2026年5月13日水曜日

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その1

  少し間が開いた久しぶりの投稿です。後期高齢者になり、いろいろの面でかなりの衰えを自覚するこの頃です。今年になって、体のアッチャコッチャにときどき鈍痛を感じたり、日によっては「せこぉ~い」(しんどい)日があったりで、以前と比べると体が一段と老化したと感じています。ブログをこれからも書き続けようと思い、ネタも(暇はたっぷりあるので)うろうろ歩いてためていますが、書く気力も衰えているというか、何もせず暇になると虚脱感、脱力感におそわれ今日までブログの更新がのびてしまいました。

 さて、今年に入ってから、県内の古ぅ~いお城を、ぼちぼち、ぶらぶら巡っています。江戸期にはご存知のように「一国一城令」が幕府から出され、この阿波藩は渭津城 (いのつじょう・現代の城山)一つのみとなりますが、中世(鎌倉~室町~戦国時代)には、ここ阿波では100以上の「中世の城」がありました。中世の城は、石垣やそれで囲った堀、そして高層櫓や天守などのある近世城郭とは違っています。中世の城は土塁、土掘などで囲まれた土豪の住居兼戦闘のための本拠、あるいは天然の要害の川、山などでかこまれた砦のようなものでした。だから屋敷城(やしきじょう)や(やかた)とも呼ばれていました。

 イメージすると下のようなものでしょうか


 先月(4月11日)、自転車で回った城を紹介します。

高畠城(吉野町・柿原)、土塁も堀跡も何も残っていない。このような表示があるのみである。近くに川が流れている。戦国末、中富川の合戦で討ち死にした高畠氏の城であると伝わる



郡城、上の高畠城から1kmほど行ったところにある。創建は南北朝時代まで遡るといわれている。柿原氏の居城、やはり近くに川が二筋流れており、守りやすい要害の地だったのだろう。


 そこから北西へ数キロ離れたところにあるのが
秋月城、南北朝から室町初期に阿波守護だった細川氏の拠点の城であった(後に勝瑞城に移る)、阿讃山脈の麓扇状地にあり、吉野川水系、そして阿讃の谷筋から讃岐~瀬戸内へとつながっていて、今では考えにくいが、要衝の地でもあった。

 それから南へ転じ、吉野川の川島潜水橋を渡り向かったのが川島町にある
上桜城、戦国末、阿波史では有名な篠原長房氏の居城・山城、四国山地の中腹にあるため、ここからは吉野川流域の里、上記の三つの城の場所も一望できる。

 



 上桜城跡からの眺め

2026年4月21日火曜日

童学寺の藤

  例年より一週間ほど藤の盛りの時期が早まっているというので、石井の藤の名所「童学寺」の藤棚を見てきました。確かに今が真っ盛りのようでした。藤棚の下では藤の花の香りが漂い、それに引き寄せられ蜜を吸う「アブ」がうるさいくらい藤房にまとわりついて舞っていました。



2026年4月11日土曜日

日の出

   朝、庭へ出ると、ちょうど地平線から朝日が昇るところだった、午前5時43分。天気予報では今日は快晴、最高気温は夏日以上(25℃)になるとのこと。


 庭の雑草が勢いよく伸びだした。高齢になっての手での除草作業はキツイ、もう無理。除草剤を撒こうかなと考える。

2026年4月9日木曜日

古津八幡神社の石灯籠

  阿南市那賀川町古津にある八幡神社の境内に足利義維(改名後義冬)さんの建立した石灯籠があるというので一昨日見に行ってきました。阿波公方(将軍家)の初代といわれている足利義維(義冬)さんですが、厳密に言うと(朝廷から)正式な征夷大将軍には任じられていません。しかし一時は泉州堺にあって京都に勢力をのばし、将軍の命令書である「御教書」などをだしていました。正式な将軍の足利義晴は京都から逃れていないこともあり、義晴に対抗した足利義維(義冬)を、各地の大名の中には彼を公方と認めた者もいたので、「堺公方」とも言われています。なお彼の父は11代将軍足利義澄、子どもは14代将軍となる足利義栄である。

 古津八幡神社、思っていたより小さな神社だった。


 この石灯籠が足利義維(義冬)が建立したといわれているもの

2026年4月6日月曜日

徳島城公園を横切った

  

 昨日、徳島城公園を横切ったが、花見の人が大勢いた。イベントも開かれていて立ち止まって見ている人、桜並木をそぞろ歩く人、桜の下の芝生で一座になって宴会をしている人、らで賑やかだった。


 城山のヤブツバキ(椿の野生種)も今が見ごろ、でも城山の薄暗い樹林の中にあるため、あまり目立たない。むしろ地に落ちた落ち椿の花弁がたくさん散っているほうがよく目立つ。


2026年4月3日金曜日

わが阿波で終焉をむかえた足利将軍お二人

 

 前のブログで足利の十四代将軍の義栄はんはわが阿波の平島荘(阿南市那賀川町)で誕生したことを紹介したましたが、終焉の地もこの阿波でありました(異説もあり摂津富田で亡くなったとも)。さらには十代将軍義稙はんの終焉の地も阿波鳴門の撫養であったといわれています。そこで昨日、天気も良いしぬくい日なのでその二人の終焉の地と言われる鳴門・岡崎あたりを歩いてきました。

 足利将軍家は徳川将軍家と同じく15代まであります。中には在位が短く、幼少で亡くなったりした将軍もいて影の薄い御代もありました。14代の足利義栄はんは成人して将軍になったのですがその在位は短くわずか8ヶ月、織田信長と足利義昭連合に攻められながら、病死したと伝えられています。

 そして少しさかのぼって10代の足利義稙はんはなんと二度も将軍宣下を受けたこともあり、通算30年余りにわたって将軍位を11代の義澄はんや12代の義晴はんと争ってきました。だから京都にいた時より、全国各地の大名をたよって流浪していた時期が長く、世に「流れ公方」と言われています。そして最後に流れ着いて死去したのがこの阿波の地でした。

 そのお二人の終焉の地は鳴門(撫養)の岡崎ではないかと言われています。ただし、現在、その確たる遺跡・遺物はなく、歴史的にきちんと証明されたものではありません。義栄はんは摂津富田かもしれないという説もあります。義晴はんは阿波撫養でなくなったことはほぼ間違いなかろうといわれています。

 鳴門の岡崎は中世の時代、畿内から海を渡って阿波に入る玄関口でした。その岡崎には海岸を見下ろすように小山の妙見山があり、要所であるため山には城や砦、麓には館が築かれていました。将軍お二人の終焉の場所はその城あるいは館ではないかと言われています。伝承ではその妙見山の一峰に江戸時代は将軍塚があってその将軍の墓ではないかと言われていました。現在ではそのような墓に類する遺跡はありません。これは江戸時代に那賀川町の中島の西光寺にお二人の墓を移転したためではないかともいわれています。

 下の立体地図が昨日あるいた岡崎妙見山~岡崎海岸です。黄色の楕円の域にお二人の墓が大昔に築かれていたのではないかと言われています。


 ①から撮った写真


 ②から撮った写真


 ③から撮った写真、岡崎海岸から撮る、赤い灯台の先の岬の向こうに「沼島」がかすかに見えている、ここは阿波に来る前に十代将軍義稙はんが短期間だが滞在したところでもある。


 写真➀のあたりで人懐っこい黒猫にあう、私が声をかけると「ネウ、ネウ」と甘えてないていた。この猫、妙見山を下り、岡崎海岸を見て、妙見山の横を通っている撫養街道を帰っていると再びあった。これは!お二人の将軍の御霊が憑依した黒猫かもしれないなと、チラリと思った。


 帰り撫養街道から妙見山を見る。山頂に城が見えているが、これは昭和に建てられた城をまねた博物館・記念館で中世の城や館(たて)と全く関係ありません。左の電灯ポールの横に「撫養街道・遍路道(江戸時代)関所跡」と石柱が立っている。

2026年3月31日火曜日

徳島の中世の遺物・遺跡を見学する 足利将軍14代はんと中世の埋蔵銭

 

 3月28日に足利将軍ゆかりの遺跡(墓)に行ってきました。下の写真が阿南市那賀川町の西光寺にある足利14代将軍義栄の墓とその父足利義冬、義冬の養父・足利義稙の墓。


 14代義栄はんは、西光寺より歩いて15分の地・古津にある旧平島館で誕生した。下の写真の人工的な丘がその館跡である。



 行くときはバスで行ったのですが帰りは汽車で帰りました、帰る途中の赤石駅(無人駅)の片側の山際にはほぼ満開の桜が咲いていました。



 3月27日には埋蔵文化財センターで出土銭を見学しました。出土地は徳島市上八万寺山遺跡、埋められたのは鎌倉時代末期のようである。出土銭は53種・3,699枚で13kgほどある。何のために埋められたのか、あるいは秘蔵保管の目的だったのが何らかの原因で掘り出されず、忘れられたのか、今もって謎である。