2019年5月30日木曜日

モラエスさんがいた時代、時の鐘

20180316

 江戸時代から明治に切り替わったとき旧来の暦や時刻は西洋のシステムに合わせるため変更された(明治五年に制度変更)しかし旧暦は非公式になったが民間ではなかなか廃らなかったのは私のブログでもたびたび取りあげた。なんせ私が小学校低学年頃までは私の家では正月は旧正月を主に祝ったのだから。それに比べると時刻はわりとすんなりと受け入れられ明治の初めころには午前午後の12時制が定着した。庶民も、もはや暮れ六つだの、九つ、だのといわなくなった。庶民レベルで旧暦は昭和30年代まで頑固に残ったのに比べると、なぜ時刻はそんなに素早く受け入れられたのか不思議な気もする。

 しかし考えると不思議でもなんでもない。時刻に対する利便性が旧来の不定時法より午前午後12時制の方がずっとすぐれていたからである。実のところ、もう江戸時代から旧来の不定時法は社会に合わなくなっていたのである。江戸時代も中期を過ぎると商業や産業の発達で取引が盛んになり、大坂では先物取引の先駆的な制度も発足する。資本主義の初期状況が生まれるなか、取引の成立や手形決済や契約書の効力発行には日付だけでなく、時刻を切る必要も生まれてくるのは必然である。それなのに江戸時代の時制は2時間を大まかに一時(いっとき)ととらえ、それより細かい時刻は、半時とか四半時(30分)である。それより小さい表現は表のしようがなかった。おまけに夜昼の長さをそれぞれに六等分しているから季節によって時間の長さが違ってくる。一時(いっとき)の長さが夏と冬ではずいぶん違うのである。

 のんびりした江戸中期まではそれでもよかったかも知れないが、後期になると先にも言ったように商業、産業活動、そして交通運輸さらには庶民の旅行の発達は、旧来の不定時法表記では物足らなくなっていたのである。このような事情があったればこそ、明治5年に新システムが採用されると時刻表記はあっという間に西洋方式一辺倒になるのである。しかしこのシステムを受け入れる為には重要な要素があった。それは分刻みの時刻を庶民も認識する必要があったのである。そのためには西洋式の機械時計が庶民レベルで普及しなければならない。

 明治の初めの頃の輸入品リストを見ると意外に多かったのが西洋式の機械時計(ボンボン時計)である。アメリカ製の比較的安価なボンボン時計(鍵穴のような形をした振り子時計でボンボンと時報を打つ、これは昭和まで家の柱にかけられていた)が多く輸入され庶民レベルで広がっていった。最初は輸入によって供給されたこのボンボン時計、日本の中の機械産業の中ではいち早く国内生産が発達した。不定時法の季節による時間の長短などを組み入れた複雑な和時計を作っていた日本の職人は単純な定時法のボンボン時計など作るのは易かったに違いない。明治中期には国内の需要は国産で賄えるようになり日露戦争以後はアジアの掛け時計市場を席巻するまでになるのである。

 このように西洋システムによる分刻みの時刻を認識し活用するようになった庶民ではあったが、今ほどは時刻の正確さに神経質ではなかったようである。しかし特に列車など利用する場合は分刻みの正確な時刻を時計によって認識する必要があったと思うが、この時代の庶民が駅へ行って列車を利用するとき、今の人のように分どころか秒単位で寸刻を争うことなどない。だいたいかなりな時間の余裕をもって駅へ出かけたから、時刻認識の10分や20分の違いで列車が利用できない状況には陥らなかったのである。

 モラエスさんが徳島へ来る前の神戸において庶民の家にかけてある各ボンボン時計の指し示す時刻の違いについてこのように書いている。

 『たとえば元町(徳島市内より都会だ)を気晴らしにぶらついていて、誰に対してもいっぱいに店の戸を開けている商店の時計の時刻を見ると、一時から十二時までの、二本の針が指示し得る限りのあらゆる長短針の組み合わせを見出すことになる。』

 ちょっとこれはモラエスさんの極端な言い分であり、せいぜい半時間か最大一時間(これもほとんどそこまではあり得ない)くらいの違いであったろう。なぜなら、壊れて止まってしまわない限り、幾ら性能が悪いといっても一日一時間も違いが生じることはないだろうし、神戸では正午と午前6時に正確な時報として大砲の号砲がなって各家の掛け時計を正確になおす作業が行われ、これを行う限り時刻の違いが累積することはないからである。

 モラエスさんが神戸から徳島に移ったのが大正二年であるが、徳島では時報時刻の知らせ方が神戸と違っていることに興味を覚えて次のように書いている。

 『ところで徳島の町では事情はまるで異なる。金毘羅神社、大滝山、諏訪神社に、響きのよい青銅の大鐘で昼夜時刻を知らせる人がいるのだ。町のどこにいてもそれらの鐘のうち一つは聞こえるといってよい。このようにして時計を持っている人は容易に時刻を合わせることができる。時計のない人にも不都合はない。』

 時制のシステムは違っても、時の鐘で時刻を知らせるのは江戸時代と同じ手法が使われている。 この頃(大正三年)、時刻を知らせた鐘が、今も諏訪神社にあるので見に行って写真に撮ってきました。説明板を読むとかなり遠くまで鐘の音が響いていたことがわかります。この時の鐘はもちろん午前午後の12時制、この音を聞いて当時の徳島市街の人は時刻を知ったんですね。モラエスさんの話によれば金毘羅神社、大滝山、諏訪神社の三か所が時の鐘を告げていたとあります。三か所だけで市内全域(旧市内)をカバーできるのかとかんがえますが、この諏訪さんのかねが三里四方に聞こえたといいますから、騒音の少ない当時は三か所で十分時を告げる機能は果たしたんですね。

 諏訪神社の鐘楼、かなり高いところにあり、遠くまで音を響かせるには都合がよかった。

 青銅の鐘、説明では県下最古唯一となっている。

 鐘楼にかかっている説明版


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