2011年11月29日火曜日

江戸の湯屋 式亭三馬の「浮世風呂」より


 最近の若い人は「銭湯」に入ったこともないし、言葉さえ知らないものもいる。
 しかし、昭和30年ころまでは町屋では家の個人風呂など少なく、入浴は銭湯に通うのがふつうであった。
 江戸時代、銭湯(江戸では湯屋という以下湯屋を使う)は各町内に一軒以上はあったといわれている。江戸ではそれだけ多くの人が毎日のように入ったのである。
 湯屋(銭湯)をとおして日本人の風呂好きが培われたのである。

 今、当時(文化年間だから西暦1808年ころか)出版された江戸の湯屋での風俗、会話、などが内容となる「浮世風呂」を読んでいる。原文だがこの時代ともなるとほとんど意味は分かる。脚注もついているのでかなりスラスラ読める。

 その中より原本「浮世風呂」の木版挿絵を何枚か取り上げご紹介します。

 まずは番台に座るおやじ。この番台は江戸時代よりの伝統であり、昭和の銭湯の番台もこの形式を踏襲していた。

 それでは中へ入って見る。
 まず暖簾をくぐるが、この時代すでに男女混浴は禁止されていた。男湯というのれんがかかっている。小さい湯屋では男女二つの浴槽は作らなかった。時間、あるいは日を決めて男女湯とした。
 大きな湯屋では男女二つに別けて同時営業した。
 男湯に着物を着た女性がいるが湯屋のおかみさんであろう。
 手前からゴザが敷いてあるのが脱衣所、そして水切り場所の狭い竹の簀子のむこうは板敷の洗い場。桶、そしてぬらつく板を時々三助(湯屋の男の従業員)が磨くための砂の山が見えてる。

 次の挿絵を見てもらいたい。
 板敷の洗い場で大勢が体を洗っている。しかし・・

 「湯船がないではないか」

 湯船は左奥、上半分が板壁で下の方にかがんでようやく入れる入り口が見えるがそれを潜り抜けたところに湯船がある。
 なぜこんな構造にしたのか、それは、湯気、熱がこもって逃げないようにするためである。浴槽の保温のためである。
 この口を「柘榴口」(ざくろぐち)といった。

 最後にこれらの江戸の銭湯を時代考証に基づき再現した映画から「江戸の湯屋での一シーン」をご紹介します。(映画「北斎漫画」より)
 かなり上図に似せてセットが作られています。

2011年11月28日月曜日

焼酎にしてみた


 もともとアルコル類は弱いんだが最近特に弱くなった。すぐ頭痛がしてくる。好みのハイボール180mlも全部飲まないうちに悪酔い状態となる。

 そこでできるだけ純粋アルコルに近い焼酎、それも12度のを買ってきて今飲んでいる。
 どうなるだろう、今のとこ頭痛はせず普通に酔ってる。

神頼み


 「神」とは何ぞや?なんどと哲学的なことを考えるつもりも、また私にはその能力もありはしない。まあ、普段思っていることをとりとめもなく書き散らします。敬虔な人からは

 「この罰当たりの、ウンコ垂れめ!」

 とお叱りをうけるかもしれませんがお許しください。

 「神」ってまずいつから存在するんだろ?どこの民族でも人の存在以前ということでは共通してるが、宇宙より前か?となると日本神話などでは神の出現と宇宙の創生が同時であるようだ。
 旧約聖書では神は宇宙以前に存在してて『光あれ!』と命じて宇宙ができたみたいだ。

 どちらにしろ神が人間を作ったんだからそれ以前のことはあまり気にしなくていい。

 なぜか人は「神は善意に人や世界を作った。」と固く信じている。悪がきが粘土で作ったでくの坊の人型を気まぐれでグシャっと潰すような作られ方はしていないと端(はな)から思っている。
 そうであるから人は神を頼りにする。病気、貧困、そのほか諸々の不幸も頼られる。最大の不可避の苦しみである「死」も頼ろうとする。

 さて「神」と書いてきたが(英語なら単数、複数がわかるが)それが唯一つなのか、大勢いらっしゃるのかがここでちょっと問題になる。

 ただ一人の神ならば、
 「なぜ全知全能である神なのに人に不幸をもたらすのか?」
 「なぜ困ったときに助けに来てくれないのか?」
 と人々は疑問を持つ。
 さらには
 「悪いことをしたのに平穏に幸福に天寿を全うする人がいる一方、落ち度もないのに不幸になったり死んでいかねばならぬ人がいるのは不条理じゃないのか?」 
 と思う。

 この点一神教の経典はさすが大勢の神を蹴倒して最後に生き残っただけあって非常にうまい説明がされている。
 「神は試練をお与えになっていらっしゃるのだ。」
 「この世では悪の報いは来なくても最後の審判の日に裁かれ罪の公平は保たれるのだ。」

 何もわざわざ試練を与えるため「この世」を作り、苦しめなくてもよさそうなものと思うが、試練なく平坦に天国に招き入れたんじゃあ、「この世」も「人の誕生」もなく初めっから永遠に「天国」で飼い殺しもつまらない。

 「水戸黄門」のドラマで悪人バラをさんざんっぱらし放題にさせて、最後に「印籠」を出すから面白いのであって、最初っから「印籠」をだして解決じゃ面白くない。それと一緒かもしれない。

 また悪を逃れ笑う人、やられっぱなしの不幸な人には
 「神は見ていらっしゃる、最後の審判にすべては公平になる」

 なるほど。かなり納得できる説明ではありませんか。
 一神教は唯一神であるため、説明・説得にほころびを見せてはいけません。どのような突込みにもちゃんと納得できる言葉があります。
 さすがうまいなあ~と思う言葉は次のような言葉です。
 悪魔が
 「空腹なものが食べれるように神ならばこの石をパンに変えてみたらどうだ?」
 というと
 「人はパンのみにて生きるに非ず。」

 更に悪魔が
 「ここから飛び降りて見ろ、神が助けてくれて無事なはずだぞ!」
 というと
 「神を試してはならない」

 ああいえばこういう話はごまんと用意されていて、悪魔も無神論者も言い負かされてしまいます。

 なんか唯一神の方が神頼みのし甲斐がありそうですが、唯一神との一対一の契約ですから、破ったり逆らったりすると、逃れる道はありません。
 とはいえ弱い存在の人間ということは神もご存知ですから、「悔い改め」も用意されています。
 「悔い改めよ、さらば救われん!」
 しかし、なんか常に原罪をしょってびくびくしてるようで、私などは耐えられそうにありません。

 その点多神教は威力のある神もいれば、宇宙の創生だの、あの世の管理などには全く無関係な威力のない神まで大勢います。
 年寄っておしっこを漏らさぬよう頼める神だとか、ボケ封じの神だとか、もっぱら現世利益ですが職掌が細分化されているから、頼む方もそれに応じてたくさんの神を信心します。

 「あの病院、あのくすりは効かないから今日はこっちにしよう。」

 とかいって病院、薬のはしごをするように気軽に信心を乗り換えることもできます。

 多神教世界の中にあってあれこれたくさんの神頼みをしてるうちにポックリ逝くほうが私には向いてるような気がします。

2011年11月27日日曜日

今年の暖房はどれでいこうか


 朝晩は非常に冷えるようになった。暖房がいる。春秋は光熱費が余りかからないが夏冬は冷房暖房でかなりかかる。私の家は川のそばにあって夏の夜は結構涼しいので夏の冷房費より冬の暖房費が高くつく。
 部屋全体を暖めるのに昨冬は灯油ストーブを使った。今年はそれを使うのとエアコンを使うのとどちらが暖房費が安いか一か月試してしてみることにした。

 たぶん灯油は12月から値上がりすると思う。毎年冬本番になると値上がりしているからだ。配達などしてもらうと18リットルで2000円越えるだろう。

 今まで暖房のエアコンはあまり使ったことがないので、一か月間エアコンのみを使用して灯油とどちらがお得か確かめてみたい。

 あまり変わらないのであればエアコンにしようと思っている。灯油を運んだり、入れたりする手間もかからない。

 で、今、エアコンが作動して温風が部屋を暖めている。設定は18度にしている。

2011年11月25日金曜日

ロック そういえばこんなことも


 一昨日のブログは高校のお別れ会で友が歌ったフォークミュージック、そして昨日はエレキギターや楽器について書いた。ここ数日はわが音楽人生(そんなたいそうなもんじゃないがまあ60年も生きてるのでこんな言い方もお許しください)を振り返る機会となった。

 そして全く忘れていたことも思い出した。エレキとロックの練習風景である。

 前にも書いたが私はギターもエレキもできない。だから練習にかかわることもないはずであるが、昨夜寝ていて

 「そういえば、こんなこともあった。」

 と思い出した。

 何十年も前に忘却した記憶の中にあってなぜか急に蘇ってきたため、いつかははっきりしない。昭和41年か42年かもはっきりしないが、前のブログに書いたように一年の文化祭の練習で初めて聞いたエレキの音の強烈な印象は残っているので、そのあとのことである。

 一年上の先輩に誘われて当時最新のエレキギターで結成したわが高校のロックグループの練習を見に行ったのである。
 場所も大体覚えている。西麻植駅から吉野川のほうへ行った土手のすぐ近くの一軒家である。周りは畑ばかりのところで、なるほどこれならいくらアンプの音量を上げても近所からの迷惑も来ないというところである。

 バンド練習の場所といっても古い農家、でも家人は一人もいなかった。

 どうして誘われたか、なぜ行くようになったか、の詳しいいきさつはもう忘れた。しかし、そこへ行くことに対しなにか後ろめたい感じがあったのは覚えている。

 今だとそんなことは思いもしないだろうが、昭和41年当時、エレキだのロックグループだのは、ゲバ学生や不良と同一視される雰囲気があったのである。おおっぴらに高校生が胸を張って

 「ぼく、ロックグループでエレキやってます。」

 などとは言えなかった。

 見学者は先輩と私の2人だけであとは4~5人のメンバーと、マネージャーみたいなやたらとしっかりした女子生徒が2人いた。

 ロックのメンバーはどんな奴だったかも思い出せないが、ほとんど3年生だったと思う。(私は1年生だった。)
 最新のエレキでロックをやるだけあって私から見ると当時盛んだった大学生の活動家のような高校生だった。
 先生に見つかったら即停学となるタバコもやっていて、部屋には煙がもうもうとしていた。

 曲もどんなのか思い出せない。大音量とテケテケでもう私などは驚嘆させられたと思う。まあ、曲などどうでもよかった。

 練習の合間、女の子2人はせっせとカレー作りをしていて、練習が一段落すんだあと、私も含めみんなでカレーをパクついた。細部はよく覚えていないのにこの時、急いで焚いたものか白米にシンがありよく蒸されていなかったのを思い出した。

 当時の高校生ロックグループの練習風景の動画などもちろん残っているはずもないが、この時のイメージに合いそうな昭和42年時の映画の一シーンを勝手に編集しました。(青春デンデケデケデケより)

 ロックの語源を調べてみました。黒人の俗語で性行為を表す「Rock and Roll・Rock'n'Roll」から来たようです。


 しかし私はそのような下品な意味でなく、英語の「rock」、「揺り動かす」、という意味がふさわしいような気がします。
 ロックは魂、身体ともにゆるがせる音楽だと思うからです。
 この音楽の本質を言い当てた日本の中世の歌謡の詩があります。(梁塵秘抄より)


あそ            うま        たはぶ        むま
 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
  あそ  こども   こゑ        わ   み        ゆる
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ



 この最後のフレーズの「ゆるがるれ」こそロックの本質を表していると思うのですがどうでしょうか?
 「日本の中世歌謡にロックの本質か!」
 と一笑されるでしょうね。

2011年11月24日木曜日

また楽器をやりたいなぁ~


 ブロガー仲間が楽器を引っ張り出して整備し、練習しようとしているのを見聞きすると、自分もやってみたくなった。
 彼はエレキをやるそうだ。

 「青春デンデケデケデケしてる。うらやまし~」

 私も真似をしてやりたいが・・・・・・・・・

 若いときやった楽器はピアノとエレクトーン。

 実は20年も前に売り払って金に換えたため今はない!そして情けないことにそれ以外の楽器は出来ない。

 今から初心者の教則本で何かの楽器をするのはきつい。

 再び青春してるブロガーのエレキの写真をうらやみながら見るだけしかできない。

 「それにしてもエレキはかっこいい。私も若いうちにやっておけばよかった。」

 せめて懐古に浸ろうと30年も前、家にピアノとエレクトーンがあった時代の私の演奏風景写真をアップしました。

 素顔で出てますが30年も昔ですので、ふさふさ髪も含め、顔、体型、ほとんど別人になってます。

2011年11月23日水曜日

ついこの間のことのようだ


 今日のこの動画のメインは画像でなく歌です。

 高校三年のお別れクラス会のとき、私の友がおどけてこの歌を歌いました。その時までにはもうみんなの進路は決定していましたが、中には浪人する者もいました。

 私は県外の理系の大学に進みたかったが、家の経済事情のため県内の夜間の短大へ行くことが決まっていました。

 都会の四年制大学へ行くものがうらやましく、高校三年卒業の門出を迎えているのに心の色はブルーでした。今から思えば甘っちょろい感傷ですね。

 この歌を聴くとそのとき歌った友人の姿とともに、進路が思うに任せずつらかったことなどがしみじみと思い出されてきます。
 42年もたったのについこの間のことのような気がします。

 あっという間の時の流れ、しかし、わが身は紅顔白皙の少年から白髭の爺さんに、
 浦島太郎の玉手箱じゃあるまいに、無残なりわが42年

 今日、見学した博物館の写真に「その時の歌」をのせました。お聴きください。

2011年11月22日火曜日

歩きながら考えたこと


 夜のウォーキングに行って先ほど帰ってきた。ウォーキングにはこれからの季節はよい。少し寒いくらいのほうが汗は書かないし、歩くうちにあったまってくるから寒い時期が最適である。ただし風があるといけない。強い北風は勘弁してほしい。

 夜のとばりが心を内向きにして考えさせるのか、きゅっと引き締まるような今夜の寒さが脳の働きを活発にするのか、はたまた歩いての運動が脳の血の巡りをよくするのか、考えながらあるいた。

 「俺はマニュアル的な仕事は全くできない。農作業なども無理。放浪癖があり、定住が嫌い。財産など作ろうと思ったことがない。蓄えもないし、する気もない。」

 今日のブログで弥生と縄文を対比させて少し書いたが、こんな自分を振り返ると

 「俺って、典型的な縄文人じゃ」

 ご存知のように縄文人は狩猟採集の民族、小規模は別として、弥生人のように大規模な水田、畑作仕事で糧を得るのとは真逆の自然任せの放浪生活である。
 このような生活をしていれば弥生人のように土地を囲い込み「私有地」としたり、自分が生きるに必要以上の蓄えをしたりはしないだろう。

 「そう考えると、今の社会のように、土地私有制があり、持てる人には天文学的な数量の金、動産を所有することができるという制度は、弥生時代生まれた社会制度と同じ流れである。」

 「いま弥生の流れをくむ人々は、不動産、金、動産を所有する人々であるとするなら、それがない人は縄文の流れをくむ人々か?」

 「さらにくわえて、定住する家もなし、放浪する人は、ほぼ縄文人の直系か?」

 そう言い切れば歴史の美しい叙事詩的な話になろうが、縄文の精神がそのまま今に残って流れているとはちょっと言い難い。

 弥生のエスタブリッシュの根本原理は現代まで通して流れており、金持ち、上層の人々に共通するものである。ゆえにそれらの人々は弥生の流れをくむとある意味言えるだろう。

 しかし、縄文人はもっとモノに対し純粋であったはずだ。今の持たざる人、定住できない人、放浪する人は縄文人のようにモノに執着せず、純粋といえるか?乏しさ、不自由に痛めつけられているため、よけいにモノに貪欲になっているのではないだろうか。

 もしそれらの人々が縄文人の血をひくものとするなら、そうなったのは、歴史をさかのぼれば、弥生人が土地を開拓し、縄文人の生活圏を奪い、敗残弱小民族として、追い詰め、みじめな被差別者として扱ったからではないのだろうか。

 確かな根拠はないが、歴史上現れる、山岳民族(サンカ)、放浪を主とした遊芸人、農業に従事しない被差別民、などは圧伏された縄文人の末裔かもしれない。

 よく日本人はまじめでコツコツ働くというが、この美徳も弥生人のものであろう。縄文人はどうだったのだろう?
 2000年以上圧伏された縄文の血は

 「今、俺の中に流れているのかもしれない。」

 などと妄想に近いことを考えていると、

 「ほれ!もう一周して家に着いた。風呂入って寝ます。」

古代の郷へタイムスリップ 倉庫

明日は勤労感謝の日、この日は昔の神嘗祭の伝統をひくものとして制定されたいわれがある。新穀の収穫を神に感謝し、新穀を供えおまつりするものである。
 稲作文化とともに神嘗祭(新嘗祭)はあるといわれている。そうすると弥生時代以来の伝統である。

 農業の開始とともに人々は収穫の余剰を手に入れた。その収穫物の中でも「穀物」は長期保存がきき、余剰の蓄えとしては最適な作物であった。
 この余剰の蓄えの上に古代の文化・社会・国家があるといってもいいだろう。

 さて、古代の郷には住居群とともに見逃せない建物が存在する。その余剰のたくわえを保管する建物、倉庫である。写真の左奥にあるのがそうである。
 この建物は高床式の建築様式で庶民の家の竪穴とは違っている。太い掘立柱で支えられ床がかなり上部にあり、床下は何もない広い空間になっている。
 貯蔵物の乾燥を保つのに最適の構造である。

 今、我々の周りにこんな建物はなかなか見つからない。ただ、由緒ある神社の「奥殿」がこのような形をしているから、徳島でも神社建築を探せば似たような建物はある。
 タイまで行けば水上建築の住居が高床式である。やはり、湿気を避けるための様式である。

 床下の柱には穀物をネズミなどに食い荒らされない工夫がしてある

 中に蓄えられるもので最も価値のある穀物は「米」であった。保存するためモミで蓄えられたと思われる。穂つきモミだともっと長持ちするといわれている。

 貨幣が存在しなかった古代、米のストックは富そのものであった。

 この高床式はいったい誰の所有物であったのであろうか。村落共同体の共有物としての倉庫なら、少なくともこの村においてそれほど大きな貧富の差はなかったと考えられるが、もし、個人所有であればこのような大きな倉から考えて、相当な富(土地ばかりか奴婢も持っていたかもしれない)

 今でこそ人の富は貨幣で蓄えられ、通帳にいくら入っているかで動産類ははかられるが、明治くらいまでは富の象徴はその人が敷地に「蔵」(倉)をどれくらいの広さでいくつ持っているかではかられた。

 稲作栽培によって大きな農業の余剰生産物が生まれた。有力者はその余剰生産物をこのような倉に蓄え、土地を囲い込み、増々大きな富、そしてそれに伴う権力を手にし、地域を支配する「豪族」となっていったと思われる。

 最後に次の写真を見てほしい。コナラかクヌギであろう落葉樹が黄葉している。これらの木はドングリをつける。またそばには栗の木もあり実が落ちている。
 縄文人はこのような森の木の堅果を採取し、またイノシシ、鹿を追って生計を立てた。狩猟採集生活で余裕、余分な蓄えはあまりなかったが、貧富の差もなかった。

 この縄文の象徴のようなコナラの木を通して小さく高床式倉庫が見えている。これは弥生の稲作農業の豊饒の象徴であるが、これはまた貧富の差どころか支配者というものや隷属した奴婢を生んだ象徴でもある。

 生産力、技術力は弥生時代の方がずっと進歩していた。しかし、より原始的と思われている縄文時代のほうが人々は幸せだったような気がするがどうであろうか。

2011年11月21日月曜日

古代の郷へタイムスリップ 古代の家のお勉強 マイホーム編


 新車の自転車に乗ってさっそくサイクリングに行った。国府の史跡公園である。
 この史跡は国府という場所に造られているため、歴史区分でいえば「古代」の史跡である。というのも国府はその地名からもわかるように古代(奈良時代以前)に阿波国府がおかれたところである。

 間の悪いことに週一回の休館日にあたっていて「埋蔵物展示館」はみられなかった。しかし、おもに古代の住居跡が公開展示されている「史跡公園」のほうは見学できた。
 まず、古代住居跡の全景から。

 「竪穴住居」、考えれば変なネーミングである。竪穴というから、初めて聞いたときは何か縦に深く掘られた井戸のような土中に暮らしているのかと思ったがそうではなく、土地を数十センチ掘り下げその上にほとんど屋根だけをのせる形にしたものである。

 上図を見ると床が地面より低くなっており、確かに少しだけ地面を井戸のように掘りこんだ形になるから竪穴と名付けたのも納得できる。

 ただ、どうでしょうか?みなさん!こんな床だと湿気が多く、薄暗く、快適であるような気がしないでしょう?
 しかし、湿度や採光に問題はありますが、古代の住居はほとんど夜寝るためのもの、雨でも降らぬ限り大半は野外での活動なのです。そのため、住居は主に夜の寒さを防ぐことが大切でした。この点このような半地下式の住居は暖かかったのです。
 また、真夏でも床が大地の中にありますから結構涼かったと思います。

 一番の大敵は雨水でした。掘り下げ床のため水が浸入しては大変です。そのため住居は丘などのような微高地に建てられました。また、家の周りも下の図のように工夫していました。

 では家の内部に入ってみましょう。


 中央部の床に炉があります。寒い冬でもここで火を焚けば暖かく快適に就寝できました。
 ただ薪を燃すため煙が出ますね。

 煙りだしのため先ほどの三角の開口部は


 上図で見てもわかりますが屋根はかなり構造的にもしっかりしており、立派な草ぶき屋根と申せましょう。葺くのは大変でした。村の人総出で屋根は作られたと思います。
 材料は「葭」(よし)、萱(かや)などでした。

 屋根だけ見ると竪穴住居とはいえこの間まで日本で一般的に見られた伝統的な農家の家とよく似ていました。ただ壁がなく屋根が直接地面に接しているのが違うところです。

 時代が進むにつれて壁が立ち上がりのびていったのではないでしょうかこのように。
 そうすれば50年前まで残っていた日本の民家とそう変わりませんね。

 この竪穴住居は縄文時代、1万年前以上から奈良時代まで日本の庶民住居でありました。奈良時代の万葉集に山上憶良の「貧窮問答歌」がありますが、そこで詠われていた
 「伏せ庵(いお)の、曲げ庵の・・」
 というのはまさにこの竪穴住居なのです。

 現代人の我々が想像しているほどこの住居は不便でも不快でもありません。当時のもっとも合理的な住居のような気がします。
 一週間、縄文様式の生活をした家族がいましたが、居住環境も含め病み付きになるといってましたっけ。

 よく、隠遁者の生活をすることを
 「山に入って庵を結び・・・」
 などといいますが、自然の材料を手に入れ、自然のまま暮らすとすれば、このような住居になるんでしょうね。

 「やまさんも、ここ史跡公園の竪穴に住みつこうかな」

 次回は古代の貯蔵庫、蔵となります。
 

2011年11月20日日曜日

午後10時過ぎて急に寒さが



 10時過ぎて
 シンシン、という表現をしたいほど冷え込んできた。

 酒でも飲みたいが最近は少しでも飲むと頭が痛くなるのでやめにしてコーヒをたてた。カップに注ぎ飲んでいるがすぐ冷えてしまった。
 飲み物では体は温まらない。

 やっぱり寒い夜の寝る前は「風呂」だ。
 今日は「鳴子温泉の素」で鳴子の湯気分だ。
 これから入る。

 お布団の中のアンカのスイッチもオンにし寝床はあったかだ。

 「ああ~冷える夜は、あったまって寝るのが一番!この上ないゴックラク」

 やまさん、もうじき永久に眠られるのに、寝に急ぐこともなかろうにぃ~

新しい自転車を買った


 新しい自転車を買い、防犯登録を済ませ家に乗って帰った。

 買ったといっても詳しいことは省くが買ってもらったのである。最近よくないことがあってかなり気持ちが下向きだったが、新しい自転車を買ってもらいそれに乗るとちょっと気分がよくなった。

 安い自転車ならば徳島への一か月の定期代くらいで買えるが、こういう安いのはすぐダメになる。以前安いのを買ったが結局長持ちせず損することとなった。

 今回買ってもらったのは3段変速である。今までは変速機の付いた自転車などは乗ったことがなかった。初めてである。

 夕方に乗り初めをしたのでライトをつけようとスイッチ、発電機を探したがどこにも見当たらない。取扱説明書を読んだが、私の買った自転車と点灯の構造図が全然違う。

 「どうやったら、ライトがつくんじゃ!わからん!」

 あちらこちらももぐりまくったが、点灯スイッチが見つからない。どうしようもないので買った店にその自転車に乗って聞きに行くことにした。
 暗くなっているのでライトをつけたいがスイッチの位置がわからないので点灯できないまま走った。

 と・・・・お・・・・なんじゃ?

 「なんでかしらん、ライトがついてる。」

 青白いかなり強いビームで行く手を照らしているではないか!

 「おかしい!スイッチはどこな!」

 自転車を停めて探すがスイッチは見当たらない。夜になって点いたのはいいが、今度は消すスイッチがなくちゃあ・・・・・・・・・・

 「昼でも点けて走れってか!!!」

 ライトのスイッチのあり場所を求めて買った店に行きました。

 20代の兄ちゃんが説明してくれました。最近の自転車のライトはスイッチなど無く、暗くなれば(当然夜)、自動的に点灯するシステムになってるそうで、スイッチなどいらないそうです。

 そんな便利なシステムがいつから自転車に付いたんだろ。全く知らなかった。説明受けて

 「え~、そうなん、そんな風になっとるんか、いや~、びっくりしたわ。」

 と私が言いましたが、私のあまりの無知に店の兄ちゃんのほうが

 「びっくりしたわ~」

 でしょうね。

 みなさん、新しい自転車のライトの扱いでさえ、この小騒動ですから、私のパソコンに対する信じられないくらいの無知も

 『推して知るべし』

 ですわなぁ。

 ライトは納得したが、今度は変速機の使い方である。兄ちゃんに

 「変速機切り替えは自転車を停めてするの?」

 とか聞いて笑われた。走ったままで変速していいですよとの言質をとらねば恐ろしゅうて変速などできん。
 だから変則ギアチェンジはまだ一回もしとらん。


2011年11月19日土曜日

夕方になってやっと晴れた


 朝から一日雨であったが夕方になって雨も上がり、西のほうから晴れてきた。雨のため一日ぼんやりと室内で過ごしたが、夕方になって降りやんだため外へ出て散歩をした。
 五時前だが日はすでに沈んでいる。11月下旬から12月上旬にかけて日の入りが最も早い季節を迎える。

 暖かい気団で雨が降った名残であろうか、夕方になってもしっとりした空気は寒さを感じない。
 歩きながら、急速に迫る宵闇や、西の空の雲を見て明日から気団が入れ替わりぐっと寒くなりそうな予兆を見るとき、人恋しさ、ほのぼのとしたぬくもり、暖かい光が恋しくなる。

 季節の冬はすぐそこである。
 おいらの人生の冬もすぐ間近、といいたいがそんなたとえはふさわしくないだろう。冬ならば必ず春がやってくる。青春が二度と経巡ってこないように春はもう来ない。

 雨上がりの晩秋の夕景、さびしくともこれがおいらのおなじみなのだ。

 晴れ間の出た夕方の西の空を撮った。



2011年11月18日金曜日

今日のロゴ、そしてクイズクェスチョン


 皆さん今日、11月18日のグーグル(google)ロゴには何やらレトロな家族写真のイラストが使われてますよね。クリックすると今日は「ルイ ダゲール」という人の生まれた日で生誕224年目ということがわかります。

 ところでルイ ダゲールという人は一体何をした人かご存知でしょうか。彼は1839年に彼の名前をとったダゲレオタイプという写真技術を発明したのです。

 今日発達しているデジタル写真はおくとして、伝統的な写真技術はレンズを中心に組み立てられた「光学機器」と「感光板」(フィルム)、そして焼き付けられた「印画紙」からなるものでした。

 このうち「光学機器」(カメラと呼んでもいいだろうが、レンズと暗室ボックス、投影画面からなるもの)は、もう16世紀ごろには発明されていました。
 じゃあそれが写真技術の発明じゃないのか、と思われましょうが当時のカメラは、ガラスの投影画面に裏から薄い半透明の紙を当て、鮮明に映った逆像(レンズを通すから)を画家がなぞり、正確に写すものだったのです。

 カメラに映る像を画家がなぞってそのまま写し取るのですから写真に近い画像になりますが人の手で描きあげるのですから写真とは言えませんね。

 人の手を借りずに写すのは「感光剤」が発明されねばなりません。光に反応して変色するものは候補になります。
 これはカメラの発明より数百年遅れます。いろいろな薬品剤が試されたことでしょう。「アスファルト」で戸外の家を焼き付けた写真らしきものも登場しますが、不鮮明でとても写真術とは言えませんでした。

 感光剤として人々が「銀」そして「銀化合物」に注目してそれを選んだ時、写真技術は実用化に向けて一歩を踏み出しました。
 
 そしてその実用技術第一号がダゲレオタイプだったのです。これは感光剤も印画板も一体のものでそれは「銀の板」でした。それゆえダゲレオタイプは別名「銀板写真」と呼ばれました。

 これがごく初期の第一世代の写真技術です。しかし、銀板に映った映像は、露出に時間がかかるとはいえ、当時の人をして生き写しと驚嘆せしめた今日でいう白黒写真でした。

 なお、幕末、長崎で竜馬や志士たちが撮る写真は第二世代の写真技術で湿板ガラスと印画紙が分離した方式で第一世代より進んだものでした。この時代より10年ほど前、ペリーが携えてきた写真技術がより初期のこのダゲレオタイプでした。

 さて、ペリーが持ち込んダゲレオタイプ写真で当時の武士も写してもらい、そのぞっとするような生き写しに驚天動地の事態となります。やがて魂が吸い取られるとの迷信も産むのですが、実はもっと困った問題がこの写真にはあったのです。

 さあ!それが今日のクェスチョンです。

 当時のダゲレオタイプの武士の写真が見つかりませんので、鴨島で今行われている菊人形の武士の写真を私が撮り、ダゲレオタイプに似た写真に編集しました。
 こんなイメージがダゲレオタイプ(銀板写真)写真です。
 これのどこが困った問題なのでしょうか?
       ※ ヒントは前のブログのテスト投稿の動画にあります。

Chromeでのテスト投稿

2011年11月17日木曜日

ジョージ君と会ったこと


 藍場浜公園で今日ジョージ君と会った。国家試験まで2週間を切っているので勉強が大変そうである。私がお手伝いで来ることなどほとんどないが試験内容も含めたお話をした。

 新町川を望むベンチに腰掛け、テキストや問題集を見ての話である。図書館のほうがそんな場にふさわしい気もするが、この町の図書館に学習室はない。(ずいぶん文化的に貧弱だ)まあ、たとえあったところで話は出来まいから、ベンチのほうがよいだろう。

 化学式の右辺と左辺のモル計算をしたり、分子式の計算などをメモ用紙を広げペンで書いたりしている。
 客観的に見れば、中年のおじさん同士の話としては滑稽なぐらい異様であろう。我々はいたってまじめにやってるだけに余計におかしいかもしれない。
 私は年齢がいくつになってもこういう書生っぽい(学生がするような勉強の話や議論)のが大好きである。
 ジョージ君は私に対し、国家試験の話を持ちかけて、気の毒に思っているかもしれないが、正直、私は、この手の話は全然嫌じゃありません。

 こういう私の特長を生かして、いかがわしい資格講座の講師になったらいいと思うのだけれど、どこも雇ってくれません。

 話始めたときは前の新町川は満ち潮が川岸の一番高いところまで来ていた。その後、水面は話が終わるころには引き潮に転じてかなり下まで下がっていた。幸い今日は暖かく風もなかったので風邪をひく心配もありませんでした。

 そうそう、資格講座の講師といえば、koumei先生の新セミナーが始まったみたいで、今日11月17日がブログ開設の初日という生徒さんがたくさん誕生してました。
 一年前作り始めた当時の自分のブログを思い出しました。
 その時はブログもよく知らず、内容も初々しいもので、まるで何も知らない乙女のようなものでした。それから一年たって、桃山日記は今ややりたい放題、ずいぶん悪ずれしました。

 「最初の頃が懐かしい!」

2011年11月16日水曜日

ピンクピタゴラス結成か

 
 ピンクピタゴラス結成記念のシングル盤(いつの時代じゃ!)のレコードジャケットが出来ました。
 こんなのでどうでしょうか。

2011年11月15日火曜日

老境東海道の旅

 膝栗毛のまとめの動画もやまさんお気に入りの自虐演歌となりました。 
 
 旅の落ち葉が時雨に濡れて、流れ果てないギター弾き
 望みも夢も儚く消えて、歌も涙の渡り鳥・・・

深まりゆく秋


 午後1時を過ぎるともう日が赤っぽくなる。光の強さもずいぶん弱くなったと感じる。夜の訪れも早く、5時過ぎるともう夜の領域である。

 昼過ぎ神社の境内を歩いた。この神社のすぐ横を飯尾川が流れている。この境内へ入るのに道路から石橋を渡るんだけれど、石橋を渡ると例の徳島公園で嗅いだのと同じ肥しの匂いが漂ってきた。
 見ると銀杏の木がある。(前にも言ったがこの匂いは銀杏の熟して落ちた実が発する) かなり黄葉している。銀杏は落葉樹の中では比較的黄葉が遅く、散るのも遅い。
 しかし、全木の葉が真っ黄色に染まり、時を置かず散るさまは美しい。木屋平にある銀杏の大木は、ある霜の朝、一斉に散るという。一度見てみたい。

 この境内の銀杏は黄葉し始めているが、散るのはまだ先のようである。

 横を流れる川には雁・鴨、どっちか詳しくわからないが、どこかから飛来して川面に群れていた。

 深まりゆく秋の訪れとともに飛来するのはそういえば「雁」だ。遠い昔、学校で「雁が渡る」という唱歌を習ったっけ。ヨウツベで探したが見つからなかった。

 晩秋の夜、夕ご飯を鍋にする家もだんだん増えてくるだろう。私もこの話のつながりで今晩は「かも鍋」といいたいが、おでんにする。
 下ごしらえでさっき卵は茹でた。今から大根の皮を剝く。そうそう蒟蒻も石灰が入ってるから前もって茹でた方が良い。
 おでんも結構下ごしらえに時間がかかる。でも、おでんにすると数日充分食べられる。というか、多量に出来過ぎて困り最後は飽きてくる。

2011年11月14日月曜日

パロディー東海道中膝栗毛 その7・シリーズ最終回



 鈴鹿山・坂の下

 古代は鈴鹿山に関があった。東海道は幾つかの峠があり難所とされるが、箱根ほどではないにしてもこの絵から見ると旅人もかなり難渋したものと思われる。
 図は筆捨山とその渓谷を眺めるのによい場所に作られていた筆捨山茶屋。旅人は茶を飲んだり景色を眺めたりして一服した。
 筆捨山からは幾条かの滝が流れ落ちている。
 
 水口

 東海道の宿場にはいろいろな名物がある。ここ水口は干ぴょうが名物である。
 干ぴょうは夕顔の実を細く長く剝いて図のように天日で乾かしたものである。


 大津

 日本では馬車は発達しなかったが、江戸時代西国ではこのように牛にひかせた荷車の利用は盛んであった。当時の日本の馬は貧弱で馬力が出なかったという。
 図を見るとかなりたくさんの荷(米俵)を運んでいる。牛は歩みは鈍いが馬力ならぬ牛力は強い。大荷物なので牛も大汗をかいて暑いのだろうか、牛の背中を日よけが覆っている。
 左の方には水が湧き出ている「走井」があり、暑い時期は冷たい水でのどをうるおす旅人も大勢いた。

 京

 この時代の東海道の終点は京都である。
 三条大橋から東山の方を眺めている。
 山の中腹には清水寺が見えている。
 三条大橋の上に立つ弥次喜多も「とうとう着いたぞ」と感慨に耽っているのであろうが、芝居が見たいとかいっているようである。

  
 京で芝居見物をする

  芝居小屋の内部をのぞいてみよう。芝居小屋は大きな建物であっても小屋という。二段の桟敷そして大屋根を架けた格子天井を有する本格的な芝居小屋である。

 ほぼ満員の観客が見ているのは今日でも歌舞伎でおなじみの「八百屋お七」の狂言である。

音楽雑感


 ずいぶん気力も萎えていたが、今朝、Sさんのブログを見てコメントを入れたらつづきが書きたくなってきた。

 まずハードロックについて

 わたしはこれについてはほとんど知りません。ただ物凄いエネルギーとパワーは感じます。

 それで思い出すのが、ジャズや初期のロックが全盛の時代、50年代(私の音楽感覚はこの時代にとどまっています。)にもしタイムマシンで行って、このハードロックを聴かせたらさぞ面白かろうと企画したのかどうか、そういう映画が作られました。御存じバックツーザフィチャーです。

 50年代の聴衆、最初は(さすがアメリカですね、この時代の日本人だと盆踊りリズム感ですから最初からダメでしょうね)この未来から来たリズムについていけてるんだけど、のりにのって大ブレークするあたりから、ついていけず、唖然としますね。

 これこれですよ!私が持ってるハードロックに対するイメージは。


 全然聞いたことないけどSさんのバイオリンについての妄想

 まあ楽器の演奏家って多かれ少なかれそういうところがあると思いますが、自己陶酔的ですよね。
 他人が聴いてもうっとりするような名演奏だと、自己も他人も陶酔して言うことないんだけど。

 楽器のいわゆる「下手の横好き」っていいますよね。バイオリンなんかはほとんど喜劇になります。でも、そんな喜劇は私は大好きです。

 シャーロックホームズが大のバイオリン好きですがこれはもう傷害罪にあたるような音をたてます。キーコキーコとやるとみんな部屋から一斉に飛び出ます。
 なぜか天才的推理の頭と超ヘタなバイオリン、あってますよね。

 いえ、決してSさんがヘタと申しているわけではありません。でもSさんのキーコキーコ・・奥さんがそわそわしてなぜかいつも買い物に出ていく・・犬の遠吠えが始まる・・シャーロックホームズ以上に興味をそそります。

 バイオリンって高尚な楽器のような気がするけど、次のように大道芸に近いような演奏があり私は好きです。
 このようなバイオリンはむしろヘタの方がいいのです。キーコキーコの中になにか哀愁を感じるものがあります。
 どうです、数人でバイオリン芸も考えますか?


 別バージョンも
 

2011年11月13日日曜日

やがて消えゆくとはこういうことか


 最近のブログのテーマが歴史パロディーシリーズとなっています。これは、あまり心の中の状態に関係なくブログが作れますので、今日もブログをアップできましたが、ほんとは今日はそんなことできる気分じゃなかったです。

 身も心もへとへとになり、体の中も虚無感でいっぱいです。こういう時って横になっても寝れないもんですね。

 何がそうさせたかはブログではちょっと書けませんが、無駄に歳を喰ってしまったことと、貧窮のため、と申しておきましょう。

 夢、希望も潰え、のた打ち回り、苦しみもがくさまの近未来が、これだけは確信を持って見えてきています。
 力も衰え、心に回復することのない虚無な部分が広がってきています。

 外見が醜くなろうとも内だけは美しくありたい・・それもきれいごと過ぎる。何もかも醜く汚くなっていく。

 「やがて消えゆくとはこういうことだったのか」

 だんだん実感が湧いてきました。
 少しでもマシな終焉をと願っているのですが(それは誰でも願うだろう)、そんな望みも萎えてしまいそうです。

パロディー東海道中膝栗毛 その6

 四日市

  初冬の嵐であろうか、強い風が吹いている。旅人の菅笠が飛ばされ、それを旅人が追っている。
 冬の風に吹かれるのは何か侘しいものがある。この絵からも寂寞感が伝わってくる。

 庄野の雨

 季節は夏である。「白雨」とあるから、夏の、空が明るいのに降るにわか雨である。急な降りで駆け出す人が描かれている。
 対角線のような坂道、それと交差するように降るにわか雨、見事な構図である。
 19世紀ヨーロッパの印象派のゴッホがこの絵に強い影響を受けたといわれている。

 木賃宿

 リッチな弥次喜多はこのような木賃宿に泊まらないが、多くの庶民も利用した木賃宿を紹介しておきます。
 金の乏しい旅人が利用します。もっとも金の全くない者は野宿か、無人のお堂のようなところで泊まる以外ないのですが、数十文くらい出せれるものは木賃宿に泊まりました。自炊で夜具もなく提供されるのはお湯、自炊の薪くらいです。
 金をあまり持たない巡礼、行商人などが利用しました。

 亀山の雪

 これも素晴らしく大胆な構図です。
 先ほどの「庄野の白雨」とは逆の対角線で画面を切っております。対角線を登った先はお城、真ん中には雪をかぶってすっくと立つ松。いや~、見事ですね。
 上の方の雪晴れの青い空色はヨーロッパの人に「ヒロシゲブルー」といって感銘を与えたそうです。

 しかし、せっかくの美しい雪景色をふざけた弥次喜多がスキーをしてぶち壊しております。

2011年11月12日土曜日

パロディー東海道中膝栗毛 その5


 絶景だった風
 箱根
 東海道一の難所である。
 また、「入り鉄砲に出女」といわれるように江戸への出入りをチェックするため幕府は、ここに関所を設けた。
 弥次喜多も町名主を通じて得られた「道中手形」を持っていて、関所改めを受ける。

 この図を見てもわかるように箱根は山岳地帯であり湖もある。景色はよく夏は涼しい。すぐ近くに湯量泉質もよい温泉もある。江戸からも近いので江戸からの保養・湯治客も多い。


 左富士と街道松並木
 江戸から京に向かっていると、富士のお山は右手に見るのがふつうであるが、ここ吉原の地では道が曲がっている関係で富士が左に見えるところがある。

 また、街道の立派な松並木がずっと続いている。
 弥次喜多の向かう方向が逆なのはお許しあれ、ま、少しの距離なら何らかの理由で逆戻りもありますね。

 薩埵嶺(さったとうげ)
 ちょっと怖い場所だけど眺めは見ての通りいいですね。
 今、海岸はほとんど土木工事で護岸のコンクリで固められ、テトラポットで埋められています。
 手つかずのこの時代の自然が羨ましいですね。

 和宮が江戸へ嫁入るとき、東海道でなく中山道を通りますが、その理由の一つがこの「薩埵嶺」(さった)・去る、を通るから、語呂が似てて悪い、でした。こじつけですね。

 大井川
 幕府の方針で大河には橋は架けられていません。大雨で水量が多くなると通行止めになります。
 このため何日も川止めという事態もあり得ます。

 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われました。

 弥次喜多の旅は寒い時期なので川止めはなかったでしょう。
 でも渡し賃が結構いるんですよね。

パロディー東海道中膝栗毛 番外特別編

 
 旅で喜多八が入った風呂について
  
 風呂好きの私としてはこの旅の旅籠の風呂場がどのようなものであったのか気になるところなのでちょっと調べてみた。
 宿場「赤坂」の旅籠で入ったのはどのような風呂だったのであろうか?

 原本に出てくるがこの時の風呂はいわゆる「五右衛門風呂」の一種である。狭く一人しか入れない。

  喜多八が肩にかけているのは「日本手ぬぐい」、晒し木綿で出来ている。タオル地などは明治以降です。 







 左が五右衛門風呂である。上に板が浮いているが足でこれを沈めつつ入り、底に沈めた板の上に乗って湯に浸かるのである。
 そうしないと、そこは直接火にかけられた鉄板なので足裏が火傷してしまうのである。 
 江戸っ子でこのような風呂に入ったことのない喜多八は直接鉄板に触り火傷しそうになりますが、聞くのも名折れとばかり、工夫しようと考えて、そばにあった下駄を履いて入ります。足裏は火傷しないんですが、がさつにも湯の中でドタドタして底を踏み壊し、大騒動になります。
 もちろん弁償させられ笑いものになります。
 構造は左のようになっています。
 喜多八は江戸育ちですから湯屋の湯船しか知らないんです。
 左が江戸の湯屋の湯船、五右衛門風呂と違い、箱型で広く、10人くらいは入れる。
 底が鉄板などということもなく、沸かした湯を流しいれる方式のようです。



 旅の旅籠でこんな風呂は望めません。五右衛門風呂のような一人用の風呂が普通だったと思われます。
 「え!それじゃ、大勢泊まったときはどうするの?」
 どうもしません。その一つで全員入るのです。最後は湯がドロドロになるに違いありませんね。それでもこの時代の日本人は湯がある旅籠を好み、旅の疲れをいやすために湯に入ったのです。

 まあ、大抵、湯屋や便所は非常に暗いですから、夜泊まる客には汚い湯も隠せますね。

 せいぜい水を継ぎ足し継ぎ足し(少しは薄められてきれいになるか!)、うんと熱めにして、入ったと思います。殺菌のつもりですかね。

パロディー東海道中膝栗毛 その4


 「宮」にて熱田神宮を参拝し、神事を拝観する
 
  宿場「宮」は熱田神宮の門前町である。すぐ近くにあるから、というかこの宿場自体が神社の境内の延長のようなものなので、ここを通るものはだいたい参拝する。三種の神器の一つである草薙剣をご神体とする全国有数の大社である。
 弥次喜多が見ているのは「馬の塔」という神事で競べ馬(くらべうま)に似ている。

 この宿場「宮」から次の桑名までは多くの旅人は海上コースをとる。歩かなくていいのだが海が嫌いな人や船酔いする人は陸上コースをとる。
 
 海上七里で桑名に着く

 東海道の旅はすべて陸上と思われようが、その中で2か所は船で宿場間を行くのが一般的であった。もちろん2か所とも陸上コースもあるが。
 一か所は浜名湖の辺りで「新井」。この辺りは東海道の中間点に位置するためか、箱根と並んで有名な「新井の関所」も置かれている。
 船旅の距離はわずか一里(約4Km)。
 下はまず最初の一つ目の船旅である。

 そして二つ目は上記の「宮」から乗る船旅である。宮⇒桑名までの海上七里のコースである。新井の船旅は一里であったのと比べると距離が長い。約28Kmである。

 当時の船は現在のものより小型で乗り心地も悪く、船に弱い人もけっこういたと思う。しかし陸上を行くと、宮から桑名までの間は木曽三川と呼ばれる大河、木曽・長良・揖斐川が流れており、湿地帯を通り、何度も渡し船に乗らなければならないわずらわしさがあるので、よほど船・海が嫌いな人以外は海上コースをとった。

 天気がよく、海が凪いでいれば、歩き疲れた体を休め、景色を眺めたり、酒や寿司など食べたり、乗客同士の話にうち興じたり、で楽しく楽な七里の船旅であった。

 上陸した「桑名」はこの時代から名物「焼き蛤」が有名で、弥次喜多も船を下りれば、すぐにも食べるつもりでいる。

2011年11月11日金曜日

江戸は夢か(東海道中膝栗毛番外編)


 今、バーチャルな江戸の旅を楽しんでいる。県内の温泉でさえ行きかねている貧しいやまさんだが、唯一の贅沢、パソコンとネットを持ったおかげで仮想とはいえ、歌川広重の木版画に仮託して天保時代の東海道の旅を続けている。

 考えるとこれほどの贅沢はあるまいと思う。確かに金さえあれば、今や世界のどんな地域、それが秘境であろうとも行くことができる。そして金を使い楽しむことができる。
 しかし、どんな億万長者であろうとも時間を遡り、江戸の旅をすることは万金を使ってもできまい。もちろんそれはビンボー人にとっても同じことである。
 それでも江戸の旅をしたいものは仮想現実の世界か夢の世界での実現しかないだろう。ここにおいては金持ちもビンボー人も差はないだろう。

 いやむしろ現実の旅行が困難な分だけビンボー人の方がその動機も強いし、腹減って常においしいごちそうの夢を見る訓練ができているため、何でも実現する金持ちより、仮想の世界や夢の世界にすぐぶっ飛ぶ力が強いかもしれない。

 キリストだったか
 「貧しいものは幸いである。心豊かなり」
 とか言ったようなきがするが・・・・・

 何でも金持ちには勝てないんだから、せめて「心の旅」のようなものではビンボー人の方が勝ちたいと思うよね。
 でも貧窮に責められれば、心も貧しくなりそうな気もする。
 しかし、それじゃ、救いがない!仮想や夢ぐらいビンボー人の方がまさっていると思いたいよね。

 「しょせん、バーチャルな江戸の旅、といってもそりゃ、白昼夢にしかすぎん!」

 とおっしゃる方もいようかと思いますが、私にとって

 「江戸は夢か?」

 と問われれば、夢ではなく私の心の中では確かに存在します。江戸は私にとってすぐそこのような気がします。
 よく祖父から聞かされた曾爺さん(生まれたときは亡くなっていた)は〇〇新左衛門といって江戸生まれでした。また小学校の低学年まで近所にいた九十何歳のおばあさんは自分で

 「わたしゃ、文久(徳川家茂の時代)のうまれじゃ」

 といってました。我が家には江戸時代の刀、槍などもありました。
 そして大きくなって歴史好きになりより江戸時代が身近に感じられるようになると、江戸は決して夢でなくつい私が生まれるちょっと前の時代となりました。

 天保時代の東海道の旅は私の何代か前の爺さんが実際旅したものであったと思うとき、広重の版画に手をくわえつつ

 「ホンマにたびしよるようじゃなぁ~」

 との感を強くします。


 弥次郎兵衛と喜多八のプロフィール

 2人のキャラをここで簡単に紹介しておきます。

 弥次郎兵衛は原本では「ただの親父なり」と書かれています。喜多八より年上で親子ぐらい年齢は離れています。
 既婚者でしたが妻は亡くなります。ルーズな男で妻はかなり苦労したと思われます。おまけに女をだますというまでには悪質ではありませんが、あまり働かず、女の金を当てに調子のいいことを言って貢がせたり、食い物にしたりするところがあります。
 そのため妻は死んだのに手元には結構な金が残り、その金をあてに妻が死んですぐに喜多八を連れ立ち、極楽とんぼな東海道を上り西国物見遊山の旅に出ます。

 喜多八、これもまじめな男ではなく、美男というわけでもないのになぜか歌舞伎の役者の端くれとなります。しかし大きな役が付くはずもなく、お決まりの役者崩れとなります。
 この時代の役者崩れと云ったら、金持ちの後家(亭主が死んで体を持て余している熟女)の男妾。あるいは役者に上がる前に働いていた陰間(今だと若手のオカマバーというものだろう)の趣味をいかして、男相手の妾(歳がいってゲイからガチホモになったのか)。
 しかし、この野郎は女も大好きで、女を見ると口説きにかかるところがありますが、全然持てず馬鹿にされっぱなしになります。
 弥次さんと知り合ったのは文字通り、「尻あい」としてではなく、女関係のややこしいもつれからでした。

 まあ、この二人、憎めないのですが、女に関しては性質(たち)の良くない男で、原本でも色事には様々チャレンジしますが失敗、恥かきの連続となります。

 江戸時代、こんな男がふらふら生きていたというか生かされていたというのも驚きですが、大金を持って何カ月にも及ぶ旅に出たというのにもびっくりします。
 江戸はエロスばかりでなく人の生き方もなかなか奥深く幅広いものがあります。

パロディー東海道中膝栗毛 その3

 名物茶屋で休む弥次喜多

 食い意地の張った二人は適当なところに茶屋があるとすぐに一服を入れる。特に名物茶屋となると見逃しはしない。酒を注文し名物に舌鼓を打つ。

 ここは鞠子の宿、とろろ汁が名物である。どっかと腰を下ろし、おかわりを注文している。歩きの旅でこれではなかなか先へ進まない。

 御油の宿場は強引な客引き女、留め女という。

 今ではこのような強引な客引きは禁止されているが、江戸時代は当たり前。このあたりの客引き「留め女」は名物になるくらい有名だった。

 右と左の宿から出張った留め女に左右から引っ張られ袖が引きちぎたりする。真ん中の男は襟をつかまれ引きずられようとしている。こうなったら逃れるのは難しい。

 ずいぶんと不美人だが、夜ともなると留め女はコッテリコンと白粉をつけ、没個性的な白塗り女「飯盛り女」(宿場の宿が抱える売春婦)に早変わりする。こちらの手練手管も強引であろうと推理される。

 「旦那さん!はよう、済ましてや~」

 「いらんことせんと、さっさと入れて抜いてんか!」

 などとえげつないこと言われて追い立てられたんでしょうな。

 多くの旅人相手でさっさと数をこなし、儲けるのが彼女の仕事。といっても今ほど高くはない。まあいわば薄利多売か。

 この右の窓から顔をだし頬杖をしてる女、ちょっと美人ですなぁ、留め女のすごい顔と比べてもね。多分、留め女のような肉体労働兼任の売春婦でなく、専門の売春婦かもしれません。芸者かもしれませんね。


 赤阪の旅籠の内部

 当時の旅籠のサービスがすべてそろった場面です。
 飯、風呂(左の廊下の突き当りであろう、これでは見えていないが、いま喜多さんが手拭いを肩にかけた湯上り姿でいるので風呂上りとわかる)、あん摩(盲人とわかる按摩さんが入ってきている)、そして右の部屋では飯盛り女(売春婦)がいる。弥次喜多の相手であろう。

 この時代、旅籠に泊まるくらいの金のある男は夕飯を食べるような感覚で毎夜、宿場ごとに売春婦を買うことは一般的であった。
 売春が違法となったのはたかだか昭和34年以降である。江戸時代は買う方も売る方も不道徳をやってるなどとは微塵も思わなかったはずである。

パロディー東海道中膝栗毛 その2

 戸塚にて日暮れ、旅籠に泊まろうとする

 弥次喜多はかなり懐具合もよいのであろうか、この旅籠はかなり高級な部類に入る。路銀が乏しい旅行者は木賃宿に泊まる。もちろん食事つきではなく、自炊が原則、汚い大部屋で混んでるときは目いっぱい詰め込まれる。ただし料金は非常に安い。マキ代の木代という意味で「木賃宿」と名づけられた。

 この旅籠は食事・風呂付である。馬から戸口に乗りつけたお客を女中が丁寧に迎えている。
 旅籠代が気になるところだが、いくらくらいであろうか?まあ推定だが銭500文、銀だと5匁、貨幣だと1~2朱というとこだろうか。いやいや、女中の雰囲気からしてもっとするかもしれない。

 富士を間近に見て感動する弥次喜多

 江戸からでも富士はみえる。江戸時代は大気汚染の心配はないため晴れていれば街中から遠望も楽しめる。しかし、間近に見る富士は格別である。やはり日本一の霊峰である。

 弥次喜多、日暮れて思わぬ大雪にあう

 話は現在に飛ぶが、昨日は日中から寒かった。暖房を用意したくらいだが、夜に入っても寒く鼻とのどをやられてしまった。
 東海道が通っている太平洋側は冬は乾燥した晴天が多いが、時たま低気圧が発生して思わぬ大雪になることがある。この江戸時代は今よりこういった大雪は多かった。

 大雪にあった弥次喜多、日暮れて宿を探そうにも早々と家々は戸を閉めてしまっている。
 ほとほと困惑する二人。明日にはここに大きな雪だるまができているのだろうか?