2019年5月29日水曜日

南斎田浦のおっぞうさんをさがした

20170816

 絵本の南斎田浦のおっぞうさんの絵を見て、今もこのおっぞうさん、この場所に残っているのか、一週間ほど前に探してみたが、その時は見つけることが出来なかった。(絵は飯原一夫さん)


 絵本によると、台座に、『文久二年壬戌四月、施主、南斎田浦、為助、覚太』と刻んであるそうであるからそれらしいおっぞうさんを見つけた場合、その銘文が最終的な証明になる。ところで文久っちいやあ、幕末西暦1862年やから明治維新まで5年とちょっと、たしか、将軍家茂と和宮の婚儀が行われた年じゃ。150年もむかしやけど、昨日紹介したワイの地元のおっぞうさんが享和年間やったから、ウチのほうが60年も古いぞ。

 絵本で見ると一面ヨシ原の中のおっぞうさんから浜まではホンの少しの距離、今も浜に近いのだろうか?他の情報としては、小通し川運河よりちょっと東、というくらい。それをもとに一週間前に探したのだが見つからなかったのだ。

 ちょうど文久年間に作られた阿波藩の地図があったのでそれで見ると、旧字体で書いてあるが、南斎田浦、新濱浦、津田浦、対岸のずっと右には末廣新田、福島の地名も見える。旧地図で言うと、下の赤丸あたりだろう。


 現代の地図で(当時と同じように西を上にしている)比較すると、新浜、津田、山城沖、などは埋め立てで土地が広がっているが、南斎田浦(今の昭和町)の逆三角形の砂洲の形はあまり変わっていない。そうするとこのあたりか?


 この場所は今は南昭和町7丁目、浜沿いの道に近いあたりをあっちこっちと自転車でさがす。すると浜側の道路より50mほど入ったあたりにブロックで囲まれたおっぞうさんがあった。


 まずはお参りして、写真を撮らして貰う。

 
お優しい顔をしている。


 台座を確認、絵本の南斎田浦のおっぞうさんに間違いない。


 絵本によると、このおっぞうさんの作られる前の浜で、こどもが溺れ死んだり、水死人が流れ着いたり、女の人が乳飲み子を抱えて身投げをしたりする。そんなことがつづくのでこのおっぞうさんを作ってお祀りしたそうである。

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