2019年5月31日金曜日

暴れ者の四国三郎はやりたい放題

20180630

 男衾三郎絵詞に出てくる鎌倉武士はずいぶん乱暴ものが多いようで、わが館の前を見知らぬものが(旅人、中世の遊芸人など)通りかかろうものなら、お、ちょうどよい、犬追物ができるわ、と獲物に見立て矢を射かけたり、つかまえてぶん殴ったりします。武士が四書五経などに影響され倫理的になったのは江戸時代になってから。その江戸時代でも

 「切り取り強盗は武士の習い」

 とか言って時々先祖がえりして無法をはたらく武士もいましたから、もともと武士は暴力を専門職にした輩であったことは江戸時代の武士もわかってはいました。

 男衾三郎絵詞に出てくる乱暴者の武士、左下の武士は修験者のような旅人をひっ捕まえてぶん殴ろうとしているところ。その上の武士は今まさに矢を射掛けんとするところ、狙うのはなんと市女笠の女性、おぶけた女性は逃げようとするが履物が片方ぬげてしまっている。お遊びなのは「蟇目」の矢であることからわかる。殺傷力はないがそれでも当たれば痛いし、内出血くらいするだろう。その横の武士は旅人の男を捕まえて、笠をバリバリに破いている。これも面白半分のようだ。武士はおもっしょいかもしれんがやられる方はたまったものではない。

 その鎌倉時代、この阿波にもそんな暴れ者の武士がいたんだろうな。って推測だが、いや、推測ではなく確実な暴れ者が鎌倉時代のこのオイラの故郷にいました。その名を男衾三郎ならぬ

 『四国三郎』

 こいつをとめるものは誰もありません。もうやりたい放題、中世のわが町を我が物顔にのし歩きます。その道筋が下の地図、青いところがそうである。これも大雨だの台風だので水量が増えれば勝手に道筋を変えます。そのたびに家や田や畑、人をも押し流してしまいます。かなうものは誰もありません。

 一昨日、隣町の石井へ鎌倉時代の石碑を見に行ってきましたが、四国三郎はこの石井町にも踏み込んでやりたい放題を遂げます。左から流れ込んだ(江川と書いてあるが前のブログでも言ったようにこの江川が吉野川の本流であった)流れは「高原」の微高地(丘陵)にぶち当たり南へと折れます、どっか低いところを求めて蛇のようにのたうち四国山地の山麓を東へ向かいますが今度は「高川原」の丘陵にぶち当たりまた北へと流れを変えます。
 水量の多くなったときは一面を流れ、このあたりを島が点在するような地形に変えてしまいます。高原や国実その他の村は湖に浮かぶ島のようになっていますね。一昨日みた文永の板碑はこの国実の左隅にありました。

 四国三郎の正体、もうお分かりですね。徳島平野を流れる「吉野川」のことです。今は治水ができてこのような暴れ者ではなくなりましたが中世ではもうやりたい放題の暴れ者でした。そのためか(?)まるで暴れ者の鎌倉武士のような名前をこの川につけました。人よんで「四国三郎」。(ちなみに同じような暴れ川、利根川と筑後川にはそれぞれ坂東太郎、筑紫次郎とつけ、世の人は暴れもの三兄弟と呼んだのでした)

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