県立博物館で二月末から始まった阿波の三大絵巻展も明日までとなった。江戸時代の阿波の絵師が書いた絵巻物三つ(それぞれ2~10巻に分かれている))の展示である。阿波の三大絵巻とはあまり聞いたことがないと思うが、それもそのはず今回、この三巻を展示するにあたって博物館が初めて用いた言葉だ。博物館秘蔵の絵巻で現物が展示されることはなかなかないのでこの機会にまだ見ていない人はぜひ見ることをお勧めします。
もちろん私も展示が始まってすぐ見た。そしてつい先日も見に行った。なぜ二回も見たかというと、先にも述べたように一つの絵巻が数巻に分かれていて長いため(絵巻物なのであまり長くなると展示室に収まりきらない)一度に展示されずに数度、期間を分けて展示されるためだ。特に見たかったのは『光格上皇修学院御幸儀仗図』である。上皇の御輿を中心に先導する公家衆、供奉する武家衆、長い大勢の行列であるため絵巻物の主題としてはまことにふさわしい。(絵巻物の本来の見方として、巻き広げつつ片方は巻きながらながら見ていくと行列がまるでしずしずと進んでいくような臨場感があっただろう)
二月の最初に見たのは供奉の武家衆の行列一行であった。武家の中心は乗馬姿の京都所司代である。しかし、この時は上皇の御輿の巻きは展示がなかったため、後日、改めて上皇の御輿の巻を見に行ったのである。
最初に見た御幸図上巻の中心、騎乗するのは狩衣姿の京都所司代である。京都における武士であるが、幕府は武士が京都住むのを快く思わなかった。任務上での一時的な滞在でさえ制限されていた。だから京の町は公家と僧侶・神官、町衆が住民のほとんどである。京都に滞在できる武士は幕府が派遣した武家とその下僚だけである。その数少ない武家のトップがこの京都所司代である。所司代は京都の行政官としての仕事だけではなく、朝廷や西国大名に関する監察も行った。監察などというといかめしそうな任務だがこの絵巻に見るような狩衣乗馬の儀仗姿をみると、天皇、貴族を警護する「さぶらふ武士(もののふ)」から侍(さむらい)という言葉が来ているということがよくわかる。そもそもはこれが武士本来のすがたであったのだなぁと思わせる。しかし、武骨(京では)といわれる江戸の武士がこのような王朝絵巻の一員として供奉すると、なんか優美な雄々しさというか、りりしさを感じる。
少しさかのぼるが(数十年まえかな)後桜町女帝の御時、御所が火災になって燃え広がり、女帝の身辺も危うくなった時、騎乗で駆け付けた所司代はてきぱきと指示し、避難を先導した(江戸時代、天皇の動座は大変なことで気軽に御所を出られなかった)。その所司代をみて、女帝が
「あら、たのもしやの、もののふかな」
といったという噂もある。生涯独身の女帝である。駆け付けた所司代のりりしさにうっとりしたかもしれない、とはゲスのかんぐりか。
そして後日見たのが中巻の御幸図で光格上皇の御輿である。光格上皇という御名は最近、新聞や雑誌でよく見るようになった。それは今上陛下の御退位と関係してである。天皇の退位は1817年以来200年ぶりと言われているがその直近(と言っても200年前だが)の退位した(当時は御譲位)天皇が光格天皇である。その時以来の上皇号であることからマスコミ等に取り上げられているのである。
天皇の輿ならば上部に鳳凰の飾りがつくため鳳輦と呼ばれるが上皇のため御輿と呼ばれる。
御譲位した光格上皇は春か秋の季節、仙洞御所を出て洛北にある修学院離宮に遊ばれたのである。とはいっても上皇の御幸といえば、大ごとである。そもそも幕府は天皇や上皇の気ままな外出など認めなかった。天皇がわずか数百メートルしかない仙洞御所へ行幸することも渋っていた。そのため天皇の行幸は後水尾、明正天皇以来幕末までなかった。ただし上皇になって年に一二度修学院離宮の御幸は一応認めてはいた。しかしそれでも霊元上皇以来90年近く上皇の御幸はなかったのである。そして一世紀近くたって復活した御幸がこの絵巻の文政七年の修学院への御幸である。そののちは毎年のように修学院へ出かけている。このあたりからなぜか幕府は朝儀の復活に協力的になる。天皇の呼び方として院号でなく天皇号が復活するのも(平安時代の光孝天皇以来)この光格天皇のときからである。
※フラッシュを使わなければ写真撮影は許されている
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