2019年5月29日水曜日

百年前の徳島市内から鳴門までの交通・モラエスの随想より

20170709

 今だと徳島市から鳴門市内へ行くならば車、列車、バス、どれも30分以内で到着することが出来る。100年前、のわが徳島に列車はあったが、自動車、バス(乗合自動車といわれたが)などの車は一般的ではなかった。当時の庶民は遠距離へ出かけるときは列車か船、さもなくば江戸時代と変わらずひたすら歩くのである。

 ところが、今は直通している鉄道の徳島~鳴門間の路線は当時は開通していなかった。そもそも、わが徳島の大河である吉野川に鉄路の橋梁自体が架かっていなかった(仮設のあやふや橋はあったが、水害には危険で通行止めになり、鉄道など通しようもなかった)。南岸のある徳島市から北岸の板野郡(当時は川内、松茂の板野郡)に行くには渡し船か仮設のあやふや橋を使わなければならなかった。鉄道については大正四年(1915年)は徳島~池田間が開通して一年目であった。しかし北岸の板野郡の鉄路はまだ工事中で今の旧吉野川橋の北詰(四国女子大のあたり)にある古川が起点の駅を作り。、そこから吉成~池谷~撫養(鳴門)へのばしていた。開通は一年後の予定である。吉野川を跨いで鉄橋が架設され徳島線と結ばれるのはまだまだ先の予定(昭和10年)である。だからたとえ一年後に古川~撫養(鳴門)間が開通しても徳島市からは、その古川(四国女子大あたりの川岸)駅までは横断渡船かあやふや橋で渡らねばならなかった。

 そんなわけでモラエスさんが撫養(鳴門)へ出かけた大正四年に鳴門へ直接行くには鉄道は利用できなかった。鳴門へ行くには市内の中心部の新町川の岸から出る鳴門行の船に乗らなければならなかった。当時の鳴門行の船の様子はどうであったのか、モラエスさんの随想を見てみよう。

 『船は潮水や淡水の運河がひどく入りくんでいる網の目に沿って進んでいく。乗った船は小さい石油発動機船で、幾つもの窓がついている細長い船室内で、乗客が畳に座ったり、横になったりしてくつろげるようになっている。船室はひどく低くなっている。(これは、水路の場所によっては川底が浅いため、また水路に架かる橋が低いためこのようになっている) そのため乗客が満員の時は身をこわばらせなければならない。私が乗ったときも満員であった(約40人)、そして撫養(鳴門)まで3時間もかかったので、耐えられないほど不快だった』

 と書いている。モラエスさんは日本人と違い大男である。さぞ窮屈だっただろう。そのため彼は狭い船室を出て屋根の上に登った。外気にも当たり、あたりの景色も見渡すことが出来てよかったが、橋が近づくたびに屋根から下へ下りねばならなかった。

 景色についてはモラエスさんはこのように書いている。

 『景色は面白くて珍しかったが、しまいには飽き飽きしてきた。運河また運河で、細い小路のようなに狭い運河もあれば大きい川のような運河もあった。泥沼がいっぱいで水が濁っていた。両岸は葦で覆われて青々としていて、そこここにあばら家が立っている蛇のようにうねった川べりが、やっと見えるだけであった。粗末な橋が次から次に、しょっちゅう現れてくる。はるか遠くの方に、靄に包まれた山並みの長い輪郭が浮かんでいる。』

 今は当然、徳島市の新町川から鳴門の撫養までの船の航路ない。当時通ったであろう水路も今はないかもしれないと思っていた。しかし現在、ひょうたん島クルーズで出来島から県庁前を通って新町川へ帰る観光船が就航しているが、その船長さんの言うところに寄れば今でも行こうと思えば船で(小型船だが)行けるそうである。途中、何か所か、水門があり、その開閉を見計らって行かねばならぬとのことだが、ともかく行けるそうである、実際に、数年前に何回か、昔の撫養航路の跡をたどる、という企画があって新町川から撫養港まで行ったそうだ。

 私も100年前にモラエスさんが通った航路を行って見たいが、船もないから、たどるとすればその水路沿いに走っている道をたどるしかない。しかし、調べてみると、モラエスさんのご指摘のようにその水路は曲がりくねり、あっちの水系、こっちの水系と、違う水路に入らねばならないし、かなり狭い水路もある。その水路に沿ってもちろん一本道などあろうはずもなく、かなり複雑な道をとらねばならないし、水路に沿っていない道を迂回せねばならない。

 そこで、現実にその水路に沿って行くのはあきらめて、バーチャルな現代旅をネット上ですることにした。ググルマップとそのストリトビュを利用した。(つまりネットのググルマップを使い仮想の散策をした、写真はすべてググルビューから)
 
 モラエスさんのここから乗った船については、昔の徳島を描いた飯原一夫さんの撫養行定期船の図がある。こんな感じの船だったのだろう。


 まず出発地は新町川のたもと、地図で言うとここ


 出発地から第一関門までは新町川出来島川と川幅はかなり広くスイスイ行ったであろう。さて、この川から吉野川に出るところ、第一関門と書いたが、ここに水門がある。しかし防潮のためのものであり、開けば小型の船は通ることが出来る、下の写真が第一関門である。停泊している船も水門を通って吉野川に出られる。トンネルのようになっていて吉野川堤防をくぐると吉野川に出る。

 
 吉野川を横切って次の水路に入らなければならない。ここに第二関門がある。そこを通ると水路は狭いが、小型船が通れないことはない。かなり蛇行した水路である。そこを抜けると第三関門を通って「今切川」に入る。

 下が地図

 第二関門

 第三関門

 今切川はかなり広い川なので航行しやすい。しかしそのまま河口まで下らず途中、第四関門でまた狭い水路に入る。

 第四関門

 そして水路上もっとも狭い第五水門に入る。下が第五関門

 第五関門を過ぎると「旧吉野川」に入り、川幅は広く、そのまま下って、撫養川に難なく入っていける。


 旧吉野川から撫養川に入ったあたり、川幅は広い


0 件のコメント: