歳が行くと(つまり高齢になると)、だんだん人柄も丸くなり、人と争わず、穏やかに誰とも接し、決して怒らない。モノやコトに執着することも歳とともに次第になくなっていく。他人から見れば穏やかな好々爺であろう。ジジイになるにつれこうゆう風にだんだんなっていければいいと思う。
そういうと宮沢賢治の「雨にもマケズ・・」のような一種の宗教的人間のようだね、と言われそうだが、年寄っての、怒らず、執着せず、はそれとは少し違う、宮沢賢治の理想の人は、それに加えて、困っている人に心底から共感し、助けようとする態度を持っている。
しかし困苦にあえぐ人に対しての共感や、助けは、だんだん衰え死んでいくジジイに求めることではない。やはり明日もおそらく元気に生き続けているであろうという若い人がそれをやるべきだろう。ジジイは、ただただ、「怒らず」、「執着せず」で終末まで実践できればそれでいいと思う。
なぜ?たったそれだけでいいの?それだけというが、そのことがなかなかできない。経験も積み、世の中の仕組みも理解できていると思われる年寄りだが、(ワイも当然そうだ)、たった二つの「怒らず」、「執着せず」ができない。怒りは若い時のように爆発して外部に噴き出すばかりではない、歳が行くと世間体常識社会の規範などにゆがめられ屈折し、怒りは内向したり、思わぬエネルギーに転嫁する、怒りは嫉妬、ねたみ、呪詛となり、それは結局自分を内側から苦しめることになる。たまに暴走老人で外部に噴出する人もいるが、その噴出した後のその老人の心の反作用はどんなに荒涼としたものになるか想像できる、決して怒って、スッとしたわ、とは金輪際ならない。
執着もそうである、自分の身に少しでも何かが得られ加えられればいいというのはこれは否定されるべきことではない、それは金銭だけではない、自分の身についてほしいと思うのは、物質金銭だけではないだろう、名誉、地位、いやそんなおおそれたものでなく、ご近所の評判でも良い、良い評価を身に着けたいだろう。自分に子や孫がいる、それがどんどん栄えて、枝葉が茂るのを少しでも我が身として長生きして見届けたい。さまざまな執着のかたちがある。
ワイなんか決まりきった生きるにはカツカツの年金で減ることはあっても増えることなく死ぬまでそれで生活しなければならん、持病持ちで、客観的に見て健康体力も今より良くなることはなく程度はあれ、衰える一方であることは確定している。それでも、いやいや、生きていればなんかいいことがあるかもしれないと、もう望みも、努力もできないくせに、良くなる生活を捨てきれない、これもギリギリの生きる者の執着だろう。しかしそんなささやかな執着も更なる執着を生むもととなり、執着の粘っこい海からは抜けられない。
まだ寝たきりにはなっておらずフラフラしながらも世間を歩いていると、若いころには全く気にしなかったことが固陋に凝り固まったジジイの目に飛び込んできて、妙に気になる。「なんで、足の悪い人が困るのに、歩道に大胆に駐車しているのだろう」、「なんで禁煙場所で大胆に煙草を吸うんだろう」、「なんで混んでいる車内で自分の手荷物で座席をふさぐのだろう」、若者はまったく気にしない、ところがこのジジイは気になる。妙なところに最近執着して困る、そして注意もできないのに、怒りが内向する。
ジジイになってから穏やかになるどころか怒りと執着にもぶれまくり苦しめられる。
仏教では、怒りと執着を永久に離れることを勧める。しかし反面、元気に生きるバイタリティーがあるからこそ、怒りも執着も生まれるということができ、もし怒りと執着がなくなれば死ぬ時ではないだろうか。痛みのなくなった終末期の人を見るがいい、多くの人はだんだん食欲もなくなり、意欲も衰え、最後は枯れるように眠るように逝く。最末期は、あらゆる執着もなく、もちろん怒りもない。
そうなのである。怒りも執着もなくなることは、彼岸にゆくことである。多くの人は死期がすべてを平安にしつつある最末期にしかこのように怒りも執着もなくならないが、仏教の先達の中には、死期の迫るずっと前からそのような平安の境地に達した人がいる。人にもよるがそのような(怒りも執着も捨て去って)数十年平安の境地で生きた人もいる。
私はこの歳である、あと生きても数年、出来ればできるだけ早くそんな境地に達して逝きたいと思う。
この間テレビを見ていたら、京都嵯峨野に二尊院という寺があるそうだ。普通、寺の本尊の本体は一体だが、この寺はその名前が示すようにご本尊が二体である。釈迦如来と阿弥陀如来である。この二体信仰、今まで書いたような「怒り」「執着」を解脱して彼岸に達するのを願う意味があるそうだ。
彼岸に行くには左手には「怒り」を表す燃え盛る炎の河があり右手には逆巻く「執着」の河があり、その間の細い細い白い道を渡らねばならない。それを助けてくれるのが釈迦と阿弥陀である。出発を鼓舞してくれるのが釈迦如来、あちら岸で迎えてくれるのが阿弥陀如来である。
これを誰にもわかるように書いたのが「二河白道図」である。
下は二尊院の二体本尊、右が釈迦如来、そして阿弥陀如来、拝んで平安が得られるならなぁ~
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