先日のブログで紹介した「波のあと」の小説、借りてきて読んだ。短編なのであっという間に読めると思っていたが、なんとこの小説の文体は口語体でなく文語体である。作品が出版されたのは明治35年とあり、このころには国木田独歩はすでに文語体の文章から口語体に切り替えた作品を多く書いているが、この「波のあと」は明治27~29年くらいに書いたと推定されるのでこのころにはまだ文語体の小説を書いていたと思われる。
こんな文体である。
『眉山は街のかなたに黑く、同じ暁の風氣に加えて殊に冬の季節なれば、蕭索として目をよろこばしむるもの一もなく、只だ淡路島より大阪越しの山脈のほうにかけて寒雲の異形をなして堆く・・・』
わずか数ページの短編であったが、すらすらと読めたわけではない。現代ではほとんどお目にかからないような漢字熟語が出てきており、それも旧字体、漢和辞典を何度か引きながら読まなければならない。副詞も漢字が多用されている。でもまあなんとか読むことができた。
主人公は40歳の阿摂航路(阿波~徳島の定期航路)那賀川丸の船長である。海外航路の船長であった時もあり、その時は希望もあり、仕事に生きがいも感じ、面白かったが、初老の歳(当時は人生50年、40歳は初老の入り口であった)を迎え、家庭を大阪に持った今、決まりきった定期航路の船長となり、冒険も血沸き肉躍るような楽しいこともない平凡な人生を送っている。
定期便の那賀川丸は午後十時に徳島を発し、翌早朝大阪に着く。大阪発は逆に午後十時発、徳島へは早朝着く。この定期的な往復をする限り、夜を明かすのはいつも船の上ということになるが、それでは休息も取れないからたまに一泊二日で大阪あるいは徳島の陸上で(しかし大阪に家庭があることを思うと大阪のほうの休息日が多いだろう)休息して泊まることがある。
この小説では徳島で一泊二日の休息し、夜徳島を発って深夜紀淡海峡にかかるまでを描いている。一言でこの小説を要約すれば、主人公である船長が、知り合いの女性の自殺ほう助する話である。徳島で滞在している一泊二日の間に、徳島の名士に嫁いだが離別され不幸に暮らす女性から船の投身自殺をするので船に乗せてほしいと懇願される。女性が強く望むのは、死んだあと自分の骸がこの世から誰にも知られず消えることであった(それで深夜、はるか沖合での投身自殺を希望するのである)。船長はどうするか迷い苦しむが、その懇願を受け船に乗せる。実はこの女性、未婚の時、船長がひそかに思いをよせていた女性であったということが行間から読み取れる。もちろん説得し翻意させようとすることも考えるが、結局、彼女の意思を尊重する方を選ぶ。深夜、紀淡海峡に差し掛かる船の舳先に現れた彼女に対し、「心おきなくゆかれよ」と声をかけ、飛び込む水音を消すため、同時に船の汽笛を鳴らす。
この船の発着した港が(明治の28,9年ころ)、今の富田橋の東あたり。そこの場所に国木田独歩の「波のあと」の文学碑が立っているのである。
古い写真をさがすと、このころの発船場と阿摂航路の船があったので張り付けておきます。船は300トンくらいの大きさです。この小説のころの港と船の様子がこれによってしのばれます。富田橋近くの港であるため眉山がまじかに見えている。
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