今日は沖の洲の方へ自転車で走った。江戸時代の地図を見ると沖の洲は確かにその名前のように沖の方の洲がようやく陸化(もちろん人力によって土砂の移入や堆積が行われたのだろう)したものであることがわかる。
次の鳥瞰図はモラエスさんが亡くなった頃のものである。この頃になると私が知っている沖の洲である。私が30歳の時はこの鳥瞰図のように沖の洲の海水浴場があり、泳いだことを覚えている。その後、この海水浴場は廃止され、その沖を埋め立て工業団地(東沖の洲)を作ったので、この鳥瞰図の沖の洲の地形は大きく変わり、東に陸がのびた。
このあたりは砂洲の埋立地だから、海抜は高くて数メートル、1m以下のところも多い。もし、東日本大震災級の地震が紀伊水道で起これば、このあたりは津波で大変なことになる。沖の洲のいたるところにこのような掲示板がある。
江戸末期の安政元年に地震による津波がありこのあたりが被害を蒙った。その時の遺跡が沖の洲の蛭子神社にある。お百度石の裏面にその時の地震や津波に対する後世の人への教訓が書いてある。読めなかったが大意の説明がある。この教訓は今日でも生きている。
沖の洲の海水浴場の砂浜はほとんど消滅してしまったが、北沖の洲に、海浜公園として少しその砂浜が残っている。
その海浜公園の東屋でくつろぎながら汗の引くのを待つ。海風が心地よく、涼しい。
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