2019年5月30日木曜日

最近読んだ本から 小林一茶集より

20171103

 モラエスさんの本を読むと大正時代の庶民(特に彼はワイの住む徳島の庶民の生活を描いている)の世相や生活がよくわかったが、一茶のこの本を読むと文化文政の頃の田舎の生活がよくわかる。モラエスさんの描いた世相・生活は約100年前、一茶はんが描いた世相・生活は約200年前。実は庶民の生活において百年前も二百年前もそう違いはない。それどころかなんとワイのちんまい時、約60年以上前だが、その時と比べても庶民の生活はほとんど変わっていない。

 ワイのもっとも古い部分の生活記憶は・・・、まず生活で一番大事な給水であるが、これが何とつるべ井戸、祖母がくみ上げ、水桶で釜屋(台所)まで運び、そこにある大きな大谷焼の甕に蓄え、そこから柄杓で炊事の水を汲んで使っていた。洗濯は直接くみ上げた井戸水で、井戸端で盥に洗濯板を置いて手洗い。
 炊飯や煮炊きは、竈(くど)。煙突などない、薪ざっぽうが燃料である。火吹き竹で煙にむせながら火を焚きつける。その竈(くど)に釜や鍋をかけ、飯米、お菜を作る。主食は麦が入った米飯、味噌汁以外のお菜は畑で採れる季節の野菜、たまに行商から買う干物の魚・・・もちろん洗濯機もなければ冷蔵庫もない。電気利用と言えば、電灯、3球ラヂヲ、だけ、この当時は電力は定量契約なので、アイロンもおおっぴらには使えなかった(こそっと使っていたが)。そうなのである!生活の基本は、200年前一茶はんの暮らした文化文政時代とほとんど変わらぬのである。このような生活はワイのちんまい頃までずっと継続していたのである。

 昭和30年頃までの田舎の生活は文化文政期とかなり多くの部分で共通しているのである。だから、文化文政期の田舎の生活を基盤に生み出された一茶はんの作品はオイラにはよく理解できるものとなる。昭和30年の生活を体験したおいらが200年も離れた文化文政期の生活体験がわかるのに対し、むしろ現代の若者が昭和30年の田舎の生活を実感する方が不可能になっている。(60年しか離れていないのに)

 しかし、幾らなんでも幕藩体制下の田舎暮らしと、60年以上昔とはいえ、戦後の新憲法下の昭和30年と比べると、衣食住の生活は大して違わないだろうが、文化、社会に対する意識、特に上下関係の身分の認識、規範(法)に対する意識、国際関係を含めたさまざまな情報、など大いに違うのではないか。と思うが、この一茶の作品を読むと、少なくとも昭和30年と変わらぬ現代的な社会を見るのである。一例をあげよう。

 この作品中の一茶の雑文に『頑ななる老婆』というのがでてくる。

 上総の国というから今の千葉県、その百首の郷、今の千葉県君津のあたりである。この場所が重要である。このあたりは江戸湾に入る湾口に当たり、対岸の三浦半島と最も狭い部分である(浦賀水道)。その海岸の見えるあたりでわずかばかりの畑を耕し、麻を紡績して(麻糸を作る)生活の糧にしていた一人暮らしの老婆がいた。

 この文化年間、日本の沿岸には異国船(欧米)が近づき通商を求めたり、薪水を求めたりする事案が頻繁に発生していた。幕府はこれら異国船が江戸湾に侵入するのを防ぐため、江戸湾口の重要部分に海防の施設を作るのを計画した。その計画地に先の老婆の畑と敷地が入っていたのである。

 ここまで読めば、この時代は江戸時代、強圧的な幕府や藩の政治体制法体系下、独り暮らしの老婆のわずかの畑や屋敷地など、海防のためといえば、「召し上げ」の命令だけで済むはずだ。よくて替え地を与え、少し色をつけて金銭をつけるくらいだろうと思う。

 しかし、奉行人はかなり手厚い補償を申し出た。一人暮らしの老婆に江戸に出た息子が一人いることを聞き、江戸で髪結いをしていたその息子を呼び戻し、地元で髪結いを開ける免許を与え、一緒に暮らせるように計らい、替え地に家を建てて提供することばかりではなく、老婆に対し終身、一日に米一升(二人扶持)の手当(今だと終身年金か)を与えるという内容である。

 ところが老婆は頑なに拒否する。先祖代々、ここに住んでいる。ここは自分にとって何にも代えがたい土地である。たとい黄金千万積まれようとも、絶対立ち退くことはできない。もし命を絶たれるようなことがあっても他へは行かないと、手すり足すり、泣かぬばかりに訴えた。

 さて奉行人はどうしたか。この時代は強権的な幕藩体制であろうとの先入観を持つ現代人から見れば、強制収容で決着、と思われるだろうが、そうはならなかった。結局、奉行人はその計画から老婆の土地のある部分を外し、海防の施設を老婆の土地をよけて作ったのである。なんと!空港や基地を作るため農民の土地を無理やり強制収容した昭和の政府より、江戸時代の「お上」の方がずっと庶民の方に近いではないか。

 一茶は、この老婆は、まったくしぶといくらい頑なでバカものである、と一応は批判的であるが、最後に、とはいえ丹精込めた田畑土地を(そのような用途に)こき捨てられて、悲しむのも理解できる、と書いて、下の一句で結んでいる。

 青稲や 薙ぎ倒されて 花の咲く

 江戸時代であるが、「お上」は、公共のための土地収用であると言いながら、強制はせず、十分説得し、十分の保証も申し出、拒む老婆を説きふせようと努力している、そして結局は同意はされず、あきらめて計画を変更している。ほとんど現代と変わらぬ、いやそれ以上の丁寧な手続きが行われているのである。江戸時代の意外な先進性を見るのである。
 

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