百年前に亡くなった徳島の女、コハル、モラエスさんが彼女について書いた随想がなければ全く忘れ去られていたであろう。子を二人産むも、二人とも嬰児のうちに亡くなり、自らも23歳で病没する。しかし、彼女は、モラエスの随想の中に忘れ去られずに確かに存在した証を残している。それがなければだれが百年も前に死んだ下層階級の娘のことなど知ろうか。弔う子孫もなく、墓もやがて苔むして無縁となり、風化して土に返り、その墓の存在さえなくなる。
死んでも親しかった人には記憶は残り、時々思い出され、また供養や墓参りもされるかもしれないが、去る者、日々に疎しで、記憶も薄れ、ごくまれに思い出されても面影もかすかなものとなる。百年もたてば知った人も死に絶え、亡き人の面影も無となる。
モラエスさんとかかわりを持ったため、コハルは冥福という意味では幸せかもしれない。モラエスの書いた名文によってコハルは活き活きと蘇る。潮音寺にあるコハルとモラエスの墓は香華を手向ける人が絶えない。
コハルについて書いたモラエスの随想より
『(コハルは)富田地区ではちょっと知られた人物だった。彼女はそこで生まれ、育ち、遊び、たわむれた、最後にはきっと恋もしたであろう。しかし、彼女のお転婆な暮らしは23年きりだった。たった23年!コハルという名はよくもつけたものだ。現れたかと思うとたちまち去ってゆくはかない仮の春を思わせる・・・
コハルは健康を売っているかと思わせるような、背の高い、小麦色の、陽気な、生き生きとした娘であった。美人とはいえなかった。それとは程遠くさえあった。だがほっそりした横顔、お転婆らしいきびきびした動作、彼女は主として戸外で育ったのだ、率直な柔和なまなざし、真っ白な二列の歯並びを見せて口元に絶えず浮かべる微笑、格好の良い手足に魅力があった。それに、彼女のような貧しい階級の大部分の女に比べれば、聡明であった。自然の美しい事物を前にして好奇心の強い、研究心のある、感じやすい、芸術的なすぐれた気質に恵まれていた。また、夢見るような詩情がその火のように熱い脳みその中にかもしだされていた・・・。』
ウチの仏壇の古い位牌の中に、紅蓮妙香信女という戒名を付けられた私の大叔母(祖父の妹)がいる。コハルと違わない時代、やはりわずか22歳という年齢で病死している。(私が生まれるはるか前に亡くなっている)大叔母について、小学校の時に切れ切れに祖父から聞いた話し(その記憶もほとんどが消えてしまっているが、)を思い出すと、結婚もせず、もちろん子もなく、たぶんコハルと同じ肺結核でなくなったようだ。祖父の話では、運動、特に走るのが早かったらしく、聡明で活発だったそうだ。徳島市内へ稼ぎに行っていて、おそらく(祖母の話だが)コハルと同じような仕事をしていた。(女中か仲居か)
モラエスの随想のコハルを読んで、はるか昔に祖父母から聞いた、22歳で病死したこの大叔母を思い出した。私の小学校の頃には仏壇に縞の着物を着た大叔母の写真が飾ってあったが、その後、どうなったか見ていない。それらのほんのかすかな手がかりからその面影を探ろうとしたが、祖父母もとっくになくなり、手掛かりは全くない。ただ、本名と戒名と、二三の又聞きの話があるのみである。
でも走るのが人一倍はやかったらしく、活発で聡明だった大叔母にモラエスさんの描いたコハルを重ねて思い浮かべるのである。
私が今こうして思い浮かべねば永遠に消えていくであろう大叔母、今、その鎮魂の為に当時の写真をブログにのせてみた。
徳島駅
新町橋
紺屋町
東新町アーケード
大滝山
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