大正四年(1915)五月六日の日記より
『今日は、ふと、徳島市から汽車で半時間ほどかかる石井町に行ってみたことについて、書くことにする。徳蔵寺の美しい藤の花が見たくて、そこにいったのである。
曇り空で空は一面真珠色であった。すっぽり太陽が隠れていて、その輝きがにじんでいた。風はそよともなく、寒くも暑くもないピクニックにもってこいの日であった。
快い田園風景。殊に、ちょうど柔らかい穂が出そろって、生き生きとした麦の緑で埋まっていて、それに混じって花が咲いたり実をつけたりする、灰色がかったそら豆の緑と花盛りの菜種の広々した黄色の畑、野生のつめくさの一種の可憐な小さいレンゲの広い赤紫の畑。
ひどくお粗末に見える村落の小さな群れが、次から次に現れる。農夫が住んでいる家は、ワラの屋根で覆われている。ごつごつした古い木材の簡単な小屋である。私はそうした村落をよく知っている。労苦と貧窮と、運命のむごたらしさとを前にして、微笑してあきらめている村落・・・
石井に着く。色あせて黒ずんでいる徳蔵寺の広い境内には、棚になって広がっている藤の花が、実に見事に咲き誇っていて、香り高い花、房が幾千となく垂れ下がっていて、中には四、五尺もあるものもある。寺では、見物人に茶の接待をしている。見に来た人は一枚の銀貨を渡して、その代り藤の一枝を受け取る。
特記したいのは、日本の寺の境内では代々の坊さんが根気よく手入れした、全国に名高いめずらしい植物や老樹が植わっていないところは稀であろうということ。』
晩春の田園の豪華ともいえる色鮮やかさ、それに比べて貧しい農家、石井の寺の藤の見事さ、などが生き生きと描写されている。
モラエスさんはこの後、ポルトガルの知人にこの石井の徳蔵寺の藤の絵葉書を送っている。それがこれである。
見事な藤であるが、100年たった今、この時の藤はすでに枯れてしまっていて代替わりしたのか、一昨年、徳蔵寺の藤を見たが、このような見事な藤棚ではなかった。今ではこの絵葉書にあるような藤は徳蔵寺の近くにある地福寺の藤棚のほうがより近い。
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