2019年5月31日金曜日

阿波国衙はどこ?

20180711

 どれくらい前だろうか、淡路島に橋も架かっていない時代、ワイはたぶん20歳過ぎた頃、つうことはもう半世紀もまえの大昔か。そのころワイはガッコへいってたが、一足早く淡路で警察官になった高校の友人のところへ遊びに行った時のコト。鳴門黒崎から巡航船にのって福良に上陸、そこからバスで友人の下宿先へいった。当時の田舎の路線バスであるから、地元の人も多く乗っていて、ほぼ各停留所で乗り降りがある。途中、注意を引いたバスの停留所の名前があった。「次わぁ~~、コクガでございます~、お下りのかたわぁ~」女車掌が声を張り上げる。

 「こくが?けったいな名前やな、どんな字ぃ~書くんやろ」

 バス停のスタンドをみると『国衙』と書いてある。その時は日本史などにはほとんど興味なく(専攻は化学だったので)、「衙」という字もしらなんだ、あれ、ガと読むんじゃな。いっちょベンキョになったわ。後になって「国衙」とは古代(奈良・平安)に国(淡路とか阿波とか)の国府の政庁の建物を意味することが分かった。

 淡路は国府の跡が「国衙」という地名になって現代でも残っている。それじゃぁ、この阿波の国ではどうじゃろかい、のこっているんかいな。国府とか府中っつう地名は残っている。これが阿波の国衙のことか?でも国府より国衙の方がより狭い意味で阿波の国の政庁の跡を限定的に指し示すんじゃないやろか、阿波国衙は何処に?

 今日、昨日石井へ置いてあった自転車を徳島まで乗って行くので途中の国府町矢野にある市立考古資料館に寄って学芸員さんに聞いてみた。すると、阿波国の国分寺跡や国分尼寺の跡地はよくわかっているが、阿波国の政庁跡(つまり国衙)ははっきりここだとわかっていないそうである。候補の有力地はいくつか存在するそうだが、ここだといって「国府政庁跡」とかいう表示も立てられていない。

 学芸員さんの言うには、南バイパスの工事の時に出てきた多量の古代(奈良、平安初期)の木簡から小字名「観音寺」から「敷地」あたりにかけて、国府の官衙が点在していたのではないかと思われる。しかし、一方、国府町の町筋にある「大御和神社」あたりが阿波国衙の中心地であると、強く主張する意見も有力だそうである。

 まあ、かなり広いが、時間はあるし、自転車でアッチャコッチャうろうろできるのでまとめてそのあたりをまわってきました。

 広々した農地が広がる字、「観音寺」から「敷地」にかけての風景、向こうに鳥坂城のある茶臼山が低く見える。奈良平城宮の跡でさえ楼閣は早くに消え去り、牛が糞を垂れながらペカペカあるく農地だったことを思うと、阿波の国衙も幾星霜をへてさびしい農地になっても不思議ではない。


 このあたりのバイパス工事の時、多量の木簡が出土、国衙関係の木簡が出たことからこのあたりに国衙があったんじゃなかろうかといわれている。



 こちらの大御和神社が阿波国衙の中心だったという説もある。


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