2026年5月17日日曜日

黒い薔薇?

  先日(5月9日)藍住町を古城跡を探して歩いていると、バラ園があり見物客でにぎわっていたので、私も(入場無料もあり)見学してきた。

 まるで牡丹のような大輪のバラ、目に染みるような真っ赤なバラ、他、黄色、青、白など色とりどりのバラが咲き誇っていた。その中でも、私が一番みたいと思っているのは「黒い薔薇」、はたしてそんな花があるだろうか。


 植物は本当の意味で「黒色の花」が無いことは知られているが、紫や赤のうんと濃いのは黒く見えたりするので「黒い色の花」とも言われる。4月初めころに咲くチューリップ(北島のチューリップ公園)に黒といわれるチューリップがある。下がそうである。確かに黒といってもいい花である。


 それではバラはどうだろうか?ずっと見て歩いて行く、なかなか黒っぽい薔薇には出会わない。そしてほぼ見終ろうとする花壇の奥の方に「黒真珠」という品種のバラがあった。黒というからかなり黒いのか。これが一番黒に近い濃い色だが、黒というにはちょっと?まぁ部分的には黒と言えないこともないかなぁ。黒真珠は『ブラックパール』といわれるが、映画「パイレーツオブカリビアン」の黒の帆船を思い出した。



阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その2 住吉城跡

  城といっても城館と言った方がいいだろう。後の江戸期でも国持ち大名は天守、石垣、櫓、堀などある立派な城を持っていたが、一万石~三万石程度の大名はそんな城ではない。「陣屋」と称した城館であった。

 藍住ゆめタウンの近くに住吉神社があり、その付近である。1585年蜂須賀氏が豊臣秀吉から阿波の領地を賜ったのはみんな知っているが、阿波一円が蜂須賀氏のものになったのではない。一円支配ではなく阿波板野郡住吉あたりの一万石は播磨の名族赤松の子孫・赤松則房が領有したのである。その時の城館跡である。その後、赤松氏は一万石大名として江戸時代まで存続はせず、やがて阿波一円は蜂須賀氏の領有するところとなった。つまり蜂須賀藩に吸収されたということか。

 赤松氏本家は足利六代将軍義教を弑逆したため滅ぼされるが、旧臣の働きもあり、八代義政の時代に本家は赤松政則が後を襲い復活する。下が赤松政則の肖像画である。この住吉城の城主となった赤松則房はその子孫になる。


 5月9日に行ってきた。田園地帯にある平城である。説明板が住吉神社近くの八坂神社の横にある。


 そこから数十メートルいった畑の中に舘(城館)跡と伝えられる塚がある。

2026年5月13日水曜日

阿波の中世の城ぶらぶら散歩 その1

  少し間が開いた久しぶりの投稿です。後期高齢者になり、いろいろの面でかなりの衰えを自覚するこの頃です。今年になって、体のアッチャコッチャにときどき鈍痛を感じたり、日によっては「せこぉ~い」(しんどい)日があったりで、以前と比べると体が一段と老化したと感じています。ブログをこれからも書き続けようと思い、ネタも(暇はたっぷりあるので)うろうろ歩いてためていますが、書く気力も衰えているというか、何もせず暇になると虚脱感、脱力感におそわれ今日までブログの更新がのびてしまいました。

 さて、今年に入ってから、県内の古ぅ~いお城を、ぼちぼち、ぶらぶら巡っています。江戸期にはご存知のように「一国一城令」が幕府から出され、この阿波藩は渭津城 (いのつじょう・現代の城山)一つのみとなりますが、中世(鎌倉~室町~戦国時代)には、ここ阿波では100以上の「中世の城」がありました。中世の城は、石垣やそれで囲った堀、そして高層櫓や天守などのある近世城郭とは違っています。中世の城は土塁、土掘などで囲まれた土豪の住居兼戦闘のための本拠、あるいは天然の要害の川、山などでかこまれた砦のようなものでした。だから屋敷城(やしきじょう)や(やかた)とも呼ばれていました。

 イメージすると下のようなものでしょうか


 先月(4月11日)、自転車で回った城を紹介します。

高畠城(吉野町・柿原)、土塁も堀跡も何も残っていない。このような表示があるのみである。近くに川が流れている。戦国末、中富川の合戦で討ち死にした高畠氏の城であると伝わる



郡城、上の高畠城から1kmほど行ったところにある。創建は南北朝時代まで遡るといわれている。柿原氏の居城、やはり近くに川が二筋流れており、守りやすい要害の地だったのだろう。


 そこから北西へ数キロ離れたところにあるのが
秋月城、南北朝から室町初期に阿波守護だった細川氏の拠点の城であった(後に勝瑞城に移る)、阿讃山脈の麓扇状地にあり、吉野川水系、そして阿讃の谷筋から讃岐~瀬戸内へとつながっていて、今では考えにくいが、要衝の地でもあった。

 それから南へ転じ、吉野川の川島潜水橋を渡り向かったのが川島町にある
上桜城、戦国末、阿波史では有名な篠原長房氏の居城・山城、四国山地の中腹にあるため、ここからは吉野川流域の里、上記の三つの城の場所も一望できる。

 



 上桜城跡からの眺め

2026年4月21日火曜日

童学寺の藤

  例年より一週間ほど藤の盛りの時期が早まっているというので、石井の藤の名所「童学寺」の藤棚を見てきました。確かに今が真っ盛りのようでした。藤棚の下では藤の花の香りが漂い、それに引き寄せられ蜜を吸う「アブ」がうるさいくらい藤房にまとわりついて舞っていました。



2026年4月11日土曜日

日の出

   朝、庭へ出ると、ちょうど地平線から朝日が昇るところだった、午前5時43分。天気予報では今日は快晴、最高気温は夏日以上(25℃)になるとのこと。


 庭の雑草が勢いよく伸びだした。高齢になっての手での除草作業はキツイ、もう無理。除草剤を撒こうかなと考える。

2026年4月9日木曜日

古津八幡神社の石灯籠

  阿南市那賀川町古津にある八幡神社の境内に足利義維(改名後義冬)さんの建立した石灯籠があるというので一昨日見に行ってきました。阿波公方(将軍家)の初代といわれている足利義維(義冬)さんですが、厳密に言うと(朝廷から)正式な征夷大将軍には任じられていません。しかし一時は泉州堺にあって京都に勢力をのばし、将軍の命令書である「御教書」などをだしていました。正式な将軍の足利義晴は京都から逃れていないこともあり、義晴に対抗した足利義維(義冬)を、各地の大名の中には彼を公方と認めた者もいたので、「堺公方」とも言われています。なお彼の父は11代将軍足利義澄、子どもは14代将軍となる足利義栄である。

 古津八幡神社、思っていたより小さな神社だった。


 この石灯籠が足利義維(義冬)が建立したといわれているもの

2026年4月6日月曜日

徳島城公園を横切った

  

 昨日、徳島城公園を横切ったが、花見の人が大勢いた。イベントも開かれていて立ち止まって見ている人、桜並木をそぞろ歩く人、桜の下の芝生で一座になって宴会をしている人、らで賑やかだった。


 城山のヤブツバキ(椿の野生種)も今が見ごろ、でも城山の薄暗い樹林の中にあるため、あまり目立たない。むしろ地に落ちた落ち椿の花弁がたくさん散っているほうがよく目立つ。