この人の訃報を思いがけずも聞いたとき思い出したのはワイの20代最後の年まで住んでいたところ。それにしても享年63とは。この間、ワイとほとんど歳の変わらぬ大杉漣さんの訃報を聞いて驚いたというのに今度は西城秀樹だ。私は特にこの人のファンでもないし、ましてやこの人のレコードやカセットなども持っていない。しかし20代の最後の年はこのアイドルを最も身近に感じた時であった。なぜか?
まずこのころワイが住んでいた場所をググルの立体マップで検索するとこんなところである。どうです?トンでもない山奥でしょ。この山の中腹に懸垂するように20戸ばかりの部落があるがここがワイが住んでいた猿飼である。急斜面の土地ばかりであり、盛り土しなければ水平のところなどどこにもない。当然地滑り地帯であり、地下水を抜いて表土がずれるのを防ぐため地滑り防止の深井戸が部落の中心に掘られていた。
こんなすごい山奥だが当時は、10歳未満の子が4人、10代の子が5人、20代の青年がワイも含めて4人いた。時代も時代であるから、スマホはないし、コンビニもない、お店は一軒もないから、週に二回ほど巡回商店がトラックにのってやってくる、その広報の主題歌が「♪~ユッホォ~、ちゃっちゃっちゃっちゃらららん~♪」ピンクレディのUFOであった。そんなところだから、娯楽が少ない。明るいうちはまだよい、学校へ行ったり、仕事があったりで、することがある。でも夕暮れすぎると若い人向きのモダンな遊びなどはしたくてもできない。犬だと寂しさに耐えかねて夜空に向かってウォウォウォ~~ン、と吠えたくもなる。しかし理性のある人間である。ここは静かな山奥の夜という条件を生かして、哲学的瞑想にふけるなり、自分の学問や趣味に打ち込めばよいのだろうが、俗物たるワイにはできない。
そんな中、楽しみはテレビ、この時期は全部落のテレビがほぼカラー化したので、ついこの間まで白黒だったテレビが色がついて華やかになり、見る楽しみが一層深まった。若い子の関心は今でもそうであろうが歌である。歌手が歌うだけでなく、お尻フリフリ、体クネクネ、大胆に踊りだしたのもこの時代からである。だからこの時代までは歌手といえば歌は玄人で上手だったが、このころから歌よりも踊りや振り付けなど見た目が重視されだしたので、歌ははっきり言ってへたくそな歌手も現れた。
猿飼集落の若い衆のトレンディーな歌番組でもっとも人気のあったのは『ザベストテン』であった。タマネギおばさんこと黒柳徹子と久米宏が司会で各週ごとの最も人気のある歌のベストテンを発表し、その歌手が出演し歌うものであった。演歌は除かれていた。i-PadもスマホもCDもDVDもない時代である。猿飼集落の唯一のトレンディな歌情報の発信がこの「ザベストテン」だったから、狭い集落での影響力は圧倒的だった。歌うだけでなくテレビで披露した歌手の一挙手一投足、真似て踊ったりした。その集大成が年の終わりに開かれた分校兼地域集会所での集落全戸参加の年忘れ演芸会に表れた。若い人は二組に分かれ、歌と振り付けを披露した。私の入ったグループは田原俊彦の『恋=DO』、そして相方のもう一方の若いグループが今日訃報を聞いた西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』であった。どちらも歌の上手下手より、どれだけ大胆な振り付けで踊れるかということに熱中したように思う。私のグループではトシちゃん役で歌って踊るのは猿飼一のイケメンの13歳の子がやり、トシちゃんの横でお面をかぶって踊る女の子は嫌がる10歳の男の子を説得しスカートをはいてやってもらった。私は若いとはいえギリギリの20代であるので、踊りも歌も免除してもらって伴奏(エレクトーン)を担当した。客観的に見て相方の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が好評だった。何せこちらのほうが観客をも巻き込んでの全員参加型の踊りであるので熱気が勝っていた。
その熱気を分けてもらった西城秀樹さんの若すぎる死に接し、過ぎし大昔のことを今回ブログにしました。
古き良き時代の昔話である。
七年前に剣山に行ったときに久しぶりにこの猿飼集落の近くを通りました、その時の動画を貼っておきます。遠景ですが猿飼集落が見えます。
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