私の子どものとき(もう60年も前になるか)、幹線道路をのぞいて田舎道のほとんどは舗装されていなかった。その道路端、特に辻などに、石の地蔵さんをよく見かけたものである。ところがほとんどの世帯が車を持つようになり、未舗装の田舎道は舗装と同時に広げられ、直進化が進んだ。そのため地蔵は移転されたり、ひどい場合には取捨てられたりした。そのため近年、田舎でも石の地蔵さんの数が減っている。
道路端、辻にあった多くの地蔵さんは、もとは何か由来があって(供養や願い)作られたものであっであろう。しかし神社や寺のような正式な宗教施設ではないため、宗教法人のような保護も受けないし、その所属(その本体や敷地)も明らかでない場合が多かった。信者と言っても地元の一部の人々、特に近年は年寄りがほとんどである。道路建設や改修する場合、よくて移転、悪くすれば取捨て、車社会の到来の利便さにあえて強い反対はなかった。
移転された地蔵さんは、今でも人々の信仰を集めているが、本来の位置から移り、地縁を断ち切られてしまうと、なぜかその由来さえもがだんだんに薄れていく。古老に(ワイも古老じゃが、由来を知る年寄りという意味)
「あそこにある、地蔵さん、どんないわれがあるんですか?」
と聞いても
「さ~なぁ、わしも、よ~知らんのじゃ」
という答えが返ってくる。
私がちんまい時、住んでいたウチの一番近くにあった「おっぞうさん」(地蔵の訛り)、今はどないなっとんやろ、と探していってみた。昔からかなり立派な(高くて大きい)石像の地蔵だったが・・・。ちんまい頃、「まんまいさん、あん」(祈祷の幼児語か、こういった)と言って拝んでいた地蔵は今も辻に残っていた。ちんまい頃の思い出だから確かではないが、位置は変わらないとして、おっぞうさんの向きが違う気がする。90度左に回っているんじゃないか。それに昔しゃぁ、むき出しのおっぞうさんだったが、いまは立派なお堂の中に納まっている。時がゆくと石像などは石ゴケのような地衣類でシミのようなものが広がるが、きれいに保たれていて、花や千羽鶴が供えられている。赤い頭巾とよだれかけも真新しい。移転もしていなかったし、鞘堂ができたりして立派になっている。地元に信者やこのような文化財を大切にする人がいて守ってくれていたのだ。
この地蔵さんに祈願する人は、千羽鶴やお供え物などを見てもわかるが多いと思う。どんな願いかは人それぞれだろうが、そもそもこのおっぞうさんはどんな由来で、あるいはどんな人がどんな願いを込めて作ったのだろう。たまたまおっぞうさんの前を、腰が曲がり杖を突いたいかにもこれぞ古老というようなばあちゃんが通りかかったので、聞いてみた、思った通り、この近所の人だった。
「さぁなぁ~、うっちゃも毎日お参りしよるけんど、だれが作ったか、なんでつくったかやは、しらんでよ。うっちゃが嫁に来た時からあったもんでなぁ、しらんなぁ~」
許可をもらうようにおっぞうさんに手を合わせ何枚か撮影した。石の台座に享和三年の文字が見える。
享和三年とは西暦1803年である。今から214年も前である。ここからは私の推理であるが、前年の享和二年は全国的に風水害が多発し、多くの人的物的な損害が出た年である。日本史の年表にも取り上げられている。大昔、このあたりは吉野川の沖積平野で、洪水大水の害があったと聞く。子供も含め多くの人の命がそれによって奪われただろう。享和二年の大水害でどんだけの命が失われたかはわからないが、その供養のため地蔵が作られたとしたら、この享和三年という台座の年号は納得がいく。
次の地蔵さんは、わが町の飯尾川の上流にある。この地蔵さんはいわれがわかっている。もちろん人から人へ伝わる間に大きく変質したかもしれないが。
両側の土手の上は道である。左に地蔵堂が見えている。河川はヨシが覆い尽くしているが、後方の山の谷から流れ出している。
地蔵堂
いわれ
江戸時代、この川を挟んで西と東の庄屋がいたが、互いの確執から、西の庄屋が東の庄屋を藩に讒訴した。そのため東の庄屋の家族は小さな子供も含めすべて打ち首になったそうである。その供養のためこの地蔵が作られたそうである。
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