッダの行動や教えに、もっとも心がひかれた。ちなみにブッダは他宗派の教祖はんと違い、来世のことも、死後魂は残るのか、そしてそれがどうなるかとも、一切言わなかった。ただ世は無常であり、死は誰にも避けられないものであることを身をもって教え示したのである。

 ブッダは「無常」のことをこのような言葉で述べている。「今、私の身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身をもって示すのである」、じゃぁ死ねばハイそれまでよ、あとは無となり空疎な永遠の闇なのか、と思うが、さらにブッダはこのようにも言っている「しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるのであるから、病み、傷つき、壊れることはやむを得ない。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道に生きている・・云々」

 この言葉の中で私は二つのキーワードを大事なものとして抽出した。「無常の道理」と「悟りは永遠の法と道に生きている」である。後のキーワードはこれは仏教そのものの神髄であろうが、先の「無常の道理」はこれは仏教を離れても一般化できる宇宙の理法、言い換えるなら、精神世界のみならず現実(カタチあるモノの世界)の実相、それは数学に裏打ちされた自然科学つまり天文学や物理そして化学や生物学などなどの包括的な法則と言ってもいいのではないか、と、そのとき思い浮かんだのが無常の道理と被さるかもしれない「エントロピ」という概念である。

「無常の道理とエントロピはどない関連しているんやろ」

 これがエントロピについてオベンキョしようと思いついたはじめである。いくつかの入門書、概論書を借りてオベンキョし始めたが、まぁ先にもゆうたようにそれらの本をももぐりまくるが一向に読み進まないというか深まらない。心底の理解にはいまだ遥かである。読み始めてわかったが基礎知識のないワイにとって入門書や概論書だけをベンキョしてすむ話ではない。熱力学についての一般的な解説説明は入門書や概論書におおよそ書いてあるのでそれは良いとしても、エントロピを理解するうえで欠かせないのが数学の「順列・組み合わせ、統計、確率」である。これはヒンズに(別に)数学の本を借りて読まねばならない。数学をベンキョしてた学生時代なら何とかなったがもう半世紀以上もたった今、数学のオベンキョはキツイ、でも二冊びゃぁ借りてなんとかベンキョしている。しかし数学の本ばかりやっていると肝心のエントロピについての本が読めなくなる、しかし理解のためには数学が必要、うぅ~~ん、ジレンマじゃ!

 エントロピについて確率・統計的なアプローチは心底理解するうえで大事だが、そこまで(心底理解っちゅうたらえらいこっちゃ、別にワイは専門家になるわけでもなく、まぁ程よい理解でもよいと最近思っている)でなくてもエントロピーを理解する方はある。それは理想的熱機関に出入りする熱量、そして(その熱機関を仲立ちとした)低熱源高熱源の温度とその差、そして機関の仕事効率からエントロピを導き出し、それを理解する方法である。

 


この理想的熱機関は「カルノーサイクル」と呼ばれていて、物理ではエントロピを説明するのによくこのカルノーサイクルが用いられる。理系人間にはあっという間に理解できるだろうが、ワイはこのカルノーサイクルを理解するのにえっとかかった。そしてエントロピを物理的に定義するところまでは進んだが、それがイマイチよ~わからん。その意義、重要性がである。左がカルノーサイクルに出てくるエントロピの定義である。

 知ったげぇに、エントロピを一言で言うのは本の受け売りそのまま言えば簡単である。

 「エントロピは増大する一方である」

 「エントロピ増大が極限に達すればやがて宇宙は熱的死を迎える」

 「まぁ、一言でいやぁ、乱雑さの度合いじゃな、なんでもほれ、放っておくと自然と乱雑になっていくやろ、ほのことじゃ」

 ここでワイは「エントロピが増えていくことは別の面から見れば無常が極まっていくっちゅう現象じゃ」と言いたくなる誘惑にかられるが、今まで読んだどの本にもそんなことは書いていない。いまのとこワイにとってエントロピの理解は未だである。


 エントロピが出てくるおもっしょい映画ないかいな、となにげなく、パソコンで検索してみたら、ある映画がヒットした。「テネット」である。ビデオ屋に行くとあったので借りてみた。監督はこのブログでも取り上げたアカデミ受賞作「オペンハイマ」の監督・キリシタハ・ノランである。面白かったが完全に空想SF映画であり、現実にはこれはどうかな、という筋である。

 どこでエントロピが出てくるかというと、タイムトラベル、つまり時間の遡りでエントロピの言葉が出てきた。因果関係はわからないがエントロピが逆に流れる(つまり自然と減少する方に)と、地に落ちていたボールが発散した摩擦熱を吸収して地から自然い飛び上がり手のひらに入ってくる、これはまぁわかる、えっと思うのは、逆になると人が火に包まれたら火傷するのではなく、焙られたところが凍り付き凍傷になるのである。そんなのありか?そして映画の説明では、エントロピの(増大の)流れは「時間の矢」の向きを意味するため、エントロピの逆流は時間の矢の逆向きを意味する、つまり過去に遡るタイムトラベルができるわけだ。確かにエントロピと時間の向きは同じ傾向を持つ、さらに言えばエントロピの流れが時間を進めるという説もあるが、その理論を実用化したタイムマシンがあり得るものか、かなり疑問である。おもっしょかったがワイのエントロピ理解の助けにはならなんだ。

AI

 もうこの歳がきていまさらAIでもあるまいと思っていた。今まではベンキョどころかそれについての新聞記事や雑誌記事でAI関連の欄があってもすっ飛ばしていた。しかしエントロピのベンキョのためその言葉が出てくる映画を探して見たのとは反対に、ある映画を見たことががきっかけでAIに興味がわき、「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」を借りて読んでいる(読んでいるだけでベンキョというにはほど遠い


 それは左のDVD映画である。『her・世界にひとつの彼女』、初めからAIに興味があったからではない。それではなんでみたかというと、主演俳優への興味からである。この人、中年イケメン風に見えるが、以前(今年の3月6日)のブログに取り上げた「ボーは恐れている」と同じ主人公で演じているのはホアキン・フェニックスはんである。ボーのほうは小汚なげぇな、だが複雑で繊細な傷つきやすい心を持つオッサンである。「her・世界に・・」のほうは都会風のそれなりに洗練されている孤独な中年男である。キャラによってずいぶん顔のイメージも違うが、それがホアキン・フェニックスはんの魅力となっている。彼は今までにもかなりキャラの濃ゆぅい役を演じてきた。若い時は悪のローマ皇帝「映画グラデュエイタ」、やはり悪の元締め的な「ジョーカ」、そして「ナポレオン」、と同一人物とは思えぬイメージと演技である。これらは今までに見ていたので、まだ見ていなかった彼の怪演作「her・世界に・・」を借りたわけである。

 見たのは二週間びゃぁ前だが制作年は意外とふるく2014年である。こちらもテネットと同じくSF映画の範疇に入るが、見ていても「そんなことありえん!」と突っ込みを入れたくなるテネットと違い、近未来(どころか今すぐにでもあり得る)に起こるであろう話となっている。話の筋は単純である。一言で言えば、コンピュゥタ技術が作り出したパソコンの向こうにある架空の(悩みや打ち明け話も含めたおしゃべりができる)彼女と主人公の話である。先に主人公は孤独と紹介したが、パソコンの向こうのバーチャルな彼女とのコミュニュケーションによって彼は癒される以上に関係が深まるのである。つまり主人公は彼女に恋をしてしまうのである。

 悩みを聞いてくれたり、慰めたり、あるいは何らかの解決を教えてくれたり、また日々によって変わる話題、人の揺れ動く心のため脈絡もなく話題が飛んだりと、普段我々がしている雑談をコンピュゥタにやらせるというのは昔から試みられた。まさにそれはAI技術の肝と言ってもいいだろう、しかしユーザー(こちら側の生身の人間)がAIと対話しながら違和感を覚えることは度々であった。コンピュゥタはまだ未熟だったのである。逆に言うと長く雑談・対話を重ねても違和感なく、ユーザーに向こうにいるのは人間に違いない、と思わせれば対話・雑話コンピュゥタは完成したといえよう。

 この映画が作られた2014年ではまだそこまで雑談・対話型のAIは完成していなかったと思われる。じゃぁ今はどうか?AIに疎いジジイである。なんかそれについて書かれている平易な読み物はないかと探すと図書館に週刊ニューズウィクがあり、こちらがよくその雑談・対話型のAIの現状についてレポートしていた。それを読むと全く知らなんだが一年か二年びゃぁ前にオプンAIが「チャットGPT」とかいうものを作り出し、それが人間との区別のつかない対話を繰り広げられるというのだ。キャラもいろいろ切り替えができるようで、あんまし頭が良いとはいえなくもないこともないオバはんの、しょぉもない雑談から、ノーベル賞級の学者との対話もこなせるのである。そして繊細な情緒も持ち合わせている(と人に信じ込す)。もっとも重要なことは、(人間が)話した相手が、AI技術が作り出したバアーチャルな相手だとは全く思わないことである。

 もうそこまで進んでいるのかとの驚きである。とすればこの映画の対手のバアチャルな恋人の存在は、近未来でなく現代にも起こっているのであろう。映画ではハッピィエンドにはならない。驚くべきことにバーチャルな恋人は主人公とのセクスを望むのである。そしてバーチャルな恋人はその設定も行う。どないしてセスクするんぞぃ?と見てない人は興味津々だろう。まぁ詳細は言わない、見てのお楽しみとしておこう。ただ繊細な主人公はそのようなセクスは拒否する。ここで二人(一方はバーチャル恋人だが)は齟齬をきたし、しっくりいっていた関係は揺れ動いていくのだが、これもAI技術が作り出したものかと再度驚く。もう完全に(生身ではないことを除けば)一人の人間としか思えない。

 いま公共放送で夜十時遅くある連続もののドラマをやっている。題は「VRおじさんの初恋」(VRはヴァチャル・リアリティか)、数回見ただけだが、こちらは「メタバース」たらゆう仮想現実の世界に行ってその世界の人を好きになる筋のようである。さえない主人公のサラリーマン(オッサン)はバーチャルな立体映視ができる特殊眼鏡をかけ仮想現実に入っていくのである。そこでなんと自分は少女になるのである。そして「現実世界」と「バーチャル世界」。2つの世界を行き交いながら、中年サラリーマンの初恋が描かれるというのが大筋のようだが、公共放送にしてはなにやらロリコン趣味、倒錯の性世界の雰囲気が漂う。もちろんなんぼぅ深夜帯に近いっつうても天下の公共放送である、そんなそぶりはチラリとも見せないが、普通に想像力のある視聴者ならばアブナク、イケナイ世界にこうすればのめりこみ、そして幸福になれることを思ってしまう。バーチャルな世界だから犯罪にもなりにくいだろうし。

 主人公は立体映視の眼鏡をつけるだけでなく両手には多分センサーや反応機構のついた手袋をはめている。視覚だけでなく感覚や触覚も現実に近づけるためである。そうするとその世界で美少女の手を取れば、手袋状の中のセンサーや刺激機構が働いて現実に手を握る感覚が享受できるのである。しかし先ほども言ったようにこれは視聴者の想像を痛く刺激する。手に人工的な感覚を与えることが可能なら、陰茎や女陰にだってそれは可能だろう。陰茎にはサック型のセンサーや刺激機構のついた装置をかぶせ、女陰にはやはりそんな機構のついたタンポン様のものを突っ込めば、バーチャルな世界だけど、現実とほとんどかわらぬ満足できるセクスのエクスタシが味わえまんがな。アブナイ、イケナイ性世界に遊ぶ、つまり美少女とか美少年とかに対して即犯罪になるような楽しみが・・・。ジャニィズの爺さんも、まちっと長生きして唸るほどある金の力でセクス・メタバース(性の仮想現実)のAIを作りゃぁ、そこで美少年のチ〇ポを咥えようが、自分のモノを美少年のア〇ルにぶち込もうが指弾されなくてすんだのにな。いやぁ、実のところこれはドすごい時代になりましたな。倫理や道徳でどう解釈し、行動したらええのやら、混乱しますなあ、全面禁止つぅても、人知れずバーチャルに遊ぶことまで禁止することができるか。うぅ~ん。


 エントロピとAIとは直接関係ない映画だけど一昨日、イヨンのシネコンまで大枚1100円も払ってわざわざ見に行いきました。イギリス映画で題は『異人たち』です。一昨日は封切り日でしたが、思っていた通り人気のない映画で午前11時から始まったのですが、ワイも含めたった二人の観客でした。事前に予想されていた通り地味で暗い映画でした。確かに人気が出るような映画ではないのですが、それでも惹かれていったのはこの映画は、35年前の日本映画、山田太一原作脚本、大林 宣彦監督の『異人たちの夏』のリメークだったからです。30代にそれを鑑賞し、感動したいい映画だった思い出があったからです。古い映画だがそのため筋も配役もよく覚えていました。

それでイギリス映画のリメーク版も見たのです。これは「面白いから見てみなはれ」と人に積極的に薦める映画ではありません。というのも日本のオリジナルの通り、幼い時に亡くなった父母と40歳になった一人息子の出会い、そして昔を取り戻すようなしみじみとした親子愛、別離の悲しみを描いているのはその通りなんですが、オリジナルでは(この世のものではない)彼女と(両親のとの再会と同時に)出会い愛し合うのですが、イギリス版ではその恋人が若い男になっているのです。つまりゲイということになります。現代風と言えばそうなんだけれども、大昔オリジナルを見て、よかったわぁ、と思い出のある人に(もう高齢になっているでしょう)見てみなはれとはちょっと言いにくいですね。

 でもそんな古い映画の記憶もない、まっさらピンピンの若者には見る価値のある映画かもしれません。大都会のロンドンでお互い孤独を抱え傷つきながら生きていく男二人がひかれあい、寂しさや冷たさをいやすためお互いすり寄り体を温めあう(象徴的にいえばです、映画ではもっと露骨だが)ことに現代の若者はそう拒絶感は感じないんじゃないかな。もちろんオリジナル通り一方は死せる者なんだけれど、日本版とちがいこちらの恋人同士はほのぼのとした終わり方になっているのがイイ。

 とまぁ、一昨日11時ころから見始め、午後1時過ぎには見終わったんだけど、その時点でこの映画をAIと関連付けるなどとは夢にも思いませんでした。ところが見終わって図書館へ行き、今日のニュースはなんぞないかいなぁ、と図書のパソコンでヤッホーニュースを見るとこんな記事がありました。

『「パパ、ママ、会いに来たよ」AIで死者を“復活” 中国で新ビジネス』

 中国は時々とんでもないことを考えるが、これはどうなんだろう、愛していても死んだ人には触れもできないし、せめて会話でもと思っても無理、もしや夢でも見ないかと淡い期待を抱く、死んだ人にもう一度会いたいみたい、話したいという願いは切ない。でもそれは無理、だがニュースによると、あらかじめ死者についての詳細な情報を得れば、まるで生きているように死者を見ることも話すことも生前と同じようにできるのだ。AIを使ってである。それを中国ではビジネスにしてしまったのである。

 このニュースを読んだとき、さっきまで見ていた映画「異人たち」を思い出した。この映画は、まるで異界と不思議な交差が起こったかのような死んだ両親との出会いだったが、なんと現代ではAIを使えばありえぬ不思議な出来事ではなく、現実にそれは可能なのだ。35年も前は想像だにしなかったが、今はAIを使ったバーチャルだが現実感たっぷりの死者との出会いが用意されているのである。

 まぁそんなこんなで今はエントロピの本にも心惹かれるが、こちらの「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」の方が強く私の読書熱を掻き立てているのである。いま教養書である新書版のその本を二冊借りて初歩の知識を得ようとしている。今日のブログを書いたことをきっかけに気を入れて本を読んでオベンキョしょぉや。