2019年5月31日金曜日

一遍上人絵伝に板碑は出てくるか?

20180705

 そもそも板碑ってなんやろ、それは供養塔の一種である。死んだ人の霊を供養するためたてるのである。ただし死んだ人といったがこれから死ぬ人も供養の中に入る。前者は「追善供養塔」となり後者は「逆修供養塔」となる。以前のブログで紹介したがわが町内の本行寺の供養塔(板碑)が逆修供養塔で生前に建てたものである。


 供養塔は別名、塔婆という、これはサンスクリット語のストゥーバ(塔)から来ているといわれている。今でも墓の周りにたてられる「卒塔婆」とも同じ語源である。今の卒塔婆にも梵字がかかれているのと同様、中世の供養塔である板碑にも梵字(種子)が刻まれている。中世の板碑の一般的な型を示すと左のようになる。

 今までわが町と隣町(石井町)の板碑を見たがおおむねこの形式である。







 ここで現代人の私としてちょっと疑問に思うのは、板碑は青石でできていて石工が腕を振るい上に見るような形作りをし、種子(梵字)、文字、場合によれば本尊の像や花紋を刻んだ立派なものである。これって、中世の墓石といっていいんじゃないのか?墓といってだめなら、この板碑と墓の関係はどうなるのだろう?

 同時代(鎌倉中期)を写実的に描く一遍上人絵伝を見てみよう。この中で墓が出てくるのは唯一、一遍上人のおじいちゃんの墓である。それを見てみるとこんもりと盛り土した小丘である。墓石などはない。木の供養塔はあったかもしれないが朽ちて無くなっているのかもしれない。ともかく墓石はない。墳墓となっている。じいちゃんの墓に詣で祈る一遍。

 それでは板碑はどうだろう。絵巻をずっと見て行ったが石造の板碑のようなものはない。ただこのようなものが立っている。これは木製の供養塔と思われる。いわゆる卒塔婆であろう。(一遍上人絵伝より、左の女性は浄衣・白の着物、を着ているので信仰の道行であろう。小屋に座る女性は何か売っているがはっきりとは分からない、この供養塔群と何か関係あるのかもしれない)

 よく見ると先端が三角形をしており、二条の線が入っているのがわかる。模様や文字は見えないが、少なくとも頭部は上記の板碑の形式をしている。おそらく供養のためたてられた木製の供養塔と見て間違いなかろう。別の絵巻物(餓鬼草紙)に同時代と見てよい墓が出てくるが、やはり小墳墓であり、上には木製の供養塔が立っているのがわかる。貧しい庶民は風葬といえば聞こえがいいが、葬送の最終地に取り捨てである。遺体は白骨化する風葬の過程がわかるむき出しである。

 
 鎌倉時代に作られた木製の供養塔は当然ながら今まで残っているはずはない。ただ石造の供養塔・板碑が現代に辛うじて残っているのである。

 ちなみに庶民まで墓石をたてるようになったのは江戸時代もかなりたってから(18世紀の初めころ)、それまでは風葬か、遺体をそのまま土に埋めるだけの簡単な土葬、よくて小墳墓、その近くに木製の供養塔をたてるのがふつうであった。ただし中世においても貴族や有力武士などの墓には石造の供養塔の一種「五輪の塔」がたてられたが重々しい石造の供養塔であるため、これを墓石としている。

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