その2 イチゴパンツの本能寺
歴史が好きな人って結構多い。専門家でなく市井の趣味人だから、時代劇が好きとか歴史小説が好き、あるいは特定の過去の偉人例えば坂本竜馬が大好き、または昔の骨董的な物が好き、さらにはかたちには現れないが、昔の風習、習俗、文化が好きでも構わない、これらが好きな人も広い意味で歴史好きといってもよいだろう。
でも高校レベルの教養があるなら、まちっと深まりのある人もいる。まず、歴史上の出来事を生起順に覚えていること、そのためにはその歴史的な出来事がいついつに起こったか言うことができる必要がある。背景だの歴史的意味だのはその次で、出来事がいつ起こったか、その前後関係がどうなっているのか、知ることがまず第一である。具体的には歴史的出来事の年号を覚えるのである。そのため高校の歴史教科は単純でダサい暗記教科とちょっと馬鹿にされることがある。
またそれと同時に高校の歴史科くらいになると、有名な歴史文書を原文に近い形で利用し、読み取る場合もある(もちろん基礎的な史料であるが)、旧仮名遣い、古文、漢文で書かれているため、高校の日本史で史料講読をやっていると、「なんや古典や漢文の授業みたいやな」と思うことがある。でも大昔のことをワイらが知るには、遺物の考古的な研究か、昔書かれた文献を読んで知る以外ないから、高校でちょこっと齧る原文資料の購読は歴史を勉強する上でのもっとも重要な基礎となる。
そう考えると高校の歴史をまじめにオベンキョしていればちょっと思いがけないくらいの歴史的教養が身につくのであるが、さて自分をふりかえってどうでしょうか。もうみんな忘っせたわ、じゃないでしょうか。それでもなぜか断片的に覚えていたりして、ちょいちょいふっと口を突いて出てくる。
歴史的年号の記憶であるが、隣にいるおっさんでもおばはんでもいいから、きいてみなはれ、
「頼朝が鎌倉幕府を開いたのは?」
「ああそれ知っとる、イイクニツクロウ(いい国作ろう)鎌倉幕府じゃから、1192年じゃ」
と、これ、なぜかけっこうみんな知っている。でもそれ以外はほとんど思い出せないやろ。高校生で歴史科目を大学入試で取るばあい、このように語呂合わせで覚えていく。語呂合わせといっても、鎌倉幕府開設のように、いい国作ろう、と出来事と意味的に結びつく覚え方もあるが、まったく関係なく唐突な語呂合わせで覚える場合もある。この場合、歴史的な出来事と意味的な連想がないため記憶と結びつかないんじゃないかと思えるがそうでもない。
例えば私は、織田信長が謀反によって弑逆された本能寺に変を次のような語呂合わせで覚えている。
『イチゴパンツの本能寺、で、1582、イチ・ゴ・パン・ツー、』
私にとってこの語呂合わせは強烈なイメージがあり、本能寺と意味的な連想はないが、一度、覚えたら絶対忘れない強烈なものであった。イチゴパンツと本能寺は意味的には何の連想もない。もっとも私の頭の中では、紅蓮の炎の中、敵と切り結ぶ信長が刀を手に最後の死闘を続けていた時、不覚にも床の血のりですべって信長の股間のイチゴ模様のふんどしがチラリ・・・っつうイメージを勝手に作り上げたが・・・・・・このように歴史的出来事と意味的には関係ない語呂合わせで年号を覚えているのが大半を占めている。『鳴くよ鶯(794年)平安京』の平安遷都年も考えたら(少しは意味的連想があるかもしれないが)たいして関係のある連想ではない。
日本史を含めた東洋史を勉強していると歴史的事実の年代の前後関係を考えるのにこのように西暦で年号を覚えていることは基礎にはなるが、しかし日本史東洋史にはもっと重要な年代を覚えねばならない。それは元号である。私の去年の夏ごろのブログを読んでもらった方は、この頃、私が盛んに徳島の眉山山ろく周辺にある江戸時代の古い墓を見て歩いたことをご存じたと思いますが、この江戸時代の古い墓の新旧の年代を調べるとき、当然ながら、西暦なんか何の役にも立たない。新旧も含め徳島の墓の歴史を知るためには、元号とそれの前後関係、そして西暦との対応を覚えねばならない。
「え~~!そら、むつかしおまっせ!数字を語呂合わせで覚えるのと違い、元号はむつかしい漢字を覚え、そして元号は古くからたくさんあるから、その新旧の順序、そして西暦との対応などなど・・・西暦一本覚えるのと違い、その情報量は何倍にもなる、無理や!」
しかし人の脳とはおかしなもので、歴史的事件を三桁か四桁の数字で覚えるのと、漢字の元号二字と数字を組み合わせて覚えるのとどちらがむつかしいかというと、これはどちらともいえない。漢字は数字以上にあるイメージを焼き付けるのに好都合である。決して数字を覚えるのよりむつかしいものではない。
そんなわけで江戸時代の墓の新旧を見るため古い墓をめぐっているうちに江戸時代の年号と新旧の順序、西暦との対応は自然と全部覚えてしまった。そして江戸時代以前の元号も、今思い出すと、平安時代あたりの元号はちょっと怪しいが、大化から始まった元号はおおむね覚えてしまった。
それで一昨日の鳥居記念館の見学である。下のような展示物を見た。15世紀大陸の明朝の北方辺境あたりで出土した青銅の銃とある。説明はこのプレートのみ、これからどのような情報を読み取れることができるだろうか?
まず大変短いプレートの説明(と言えるほどのもんじゃない)から見てみよう。明代1444年とあるから絶対的な時代はわかる。そして中国遼寧省とある。これは出土場所である。聞き覚えがないかもしれないがワイら60代以上のものにはこの言葉、かなり聞き覚えがある。私が20代の時、満州から引き上げ時の混乱に、子供を連れて帰ることができず、置き去りにしたりあるいは現地の中国人に預けたりした残留孤児が親を求めて日本にやってきたのである。いわゆる『残留孤児』問題である。社会問題になり、もう中年になった残留孤児が涙ながらに、連日、親を求めてテレビに向かって訴えていたのを思い出す。置き去りにされたとき小さかったため親の名前も覚えておらず、その時、置き去りにされた場所の多くが、遼寧省○○付近と言っていた。それでこの遼寧省という言葉には聞き覚えがあるのである。当然、満州である。
次に「銘 正統玖年」とあるのはどういうものか?まず銘というのはこの青銅に鋳造するときに鋳型に掘られた文字の事、重要な情報は次の 正統玖年、である。スラっと意味が分かる人はかなり歴史に詳しい人、手掛かりは「年」である。年とくるからその前はふつう漢数字だろう、そこまで考えれば思いつく、九という漢数字は「玖」にも置き換えられるということを、そうするとこれは九年。そうすると前の漢字二文字は(日本史東洋史では当たり前だ)元号ということになる。つまり正統九年、である。そこでもう一つの情報をよみがえらせる。それは中学生の歴史でも習った事実、中国では明代から一世一元制になったということこれは皇帝の一代は一元号であるということ(日本は明治天皇以降そうなった)。だからこの正統は元号であると同時に明の皇帝の呼称ともなる、つまり明の正統帝の時代となる。
ではこの西暦1444年は日本ではどんな時代やろ?私の頭の中では、元号に関連して覚えた語呂合わせをすぐ思い出した。当時の日本の歴史的大事件に際して 作られた落首の基づく、語呂合わせの元号暗記である。次の落首
『田舎にも京にも御所の絶え果てて 公方にことを嘉吉元年』
これは室町将軍足利義教が臣下によって殺された事件の落首である。公方が殺され将軍位が空位になったことを元号にかけて嘉吉(欠きつ)元年としている。この元号の語呂合わせで同時に覚えた(ごく自然に)のが西暦1441、嘉吉元年である。つまりこの青銅銃の銘の時代、1444年の当時、日本は足利義教が弑逆された3年後、おそらく大混乱の影響がまだあとを引いていたころである。
このころから将軍位をめぐる駆け引きから有力守護大名どうしが中央政界で勢力争いをはじめ、そろそろ戦国時代へと移っていく時期である。ご存知のように戦国時代は応仁の乱勃発をもってそのはじめとするがこれも語呂で覚えた、「人の世むなし、1467年」これも厳密にはあまり意味とは関係ない語呂であろう。
ち、ち、ち、ちょっと待てよ!日本のこの時代と上の写真で見た青銅銃が同じということは・・・、当時の大陸における武器の先進性はすごいことになる?そこでまた頭に日本に銃が伝わった濫觴を語呂の年号で思い浮かべると。「日暦(ヒゴヨミ)めくる銃伝来」で1543年じゃ、なんとなんと、上記の明代の青銅銃は日本伝来より100年も早いではないか。この時代、日本にはまだ銃はない。すると銃を手にしている大陸の勢力のほうが武力では上になるのだろうか?もし15世紀に、あの元弘の蒙古襲来のように大陸が銃をもって日本に進行していたら、わが日本はぶっ潰されていたんかなぁ。
だがこの時代、明朝はいわゆる「北虜南倭」の侵略に苦しむ。北虜とは北方民族のモンゴル、女真だが南倭はその字からもわかるように日本の海賊たちである。(この時代は南倭の初期に当たり日本人が多かった)、なんや、明朝はこんな最新兵器である銃を持っていてもそんなに強うなかったんやな。これは内向きの明朝の意志か、それとも銃をもってしてもモンゴル、女真、倭(日本)が強くて侵略を防げなかったのか。通史を読むとどうも両方であるようだ。
そのように考えながら上の写真にある銃をよく観察する。ん?この銃の呼称に注意が向く、この銃は「青銅銃」とある。1543年種子島に伝わった銃は日本の戦術に革命的大変化をもたらすが、この「種子島銃」は鉄(錬鉄で強度が強い)製である。大砲なら青銅砲が主だが、今まで種子島銃で青銅製なんか見たことあるか?記憶をたどる、あっちこっちの博物館で種子島銃を見たがどれも鉄製である。青銅製なんか見たことない。この種子島銃はもたらされると今まで日本に蓄積されていた日本刀の技術を応用し、転向した刀鍛冶が鉄砲鍛冶となって銃を量産し始める。古今無双の切れ味のある日本刀と同じ鉄で作られるのであるから、強度は強く、錬鉄を鍛造、熱処理、冷水による締め、など行いさらに二重に銃身を巻いて作るから銃身は発射と同時に破裂することはまずない。
しかし、青銅は鋳造である。鋳造で銃身を作るのは、鍛造を繰り返し練度を上げる鉄と違い、簡単だがもろいのである。大砲のような砲身が分厚いものならば発射薬の圧力にも持ちこたえるであろうが、銃のような細身な銃身では発射薬の爆発に耐えれないことがある。だから日本に渡来した銃に青銅製などはまずないのである。しかし、15世紀の明朝の銃は青銅製である。この意味するものは。
発射薬の爆発力が弱かった以外には考えられない。誰が、もしかしたら(数回に一回くらいは)銃身が発射と同時に爆発するような銃を携帯するだろうか。それを防ぐには発射薬をセーブして入れるか、込める弾を銃身の直径に対し緩く作っておいて発射の圧力を弱めるかだろう。しかしそうすると飛び出す弾の威力はぐっと落ちる。種子島銃は100~最大300mに達する殺傷力があるが、このような威力の弱い青銅銃ならうんと至近距離でしか殺傷能力はないであろう。それに銃床や銃座もないためどうやって固定し狙いを定めたのだろうと不思議だ。そして発射装置も引き金もない。考えられるのは銃身を片手で持ち、銃口の反対側を体に密着させて固定し、もう一方の手で小さな松明のようなものか、焼け火箸のようなものをもって銃身の横に空いた火口に押し付け炸薬を爆破させたのだろう。威力も弱ければ、発射の手順も複雑で、連射なんかはまず無理。
これでは新兵器と言いながらお粗末すぎて、あの元弘時の蒙古軍が使用した「てつはう」と同じで、せいぜい騎馬武者の乗る馬を驚かして落馬させるか、至近距離でのスカンクの最後っ屁のように一発ぶちかまし、目くらましに使うくらいだろう。恐れるに足らず、という兵器である。
実はこの青銅銃と日本は戦いで遭遇したことがあるのである。秀吉の朝鮮の役(文禄、慶長)で朝鮮・明連合軍がこの青銅銃を使用したが、日本の持つ錬鉄製の種子島銃とは雲泥の差で、銃撃戦に関する限り、日本の圧勝だったのである。(なんや大陸のほうは100年たっても進歩してなかったんやな、)
とまあ、この青銅銃をみてこのようにお勉強しました。どうもお粗末さまでした。
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