2019年5月31日金曜日

桜間の鎌倉時代の館はこのようなようすか?

20180703

 弘安八年の板碑があるあたりは鎌倉時代に作られたと思われるほかの石碑もいくつか存在する。まず加茂野の敷地神社の板碑

 敷地神社

 板碑は神社の社殿に鎮座しているので見られないがその説明板

 そして桜間の八幡神社の五輪の塔である。そしてこの南東100mのところにある小高い丘のような「祇園さん」にもかなり古い(鎌倉時代と推定される)板碑がある。

 八幡神社の鎌倉期といわれる五輪の塔

 神社から見た祇園さん(こんもり木々が生い茂った小高い丘)、右の方の山は鳥坂城のあった山

 祇園さんの板碑

 これだけ多くの鎌倉時代の石造物が存在するということはこの時代、このあたりにはかなり有力な豪族(地主)が住んでいたと思われる。徳島県の歴史の通史本を見るとこの時代、南に佐々木氏の本拠の鳥坂城がありその真北に桜間城があったと述べられている。鳥坂城のあった茶臼山の北方の桜間地域は平地にある。鎌倉時代の城と言ってもおそらくは防御能力を高めた豪族・武士の舘のようなものであっただろうと思われる。通史の本の地図ではこのような位置になっている。

 もっと北の方の飯尾川沿いという説もあるが、文献では桜間の舘あるいは城云々は10世紀ころから出てくるので時代とともに場所が変わったことも考えられる。鎌倉時代は今の飯尾川沿いの桜間神社より南であったと考えられる。おそらく八幡神社の北あたりではなかっただろうか。

 この辺りはまるで中世の武士の館を囲むような堀がこの地域(八幡神社の北)に存在する。

 これがそのまま中世の環濠に囲まれた武士の館に結び付くわけではないが、石井の南の山の谷あいから流れるでるいくつかの小川が、北を流れる飯尾川に合流するあたりがこの地域である。だから水田のために縦横な水路を作ったりするのに都合がよい地域である。またその水路をさらにひいて館の環濠を作った可能性が高い。

 鎌倉時代の武士の館想像図


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