モラエスさんは県内に永住してから県内のいくつかの場所に小旅行をしている。『徳島の盆踊り』(随想)を読むと、鳴門、小松島、石井への藤見、そして池田へ旅したことが書かれている。ブログでは以前に石井の藤見、鳴門への運河を使っての船旅について取り上げた。今日のブログでは県西の池田の旅を取り上げる。
時は大正四年である、この年モラエスさんは梅雨の晴れ間を縫ってなんと3回も県内を旅行している。6月9日は池田、6月12日は撫養・鳴門、7月8日は小松島である。その6月9日の日記、『昨日までの大雨が一段落して比較的さわやかで気持ち良い日だったので、池田へ出かけた。』と書いている。池田への旅行は前もって計画したものではなくかなり思い付きに近い小旅行のようである。前もって計画したものではなかっただろうが、池田には旅にはなにかいざなうものがあった。(断定的に書いているがこれは私の推測である)
一つはモラエスさんの心のうちにあった今は亡きおヨネとの徳島県西の旅の思い出である。明治34年(1901)6月、モラエスさんはおヨネと一緒に神戸から船便で高松を経由して金毘羅参りをしている。そのまま来た道を引き返さずにモラエスはおヨネのふるさと徳島(市)を訪問する。人力車か馬車で仏生山街道から塩江~県境の清水峠を越え脇町の猪尻まで出て、そこから吉野川を川下りで徳島市へ出る。脇町から徳島への人や物資の河川輸送は江戸時代から盛んで鉄道が開通するまでは吉野川の船便は県西への交通の大動脈であった。この季節、吉野川の水はみなぎり、下行する舟は速かった。夕刻には(朝、琴平を出発)徳島についている。
滴るような濃緑の風景の中、おヨネとの旅は楽しかった。特に脇町から徳島市への内陸の河川による船旅は右を見ても左を見ても阿讃山脈や四国山脈の山並みが格別美しい。また地峡になった地形もありそこでは奇岩が目を楽しませてくれた。瀬詰や川島・岩の鼻あたりである。(ちなみにこの明治34年は岩の鼻の対岸にある粟島にまだウチの先祖がいた頃である。)下は粟島の集落。
流れが速く、むき出しの岩が磯のように突出している岩の鼻に船がかかる頃、左岸の奇岩に間に鎮守の社が見えてきた(ここもウチの先祖の産土神である)、川岸からせり出すようにたっている鎮守の社はモラエスさんの注意をいたく引いた。おヨネに神社について聞いたんじゃないだろうか。揺れる船から見るとまるで神社そのものも浮いているように見える。
「オヨネシャァ~ン、アノ、ジンシャァハ、ナントイイマシュカァ~?」
「あれは八幡神社です、地元の人は浮島八幡宮と言っています」
「ナリュホド、ホントニ、ウイテルヨウニミエマァ~シュ」
「ここは川中島になっていて、吉野川の増水でたびたび村々は水浸しになるのです。だから石垣の上に建っている八幡さまが遊水時期にはちょうど浮島のように見えるんですわ、だから浮島八幡と名づけたんじゃないでしょうか。」
「ナリュホド、ワカリマシュ」
との会話があったかなかったか、これはすべてワイの推測です。でもこののち、正確には82年後、モラエスとおヨネの恋物語の映画がポルトガル作られる。題名は(邦題)『恋の浮島』、ネーミングはこの浮島八幡宮とは関係ないかもしれませんが、モラエスとおヨネの最も楽しい時期であったこの時、この神社のすぐそばを二人が流れ下り、おそらく二人で船から手を合わせて浮島八幡さまに祈願しただろうと思うと何か因縁めいたものを感じて、こんな会話もありなんじゃないかと、エピソードとして取り上げました。
二つ目は交通網の整備である。まず大正四年の徳島県内の鉄道網を見てみよう。
徳島平野と吉野川を平行に遡る徳島線は19世紀中から着工され、19世紀の終わる年には川田まで西進していた。その徳島線が最終地点・池田まで開通したのが大正3年3月25日とある。モラエスさんが池田の旅を思い立った大正4年のわずか一年前である。開通式が大々的に華々しく開かれた。煙火が打ち上げられ、軍楽隊がブカブカドンドン賑やかさを盛り上げ、富田町の芸者はんや舞妓はんが花を添えた。モラエスさんも開通式を見学して心が浮き立ったに違いない(モラエスはんは芸者はんが大好きで特別の思い入れがあった)。おヨネの思い出ののこる県西部へ行って見ようかしらん、と思っただろう。おヨネと下った、脇町からの思い出深い船便で吉野川を遡ることも思ったが、追慕に生きるモラエスさんとしては一人の船旅は悲しすぎる。それに19世紀末には脇町まで汽車が開通していたので、脇町までの船の定期旅客便も衰えるか廃絶になっていただろう。
こんな列車だったのだろう
列車も開通し県西の奥までゆけるようになった。それなら、池田行列車に乗って、ゆったりとシートにもたれかかり、車窓に広がる徳島平野、吉野川をぼんやり見ながら旅するのもいいなと、思った。おヨネの思い出が詰まった悲しすぎる船便よりもこちらがいい。むしろ甘い追慕にひたれるかもしれない。
そして決行したのが翌年、6月、昔おヨネと脇町から吉野川を下ったのとまさに同月!
モラエスさんの本文から
『線路は全線、吉野川つまり吉野の川に沿ってその右岸を走っている。汽車からは時々、蛇行してジグザグにくねるこの川の見事な姿が遠くに見える。風景はつねに緑色、つねに生き生きとし、村はつねににこやかである。両岸は草のビロードに覆われ、川面まで大体においてゆるやかに傾斜しているが、また時には岩だらけで、急な断崖に終わる場合もあり、川床には丸みを帯びた茶色っぽい花崗岩が半ば水にもぐって広がっている。はるか遠くには、山々の気まぐれな線が視界をさえぎっている。
川には小舟の往来がはげしいが、その多くはそこにたくさん生息している鱒(?)を釣っているのだ。畑では大麦の最後の残りを刈りいれ、かたわらの莚の上では麦粒を打って脱穀している。そして早くも田植えをしており、いかにも日本的なつねに興味深い光景が、むき出しの脚を膝まで水と泥の中に沈め、その美しい姿を写しながら働く女たちの労働の光景が目の前に展開される。』
モラエスさんは池田に着く。店をのぞいたり、ぶらついたりするが、池田の人の優しさに感動する。モラエスさんはこのように書いている。「私の推測が当たっているかどうかわからないが、人々の優しさは川の勢なのだ、海とは違って、淡水は人々の行動を穏やかにする。」と。そして大昔、泊まったことのある旅館で昼食をとり、その館主の年老いたことに感慨をおぼえる。
ところで、もう徳島では死語になったかもしれない県西部地方を表す言葉がある。それは『ソラ』という言葉である。吉野川中下流の人が吉野川上流地域県西の山岳部を表すのに『ソラ』という。明治中期の生まれだった私の祖父は(麻植郡在住)穴吹地方や貞光地方の親戚に行くのによく「ソラへいってくるわ」といっていたものである。子どもの頃、「ソラ」のほう、「ソラ」へ行く、とはよく聞いた。郷土の民俗学者の本を読むと麻植郡と美馬郡の境にある瀬詰から上流を「ソラ」というそうだ。しかし、この語も明治生まれの人が死に絶えるとともに死語になっていったようだ。今では全然聞かない。
モラエスさんが池田へ旅した100年前、明治生まれどころか、天保生まれの人もいた。当然。「ソラ」という言葉は普通に使われていた。
大正4年6月9日、モラエスさんの御近所の会話、
「あれ、今日、もらえすはん、おらんのとちゃうで、さんぽしよん見かけんかったでよ」
「ほらほうじゃよ、もらえすはん、きょうは、ソラのほうに蒸気(汽車)でいくっていよったでよ」
「ああ、ほうでか、わいもソラには、おばやんがおるんやけんど、えっとおおてないわ、去年蒸気が池田までのびたから、こんど、いってみるわ」
なぜ、ソラという言葉が生まれたか、方言とは言いながらなんか語源があるのかもしれない。もしかすると県西は高地が多く空に近いから「ソラ」かな、こんどまたオベンキョしてみよ。
もう6年も前にワイが「ソラの旅」という動画をアップしていた。モラエスさんの追慕ではないが、最後は陽気に、この動画を再び貼り付けて、春のソラへの旅で締めといたしましょう。
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