今は広く埋め立ててしまってわからないが、徳島は島の塊が集まって出来た町である。城下町なので徳島城が町の中心になるが、その城も「徳島」という島に築かれていたのである。藩政時代の城下町徳島の地図を見ると、いかにも徳島の町は、いくつかの島が集まって出来たのがわかる。
これらの島の上に町を作っていくわけだから、島の周りの護岸、内陸部の排水、低地の埋め立てなどをして土台つくりをしなければならない。藩政時代から、そのような土木工事は行われてきた。江戸から明治に変わったときの徳島の地図を見てみよう。
藩政時代の地図と比べると、今の徳島中心部の地図と似てきてはいるが、今はない出来島川が貫通し、西の丸から分流した流れの一つが北に向かい助任川に入っているため、寺島、徳島、出来島は、周りを川で囲まれ島になっている。また今の南内町あたり(富田浜の対岸)は護岸ができておらず、ギザギザの入り組んだ砂嘴になっている。また中洲あたりは土手で囲んだのはいいが、中に大きな潟(海水のたまり)がある。
これに比べると眉山山麓の富田浜(伊賀町、弓町、幟町、大道)あたりは、しっかりした土地のように見えるが、地形図をよく見てみると眉山には(地図のケバ)小さな谷が上から順に並行しているのがわかる。これらの谷は当然一つ一つに谷川があり、その流れがやはり上から順に並行して(眉山から右の方へ)流れ下る。小さな谷川であってもまるで櫛の歯のように並行して町筋に流れ下っては、雨のたびに町が水の被害を受ける。排水をしなければならない。よく見ると上から下に向かって、掘割が掘られ、眉山から流れ下る谷川の流れを集めて排水するようになっている。(ブルーの色で示したのがその掘割)、島の町づくりも大変だが眉山山麓の町づくりも大変なのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿