わが町の古い時代の地形に関心を持ったのはつい最近である。きっかけはわが町の中心地に墓地である。墓地は市街化されるにしたがって整理され(実際は移転してその場所は宅地になる)るのが一般的であろうが、なぜかこの墓地はいまだに町のど真ん中に位置してかなりの敷地を占めていている。この墓地、新しい墓もあるが相当古い墓もある、古い墓は苔むして、横倒しになっていたりする。盆が近付いても樒の花もないから無縁墓になっているのだろう。そんな無縁墓が墓地の半分の広さを占めている。お祀りする人もいなくなっているため雑草に覆われている。どれくらいの古さかと、墓石の年号を調べてみると明和年間の墓石がある。江戸中期である。これは相当古い墓と言わなければならない。というのも貴族や武士以外で墓に墓石が使われだしたのは江戸中期と言われるからである。
このような集団墓地はどのような場所に作られるかを考えてみると、徳島市の場合は眉山のふもとや谷筋に作られている。しかしこの辺りは平地である。平地に作るとしたら荒地、原野、河川の近くなどが考えられる。今は町の真ん中にある墓地だが昔はもっと違う風景だったに違いないと思い、この墓地の近くに住む古老に聞いてみた。するとここは大昔は寂しい土地で墓地の前に川が流れていたというのである。流される危険のある河川敷ではなかったにしても川に近い荒地、原野であったのである。今現在風景を見ると川も流れていないし、寂しい場所でもなく家が立ち並んでいる。
むかしのこの場所の状況を知るため古い時代のわが町の地図を探してみた。するとこのような河川が網の目のように流れている地形図が見つかった。これを見ると網の目のように見える河川の間にある微高地はまるで川中島のようになっている。この地形図は町史に入っていた挿絵であるので拡大しても解像度が低くて河川も川中島も分かりにくが、この古地図上で墓の場所を探してみる。
手掛かりになるのはこの古地図上にある鉄道と吉野川堤防の線である。(黄色と赤で示してある)、現代の地図でもこの線の形は同じであるから同縮尺にして比べてみる。
だいたい古地図のこの赤丸あたりが墓地である。
さらにわかりやすくするために川と川中島を色分けしてみた。下の図がそうである。この水色部分がすべて川というわけではない。低地であり氾濫時には川筋となっていたが、普段はずっと細い流れか、また干上がった河川床であった。しかしそれも埋め立てられ宅地となっていった。
この図の上に墓地の位置を重ねるとこの赤丸あたりである。川は上手(左)から流れている。今は墓の南側の道路になっているのが昔の川の流路である。そういえばこの道を少し行った銀行の四つ角辺りはとても地盤が低く、大雨でよく冠水する。このあたりから昔の協同病院の前の位置にかけては川幅が広がり、川というより池のようになっていて昔は「いじ川」とか「いじ渕」とか呼ばれていたそうだ。
この流れは今は道路になって旧協同病院のほうへ流れていく。現在の道路
旧協同病院前の道路、昔、いじ川(渕)のあったところ
今は市街地のど真ん中であるが昔は渕になっていた場所なので人通りも少なく、柳や竹藪が生い茂り不気味な場所であったそうだ。今、残っているものとては旧協同病院東の辻にある「庚申塚」だけである。
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