2026年6月30日火曜日

美味しそうな県木の実

  今日で6月も終わり、一年の半分が過ぎた。体力気力の衰えもあり更新が間遠くなっている。先ほど更新した前のブログ(今日6月30日)は、前月5月10日に散策した古戦場だ。6月は体調不良もあり、ブログにアップできるようなこれといった場所には行っていない。6月中に散策と言っていいのは小松島の立江八幡宮のあたりを歩いたことである。写真の日付を見ると6月15日となっている。

 八幡宮の境内は奥行きが広く、大きな神社である。「阿波花火発祥の地」という表示が境内にあった。


 境内にはおいしそうなヤマモモが実った木があった。このやまももの木は我が県の「県木」である。

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その7 中富川の合戦

  ちょうど今週の大河ドラマで、土佐の戦国大名の長宗我部元親信長から四国全土の征服を承認されるシーンが出てきますが、その征服の最終段階としての合戦が、阿波の国の当時の政治の中心地であった勝瑞城の近く、中富川のほとりで戦われた合戦です。長宗我部に対するのはわが阿波の戦国大名の三好氏一族及び諸将でした。結果は長宗我部軍の最終勝利となり、三好氏一族(十河)は敗れ讃岐に逃れます。

 今回の「中世の城ぶらぶら散歩」は古城めぐりでなく、古合戦場巡りとなります。まず当時の古戦場跡及び古城あとの地図を下に示します。


 破線矢印の進路が長宗我部軍で川を対して向かい合っているのが阿波の三好氏一族及びその諸将の軍です。

 中富というバス停で降りました。


 西へ向かって歩くと旧吉野川の堤防、そして旧吉野川が見えてきます。



 その手前、今は畑となっているところが中富川の古戦場とみられているところです。


 地元の人に聞くと、農地整理する前、昭和の初めころには、古戦場であったことを示す供養塚か?小塚があちらこちらに点在していたようですが、今は全くありません。

2026年5月31日日曜日

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その6 板西城、新居見城

 板西城 板野町

 5月22日に散策してきました。城址であるが明確な遺構は残っていない。言い伝えや地名の分析によりこのあたりではなかろうかというところの中心に現在地蔵堂が立っている。


 その入り口に板西城址の説明板がある。


新居見城 小松島市新居見町

 5月30日に行ってきました。南小松島駅から南へてくてく歩くと芝生川(しぼう)を渡りますが、その川を上流に向かって進むと新居見城址の小山があります。ここも明確な遺構は残っていない。板西城は平城、新居見城は山城である。


 その山のすそに城址の石柱が立っています。説明文も彫ってあります。以下のようなことが書かれています。『平安時代末期に近藤六家親が在城しており、源義経を先導して屋嶋に攻め入ったと云われている。その後、近藤六親家は板西城主となっていたが子に恵まれなかったため赤沢兵庫頭宗定に板西城を譲り新居見城へ移った。戦国時代には赤沢氏が城主で、天正10年(1582年)三好方として中富川合戦で戦った』

 近藤氏そして赤沢氏は、板西城、新居見城の城主と重なっているようである。


 芝生川は思っていたより川幅があった。30cm近い大きな亀が何匹もいる。外来種のアカミミガメ(みどりがめ)だ。そして川沿いに列をなしてさいている黄色いコスモスに似た花は外来種のオオキンケイギクだ。私が子どもの時の昭和三十年代は亀も野生の菊も在来種ばかりだった。60年以上経て環境も変わり植生も変わっていった。日本文化の基盤である風土がどんどん変わっていく。これからの日本はどうなっていくのだろうか。


2026年5月25日月曜日

季節の花 花菖蒲

  助任にある蜂須賀家菩提寺・興源寺横の公園に花しょうぶの花がきれいに咲いているというので見に行ってきました。これは花菖蒲とのことですが、よく似た、というか私には違いが全く分からない花にアヤメ、カキツバタがあります。まぁ違いは専門家に任せ、これから梅雨にかけて咲くこれらの花を愛でましょう。あ!今、(あやめ)とパソコンに打って変換をおすと「菖蒲」と漢字が出てきた。ということは、アヤメと花菖蒲(ショウブ)は同じなのかなぁ?

 有名な和歌を思いだし口ずさむ

  五月雨に 沢辺のまこも 水こえて いずれあやめと ひきぞわずらふ (源頼政



 水辺の花しょうぶと噴水、これからの季節、見るだけで涼しくなるような風景だ。


 ここの公園には十数代にわたる阿波藩主の墓もある。有名なお二人のお墓を紹介します。

十代藩主蜂須賀重喜公の墓、吉川英治作「鳴門秘帖」の小説・映画・テレビで有名なのはこの人


今年の大河ドラマで秀吉兄弟を助ける子分のような役、野武士風のキャラの蜂須賀正勝の墓、彼は藩祖である。

2026年5月24日日曜日

今日のローカルニュースに驚いた

 


 今日の徳島のローカルニュースに驚いた。昔、一緒に机を並べて働いていたいわば同僚が司法試験に合格したというニュースである。一介の受験生の合格が新聞に載ったのは、大学卒業後数度のチャレンジにも失敗し、その後別の職種に進んだが、何十年かたって、思うところあり再チャレンジして53歳という年齢で合格した奮起の人であったためである。

 今から28年前、私は徳島市内の某ビル五階にあった資格試験予備校で講師をしていた。講師といっても常勤ではなく、時間幾らのアルバイト講師である。受け持ったのは「公務員上級受験コース」と「行政書士受験講座」であった。公務員受験コースの講師は3人、人文・社会・自然科学及び小論文などの一般教養分野、憲法・行政法・民法などの法律分野、数的処理・空間把握・推理推論など数学分野、その三分野を三人が担当していた。私はその中の一般教養分野担当で、今日のニュースで話題の彼は法律分野であった。

 アルバイト講師をしたのは二年間であった。私は当時47から48歳、彼は25歳の青年である。気さくで愛想のよい若者であったため、空き時間などはよく世間話もしたし、自分の授業内容についても分野は違うが忌憚なく話をした。公務員試験の傾向や対策について講師の立場からあーすればよい、こーすればよいと話が盛り上がることもあった、資格予備校で講師をするなどは初めてであったため、最初は戸惑ったが、うんと年下の彼の方が落ち着いていてずっと講師らしく、彼と話すうちに少しずつ自信がついてきた。

 しかし私が講師をして二年過ぎた頃、予備校は県内から撤退することになり、結局、私も彼もその時点で講師をやめた。その後、私は某定時制・通信制高校の臨時雇い講師の口がかかりそちらの方へ行き出した。その高校の講師をしていた時(一年はたっていただろうか)、偶然徳島市内で彼にあった。「今どうしてるの?」と聞くと、彼自身講師から受験生に立場を変え、県庁の上級職を受験し、合格して新年度から県職員としてスタートするとのことで、「いやぁ、それ終身就職でよかったじゃないか」とお慶びをいったことを思いだす。そのご彼とは一度も会う機会がなかった。

 そして28年後、このニュースである。県庁の上級職に就いたことだけでも田舎ではエリートの職業なのに、今度は弁護士である。セレブといっていいのじゃないだろうか。いやぁ、すごい、本当に。まばゆいわ。片や私はその後も定職を持たず、ふらふらとフーテン暮らしのような人生を送っている。

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その5 飯尾城、立江城

 飯尾城・飯尾東城

 5月17日に散策しました。吉野川市鴨島町飯尾にある中世城館です。飯尾氏の居城です。飯尾氏は鎌倉幕府の幕閣の一人である三善康信の子孫で麻植郡内の荘園の地頭職を世襲していました。室町時代には細川氏の被官として京都中央政界でも需要な位置を占める飯尾氏でした。

 城館跡は近接して二か所あります。「飯尾城」「飯尾東城」です。飯尾城は現在飯尾敷地小学校の前にある飯尾神社に隣接した南一帯がその場所と推定されています。

 飯尾神社の境内から南方を写真に撮る。玉垣の向こうの畑が飯尾城館跡、次に述べる飯尾東城と同様遺構は残っていない。


 飯尾東城は飯尾城から300mほど東へ寄ったところにあります。下の動画に見える畑一帯が飯尾東城である。動画で黄色丸が現れるあたりに壊れた石仏があるが、以前はそこに飯尾東城跡と表示があったが現在は下の写真のように首のない石仏があるのみである。


立江城

 小松島市にある八十八ヵ所の一つである立江寺に近いところにある。5月18日に行ってきました。立江萱原行のバスに乗り「旧立江中学跡」のバス停で降りるとその前にある山の麓あたりが立江城跡です。遺構も表示もなく、この辺りといわれている場所で写真に撮りました。上の写真は元立江中学グランドから城のある方向の山を撮った。右の麓の方が城館跡


下が城館があったといわれている場所


2026年5月20日水曜日

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その4 国実城、鳥坂城、矢上城

 国実城 4月12日に見学

 中世~戦国時代にかけての近藤氏の城館と思われるが詳細は不明、JR下浦駅からすぐ近くなのでその伝承地の写真を撮ってきました。

下の祠周辺がその地といわれている。



鳥坂城 4月12日に見学

 石井町にある気延山から北へ派生した標高75mの茶臼山に築かれている。鎌倉期に阿波国・淡路国・土佐国の守護となった経高が阿波国の拠点として築いたが、 承久の乱の後は佐々木氏に代わって小笠原長清が阿波国守護となり、長清は佐々木氏の籠る鳥坂城を攻め佐々木氏を排除した。

 登り口にこのように城の表示はあるが、城館跡とみられる山中では明確な城の遺構は確認できなかった。


矢上城

藍住町矢上にあった中世から戦国末にかけての城館で、矢野氏の居城と伝えられる。天正10年(1582年)土佐の長宗我部軍の阿波進攻に対する勝瑞本城の最前線としての城館であった。遺構として明確なものはなく、場所は正法寺橋の北側一帯といわれている。

5月9日バスで行ってきました。矢上バス停で降りて南に少し行くと、正法寺川が流れ橋が架かっています。この辺りだろうと見当をつけ、取った写真です。この左岸あたりが矢上城跡とおもわれる。