モラエスさんは若い時から海外の暮らしがほとんどであったが60歳近くなるまで海軍士官を務め、日本に来てからは外交官の仕事をして、老後の蓄えは充分あった。(彼の死後でも、当時の金で3万円ほど残っていた、今の金に換算すると5000万円くらいやろか)そのモラエスさん、徳島で見つけたのは伊賀町の二階建ての棟長屋、コハルの名義で借りた(おそらくポルトガル国籍を持つモラエスさんでは手続き上不都合だったのだろう) コハルもモラエスの世話をするためそこに住んだから、まるっきりの名義貸しというものでもない。
60歳のモラエスさんと、若いコハル(20歳)と、住み込みの女中奉公であるが、広いお屋敷ではあるまいし、棟割長屋の一画、そこに同居とは・・・。これ、いわゆる妾奉公じゃないのだろうか。モラエスさんは60歳、今日でいえばおそらく70歳くらいのイメージだろう。その年齢で実際に男女の関係はあったかなかったかはわからないが、夜の奉公も含めた女中奉公は『妾奉公』と呼ばれても仕方あるまい。コハルは数年後、未婚の母となる(子どもは分娩後すぐ亡くなる)。この嬰児をモラエスはコハルが幼馴染の男と遊んだ結果だと信じていたが、コハルの母のユキは、金髪で青い目の子、だったと暗にモラエスの子だと公言している。(新生児ですぐ死んだこともあってモラエスは対面していない) そうゆう事情をみると、コハルの母をはじめ世間は、モラエスとコハルの実際の仲はともかくも、コハルは『妾奉公』に上がっていたと認識していた。
すぐ亡くなったが、この嬰児、本当のところ、モラエスさんの子だったのだろうか。私としては妾奉公と一般に認識されていたのならモラエスさんの子であっても納得だが、当人のモラエスさんは信じていない。実際にかなり無理のある年の差カップルだが、もし肉体関係があるとしたら、(別の男の子を産むのは)大変な背信行為になるし、単純に老後の面倒を見てもらうためだけの住み込み女中だったとしても、若い男と遊んだ挙句の出産ならやはり、裏切りとなる。女中のこのような不始末はいわゆる『お家の御法度』として、叩き出されたであろうが、モラエスはそうしていない。
彼はコハルもその一家も見放さない。それは、まったく孤独な異郷徳島で、おヨネにつながるコハルやその一家と断絶してしまうことへの恐れか、それとも裏切られてもピチピチした20歳のコハルの魅力の虜になっていたのか。それともまた別の理由か、
それはモラエスがコハルについて書いた文から読み解かざるを得ないが、私にはそれを読み解く力はない。彼はこのようにコハルを描いている。
「コハル、富田地区ではちょっと知られた人物だった。彼女はそこで生まれ、育ち、遊び、たわむれた。最後にはきっと恋もしたであろう。それは、私の家で下女として働くために神戸いた三年間は別として、23年間・・・というのも、彼女のおてんばな暮らしはそれっきりだったから・・・のことだ。たったの23年!コハルという名はよくもつけたものだ。現れたかと思うとたちまち去っていくはかない仮の春を想わせる。
コハルは健康を売っているかと思われるような、背の高い、小麦色の、陽気な、生き生きとしたむすめであった。美人とはいえなかった。それとはほど遠くすらあった。だが、ほっそりした横顔、おてんばらしいきびきびした動作・・・彼女は主として戸外で育ったのだ・・・。率直な柔和なまなざし、真っ白な二列の歯並びを見せて口元に絶えず浮かべる微笑、かっこうのよい手足に魅力があった。それに彼女のような貧しい階級の大部分の女に比べれば、聡明であった。自然の美しい事物を前にして好奇心の強い、研究心のある、感じやすい、芸術的なすぐれた気質に恵まれていた。また、夢見るような詩情がその不穏な脳の奥底にかもし出されていた。」
これはコハルがわずか23歳で肺結核で亡くなった後の、彼女の追想としてかいたものである。・・・富田地区ではちょいと知られたおてんば娘だった・・・(短い人生だったが)・・・きっと恋もしたに違いない・・・(しかしあっという間に逝ってしまった)・・・まるでその名が示すような(冬に向かってのつかの間の)小春(日和)のように・・・、そして美人ではないが若い彼女の素晴らしかった特質をいくつもあげている。
これを読むと、40歳もの歳の差のあるコハルに対し、モラエスは、まるで娘や孫に対するような愛情しか私には感じられないがどうだろう?
老人モラエスからみたら、若さと健康の権化のようなコハルは梅雨の頃、急に発病する、そして入院後わずか2ヶ月で逝ってしまう。毎日のように病院に見舞いに行って何くれとなく世話をしていたモラエスの悲しみは深い。先に32歳のおヨネの死を見送り、今また23歳のコハルをみとった。どちらも2ヶ月あまりの闘病である。
(つづく)
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