前のブログで富田橋のたもとで小さな文学碑をみつけたことをアップしたが、この場所、昔は港になっていた。江戸時代、橋がなかったときはここには富田の渡しもあり、また沿岸航路の大きな船もここに接岸していた。
上の写真で右の木の根元にある白い杭のようなものが文学碑である。前の川が新町川、その岸が昔の富田港であり富田の渡し跡である。川の下流に少し見えているのは小松島線の鉄橋である。この鉄橋ができたのが大正2年であり、それ以後はこの下を大型船が通行できなくなったため、少し下流の中州港が中型以上の船の発着場になり、これによって富田港の実質的な機能はなくなる。
この文学碑をもう一度よく見てみよう。一面に書いてあるのは文学者は『国木田独歩』の作品『波のあと』のゆかりの地を示している。もう一面は、ここが(江戸時代)富田の渡し、(明治~大正)富田港であったことを示している。
去年の夏ごろはモラエスさんの作品のゆかりの地をあっちゃこっちゃめぐってブログに書いた。そして去年の暮れ頃は賀川豊彦の『死線を越えて』のゆかりの地巡りをいくつかした。モラエスさんの作品についての徳島の各地巡りはほとんど飽和に近い状態になるくらいまでたくさん行ったが、『死線を越えて』ゆかりの徳島巡りはまだまだ行っていないところも多い。他にも林芙美子の文学碑が二軒屋にあるのは知っていて、ブログでも紹介したが具体的にどのようなかかわりがあったのかはまだ勉強していなくてブログには書いていない。
そして数日前に知った国木田独歩である。明治の文豪(生まれたのも明治、そして明治41年に亡くなっている)で高校の国文学史に出てくる名前である。作品は私がうんと若い時、「武蔵野」(短編)を読んだような気がするが、どんな内容かは忘れてしまった。まさか徳島にゆかりがあるとは知らなかった、さっそく読まねばと市立図書館の書庫をさがす。110年も昔に亡くなった明治の文豪なので単行本なんかはない。分厚い文学全集や明治文豪の叢書を探す。国木田独歩の小説は短編が多い、そのなかに『波のおと(音)』という作品があるが・・・文学碑に書いてある「波のあと」ではない。もしや文学碑を建てた係の人(観光協会か徳島ペンクラブの人か?)が一字「お」と「あ」を間違えたのだろうか。この作品(波の音)は短編も短編、わずか2ページなので、本棚の前で立って読み、この作品の中に徳島の地名がないか調べてみたが、徳島どころか他に地名を示す語句は全くなし。
図書の司書の人にお願いして調べてもらうと、「波のおと」という作品の他に「波のあと」という作品もあることがわかった。しかしここ市立図書館にはなく、県立図書館に蔵書があるとのこと。そこで今日、すこし遠いが県立図書館へこの本一冊を借りに行きました。行くときは210円払ってバス乗りましたが、帰りは節約と運動のため歩いて帰りました、一時間半かかりました。曇っていたが昼頃には3月中旬くらいの気温になり、歩くのにはちょうど良い状態でした。
これから国木田独歩の『波のあと』を読もうと思っています。次回のブログでこの作品と徳島のゆかりについて書ければいいなと思っています。
そうそう、これも徳島ゆかりの文学作品と少しは関係のある甘党のお店について、県立図書館の帰りにこの前を通ったのでブログに追加しておきます。モラエスはんや賀川豊彦はんの作品を読んでいると、金毘羅下(大道にある金毘羅神社)には徳島銘菓のお羊羹の店があるという記述が何度か繰り返し出てきます。モラエスはんはここでよくそのお羊羹をかって、あちらこちらに手土産に持っていたそうです。賀川はんの「死線を越えて」にも金毘羅境内で腰を掛け、羊羹を食ったという記述がある。
どうも金毘羅下には甘党の店が有名店も含めていくつかあったようである(モラエスさんの時代だから今から100年以上前、賀川さんもおなじころ)。そこで今日、帰り、金毘羅下を通ったので菓子屋をさがすと、目の前に大きなビルの菓子屋がある。でもこの菓子屋、モラエスさんや賀川はんの頃からやっていたのだろうか、とりあえず写真を撮る。高い位置で撮りたいため金毘羅の石段を少し上っていると、上から90歳くらいに見えるじいちゃんが石段をゆっくり降りてきた。
「お、古老だ、古老だ!」
昔のことを聞くにはこんなじいちゃんに限る、すみませんが、教えてくださいと、あいさつしてから、失礼ですがこの辺りの人ですか?と聞くと、そうだとのこと、それで、目の前に見えている菓子屋が百年以上前から続いているかどうか聞いてみる。すると、少なくともそれくらいから暖簾を出している老舗の菓子舗だとのことであった。モラエスさんが土産に買った羊羹も、死線を越えての主人公が食べた羊羹もこのお店のものだった可能性が高い。(作品には羊羹とあるだけで店の名前なんかは書いていない)
帰ってからこのブログを書きながらその菓子舗の写真をブログに張り付け、この店の縦長の看板をよく見ると、「創業、嘉永五年・・・」と書いてあるではないか。嘉永五年とはペリーが浦賀へやってきた一年前、今からなんと165年も前である。モラエスはんや賀川はんが住んでいた時からの菓子舗であることがわかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿