2019年5月29日水曜日

モラエスさんのいた頃・徳島も京都みたいやったんやなぁ

20170720

 今、京都観光の人的な資源でピカ一(いち)のものは何か?と問うと伝統工芸の職人さんをあげる人もいるが、これは別に京都だけではなく、各地にも伝統工芸の職人さんはいる。この徳島でも、祭礼の提灯、神輿、仏壇、藍玉から染める藍染、阿波しじら・・・など、いま思いつくだけでもこんだけある。

 今となっては徳島では絶滅して、逆立ちしても京都にはかなわん人的観光資源は何かと問うと、それは芸妓はん、舞妓はん、である。しかし、大昔にはこの徳島にも芸妓はん、舞妓はんはいた。名称は京都と同じではないかもしれないが内容は一緒、要するに芸妓はんは、お座敷で余興(踊り、歌、邦楽)を提供し、酒席を取り持ち、座のサービスをする人である。舞妓はんはその芸妓の見習い。

 京都では今でもお茶屋、料亭が数多く今でも残っているのに対し、ここ徳島ではそのようなものはなくなった。芸妓、舞妓はんがおらんようになるのも当たり前である。

 徳島で最後まで生きた芸妓はんと言われたお鯉さんも5年ほど前に亡くなった、この時、百歳は優に超えていたので、時代を勘定すると、お鯉さんが芸妓として活躍したのは、モラエスさんのおった大正時代である。お鯉さんの昔話を聞くと、この時代はお茶屋、料亭が徳島にもたくさんあり、芸妓や舞妓はんを置いている置き屋もたくさんあったそうである。

 ここ徳島でモラエスさんがお茶屋遊びをし、芸妓、舞妓はんについて随想を書いていたら面白っしょいのにとおもって彼の書いたものをいろいろ調べてみたが、ここ徳島でお茶屋や、芸妓、舞妓さんについて書いたものはない。そりゃそうだろう、彼はここ徳島で隠遁生活を送り、ほとんどおヨネやコハルの墓守のような地味な生活をしたのである。思うところがあって、徳島に終の棲家を見つけて暮らし始めたのである。そんな遊びをするはずはなかろう。

 しかし、彼はお茶屋での芸妓、舞妓さんとの遊びを知らないわけではない。彼は神戸でポルトガル総領事の職に就いていた。一流の外交官である。公私の付き合いで、かなりそういうところに出入りして遊んでいた。彼の随想を見ると神戸の舞子の浜にある万亀楼いう料亭についての描写がある。京阪神のあっちこっちのお茶屋、料亭、妓楼に出入りしていた。

 でもここ徳島ではそんなところへの出入りは一切なし、彼は死んだときに預金が今の金で一億以上あった。「人生、太く短く、楽しんで暮らそ」とかいってお茶屋で大石内蔵助のようにどんちゃんさわいで散財することもでけたが、彼はしなかった。

 彼が墓参りするついでによく行った大滝山は当時徳島でも有名な料亭が何軒かあり、芸妓さんも富田あたりから呼ばれてよく行ったそうである。そんな芸妓、舞妓さんとすれ違いながらモラエスさんはどんな感想を持ったのだろうか。

 今、大滝山は人気が少なく、木は伸び放題、道は荒れ放題、とても昔の華やかさを想像すべくもないが、今日、その料亭のあった跡をたどって大滝山を歩いてみた。

 昔の大滝山、三重の塔があった。料亭も三軒あった。

 今日歩いたコース

 

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