2019年5月29日水曜日

100年前の徳島・モラエスさんがいた頃はワイもいた頃?

20170719

 ちょうど百年前といえば大正六年(1917)、モラエスさんが徳島で住みついて4年目である。当時の街中にある建造物で残っているものはほとんどない。空襲の荒廃、その後の都市化、などで当時の街の風景は大きく変化した。

 しかしさすがに眉山の形は変わっていない。モラエスさんが当時ポルトガルに送った絵葉書がある。勢見山の金毘羅神社にある展望所から見た眉山がある。この展望所は今もあるから、ここからの展望は今でもできる。前々回のブログで取り上げた。そこでモラエスさんが送った絵葉書とほぼ同じところで撮った私の写真を並べてみる。左が百年前の風景、右が先日私が撮った風景。手前の木が大きく生い茂っているがそれをのぞくと、眉山山麓に発達した伊賀町、大道の町の様子などは大変よく似ているのがわかる。

 このモラエスさんが送った絵葉書にある徳島の風景でまったく今と変わっていないものも発見した。徳島城大手門遺跡である。ここだけはまるで時が百年間止まったように変わっていない。ほぼすべてが変化した中にあってこのように全くと言って変わらないものがあるのはうれしい。

 この大手門から入って城山に登ると山頂広場の南西隅に弓櫓の跡がある。

 モラエス著の『おヨネとコハル』のなかのコハルの臨終の時に、正午のドン(当時、正確な時刻合わせの為に正午かっきりに城山の山頂から大砲の空砲が鳴らされた)が鳴り響く、永遠の別れとなる空砲の音を、彼は随想の中で悲しい別れの弔砲として描いている。その大砲があった台座が弓櫓の中に見えている。近寄ってみると丸いコンクリの台座、埋め込まれた鉄の固定金具などが見えている。砲身は佐古方面に向いていたそうで、空砲はかなり大きな音で市内全域に鳴り響き、人々は当時あまり正確でなかった家々の時計類の時刻を合わせたそうである。

 今は祇園祭の最中である。モラエスさんは夏祭りが好きで市内の各神社の夏祭りを随想で紹介している。当時も今も楽しみなのは、参道に店を出している露天商の見て歩きである。夜店のそぞろ歩きなどに夏の夜の情緒があると感じるのはモラエスさんも同じである。当時の夜店の灯りは、「アセチィリン灯」である。今、こんなのを知ってる人は少ない。ワイがコンマイ時は夜店の照明ではまだ使ってた。水を加えて発生させたアセチィリンガスの炎で照明を取るのだが、輝く様な炎は白熱灯に負けないくらいの明るさがあり、また独特の匂いがありこれが夜店の情緒を引き立てた。

 夜に入っても蒸し暑い夜祭のそぞろ歩きに大人も子供も含めてよく売れたのはやはり冷たい飲み物、モラエスさんが住みついた少し前くらいから徳島でも機械製氷の工場ができ、何貫目もある透明の四角柱氷が四季を問わず出回るようになった。その氷で冷やすためガラス瓶に入った冷たい飲み物も登場して売れ始めた。当時は各所にあった零細な店でほとんど手作りに近いような瓶詰飲み物である。それはラムネ?それもあるが、ここ徳島ではラムネ以上に人気だったのは、(零細家内工業で作るからラムネより安い)、「ニッキ水」、「みかん水」である。 ガラス瓶などは薄くて質も悪くどれも不揃いで中に気泡が入っていた。口も金属冠でなく木のコルクなどであった。

 これもワイのガキの時分までは近所の駄菓子屋にあった。確かどれも一本5円じゃ。もう60年もの昔やわ、そう考えるとワイのガキの頃は、今よりモラエスさんのいた大正時代に近いんじゃなぁ。

 さいごにモラエスさんがポルトガルに出した絵葉書を一枚。徳島のボニ踊りである。このボニ踊りの伝統をひくものとして、現代の阿波踊りはあるが、おいらにいわせりゃ、全く別物、たった百年で、こんなにボニ踊りが変化するもんなんか!今の阿波踊りはジェンジェン見とうないが、モラエスさんのいた頃のボニ踊りは見てみたい。ここで、またゆうが、このようなボニ踊りは60年前のワイのコンマイ時、近所で踊りよった踊りとおんなじじゃ。ああ、ここでも、ワイのコンマイ時はモラエスさんのおったときに近いんじゃ。


 

0 件のコメント: