2019年5月31日金曜日

わが町の中世の信仰

20180708

 八百万の神がいて、その上、仏教の仏様、それに付属する神様もいらっしゃり、それぞれに信仰がある日本である。その状況は中世日本でも変わらない。いやむしろ神さまの数はもっと多かったかもしれない。一人の人があの神もこの神も、また仏さまも信仰するという日本人の宗教は中世から変わっていない。多神教はどんな神仏も共存だがその時代に優勢な神、流行りの仏というものはあった。特に有力者、中でも皇室や大貴族に信仰されれば莫大な寄進が集まり、神社、寺も大きくなり、その神仏の信仰も抜きんでたものになってくる。

 麻植保の保司だった平康頼が信仰した神様に熊野大権現がある。昔の麻植保の奥、山際にある熊野神社はその康頼が勧請した神社と言われている。熊野の信仰は院政時代に興隆を極め、京都から熊野まで上皇、女院、貴族がひきも切らず参詣に訪れたといわれている。後白河法皇などは34回も参詣している。中世の時代、京都~熊野の距離を考えたらこれはすごい宗教的情熱と言わなければならない。

 平氏政権になっても熊野信仰は衰えることなく、清盛はじめ平氏一門も深く信仰した。平治の乱の時、清盛が熊野参詣に旅立っていて京都を留守にしていたのは有名な話である。都の中下級貴族であった平康頼が熊野大権現を信仰していたのもこの時代のいわばトレンドであった。

 康頼神社よりさらに山際、玉林寺に近い谷筋に熊野神社はある。今はひっそりした小さな神社である。


 境内の隅に経塚があるとのことである。この時代、経を筒に納め土中に埋め塚を築くのが流行ったといわれる。雑草の生い茂る境内を歩いてみた。これのことだろうか?


 上の熊野神社より北東に1.5kmほど行ったところに國一八幡宮と仙光寺がある。今はこの仙光寺は民家と間違うような小さなお寺だがここには中世から伝えられた文書が存在する。この文書には、この寺(中世の)は修験の寺であり、さらに熊野三社と大峰への代参、祈祷を旨としていると述べられている。文書は南北朝時代のものであるが、鎌倉初期に熊野神社が麻植保の奥に勧請され、南北朝時代になってもなお熊野信仰が盛んであり、代参や祈祷もここで引き受けていることがわかる。

 今の仙光寺

 当時の寺、祈禱所などが今残っているわけではないが、國一八幡宮と仙光寺は小河川の流れる平地から丘を少し上がったところにある。おそらくその上がったところ國一八幡の境内あたりがその跡地ではないだろうか。そんな雰囲気を感じさせる所である。



 中世の熊野信仰の様子を一遍上人絵伝から見てみよう。

 熊野信仰は三社の参拝ばかりではない。大峰山から熊野にかけて続く山々、熊野川、森林、路傍の小社、石仏、すべて熊野信仰の対象である。

 大峰山から熊野の山々をめぐる参拝の人々


 熊野川を下る人々


 熊野本宮に参拝する一遍

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