鴨島の自然状態にまかせた(ということは土手や堤が人為的に築かれない古代中世の時代になる)河川の推定絵地図は前のブログで提示した下図である。
しかし今、鴨島で残っている河川は下の地図の赤の矢印で示した『江川』と黄色の矢印で示した『飯尾川』だけである。江戸時代初期から始まった土手や堤防を築いての流路の変更そしてそれに伴い低湿地の水田化、宅地化によって自然状態の河川流路の数はまとめられ、現代は二流の流れがあるのみである。
だが昔の河川あとは今も低いままで、そのため用水(麻名用水)や排水路として姿を変え今に残っていたりする。また大雨の跡、昔の河川だったあとが(道路が多い)冠水し、いっとき再び川のようになって流れていることも時々起こる。そんな場所を地図で確かめると確かに上図の絵地図のような蜘蛛手のような川の流れがあったことが納得できる。
ところでこのように多くの中小の河川が流れていたわが鴨島において 中世から近世にかけて存在した主要街道の『伊予街道』はどこを通っていたのだろうか。たくさん川があるため川を渡らなければならないにしてもできるだけ小河川を渡るほうが都合よい。また排水の悪い低湿地を通ることも避けたい。そうすると地図で言うと下の方(南)、できるだけ四国山地に近いほうを通ったほうが良いと思うが、こちらは飯尾川が流れている。北は(昔は)吉野川の本流の江川が流れているためこっちはもっと都合が悪い。
ということで北の江川と南の飯尾川の中間がいいんじゃないかとおもう。いまこの中間に東西に走る幹線道路がある(上の地図のオレンジの線)。伊予まで続く国道192号線である。現代の伊予街道と言っていいだろう。大昔もほぼこの線にそって『伊予街道』が走っていたと言いたいが違う。広い国道バイパスを作る場合用地買収のためどうしても宅地の込み合っている場所は避けたい、できれば原野、なければ田や畑となる。だから昔から町家の並んでいた『伊予街道』が国道192号線になることはなかった。
私の子供のころ(60年も前だが)はその旧伊予街道はまだ町筋として残っていたが、平成も終わりを迎えようとする今、その旧街道あとはさびれにさびれ完全な裏道となってしまい。ここが大昔の伊予街道と言ってもにわかには信じがたい状態となっている。
でもその証拠のいくつかはまだ消えずに残っていることはうれしい。もしそれもなくなればここが旧街道であったことを示すものは何もなくなる。その一つが石造の『庚申塔』である。上の絵地図の大字名で「上下島」という地区があるがそこに「大辻の庚申塔」がある。これが今も残っている。「大辻」と名前もいかにも昔の街道の分岐点らしい名前ではないだろうか。
下が上下島の大辻の庚申塔である。
この庚申塔の前の東西を走る道路は、今はあぜ道以上、裏通り以下のなんとも寂しい道路になっている。動画をご覧ください。(広い道路でなく、裏道となっている道路の方が旧伊予街道である。)
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