2019年5月31日金曜日

文永、弘安の板碑、蒙古襲来の時代

20180702

 さて元寇の役リアルゲームから鎌倉時代に興味がわいたわけであるが、この当時のわが鴨島町の鎌倉関係の遺物遺跡はほとんどない。(さがせば見つかるのかもしれないが今のところない)前に紹介したわが町のお寺の板碑も鴨倉末期のものであって二回にわたった元寇の役の文永、弘安の遺物遺跡はない。ところが隣町の石井町ではなんとその二つともあり、おまけにその年号まで刻まれているのであるから、にわか元寇ファンとしてはたまらない。それにその年号の刻まれた石碑(板碑)はうれしいことに露天にさらされて存在しており誰でも見ることができるのである。しかし見る歴史ファンにとってはいいことかもしれないがこのような保存の仕方は後世のためには決していいことではない。800年の風化は文字を読みにくくしているし、この風化の度合いはさらに進むであろう。今のうちに保存状態を変えねば早晩、その年号や刻印、文字までも見えなくなってしまう。もしかするとこのような見学の仕方ができるのは私らの世代が最後かもしれない。

 昨日、石井へ行ったので先日に文永の板碑を見たにもかかわらず、もう一度見に行った。何度見てもおなじやないかというなかれ、ためつすがめつみてみれば今まで読めなかった文字が読めてくるかもしれない。写真もあらためてとった。その結果、わかったことは、肉眼でいくら見ても見えにくいものが何度見たからと言って手ンごろ易く見えてはこないこと、むしろ見えにくいものを何度も見ていると、実際にそのように刻印してないのに誤って見えてきたりする場合もあるから注視すべきである。それより刻印の図柄や文字などは高解像度の写真でいろいろな角度から撮って、後で編集したほうがわかってくる場合があることである。もっと専門的に赤外線を当てたり、特殊フィルタを使ったりすればなおいいんだろうがそんな用意はないので手持ちのカメラとパソコンの編集だけである。それでも肉眼で見るよりずっとわかりやすい。

 少し角度を変えて写し、パソコンにいれ、できるだけ文字がわかりやすいように画像を処理した。前のブログにアップした文永七年の板碑よりだいぶんこちらのほうが読みやすくなっている。


 この板碑に刻まれた年号文永七年は第一回蒙古襲来の四年前だがたびたび蒙古の使者が恐喝まがいの国書をもってやってきているので幕府や朝廷は蒙古の脅威のことを知っていた。しかし四国の一般御家人はどうだろうか。幕府から御家人に九州に赴いて警戒警護を命じるのは文永八年とあるから、文永七年にはまだ蒙古の脅威を感じていなかったのではないだろうか。

 この文永板碑より東へ約3km行ったところにある石川神社の境内に板碑群がある。これはもともと神社にあったものではなく周辺にあった板碑をまとめたものである。大小、時代も違う板碑が横一列に並べてある。問題の弘安の板碑は左の一番低い板碑から数えて9番目にある五輪型板碑である。(横の撮影なので五輪型はわかりにくい)


 正面から見た五輪型板碑(真ん中)、青石の一枚板ではあるが五輪の塔の正面図に近い切込みがしてあったが風化も進みほとんど弾丸型になっているがそれでも五輪の形であることは推測できる。


 拡大処理したもの


 どこに弘安の文字があるのかわかりますか。(下のプロの写真を参考によく見るとおぼろげながら見えてくる)

 専門家が撮影し画像処理した模範的な写真を見てみましょう(上は私の撮影です)


 弘安八年と刻まれています。かなりわかりにくいですが。 やはり野ざらしのまま保存するのはよくないですね、このままだとやがて消えてわからなくなってしまいますから。
 弘安四年が第二回の蒙古襲来ですから、この八年には蒙古の脅威・そして侵略からの警固は武士たちの共通認識でした。結果として三回目はなかったのですが当時の武士にそんなことは知りようがありません。御家人を中心に武士にはかなりの緊張が長期間強いられたでしょうね。

一楽板碑群全景

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