2019年5月29日水曜日

モラエスさん眉山を遊歩中に火葬場をみる

20170827

 モラエスさんはよく潮音寺にあるおヨネコハルの墓参りをした。体調がよくない時をのぞいてほとんど日課になっていた。潮音寺の墓石群は眉山のすぐ際まで続いている。そこから細道が眉山の中腹をまわって続いていたので、ある日、墓参りの後、彼はその細道を歩く。

 彼が歩いた細道は今はなく、市民のジョギングコースとなっている遊歩道に代わっている。その途中にあった説明板によると。


 この道は初めは寺社参詣の細道として作られたが、大正六年に整備された道になった。大正八年には参詣の道にあった石仏など集め、この道を八十八ヵ寺の本尊巡りの道にした。整備された道と言っても車道ではない。モラエスさんが歩いた道は大正時代にできたこの新道である。モラエスさんの随想にはこのように書かれている。

 「・・・細道を踏み分けて、真っ直ぐ、山道をよじ登る。しばらくすると、一、二年前、その山の斜面を切り開いて作った、ほとんど平地と変わらない、長く続いている広い道に出る。」

 と書いてあるところから、潮音寺の墓参りの後、眉山へ続く細道をよじ登るように登り、大正時代に作られた、新道に出たことがわかる。道は当時はできたばかりで片側の眉山側は作られた時の削った跡がまだ生々しいが、一方の側は眺望が広がっていたことがわかる。(今はどちらも木々が繁茂しすぎて、眺望を妨げている)、さらに次のように書いている。

 「・・・道はさっきいたように、山の斜面を切り開いたものだ。だから片側は大体、樹木の鬘を被った赤土の崖にえぐりとられて、眺望を断ち切っている。他の側には、透き通った青空の下に、広々した展望が広がっている。・・・麓の方は、黒ずんだ木材の小さな家並みが大きくかたまっていて、平板で、単調な、市の展望。それに続いて田畑や塩田、その向こうが、日本の大川の一つ、吉野川の灰色の線、岸辺の渺茫とした輪郭、さては海・・・」

 当時はビルもなく、ほとんどが一二階建の木造家屋で、市街地を囲むように田畑が広がっていた。また、斎田浦(今の昭和町)や山城あたりに当時は塩田があったことがわかる。

 神武天皇像前から眉山病院を経て、眉山スカイラインまでつづく今の道は、アスファルトで舗装され、広がっているが、大正時代の道と大部分で重なっている。今も市民の遊歩道として多くの人が歩いている。この遊歩道には八十八ヵ寺の石仏が祀られていてごくたまにウォーキングやジョギングする人に交じって手を合わせ拝んでいる人もいる。

 このような石仏である。


 モラエスさんも歩きながらおそらく同じような石仏をみた。随想にはこうある。

 「ふと、道ばたに並んでいる偶像、いろいろな仏陀や神々の姿を、古風で幼稚な形式で荒々しく岩に刻み込んだ小さい偶像に、思いがけなく出会って、それらの像に瞳を投げかける。わかりきったことであるが、私が今歩いているこの道は、特に春の季節には、散歩に快適なばかりでなく、道ばたの断崖のくぼんだ祠に安置した仏神像を、参詣して回る巡礼にも好適の場所である。それらの祠の前には、小さい木の箱を置いてあって、信者が投げ入れる喜捨(一握りの米)をその中に受け入れる。」

 今はそれらの石仏をお参りする人より、ウォーキングやジョギングする人(ほとんどジジババ)が圧倒的に多いが当時はちがった。

 「おもに、信心深い老婆たちがしょっちゅう参詣する。その時、大勢が群れになって巡礼し、どの婆さんもお供えの米を入れた小さい袋を持っていて、お経を口ずさむ。」

 そんな光景を見ながらモラエスさんはゆっくり歩いていく。やがて道の両側が坂になっていると気づいたとき、ちょうどある小さな峰の頂上付近に立っていた。さて、その場所である?(その場所の眺望から今はない火葬場を見下ろしたのであるが・・・) 随想にはもちろん地図の説明もないし、100年もたった今、具体的な場所はなかなか特定しがたいが、前後の描写から見て、私はこのあたりじゃないかと推理しところがここである。(山の大まかな形は100年たってもそう変わらないだろうという前提で)

 今の眉山病院の右か左にある小高い頂きの二つのうちどちらか(二つの矢印で指示している)


 彼はそろそろ引き返そうと思っていた時ではあったが、そこに立った時、そこの眺望の素晴らしさに立ちすくんでしまう。目をとめた場所を彼は次のように記述している。

 「一方の坂が(市外へ引き返すのと反対の坂)曲がりくねって降りていく狭くて深い峡谷様の場所である。しかし切れ込んだ谷ではなく、下はU字形の曲線が交互に重なって結びついて、いろいろな形の蛇状にのびた窪地になっていた。」

 自然にできた段々畑様の地形が取り囲んだ窪地を思い浮かべるがどうだろうか。彼は感動を込めて描いている。

 「その光景を目にしたときの驚嘆こそは、全く、なんともいいようのないものだった。のどかで、比類がない静寂な雰囲気に浸っている楽園の、ほんの小さい一部といったところを発見した気であった。初めて目にした者の胸に、すぐ牧歌が浮かんでくる光景であった。穢れた人間から離れ、羨望し嫉視しあう人間から離れて、深さ幾メートルもある曲がりくねった美しい側壁に沿って下っている、あそこのあの窪地の一隅に住んでみたい・・・。」

 ところがそこに彼は思いがけないものを発見する。

 「ふと見ると、その一隅の崖に面したところに、稲田に囲まれた小さい家が一つ、というより、一つにかたまっている小さな家の群れがあった。むろん、そこに住んでいる人は何と幸せなんだろう!・・・。夫、妻、多くの子ども、次々に想像してみる。田畑を耕すだけで、ほとんど他に比較するもののない静寂さ。どちらを見ても、親しい者たちの同じ顔、そういったすべてのものが、あの家族の孤独な生活を慰めている純朴さ、市や町のように、大勢が集まっているところには見られない純朴さに恵まれているに違いない・・・。」

 「ところが、ほぼ、その小さな家の真ん中に、ぬっと、煙突がつっ立っていて、それが赤レンガで作ってあって、その先端に鉄輪がのっているのを見たとき、あっと叫んで、あっけにとられた。」

 それは徳島の火葬場だったのである。火葬場とわかったときのモラエスさんの随想についてはまた別のブログで取り上げようと思います。

 100年前モラエスさんが見たであろう場所から眺めると(厳密にいうと当時眺めた小さな頂より少し離れているが)、今はこのようになっている。

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