モラエスさんの旧跡をたどっているが、ここはモラエスさんと親交のあった尼さんが100年ほど前に住んでいた慈雲庵があったところである。
徳島でのモラエスさんは愛するヨネの墓守じゃないかと思ってしまうくらい毎日のように墓参りをしていた。また彼の書いたものを読むと死者を弔う徳島の伝統的な仏教に大変ひかれているのがわかる。しかしモラエスさんは異人さんである。ここ徳島で檀那寺があるわけでもない。ヨネと一緒の墓に入りたいという願いもヨネの親族から拒否されている。毎日のようにヨネの墓をお参りしてもその墓のある寺から檀家として認められたわけでもない。
彼が自分の死後、家にある仏壇(ヨネとコハルの位牌を祀ってある)を託したのは、徳島の寺町にある立派な寺の正式な僧侶ではなく、徳島の南のはずれの山中にある小さな庵に住んでいる尼さんであった。彼はこの尼さんに出会った時のことをこう書いている。
『ここ徳島で、私は祥月命日が20日である貧しい家を時どき訪れる。その日には町からおよそ7Kmもある村の僧坊から尼僧がやってくる。そしてわずかの銅貨と引き換えに経をあげる。彼女は81歳で、なお脚は達者であるが、すでに相当耄碌しているところから、お勤めをしている彼女を見たり聞いたりするたびに、その老尼は興味深い心打たれる光景を見せてくれる。ゆったりとした僧衣をまとい、「ぶつだん」の前に跪き、震える指のあいだに数珠をはさみ、歯の抜けた口を半ば開いて、経をあげる。ときどきだしぬけに笑い声を立てる。心付けと一緒にまもなく自分に出される茶と菓子のことを考えると、その前からもううれしくてうれしくてじっとしていられないからだとしか、ほかに理由はみあたらない。・・・・・・あわれな老尼、私には彼女が、何年も前の自分自身の死の記念日を祝っているように思われる』
100年前の徳島、人々も貧しかったが、また小さな庵を守る尼もまた貧しかった。ただ今と違い庶民は貧しくても死者の祥月命日(毎月一回はある)には仏壇の前で僧侶を呼んで読経してもらうくらい信仰心は厚かった。わずかのお布施(数十銭、銅貨にして数枚)だが、毎日のようにどこかであるであろう各家の祥月命日に回れば、有力な檀家を持たない貧しい尼でもなんとか食いつなげたのであろう。
その尼さんは高齢であったが弟子もいた。モラエスさんはその尼に(死後は弟子の尼に)、おヨネ、コハルの祥月命日に自分の家に来てもらって経をあげてもらえないか頼んだ。尼はこころよく引き受け、毎月何回か経を上げにやってくる。以後、彼の死まで、いや、死後の供養までそれは続くのである。
現在、ここは地蔵院東海寺となっている。今は尼寺ではない。
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