2022年11月28日月曜日

峰・滝、両薬師参拝

  昨日以上に、今日は暖かかった。冬に突入前の、天からの最後の「小春日和」の贈り物かもしれぬと、最近の体調不良で何かに縋りたい気持ちもあり、歩いて峰のお薬師さんと滝のお薬師さんにお参りしてきた。

 私は強固な神仏にたいする信仰があるわけでもないし、特定の宗派宗教も信じているわけではないが、神仏をたのみとする私の心情は、西行の次の歌に尽くされている。

「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

 峰の薬師


 滝の薬師


 薬師信仰は仏教伝来以来千数百年の信仰を持つ。特定の宗派や教団にかかわりなくあまねく信仰されている。阿弥陀はん、お釈迦はん、大日如来はんはそれによって立つ宗派教団があるが薬師如来はんにはそのような宗派教団はない。癒されることを願う人々はみんな信仰者だ。そのためか寺の本尊でもっとも多いのがこのお薬師さんであると聞く。

 そうそう、また大河の話題となるが、吾妻鑑によると、義時が実朝暗殺に巻き込まれず命永らえたのはこの薬師信仰のおかげであるというのがある。お薬師さんは十二の神将の眷属眷属とは、まぁいわば薬師如来さんの子分・家来のようなものである、しかし神格を持っている)を持っている。それぞれ武神の格好をしているが、十二神将あるためか、十二の干支に比せられている。この中の十一番目の神将は「戌神」(いぬがみ)といわれるが、その戌神が義時の夢枕に立ち、前もって凶行を予言し、また凶行当日、鶴岡八幡宮にその戌神が現れたため、義時は急きょ実朝の太刀持ちを辞退したため、公暁らの襲撃を免れたというものだ。

 昨日の大河ドラマでは、義時の太刀持ちの変更は、実朝からの間接的な命令によってであり、吾妻鑑のこのような神仏霊験譚には組していない。

薬師如来眷属・十二神将


2022年11月27日日曜日

晩秋

  今月もあと数日で終わる。晩秋の穏やかな天気は今日明日くらいまでで、その後雨の日が続いた後、来月からは一段と寒さが増し、いよいよ冬となる。歳とともに遠出をするのがしんどくなっているが、寒くて風の強い冬の天気となれば、ますますおっくうになる。

 今日は鮎喰から佐古まで車の比較的少ない間道を歩いて、残る秋を見て回った。

鮎喰川河川敷はススキが風に揺れていた。晩秋の斜めにさす陽光で銀色に光っている。


いつもは鉄橋を渡る列車から鮎喰川を眺めているが、今日は反対に鮎喰川から鉄橋上の列車を眺めてみた。


城西高校(旧徳農)の敷地内の木々は鮮やかに紅葉していた。



蔵本公園の桜木は半分以上落葉していた。

藍場浜公園の木々、紅葉ももう終わりだ。木枯らしが吹くのも近い。

実朝暗殺の前に

  先週の大河で実朝暗殺か、とおもったが大事件のためか、引き延ばされたが、今日がいよいよ暗殺本番となる。さて、暗殺に至るまでと公暁抹殺までどのような複雑な人の動きが展開されるか、それは興味があるが、もう私は、大方の真面目な歴史学者の言うとおり、公暁単独犯に(心情的にも)傾いているので、黒幕説は支持しないで今日の大河を見る。

 小説家や脚本家は「自由な創作」が命なので、どのような奇天烈な説を唱えようが自由だが、首尾一貫性は大事にしてほしいものだ。鎌倉時代人ではなく現代人の行動の論理性に重きを置くのは歴史ドラマとしていいとしても、論理矛盾や首尾一貫性の破綻は止めて欲しい。

 予告編によると、エピソードか、それとも重要な事柄なのか分からないが、怪しげな予言ババアが出てくるようだ、前々回か、このババァ見た時、「あらぁ!」ババァ役の「北林谷栄」がまだ生きとったんか!と思わせるほど北林谷栄ににた婆さんだったが、あとで配役をみるとこれが「大竹しのぶ」、ワイらが若い頃は、おぼこな田舎娘のキャラで、今になってもそれが頭にインプリンティングされているが、時と共に変われば変わるものだ。

 世界を含め世に暗殺事件は数々あれど、こんな絶好の見せ場での暗殺成功はちょっとないくらいすごい。最高権力者が戴冠式とほぼ同じような「場」で殺されるのは、例としては思い出せない。日本の重大な暗殺は、入鹿、実朝、義教、信長にしても、白刃をひっさげて堂々と斬りかかっている。ある意味暗殺者も覚悟の凶行である。しかし世界史の大帝国の権力者の暗殺は、こっそりと(あわよくば暗殺者が誰か分からぬよう)実行される場合が多い。そのため毒殺や宮廷奥深くでの密殺が多い。日本ではそのようなこっそりの暗殺が少ないのは、命のやりとりに対する潔い国民性か、それとも武断的な武家が政権をズッと担っていたためだろうか。

 今日の見せ場の「鶴岡八幡宮社殿の石段」を実際に見たい気がしたが、今まで忘れていたが、なんと、ワイ、十年前にここへ行って写真を撮っとったわ、これを見ながら、ふむふむ、ここで暗殺が行われたんやな、と改めて思った。当時の公暁が潜んだと言われる大銀杏は枯れていたが、大きな切り株はまだ残っていて、当時を偲ばせる。

 そのブログ、ここクリック

2022年11月25日金曜日

紙芝居屋さん

  紙芝居屋さんが街角や広場に来なくなったのは私が小学校の何年生頃だろう。はっきりはしないが各家庭にテレビ受像機が入り出したのと軌を一にしていると思う。我が家でテレビの中古が入ったのはもう中学に上がってだが、それ以前の小学校の時にも子ども向けの面白い番組があるときは、テレビの入っている友達のウチに見せてもらいに行ったり、早めに銭湯へ行ったりして見た。そのころからはもう「紙芝居屋さん」の記憶は途絶えていた。

 紙芝居屋さんは、もうかなり年配の人だった。そうとう年季が入っているのか、紙芝居の人物のキャラに会わせて、娘や老婆、怪物などの声音を使い分け、今から考えると、ほとんど声帯模写の芸の域に達していたのじゃないかと思う。

 自転車の荷台に紙芝居の枠板、そして引き出しのついた菓子類の箱を載せてやって来たが、メガホンをもっていて、「さぁ、始まるよ~」と大声で周知していた。

 紙芝居屋さんから駄菓子を買った子どもが紙芝居を見る権利があったが、菓子を買わない子でも、買った子が取り巻く集団から少し離れて見るのは大目に見てくれていた。自転車の荷台に紙芝居の道具と共に持ってきている菓子類は種類も限られまったく他愛のない駄菓子だが、なぜか駄菓子屋の菓子よりこちらの菓子が子どもには人気があった。

 のしイカ、スルメ類、ポン菓子せんべい、そして水飴、水飴は紙芝居を見ている間に二本の箸でこねくり回していると透明な水飴が白くなり、おいしさが増すように思われた。くじ引きや、切り抜き菓子板もあり、こちらは当ったり、うまく切り抜くと、おまけの菓子がもらえた。

 紙芝居屋さんが見せる「紙芝居」は鏡に反射させたもので、抜き取る紙芝居の場面に緩急をつけ、臨場感を出したり、ペープサート(切り抜きの人物)のような工夫もあり、面白かったが、普及しだしたテレビの子ども向け番組には対抗できず、消滅してしまった。

下は佐古の諏訪神社境内の紙芝居に集まる子供ら、今もこの境内は昔と変わらない。一人ぽつんと離れて見ている男の子は駄菓子を買う小遣いを持っていないのだろう。ちょっと切ない後ろ姿である。(撮影年月日ははっきりしないが昭和30年代前半ではないだろうか)

2022年11月22日火曜日

一番短い橋

  標高の一番低い山として徳島市方上町の弁天山が有名で、観光のPRの対象ともなっている。しかし、こちら、蔵本町三丁目の八坂神社(祇園さん)の鳥居を入ったところにある「県内で一番短い橋」は忘れ去られている。弁天山の方は国土地理院の認定があるが、こちらの橋は昔からそのように言い伝えられてきただけで公的な認定はないし、橋とは言っても昔は下を小川が流れていたが、いまは全て暗渠化され石やコンクリで覆われている。

 明治10年に架設され、当時県内で一番短い橋といわれた。やがて川もなくなり、表面は舗装化されたが、このいわれのある橋を後世に残していこうという意志が働いたのか、小さな橋は今も残っている。

 鳥居の手前、欄干のある橋のがそうかと思うがそうではなく、鳥居を入った奥に見えているのがその橋である。


 下のような橋で、「櫻橋」という。左の石柱は「さくら橋」右のそれは「櫻橋」と彫ってある。



2022年11月21日月曜日

大河はん!そりゃなかろうぜ。


  昨夜の大河、実朝暗殺の直前で、次週につづくとなった。しかしもうそれぞれの役割はきちんと決まっていた。やはり予測したとおり、公暁を教唆し、あわよくば最高権力奪取をねらった第一の黒幕が三浦義村、そしてもっとも背後にいたラスボス(元凶)は北条義時である。この大筋は永井路子氏の小説と一致しているが、以前の大河の実朝暗殺との違いは、実朝側近の策士・源仲章も権力奪取に強い意志を見せ、実朝を動かして、なんと!鎌倉にある将軍府を京都六波羅に移そうと画策し、実朝も受け入れ、直前にそれを義時に打ち明けている。そしてそれにあきれた北条義時が最終的に実朝を除く決断をする。(京都へ鎌倉府を移すなどという史実があるかどうか疑問だ)

 とまぁ、三人三様の策をめぐらせる訳であるが、昨夜の放送の時点では、まだ義時の優位は確定していない。我々は史実として実朝とともに源仲章も公暁らによって殺されることを知っているし、三浦は飛び込んできた公暁を抹殺したことを知っているので、義時が最大の利益者であり、だから黒幕ではないかとみているが、三人三様の策略がどのように絡み、最終的に実朝、公暁、源仲章が殺されるのかは、次週ドラマを見なければ分からない。

 まぁ、次週楽しみ、といいたいが、それぞれ策士三人の計画が、まぁ軽いこと、これは例えると、悪人とまでは言えない不善を為す小人が、ホームドラマか学園ドラマで、罪にもならないようなコソコソした「悪巧み」をやっているようなもの、日本史上有名なこの実朝暗殺に関して言えば、みんな生きるか死ぬか、そして最高権力を手にできるか、どうかである。必死で綿密な計画を立てるのが普通であろうが、どれも軽率でおざなり感がある。どうも歴史ドラマである大河が、ホームドラマや学園ドラマ、せいぜいのとこ、お茶の間の2時間サスペンス劇場になっているみたいだ。

 私が仰天したのは、公暁の父の頼家の死の真相を知った実朝が(直前まで知らないとは不思議な話だが)、なんと、凶行の直前、公暁のもとに出向いて深く頭を下げ謝罪する、そして今日の拝賀式を利用して、ワイら二人で元凶(義時らをさす)をやっつけようではないか、と提案するのである(実朝が去ったあと、公暁がだまされるものか、つぶやくのでこれは成功しないことが暗示される)。これを見た時、思わずテレビに向かって叫んだ。

 「大河はん!そりゃなかろうぜ」

 加害者と被害者があらかじめ申し合わせていて、凶行にみせて二人の目的を達する、というのは、なるほど火曜サスペンス劇場の犯罪モノなら、ありそうな話だが、それを13世紀の鎌倉でやるか?断言してもいいが、こんなの史実どころか、毛もないだろう。確かに娯楽性の高い大河ドラマとしての脚色はあろう、実朝と泰時の片想いの恋などは想像力を働かせたものとして百に一つくらいは可能性のある話ではあろう、そしてそれをとりあげたらドラマは面白くなるが、この実朝と公暁の直前の密談はいくら何でもあり得ぬし、見ていてこちらが混乱してしまう。永井路子氏の実朝暗殺黒幕陰謀説のさらに上を行くつもりで、脚本家は考えたのかも知れないが、それではあまりにも複雑混乱をきたしてしているのではないかと言われてもしかたない。

 私は史実として、今まで実朝暗殺に対するいろいろな人の説のどれも信じているわけではないが、昨夜の大河をみて、

「これは、公暁ら単独犯説がもっとも信じられるわ」

 と思うに至った。これだけ怪奇とまではいわないにしても複雑で混乱した数々の陰謀の錯綜をみていると

「真実は単純なものに宿る」

 という格言を思い出す。史上有名なこの暗殺事件もそのように考えたらいいんじゃないかと思っている。最近、この実朝暗殺に関し興味が起こったので最新の学者の、それに関する説を幾つか拾い読みしてみた。その中には中世史の新書では珍しくベストセラーになったG教授もいる。するとどの学者も公暁単独説が真実に近いと断言していた(もちろん公暁一味も含む)。昨日のドラマの(私にとっては)混乱ぶりを見ていると、その思いを強くする。

 トップに君臨する者の突然の暗殺は、大きな影響をさまざまな人の上にもたらす。そしてそれに影響された人がまるで玉突きの「玉」のように、次々と他の玉(他者)を動かしていく、玉(人)はどの方向に跳ね返るか分からない、突然の事件に一瞬は呆然としても、すぐ正気を取り戻し、新たにもたらされた状況に、ある者は、自分にとってより悪くない方向に動こうとするし、またある者はそれを、より自分にとって有利な方向に持って行こうと動く、それが各玉がどっちに跳ね返るか分からず、次々と他の玉も突き動かすのである。

 結果、当時の人が誰も予測しなかった方向に全体が動き、新たな状況が作られるのである。これは最近起きた元首相の暗殺事件についてみるとよく分かる。逆恨み感の強い犯人によって引き起こされた殺人は(今のとこ黒幕がいるとの確証はない)、上記のようにおもわぬ方向へ全体を動かす。特に注意したいのは、暗殺によって引き起こされた状況を、ある政党は少しでも悪い状況にしないように動き、また別のある政党は、逆に少しでも自党を有利な状況に持って行こうと動く、各玉が衝突し、軋轢を繰り返し、全体は新たな状況に推移するのである。この各「政党」の動きを、鎌倉時代の「各氏族」の動きとみるとよく理解できる。

 以上のように考えると「最大の利益者が真犯人である」という、刑事物の通説は、歴史に関しては言えることではない。後世から見ると義時を中心とする北条氏が最大の利益者のように見えるが、それだから彼が黒幕であり、真犯人とは言えなくなる。史実は、公暁単独犯であったという最近の学説にもっとも説得力があると私は思っている。

 それにしてもこのドラマの実朝くん、ますます可哀想さが増す。素直でいい青年将軍が後ろ盾となる北条氏からは切り捨てられ、最愛の泰時くんとの恋も成就せず、心から謝って、公暁くんと二人で元凶を取り除こうとするも出来ず、殺されてしまうのだ。何重にも可哀想だ。

 下は、唯一、実朝くんが恋しい泰時くんに愛を告白しようとしたとき


実朝くんは和歌の恋の歌に託し泰時くんにラブレターを送る、その和歌。

 『春霞 たつたの山の 桜花 おぼつかなきを 知る人のなさ』 

 私が意訳すると(※ボク(実朝)と泰時くんのと間には、春霞がたつているようだ、ボクはこんなに恋に燃えているのに、隔てる霞のため、はっきりとはわからず、知ってほしい人には届かない、それは泰時くん君だ、ボクは切ないよぉ~

 を送るが、鈍で和歌の素養のない泰時くんは、わからない。人から、これは恋の歌ですと指摘され、実朝くんのところに、それを持って行って

 「あのぉ、これ、まちがってますよ、これ恋の歌ですよ」

 という。シャイな実朝くんは、あ、間違ってたわ、と笑いながら受け取るのですが、このシーン、このぉ~ぼんくらがぁ! と笑いながら突っ込みをいれるところだ。 

2022年11月20日日曜日

大河は最大の見せ場にさしかかる

 


 言わずと知れた実朝暗殺である。「見せ場」と言ったが、これは江戸期以降の歌舞伎の舞台、そして近代に入っては映画、テレビなどのここ一番の重要なシーンのことをいう。現実の暗殺に「美意識」が入ることはまずあるまいが、「見せ場」ではたとえ暗殺でも「美意識」が入ればすばらしいシーンとなる。

 不思議なことに現実におこった「実朝暗殺」は、見せ場となるシーンの要素を多く持っている。というかよくまぁ、これだけいい役回りの者と、いいシュチュェーションがそろったものだと感心する。場所は鎌倉幕府の源泉的中心である鶴ヶ丘八幡宮の参道、降り積もった雪明かりが明るい夜、まるで壮大なページェントのような「右大臣拝賀の儀式」、都からの貴族も参列し、松明でさらに明るい行列はしずしずと進む。そして拝賀が終わって退出の行列が下るとき、社殿石段の大銀杏から暗殺者たちは飛び出す、実朝暗殺は成功するが、同時に殺された太刀持ちは本来は北条義時であったはずだがなぜか事前に変更になり、義時は難を免れる。

 日本史上、極めて重大な暗殺事件を思いつくままあげると、蘇我入鹿、源実朝、足利義教、織田信長、大老井伊直弼、などであろうが、実朝暗殺のシーンがもっとも悲劇的で、美しいほどドラマチックな暗殺現場である。大老暗殺も雪のシーンではあるが、美的観点からの見せ場となると実朝のページェント(華麗な行列)には劣る。また世界史をみても、この悲劇性は抜きん出ていると思っている。悲劇性で比較できるのは第一次世界大戦の引き金となったサラエボでのオーストリー皇太子夫妻暗殺事件くらいだろうか(断末魔の皇太子が妻に向かっての叫びに、子のために生きてくれ、というが、妻もやがて事切れる、後には孤児になった子が残される、という語るも涙の話がある)。上に挙げた蘇我入鹿、足利義教、織田信長、大老井伊直弼にしてもかなり強引に権力を振り回し、その身にも暗殺される原因の一端はあったと思われるが、青年将軍実朝にはそのようなものはない。

 大河でも実朝は優しく穏やかな教養のある青年として描かれている。そして最も信頼できる第一の臣下である泰時への秘めた愛が切ない。殺される理由のない実朝暗殺は「見せ場」として観客の紅涙を絞りそうである。

 最大の「見せ場」はこれで終わらない。歴史的な「画期」となるのは実朝暗殺以上に「承久の乱」のほうが大きい。実朝暗殺が華麗なページェントであるならば(突然、断たれ大混乱に陥るが)、こちらは勇壮な「合戦絵巻」とでも言おうか。「保元の乱絵巻」や「平治の乱絵巻」のように目もあやな、美しい武者の甲冑騎馬姿は惚れ惚れするほど美しい。保元・平治のときの騎馬武者の姿は鎌倉武士と変わりない。大河における承久の乱の見せ場は、このような合戦絵巻風の描き方の如何にかかっている。しかし、予算の関係か、あるいは馬の調達、そして撮影のための馬の調教の難しさからか、最近の(中世の)合戦絵巻は小ぶりで見ていて私は不満である。歳ぃいったジジイだからか、往年の黒澤明監督作品の人馬一体となった合戦シーンを見ているので最近のものは(甲冑などは色鮮やかで美しいが)物足りなさを感じている。合戦絵巻はどのように描かれるか、楽しみであるが、期待はしない方がいいかも知れない。ちょっとした(承久の乱)合戦のエピソードでお茶を濁される気がして、落胆しないようにしている。

 エピソードと言えば合戦前に鎌倉武士を前にした政子の演説?は有名で大河でも必ず取り上げるであろう。彼女の演説は、朝廷に逆らうことに対しためらいのあった武士や、京都方の軍勢をこちらで迎え撃つというような消極的な武士たちの態度を一変させたものとして知られている。鎌倉武士の胸を打ち、奮い立たせたことは間違いないが、それは彼女の演説のうまさ(裏には筋書きを書いたものがいるかもしれない)にあると言われている。京都方(後鳥羽上皇)が発出した院宣は「義時を討て」というものである。義時を名指ししたものであるが鎌倉幕府・将軍、御家人体制を否定したものではない。しかし政子の言い分は、院宣は「鎌倉体制・御家人全体」を敵としたものであるとしている。うまくすり替えが行われている。

 戦時において言葉すなわち為政者の「演説」の持つ力のすごさは、今現に起こっているウクライナ戦争でのゼレンスキー大統領の国民・軍を奮い立たせた演説をみて我々はよく認識できる。戦時においては集団興奮が発生しやすい。演説にあおられ熱狂すると「大同」が大きな流れとなり「小異」は押し流されてしまうものである。

 ただ政子の演説は結果として、鎌倉武士をこちらにいて迎撃するより、こちらから京都に向かって積極的に進軍させることになり、勝利に結びついたといわれている。実のところ、鎌倉武士が乱れずに一味同心し、積極的に京都へ攻め上る戦略をとった時点で、もう京都方が勝てる見込みは消え失せたのが本当である。1600年に起こった「関ヶ原の戦い」のよう東西がほぼ互角の軍勢を用意し、激突してみなければ勝敗は分からないと言ったものではなかったのである。

 この承久の乱の鎌倉方の勝利は歴史的には大きな画期となった。鎌倉幕府が安定し、この後も公武体制は維持されるものの権力では武は公(朝廷)を抑え込むものとなった。そして以後7世紀以上にわたって続く武家政権が幕開いたのである。承久の乱後、出された武家の法令(式目)に有名な「御成敗式目」がある。乱で活躍した泰時が執権となり施行されたものである。51条ある。読んだ人や、そもそもこれに関心を持つ人は少なかろうが、これをみると泰時を始めとする鎌倉武士たちの倫理、宗教観、遵法意識、家族のそれぞれの地位、彼らが道理(理にかなっている)とするものがいかなるものかよく分かる。中世の歴史が好きな人には是非読んでもらいたい。大河ではこのような法令集は面白くないので取り上げない公算が大きい。

 今夜の「鎌倉殿の13人」、いよいよ鶴岡八幡宮雪の惨劇の前夜か?

追伸

 大昔、やはり大河「草燃える」で実朝くんやったの誰か忘れたので検索すると篠田三郎だった。やっぱ、今回の大河と同じで実朝のキャラは、真面目で、教養のある好青年で描かれてますわ。ちなみに今回の大河の実朝くんのボーイズラブの相手の泰時君は昔の大河では中島久之、どっちもジャニーズ系のイケメンだ。何十年たっても実朝も泰時もキャラは変わらんちゅうこつか。(ワイ、この篠田三郎と同い年じゃと思とった、調べたら実は少し上。ずっとワイの方が醜いが、歳ぃいったら老化してその差は縮むかとおもたが、変わらんどころか、篠田のほうがズッといいおっさんになっとる


2022年11月17日木曜日

常用薬

  常用薬、あたりまえだが、毎日必ず服用する薬だ。私は現在何種類かそれを飲んでいる。キツイ症状があって飲まなければひどい苦痛に襲われるというようなことではなく。主に予防や悪化を防ぐためである。それとほぼ常用薬化しているのが精神安定剤である。これは精神の安定と言うより、睡眠不足を軽減するために飲んでいる。

 本当は常用薬など飲みたくない、なんとか縁が切れないかと思うが、まぁ寿命が尽きるまでそれは無理だろうとおもう。高齢になるということはそういうことなのだ。

 今年の1月から血圧の降下剤がそれに加わった。高血圧はずっと前から気づいていたが、症状がないため無視していた。しかし70歳を過ぎて、高血圧のため脳や心臓の病気で頓死するニュースを聞くたび、人ごととは思えなくなった。今年初め胃カメラを飲んだとき、計った血圧が異常に高かったことに恐れをなして翌日循環器科を受診した。症状がないため軽く考えていたが、医師から脅され、結局、血圧の薬も毎日一回飲み始めた。

 血圧計も購入し朝夕血圧をプロットしている。朝は高く、寝る前は低くなる。夏からついこの間までは朝は130前後(下は80)、夜は120弱(70)くらいで推移していたが、最近、朝、ずいぶん冷えるようになって血圧が高めになってきている。去年までは血圧計もなく、もちろん症状もないから、高血圧など気にせず暮らしていたが、毎日血圧を測り、血圧に注目するようになって、これも心配のタネになっている。

 正直、症状もなく、ある日、高血圧のため脳血管か心臓がパチンとなり、頓死するならそれでもいいと思うが、そううまく突然死はしない可能性が大きい。結果、全身麻痺や半身不随になることを思えば、やはり予防のため血圧の薬も飲まざると得ないのだ。

2022年11月11日金曜日

向麻山の石仏を見に行ってきた

  何度か向麻山の石仏を拝みに行ったのだが、昨日のブログでこの石仏は「摩利支天」さんだと紹介した。しかし気になって今日、現地へいって何枚か参考のため写真を撮ってきた。

 秋だなぁ~、途中、カラスウリが真っ赤に実り、絡みついた木から垂れ下がっていた。


 まず向麻山の鳥瞰図を見ていただこう。古墳のような独立した小さな山、といったが下のようなものである。すぐ横には飯尾川が流れている。摩利支天さんの石仏は頂上から少し下ったこの位置(矢印)にある。


 今から12年前、石仏に詳しくないころ作成したブログでは、私の推理として、これ、田畑を荒らし、作物を食い散らす、シノシシ除けの守護神として拝まれたんじゃないかと思っていた。石仏は憤怒の形相で、イノシシを踏んづけているからだ。

 そのあとで天部の仏を含め多くの仏さまがあることを知り、これはイノシシに乗った「摩利支天」さんじゃないかと判断した。

 摩利支天さんはどんな仏様(天部)というと、ウィキによると

 『摩利支天(マーリーチー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」(Marīci)を神格化したもので、由来は古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場するウシャスという暁の女神であると考えられている。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。

 とある。 そのお姿は通常、三面(顔が三つある)、各三眼、八臂(はっぴ)で金剛杵(こんごうしょ)、弓箭(きゅうせん)などを持ち、猪(いのしし)に乗る姿で示されるが、調べると下の写真の石仏のように、一面で弓矢だけが目立つ摩利支天さんの石仏もある。


 以上のことを踏まえたうえで今日、向麻山に出向いて撮った石仏を見てもらおう。

 このような急な山の斜面にたっている。

全体像
足元のイノシシ、カエルみたいだが尻尾がある。

 台座は少し風化しているが刻文は読めないことはない。

 台座前面は建立者や協賛者の名前が彫られている。所は美馬郡拝原村と読める


 台座右面は年号 建立は明治十三年である


 台座左面は、石工の名前が読める。石井村、遠藤某


 台座の後ろは何も彫っていなかった。台座にはこの像は摩利支天さんですよ、と示すような刻文はなかった。私はこの石仏は摩利支天さんと判断したが、どうだろうか。

追伸 

 ネットでニュースを見ていると巨大イノシシ捕まるとのニュースが配信されていた。

 記事によると、体重200キロ超、体長182センチ、胴回り141センチもある雄の巨大イノシシが、鳥取県江府町内の山中で仕留められた。ぼたん鍋で200~300人分の肉が取れるそうだ。写真を見ると、もののけ姫に登場する巨大な猪神、乙事主みたいだ。

2022年11月10日木曜日

イノシシについて書きちらします

  わがローカル紙の今日の一面トップニュースはイノシシが小松島の中心街に現れ大暴れし、小学生を含めた6人が怪我をしたことであった。まったく凶暴なやつで許せないが、太古から日本人には身近な動物で、害獣ではあるが蛇蝎のように嫌われた動物かというとそうでもない。


 我が県の西の方に住む年配の人は子供の頃、「亥の子」の祭りを祝ったことを覚えておられないだろうか。これなどは子どもの健康息災を祈り、豊穣を感謝し、子孫繁栄を願う行事である。これは祭りの名称「亥の子」を見ても分かるように、多産なイノシシにあやかっていると言われている。害獣ではあってもイノシシの多産に注目し、祭りの名称に取り入れるほどであるから、まったく嫌われている獣ではないだろう。また「亥の子」・イノシシの子の「うり坊」は、かぁちゃん、これ飼ってもいい?と言わしめるほどカワイイ。

 そういえば亥の子の祭りって今頃だぞ、と調べると(旧暦10月の初めての亥の日)今年は11月6日、つい数日前の日曜日だ。「ワイの祭りだワッショイ」などと浮かれて、小松島のイノシシは出てきたわけでもなかろうが、この時期、イノシシは目立つのかな。

 そうだそうだ、ヨーロッパでも日本でも森林は「落葉広葉樹林」が多い。この樹林帯は樹木がクリだのドングリだのの木の実をつけ、秋になると落ちてくる。それはイノシシの大好物で冬に向かっての皮下脂肪を厚くする重要な食べ物である。結果、この時期は昔からイノシシが目立つのだ。だから亥の子の祭りも、ドングリなどをウマイウマイとあさるイノシシ、かたや秋の田の豊作を喜ぶ人間と、季節が重なる今となるわけだ。


 とまぁここまでは可愛らしい子どもが中心の「亥の子」祭り、可愛らしくないおっさんオバハンはイノシシなんぞ関係ないわ、いやいや、そんなこおまへんでぇ~、博打好き、特に花札賭博のすきなおっさんオバハンは花札の、猪鹿蝶でおなじみでじゃないですか。

 左がその花札、ご存じイノシシと萩の札。ちなみに花札は季節感を大切にする日本で生まれたトランプだからか、全て春夏秋冬どころか12ヶ月に分類できます。じゃぁ、お聞きしましょう、このイノシシの絵札いつ?てっきり秋と思うでしょうね、私もそう思っていました。ところが、これ夏(新暦では7月)なのです。えぇ~~~、意外!なんでぇ?

 萩は確かに秋の季語とはなりますが、萩の花は夏頃から咲いてます。7月には萩の花が見られます。だからまったく萩は夏と関係ないこともない。じゃぁイノシシは、夏のイノシシ?なんか関係あるのかしら?この絵札のイノシシをじっとみていると、このちょっと漫画チックにデフォルメされたイノシシ、どっかで見たことあるぞ。


 歌舞伎「仮名手本忠臣蔵・五段目」通称・二つ玉、で舞台に出てくる着ぐるみイノシシと似ている。毎回、見るたびに、みょーなイノシシなので客席の失笑を引き起こすイノシシだ。季節も梅雨末期の大雨の夜だから7月だ。

 じゃぁこの花札イノシシ、仮名手本忠臣蔵・五段目からきているのか?いや、花札の誕生より仮名手本忠臣蔵が後だから、この説は違うか、でもこの歌舞伎のイノシシと、絵札の漫画チックなイノシシ、仮名手本忠臣蔵との関連を疑うなぁ。花札が生まれたのは江戸期よりもっと早いとしても、イノシシの絵柄が固定したのは江戸期で、そのとき仮名手本忠臣蔵から影響を受けたとも考えられるが、これ、やまさんの怪しげぇな説だから信用せんといて。

 このようにイノシシについて書くと、まるでイノシシが愛されるべき動物のような錯覚をおぼえていかん!とお叱りを受けそう。現実に小松島ではイノシシにかみつかれ怪我、池田の方では新聞配達がイノシシに突進されこけて骨折、その人たちから見ればとんでもない害獣だろう。だが一面では(多分に観念的なものであるが)愛されキャラでもある、愛憎半ばとでも言っておこうか。

 もう十二年も前だ。ウチの近くに古墳みたいな、でも独立した自然の小さな山がある。「向麻山」と呼ぶ。そこを散歩していてイノシシを踏んづけているような「石仏」を発見した。今ここで説明するよりそのときのブログがあるので読んでほしい(ここクリック)。

 このときはこの石仏がどのような仏様あるいは神様か分からなかった。イノシシもてっきりこの憤怒系の石仏に踏みつけられていると思っていた。しかしこのブログアップから7~8年たってから「仏教」や「神仏習合」を本などでお勉強した結果、これは仏教の天部の仏、「摩利支天」さんで、イノシシは踏んづけられているのではなく、この摩利支天さんの乗り物だと言うことが分かりました。つまり、この踏んづけられたように見えたイノシシは摩利支天さんの眷属・子分、これを信仰者の立場から言えば、イノシシは御神獣だったのです。ああ、ありがたや。

 とまぁ、イノシシについてしょうむないこと書きちらしました。イノシシの被害に遭われた方、ごめんなさい。

2022年11月9日水曜日

文学碑とある間接的記憶

  数日前にニュースで瀬戸内寂聴さんの文学碑(記念碑)が建立されたと聞いた。図書館からも近いので先ほど見てきた。13年前に寂聴さんの文化勲章受章を記念した石のモニュメントの近くにあった。


 碑の説明を読むと、日付が今日になっている。ニュースで聞いたのが数日前なのにこれはどうしたことだ。と思い調べると今日が命日に当たるのだ。そのため11月9日となっている。


 寂聴さんの作品は時代物の小説「中世炎上」しか読んでいないので、私はとても彼女の文学ファンとは言えない。そのたった一つの感想をいうと、その小説が元とした古典「とはずがたり」を、難しくても、解説本や辞書をみながら直接読む方が面白かった。原典を直接読もうという動機を与えてくれた彼女のこの作品は、そういう意味では感謝している。

 もうかなり前、やはり寂聴さんが、古典をもとにした大作に「寂聴版・源氏物語」がある。かなりの人気でたしかベストセラーになったと記憶している。私は読んでいないので分からないが、これに熱中し、源氏物語ファンになった人は、ぜひそこでとどまらず原典を読んでほしい。わたしも千切れ千切れながら何十年もまえから原文の源氏物語を読み続けている。いまだに読み終えないが。

 さて今日のお題の「間接的記憶」

 もう半世紀近い昔、私が24歳の紅顔白皙の青年だったとき(?)、一年臨時で務めていたある職場にその当時では珍しい女性の管理職がいた。テキパキと仕事の出来る方だった。あるとき、雑談か何かのきっかけで瀬戸内晴美さんの話がでた(まだ出家前の名である)。そうすると彼女は、私は徳女(徳島女学校の略・今の城東高校の前身である)で瀬戸内晴美さんと一緒に通っていたというのである。そのときの彼女の年齢ははっきりしないが50歳かちょい前くらいと思う、たしか寂聴さんの後輩として同じ徳女に通っていたと聞いた。

 その話の聞き手は私以外にも数人いたが、中の一人が彼女に女学校のときの瀬戸内晴美さんはどんな感じでした、と聞いた。すると彼女は感嘆するような声で「そらぁ、すごかったわよ」「もう女子生徒の憧れの的でもあり、行動は瞠目することばかりだったわよ」、と答えていた。そして何事もはっきりと自分の意見をいい、上に屈することもなく態度は堂々としていたといい、また格好もハイカラで、特に彼女は、瀬戸内晴美さんの、ニッカボッカのブルーマーの体操姿がとても格好良かったと(瀬戸内晴美さんは陸上か何かやっていたと聞いたような記憶があるがそこは曖昧)、ちょっとウットリとして、その姿を思い浮かべるような表情で話していたのが強く印象に残っている。

 これが半世紀もの大昔、当時の女性上司を通じた瀬戸内寂聴さんの、私の間接的記憶である。

秋の夜空

  ♪~みあげてごらん、夜の星を~♪という歌が昔はやったが昨夜はかなりの人が夜空を見上げ天体ショーを楽しんだのではないか。

 星々を見ていると若いときは心が洗われるような感じがした。壮年になっても時たま夜空の星を見上げると、明確には言えないが、いうとしたら「悠久」というのが近いのかなぁ、そんなおおらかな感じを受けて、この地上のコセコセしたことが価値のないくだらないことに思えてきて、なにかすっきりしたものだ。

 そして余命が短くなった老年になっても、夜空の星々を見上げるといまだに浮世離れしたことを考える、俗塵にみちた世を離れるような気持にさせるのは壮年の時と変わらないが、文字通り、俗世を離れる時が近づくジジイになった今、天体をみると、こんなことを思う。

 生きるということは、楽しみもあり、価値も見いだせる、しかし老年になり多病を患い心身の苦しみや、癒せない疲れ、がドッとくるとき、「死」が遠からぬことを感じる。お釈迦様は老骨にむち打ち、なんとか頑張って生活していることを、壊れかけ寸前の荷車に例え、ガタピシ、よろめきながら、分解寸前の荷車を動かしているようだ、といった。

 自然にあるものは必ず「推移し変化する」、風化といってもいいし、浸食といってもいいし、また小難しく「エントロピー」の増大といってもいい。しかし「生命」にしても「荷車」にしても、その自然の流れには従わず、むしろ逆らっている。それは下に落ちようとしているモノを無理に引き留め上にあげるための行為とも言える。「ヒトの個」はずっと維持されなければならないし、「荷車」もその用途を続けねばならない。それが自然に落ちる動きに逆らって上に引き上げることを繰り返すことである。だがそれはある瞬間、突然、止まる。「死」であり、(荷車の場合は)「修理不能の破壊」である。遅かれ早かれそれは必ず来る。

 人の生命も荷車も、自然に逆らう形で、その営みを続けてきたが、その時点で(死・破壊)、自然と一体化する。すなわち、以後は自然と同じように推移する、風化であり、浸食であり、ともかく自然にまかせて物質の分解が進む。やがて、その物質は諸要素まで分解され、結局「地球」という天体の一部に合体してしまう。死が間近い老年になって夜空を見上げると

 『天体は私が死を通過して向かう究極の場所なのだ。』

 と思ってしまう。


 昨夜の天体ショーが終わった後も、まだ夜空の星に関心を持って見上げる人がどれだけいるだろうか。これからの秋の夜空は、月が欠るとともに暗くなって、晩秋の星座が目立ってくる。しかし、四季の中でも秋の星座は、明るい星々が少なく、とても寂しい。秋の季節にふさわしいといえばそうなのかとも思う。

 遥か昔、高校生のとき深夜の勉強の息抜きで、庭に出て秋の夜空を見上げたことがあった。少し星座に関心を持ち、あれは「○○の星座」と指さしながら星座表など参考に確認したものだ。

 森々と更け行く夜、空を見上げながら、遥か遠くで、多量の水が落ちているような、かそけき音がする。ちょうど上には「宝瓶宮」(水がめ座)が出ている。もしや、あそこから落ちる水の音か?とでも錯覚しそうな異次元的な状況だったが、冷静に考えると、澄み渡った秋の大気が吉野川の堰の音をここまで響かせているのであった。

秋の夜空

月食みたよ

  双眼鏡はもちろん望遠鏡ももっていない私は、天王星食観察は無理だろうとはおもったが、それでもなんとか見たいと、家のガラクタ箱をひっくり返したら(前に放り込んであった記憶があった)、ずっと昔、何かの粗品でもらった。折りたたみのオペラグラス(プラスチック製の百均にあるようなざっとしたモノ)があった。それとデジカメをもっての今回の月食観察である。

 夜、図書館に本を返却し、外に出てくると、高校生が何人か、立ち止まり上を見上げている、中にはスマホを掲げている子もいた。


 そちらを見上げると、駅ビルの右上に半分くらい地球の影に入った月が見えている。皆既まではまだ間があるようだ。


 デジカメをブームして撮ってみた。手で撮ったので少しぶれているかもしれない。でも地球の影の曲率(円の曲がり具合)がよく分かる。古代ギリシア人はこれを見て地球は丸いという証拠の一つとした。


 やがて完全皆既となり8時過ぎから、しばらくオペラグラスを向けてみた。拡大されて赤黒い月の表面の模様のようなモノは見えるが、視力のあまり良くない私は月の横にある天王星を残念ながら見ることはできなかった。このとき銭湯の前の露天の喫煙所で観察していたのだが、横に顔なじみのおじさんもいて、空を見上げていたので、天王星食を説明し、オペラグラスを手渡し見てもらったら、その人は、確かに左下に月すれすれに一個の星を確認したそうだ。私は視認できなかったが、そのおじさんが見たモノは天王星である確率が高い。

2022年11月8日火曜日

今日の天体ショー(まだ始まっていないよ)

  今夜、午後7時過ぎから皆既月食が始まる。天気は晴れで空気の澄む秋の夜空が期待できる、天体観測にはいい条件だ。

 午後5時17分、まだ月食の始まらない月が東から上った。(汽車の窓から撮る)


 皆既月食になると普段とは違い赤銅色の暗いまん丸月が見られる。それも見ものだが、もっと注目してほしいものがある。それは「天王星」である。

 人類は太古から星々がちりばめられている夜空を観察してきた。ほとんどの星は同じ位置(相対的位置は変わらない)にあるが、夜空の天球上をフラフラと動きまわり、おまけに行きつ戻りつするような動きをする明るい星が幾つかある。そのため「遊星」とも名付けられた。「惑星」のことである。古代バビロニアでも古代中国でも知られていたのは月は除くとして、ご存じ水、金、火、木、土星の5星である。このうち金、火、木、土星は今までに私はなんども肉眼で見たことがある。今夜も、木星、火星は出ていて見られる。水星は暗い星ではないので見ようと思えば見られないことはないが、太陽に最も近く、太陽付近をうろちょろしているので、日没か夜明け前、かなり低い位置にしか見られない。しかしその条件の時に観察すれば誰でも見ることは可能である。

 さて今夜、問題の「天王星」ですが、発見されたのは18世紀も末です。大昔から遊星は水金火木土の星と絶対的に信じられていたので、まさか他にも隠れた遊星があるなどとは思いもしませんでした。そのため、18世紀末以前にその星自体は知られていたのですが、肉眼で見られるギリギリの暗い星であったのと(水金火木土の遊星は明るい)、太陽系の遠い外惑星であるため、動きが極めて鈍く、遊星とはまさか思わなかったのです。18世紀末の天文学者ハーシェルが巨大望遠鏡で観察し、惑星軌道を計算し、その計算通り、その星は天球上を動いたので証明され、人々も信じたのでした。

 その天王星は我々が見たいと思ってもかなり難しい星です。ギリギリ見えるとは言いながら暗い星で、また昨今は外も照明で明るくなっていることが多く、余計に見えにくくなっています。だからまず、我々、専門家でもなく、また天文マニアでもなく、望遠鏡も持っていない者は、一生かかっても天王星を見ることはまずないでしょう。それに天球の上のどこに天王星があるのか、それを探すのが一番大変なのです。

 ところが今夜だけは違います、月食とともにこの天王星食もおこるので月に隠れる寸前、と、出たとき天王星を視認することが可能となります。何しろ「赤黒い」が目印なのですから、こんなわかりやすく位置を示してくれる機会はまずありません。

 だから皆さん、天王星を見ることに今夜はチャレンジしてみてください。ただし、暗いから肉眼では難しいかも知れません。でもお家に双眼鏡やオペラグラスがあれば、それでも天王星は視認できると思います。ぜひ天王星を見て見ましょう。

 天王星は下のように月に隠れるように動き、また月から出てきます。その時が見るチャンスなのです。(場所による違いはあります。西日本になるほど早くなります、しかし数分差です)



2022年11月7日月曜日

昨日の、鎌倉殿の13人、見た感想

  年始に放映がはじまったが、メインキャストの大泉洋や西田敏行のキャラがあまりにも「じゃらくれ」すぎているので、馬鹿馬鹿しくなり、ずっと見ていなかった。しかしその二人も消えて、最近はみるようになった。夏の放映が過ぎた頃から、鎌倉幕府の基礎を固めたいろいろな重要な政治的事件、各種騒動(和田合戦など)などがおこり、歴史好きとしては興味がある時期にさしかかっているので毎回見るようになった。

 私が一番みたい「見せ場」はやはり「源実朝暗殺事件」である。そろそろドラマもその時期にさしかかる。昨日の放映では「公暁」が京から帰ってきた。実朝の甥ではあるが暗殺の直接の下手人である。その人物も鎌倉で活動し、少しづつ暗殺に向かっての状況がつくられていくのだろう。このドラマでは暗殺がどのような展開になるか気になる。

 ドラマの展開はすこし置くとして、この頼朝暗殺事件は実証的な史実としてもかなりの謎がある。史学者のなかでも公暁(私は、くぎょう、と呼び慣わしているが、ドラマでは、こうぎょう、と言っている)単独犯をとる人もいるが、公暁は教唆されて行った、すなわち黒幕がいたのではないかと疑う人も多い。そこから各、史学者の推理であるが、その史学者が説く暗殺事件の解説は、まるで史学者が推理作家・刑事ドラマの脚本家になったのではないかと言うほど面白い。強く黒幕と推理されているのは、北条義時、三浦氏、京都朝廷方、などで他にも異説を唱える史学者も多い。専門家でも議論百出、それだけに歴史小説家や脚本家は自説も交えてこの実朝暗殺は創作の腕の見せ所となる。

 そこで今年の「鎌倉殿の13人」であるが、まだそのシーンもその予兆・準備も放映はされていないが、私の見るところ、このドラマでは北条義時と三浦義村の黒幕説をとっているんじゃないかと思われる。これは歴史学者の間でも唱えられている説である。黒幕が二人とは北条と三浦の内心の確執を考えると複雑だが、以前放映のやはり「大河・草燃える」(昭和54年)でもその説をとっている。

 それはこうだ。まず直接の実朝殺しの下手人は公暁とその取り巻きであることは間違いない。そして公暁に「父の敵は実朝」と吹き込み、教唆したのは三浦義村、しかしそれを知りつつ、何もせず見守るというか放置し、状況をそのようになるよう仕向け、結果、源氏の正統を断絶に追い込み、結果として傀儡将軍を立てる、という深謀遠慮の人が北条義時であるという。第一の黒幕の三浦義村はまったく知らずに義時の思うままに動いたのか、それとも薄々は知っていて(直前に知ったと言うことも考えられる)、最後は義時の期待に添うような展開(実朝暗殺、下手人公暁抹殺)にしたのか分からないが、いずれにしてもこの説では義村は義時の手のひらの上で踊らされていたことになる。

 以上は昭和54年の「大河・草燃える」(永井路子原作)の実朝暗殺の次第だが、今年の大河の原作者である三谷幸喜はかなり永井路子原作の大河を、少なくとも意識して作られているので、今回の実朝暗殺でも、黒幕のラスボス(究極のワル)が義時で、その従として義村がいそうな気がする。ちなみに私は一切、今年の大河の解説書など読んでいないので、もしかしたらそういった暗殺に至る「大河ドラマのこれからのあらすじ本」があるかも知れないが、放映を見るまでは知りたくない、さてどうなることだろう。

 それにしても新年からずっと見ないうちに(見だしたのは先も言ったとおり9月末くらいから)北条義時はえらいワルになっている、顔にも冷徹で敵を容赦せず抹殺できるような凄みが加わっている。それにひきかえ源実朝のまぁ、可愛らしいこと。素直で、和漢の書をものにするような教養人で京都の宮廷文化の典雅さを身につけている。そして他人(謀反人も含め)には優しい。絵に描いたようないい人である。ただし、意志は弱く、生まれつきのお坊ちゃんであるため、幕府創業から基礎固めのこの時期の政治家としては落第である。北条氏の強力な支えがなければ幕府は立ちゆかない。だからほとんど義時のいいなりである。

 昨日の彼を見ていると、あ~ぁ、鎌倉・室町、江戸とつづく幕府の将軍としては、もっとも人の良い、最高の教養人であるのに、やがて殺されるのだ、と可哀想になって来る。



 そしてこれは今回の原作者の脚色だが、源実朝のボーイズラブが切ない。義時の長男に泰時がいるが、これが心に秘めた実朝の最愛の人、もちろん告白など出来ない。当時も京の貴族、寺院の僧侶などに男性同性愛は大はやりで、別に隠すことでもないし、たとえ行為に及んだとしても何ら恥じることはない。

  私などは当時の風潮から別にあり得ない関係ではなく、もし、泰時も実朝の愛(告白すればだが)を受け入れたら、鎌倉将軍と執権の総領の息子の絆はこれ以上ないほど高まったと思われる。まさに、文字通り、君臣一体肉体の結合をさすのは言わずもがな)である。ただ、どうも歴史ドラマとは言いながら、三谷幸喜はんの大河におけるこのような創作的な恋愛は、現代の人間関係をもとに考えているようだ。まぁそうでなければ鎌倉時代の武士や貴族の心性・愛情表現など、そのまま現代に持ってきても視聴者の理解は得られないだろうが。

 だから実朝くんは、現代のボーイズラブの高校生のように、同性の泰時を愛しているのだが、シャイで打ち明けることなど出来ない。泰時はジャニーズ系の超イケメンだが、実朝くんの瞳の奥に燃えるような自分に対する熱情があるなどわかりもしない、ただ、父と違い実直に臣下として実朝くんに仕えるのみである。このまま推移し、鶴ヶ丘八幡の社殿前で、愛を秘めたまま殺される実朝くんは二重に可哀想。もし私が脚本家なら、せめて暗殺の前夜、告白し、泰時くんも受け止めてくれて、最後の熱い一夜をともにする、と、実朝くんのために書き直したい気がするが。

 しかし大昔の大河と違い、最近の大河はこのような同性愛のエピソードも挿入されるようになった。やはり現代の風潮である「LGBTの権利主張」が大きく影響しているのだろう。良いことではある。何年か前に「大河・清盛」があったが、あれで同性愛では史上有名な藤原頼長(左大臣・摂関家)が、清盛の腹違いの弟で若い家盛を抱きすくめ押し倒して体をものにするシーンがあり、それを見て少なからず驚いた、「よ~まぁ~、国営放送もここまでやるほど、啓けてきたか」と驚くとともに感心した。(もう10年前やわ、そのときのブログがある。ここクリック

 永井路子の小説(大河の原作となった)では同性愛は実朝ではなく、暗殺犯の甥の公暁が男性同性愛者として描かれています。これもフィクションですが公暁は若くして聖職者となりますから当時の風潮を考えれば可能性としては実朝より公暁のほうが同性愛に親しんだ可能性があります。これも三谷幸喜はんが永井路子はんの小説に影響を受けているのかも知れませんね。でも実朝が秘めた同性愛者でその相手が泰時とした今回のほうが、ずっと面白く感じられます。


 そして昨日の大河で驚いたことがあと二つあります。まず一つは、これも実朝に関係しているのですが、中国の陳和卿(工人とある)が実朝のところにやって来て彼とともに宋へ渡る計画を立て大船を作るのです。その陳和卿が登場したとき、私は思わず

 「あ、松山千春や、えぇ、珍しわ、大河に出たんやな」

 と驚きました。最後まで彼と信じていましたが後で調べると別人の「テイ 龍進」さんと分かりました。いやぁよー似とったわ。その陳和卿が作り由比ヶ浜で進水を待つ大船が、いざ進水となったとき、ビクとも動きません。大勢が加勢し力を尽くして引っ張りますが進水に失敗します。そのときの陳和卿のリアクションに笑ってしまいました。

 「アィヤ~、アィヤ~、アィヤ~

 といって頭をかかえ困惑するのです。私は思わず、おいおい、お前は、ゼンジー北京(お笑い魔術師)か、それとも漫才のミスハワイか、漫画の中国人でもあるまいし、本物の中国人がアィヤ~なんどといって驚き困惑の声をあげるか?

 そして二つ目の驚いたことは(これも笑いを伴う)、動かない大船を見て、御家人・八田知家の市原隼人と三浦義村(山本 耕史)も諸肌脱いで大船を引っ張るのを手伝うですが、両人とも見事な筋肉で(ジムで鍛えているのでしょうか)ムキムキマンです。史実では三浦義村はこのとき50歳くらい、もう一人の八田知家(市原隼人)は直前に幕府事務方の三善康信に、私とアナタは歳は変わりませんよ、というのですが、三善康信はこのとき76か77歳、そうすると似た歳といった八田知家の市原隼人は70歳代後半、それで筋肉ムキムキ、あり得ない!と思わず笑ってしまいました。

 この絵に描いたような中国人の感嘆の声「アィヤ~」と、70歳代後半設定キャラの「筋肉ムキムキ」は脚本家の、またしても「じゃらくれとる」ドラマのご愛敬でしょうか。

2022年11月5日土曜日

たぬき祭り

  3日の祭日から始まるのかと思っていたが、今日と明日の二日間「たぬき祭り」が藍場浜で開かれている。たぬき祭り自体はぜんぜん興味ないが、先月から「さとうの話」のブログを書き継いでいるので、その中で話題になった「綿菓子露天商」の綿アメ製造機がみられたらと思い、会場をブラブラしてきた。

 綿アメ屋さんは入り口に出店していた。


中を覗くと、ゴ~と電気仕掛けで機械が回っていて、ふうわりした綿アメの繊維が吐き出され、製造機の遠心力と外気にあたって冷めて、千切れ雲のようになって円筒形の上にわだかまっている。それをおじさんが木の棒でクルクルと巻き取り丸い綿アメの形に仕上げていく。仕上がったのは空気を膨らませたビニルの袋に入れる。商品の完成だ。

 昔のような足踏みミシンのように足で動く綿アメ製造機ではなかった。

 他、カロメロ焼のようなサトウ菓子を売る露天を探したが見つからなかった。果実を溶けた砂糖に漬け、棒を刺して売っている「リンゴ飴」のようなサトウ菓子の露天は出店しており、リンゴより小ぶりの果物のアメの幾種類かが目についた。

2022年11月4日金曜日

飛翔するもの

  昼飯は県庁11階の食堂で食べた。最近は週に一度はここで食べる。なぜって?安くてボリュームあってうまいからだ。自分でおかず二皿選べるのも良い。

 11階なので眺めの良い席で食べていて、遠景をみると、えらぃ、霞んどぅわ。しかし霧や霞の類いではなさそう。どうも「黄塵」っぽい。そう思ってみるとわずかに黄色っぽくもみえる。黄塵は風物誌にも取り上げられるほど有名な「春の風物」、今は秋だから、おいおい、お呼びじゃないよ、といいたいが、大陸から西風にのって黄砂が飛んできたばぁいは春じゃの秋じゃの、へったくれぇもない。ただ春は黄砂の生まれ故郷の大陸は枯れて乾燥しまくっているから、黄砂が飛びやすく、また春は結構強風の吹く日が多いため、春に多いと言うだけだ。それにしても近年、季節外れの黄塵が多い。彼の国、自然破壊が進んでますます砂漠化しよんかいなぁ。


 「黄塵」も大陸・西の方から飛翔してくるものである。小難しく「飛翔」なんどと使ったが、飛んでくるっちゅうのを大して意味も分からず、賢こげぇに「飛翔」っつうたまで。「翔」っつうのは難しい漢字だが、天空を翔る、と使うから、飛んでくる、という意味でも間違ってはいまい。この「翔」は近年、生まれる男児の命名に使われる文字としては一番多い。良い字と認識しているからだろう。しかし悪いもんが飛翔してきたら困る、「黄塵」は最近では、pm2.5たらゆう悪さをする微粒子と一緒にとんでくるから、こんなものは飛翔してこないでほしい。



 悪い飛翔といやぁ、偉大なる首領さまの国がバンバン弾頭をこっちに向かって飛翔させてくる。実験か示威か知らんが、こんなモノ日本海や太平洋にぶち込んでほしくない。どうしてもやりたきゃぁ、自分の領土内でやれ、といいたい。まったく何を考えトンやら、困ったもんだ。





 県庁から外へ出ると風が強い。風向は分からないが西風だとすると、それに乗って大陸から黄砂が飛翔したのもうなずける。

 かちどき橋を渡らず、橋の手前にある小さな公園から橋の下に降りると、上流に向かって川沿いに遊歩道がある。そこを歩くことにした。かちどき橋上にはたくさんの鳥が舞っている。なんぞいなぁ、とよく見るとこれが「鳶」、それより一段と小さいカモメも鳶以上にいるが、橋脚や水銀灯に止まっていたりするから舞っているのは少ない、カラスも若干いる。それにしても、鳶が多い、ざっと見たところ20羽あまりが上空を舞っている。


 ここら当たりは海にも近いため、どちらかというとカモメさんの縄張りだ。鳶も海の近くを好むのかな、もしや、カモメさんの餌を横取りふん奪くろうっちゅう魂胆か。そういや、鎌倉の海岸にあるマクドナルドでバーガーを買い、護岸に腰掛けて食べようとしている人が、音もなく滑空してきた鳶にバーガーをさらわれるそうだ。故事成語に「鳶に油揚」というのがあるが、最近では鳶にバーガーか。

 この鳶も「飛翔」か?いや鳶はどうもそんな飛び方ではない。隼や鷹ならば飛翔と呼べるが、鳶はあっちへふうわり、こっちへふうわり、で落ち着きがない。それに翼をほとんど羽ばたかせない。風に乗っていることが多い。飛翔というより、三橋美智也はんが歌った「鳶がクルリと輪を描いた」がふさわしい。

 調べると鳶もワシ・タカ科で猛禽類には入っているが、どうもそんな感じはしない。隼のように雄々しい、とか鷹のように鋭い目で敵を見つけ、と形容できるように隼や鷹なら肯定的なイメージがあるが、鳶はそんな形容はない、鳶が鷹を生む、というのをみても鳶はいい形容にはふさわしくない。何か鳶のキャラを象徴するような話はないだろうか。鳶の恩返し、っちゅうのは聞いたことないし、なんだろ、と考えてみたら十年も前に私のブログで鳶のおもっしょい話を書いていた。(ここクリック
 これなどを読むと鳶は、お笑い系の小悪党、とみえる。

2022年11月3日木曜日

我が郷土の和製インディー・ジョーンズ インディも帝国も若かった


 さて、予告通り和製インディー・ジョーンズの冒険・研究の紹介をしたいと思います。10月29日、西原駅を降りて向かった先はコスモス街道の途中にあった「阿波公方・民俗資料館」です。インディと何の関係が、と思われるでしょう、何の関係もありません。そこの玄関フロアの一角を借りて和製インディーの写真展と調査研究のパネル展示があるのです。

 和製インディーとは考古学者にして民族学者(現代では文化人類学と言った方がいいかも知れない)の鳥居龍蔵博士です( 1870~1953年)、彼については徳島県人としては名前はよく知られています。しかし案外彼の業績については知られていないのではないでしょうか。文化の森にある博物館と隣り合っている鳥居龍蔵記念館をごらんになった方は彼の業績も分かっていると思うのですが、博物館を見てもこちらの方は敬遠して見ない人が多いようです。

 博物館の文化展示は徳島の歴史、徳島の民俗文化などをジヨラマや立体展示などにしているため興味がある人が多く、見ていて面白いのですが、鳥居龍蔵館の方はアジアの少数民族の民俗・風習、そして中国北方を含む中央アジア史の研究展示のため、馴染みが薄く、興味もわかなくて入場者も少ないのが実態ではないでしょうか。

 私はこのような分野に興味があるため、一度ならず何度も訪れお勉強させてもらいました。うれしいことに鳥居龍蔵記念館は写真撮影可なので、自分の勉強の資料のために写真を撮らせてもらった。そしてそれをもとに今まで何回かブログを書きました。彼は東アジア山岳部・北東アジア(樺太・千島・シベリアも含む)の各民族の文化人類学的調査研究も豊富で質も高いが、中国北方に連なる中央アジア史の一環としてとらえられる遊牧国家「遼」、その中心民族・契丹族などの考古学的成果も多い。記念館ではその立体展示も行っている。
 
 そして先日、上記の展示会のポスターをみて、彼のもう一つの成果である文化人類学的調査研究の「台湾の少数民族」のお勉強をさせてもらおうと那賀川町の民俗資料館に足を運んだのである。最初、展覧会のポスターを見た時、この顔が目に飛び込んできた。「これ誰やろか」というのが第一印象であった。そしてすぐ文字に目が行くと鳥居龍蔵さんとわかって驚いた。彼の顔の方は鳥居龍蔵記念館でなんども写真を見て知っていたがそれは中年から老年の写真であった。だから私にとってこのポスターの鳥居龍蔵はまったく見慣れぬ青年としかみえない。使われているのは彼が26才のときの写真である。なかなか野性味のあふれる、魅力的な青年である。たしかにポスターをよく見ると「鳥居龍蔵」の名の前に「青年」とある。なるほど青年のときの鳥居龍蔵はこんな顔をしていたんだ。19世紀の日本人の顔としてはイケメンなんじゃないだろうか。

 我々は過去の偉人をみるときすでに定まった地位を見がちである。鳥居龍蔵、文学博士にして東京帝大教授である。しかし徳島県人は知っていると思うが彼は正式な卒業は小学校のみであり、あとは独学とその道の学者・先生に教えを受け専門教育をものにしている。そして強い意志のもとに「東大の人類学教室」に入り、雑用などこなしながら標本整理をとおしてさらに知識を得、研究のノウハウを身につけ、とうとう東大人類学教室の正式メンバーとなっている。独学努力の立志伝のような人である。

 私らが小学校のとき偉人伝の読み本としては外国人では「キューリ夫人」、そして日本人では「野口英世」が定番で、半ば強制的に読まされた。野口はハンディを負いながら、努力でそれを克服し医学を勉強し、アメリカへ渡り世界的な病理学者に・・云々、であるが、近年の研究ではその偉人伝像はかなり誇張があることが分かってきて、大幅に割り引いて見なければならなくなってきている(アメリカの研究者の中には彼はホラふきだと酷評する意見もある)。それに比べるとわが鳥居龍蔵の方は、今も十分価値のある論文、資料、考古遺物、アジア各地の民族の写真、録音などを残しているにもかかわらず、野口と比べてなぜ全国的な偉人伝として知られていないのか不思議に思うほどである。

 閑話休題(それはさておき) 今日のブログの題で、映画でおなじみのインディ(インディー・ジョーンズ)と若き鳥居龍蔵をなぜ重ねるのか説明しようと思う。映画『インディー・ジョーンズ』は、主に秘境を舞台としたハラハラドキドキの「冒険活劇」です。大変ヒットした作品でテレビでもなんども再放送されているので映画の細かい筋は忘れていても、インディがどのようなキャラかはだいたい分かっているのではないでしょうか。

 インディの本来の職業は大学の考古学者(もちろん文化人類学も専門である)で、学生を前に講義を行っています。しかし鳥居龍蔵さんもそうであったように考古学者は大学の研究室に閉じこもっていては研究は出来ません。対象となる現地に出向いて調査をしなければなりません。発掘作業などは手と足を使う、まるで土木作業員のようなアクティブな活動となります。このような遺跡・遺物の発掘、現地調査などを「フィールドワーク」と呼んでいます。このようなフィールドワークは現地での地道な活動の積み重ねで、そうそう血湧き肉躍る遺物・遺跡にブチ当たるわけではありません。発掘などは大部分は退屈な作業なのです。かなりの健脚で壮健な体がなければなかなか難しい仕事です。そして文化人類学などの調査や発掘作業は遠い外国の、ジャングル、高山、砂漠など不便なところが多く、健康を維持するのも大変です。期間も何ヶ月も渡ります。その合間に、研究を論文にまとめ公表したり、また学生に講義もしなければなりません。かなりハードな仕事になります。

 しかし報われる時もあります。例えばツタンカーメン級の墓を発見し、発掘したときなどです。歴史の知見が新しく加えられるばかりではありません。墓の遺物は(ツタンカーメン級ともなれば)、国宝くらいの価値のあるものとなり、博物館に収められれば超一級の呼び物になります。まぁそんな幸運な考古学者は極めて少ないですが。しかしフィクションの映画となれば別で、インディーはなんども幸運に恵まれます。映画の出だしから新しい墓、あるいはそれに類するものの発掘から始まり、値のつけようもない高価な遺物がそこから発見され、それをめぐっての悪人との対決となるのがお決まりのパターンです。

 鳥居龍蔵さんもインディと同じように価値のある墓の発掘調査を行いました。そして貴重な遺物、史料を日本にもたらし、それによって日本の北方アジア・中央アジア史学が大いに進歩したのです。インディとの違いは悪人との対決がなかったことくらいでしょうか。鳥居さんの、その墳墓の発掘調査の成果は文化の森の彼の記念館に立体展示されています。百聞は一見に如かず、8年前に私が撮ったその動画をご覧くださればその墓がどんなものか大まかに分かると思いますので下に貼り付けて置きます。


 「我が郷土の和製インディー・ジョーンズ」鳥居龍蔵さんをこのようなネーミングで呼ぶのは、私が勝手に名付けたものです。しかし以上のような説明からまったく根拠のないものではないと思うのですがどうでしょうか。またビジュアルの点からでも、映画のインディは冒険活劇のスターとして見栄えの良い「ハリソン・フォード」が演じています。そしてわが鳥居龍蔵さんの写真をもう一度見て見ましょう。どうでしょうか、見た目も和製インディー・ジョーンズとして推奨されてもいいような気がするのですが私の贔屓が過ぎるのでしょうか。



 鳥居龍蔵さんは23歳の時に東大の文化人類学教室の正式メンバーとなり、25歳の時、初めて外地の遼東半島で調査研究のフィールドワークを行い、以後東アジア各地に足を延ばします。そして上記の写真は台湾へいった26歳のときのものです。ここに彼は文化人類学的調査のため派遣されたのです。西暦でいうと1896年のことです。実はこの前年、日本は日清戦争に勝利し、初めての植民地を獲得したのです。「大日本帝国」の形がととのったのは憲法発布の年と見ていいですから1889年です。形は帝国となりましたが、当時の西洋の帝国、代表的なのは「大英帝国」ですが、のように植民地を所有し、多民族を統治している名実ともの「帝国」ではありませんでした。しかしその7年後の日清戦争の勝利により、初めて台湾を植民地として領有し、多くの(少数民族ではあるが)民族を抱え込むことになり、大日本帝国は西欧の帝国と同じような体裁になったのです。

 鳥居さんが台湾に派遣されたのは名実ともに帝国になった一年後の1896年、鳥居さん26歳。若い帝国(大日本帝国)は初めて領有する植民地を統治するとともに、早急にその地理そして台湾には多くの(少数)民族が存在しているが、その民族の実態を知らねばならない。鳥居さんの専門とする「文化人類学」(当時は単なる人類学とよばれた)はその「帝国」のために必要な学問でもあった。

 19世紀の人類学、民族学(現代では文化人類学の範疇に入る)はそのため「帝国のための学問」の要素が強い、つまり統治する帝国植民地に暮らす民族をまず知ること、さらには(かなり帝国的野心を隠しながら世界に散らばる未開・非領有地に)強力な遠征隊を送り出し、他の植民地帝国に遅れてはならじと調査しその成果をものにするのである。そしてこれが最も、今となっては問題なのであるが、そこに「未開」な民族、あるいは人種という概念を持ち込み、統治帝国の我々は、それらの「未開」民族・人種を文明化させねばならない義務がある、と考えるのである、そのような思想のもとに人種学・民族学を構成されていたのである。19世紀末のこのような学問を現在からみると批判を免れない。「白人優位を初めから取り込んだ人種学・民族学」、「上から目線の学問」、「帝国の御用学問」と言われても仕方のないものがあった。

 鳥居龍蔵さんも19世紀末に人種学・民族学をヨーロッパ式のアプローチによって学んだ人である。当時の時代にあってはそのような見方に浸っていたのではないかとも思われる。しかし、鳥居龍蔵さんを初め日本の学者は白人ではなく、白人が一段劣っているとみなしていた黄色人種である。白人優位を暗に示唆するような民族学・人種学に疑問を持っていただろう。だから鳥居龍蔵さんが人種・民族的優位を白人に代わり日本人を持ってきたとは思いたくない。しかし少なくとも、文明化した植民帝国日本が、彼らを教化(文字を教え、保健衛生を改善するなど)すべきであると考えていたとしても不思議ではない。現代でも台湾統治はそのようなプラス面があったと考える人が多い。鳥居さんも19世紀末の帝国主義時代の人種・民族学の制約から免れていないのではなかろうか。しかしだからといって彼がアジア各地でおこなったフィールドワークの成果は毀損されることはない。

台湾の少数民族とその展示パネル


 まず展示パネルを見てもらう前に、ちょっと台湾の少数民族についてお話ししたいと思います。現在の台湾国の人々は中国大陸からの移民の子孫が大半ですが現在も主に山岳地帯にはネイティブ(原住民)がいます。日本統治時代にはその民族は7~9族に別けられていたのですが、現在では16族が認定されているようです。左の図は日本統治時代の九族に分けた各族の分布地図です。 

 大日本帝国誕生以前、つまり明治以前の日本人が接していたネイティブ(原住民族)はアイヌ人のみで、アイヌとの接触は奈良朝から記録には表れるくらい古く、交易を通じた接触も(江戸期は松前藩を通し)密で、良い意味でも悪い意味でも、お互い相手のことをよく知っていました。しかし台湾の領有した明治28年(1895年)、日本人は台湾の少数民族についてはほとんど知りませんでした。だから鳥居さんのような人が調査研究に向かったのです。

 今は、台湾は(アンケートの比率から言うと)世界一「親日度」の高い国です。お返し、ということでもあるまいが、やはり魚心あれば水心で、日本でももっとも好感度の高い国が台湾となっています。私もどの国の人よりも台湾人が大好きです。しかし日本は1895年から半世紀間台湾を植民地支配したのを忘れてはならないと思います。「近代化」というモノ、制度、文物を与えたではないかと肯定的な評価も可能かも知れませんが、少数民族にとってみたら、自分のあずかり知らぬところで清朝と日本のあいだで、いつの間にかその「支配・統治」とやらが譲渡され、統治者としていろいろなものを一方的に押しつけられることになったのですから、いらぬお世話でしょう。

 以前『セディック・バレ』という台湾映画を見たことがあります。一部二部にわたる3時間以上の大作です。これは昭和5年に起きたセディック族による反乱(日本から見たら「霧社騒動」を描いたものです。山岳地帯の彼ら少数民族の土地にまで細かく警官・派出所を配置し、統治の実をあげるため、高圧的な統治や、教育による同化が進められました。その結果、伝統的な文化・習俗が消えてしまうという危機感が、セディック族を反乱に立ち上がらせたのでした。反乱勃発とともに子ども婦女子を含めた多くの日本人が殺されましたが、日本の圧倒的な軍事力により圧伏され、日本人死者の何倍もの原住民が殺されました。それを日本人は反乱と呼ばず「霧社事件」と呼んでいるのです。映画『セディック・バレ』はその反乱を原住民の側から描いたものです。

 山岳民族は独立不羈で尚武(武を尊ぶ)の風が強い、と当時の日本人も認識していました。日本で言えば中世の鎌倉武士のようなものでしょうか。山岳民族の男たちは刀を振り回し、戦いで敵の首を狩る、というのですから、まさに日本中世の武士の戦いのやり方みたいですね。そのようなことも分かっていながら、植民地を領有したばかりの日本は、経験が浅く、大英帝国のように洗練された統治(小ずるく統治の実をあげる)をする術も知らず、強圧的な統治になりがちであった。日本の方は蛮族を文明化させてやるとの思い込みで、彼らの文化風習、そして人格まで否定するような行為が度重なり、我慢できずに蜂起したものであろうと思われます。

 もし、統治者・日本と被統治者・山岳民族という関係でなく、対等な付き合いならば、先にも行ったように、彼らは独立不羈の精神が強く、中世の日本の武士のような尚武の心を持っているし、また同族同士では他者を思いやる心も強い。そんなことから日本人と山岳民族は本来は親和性が高かったと思われるのに残念である。これは対等な国同士となった今、山岳民族を含む台湾人が世界一の親日度であることを見ても分かる。

 鳥居龍蔵さんは帝国から派遣された大学の調査員という関係上、上から目線の立場もあったであろうが、現地での長期間のフィールドワークでは、彼らと生活を共にし、友好的でお互いに思いやりのある平等な態度が貫けたのではなかろうかと信じている。

 以下、展示パネルの一部を紹介して、私の簡単な感想を書き加えておきます。

台湾のフィールドワーク(現地調査)中の鳥居さんと原住民、友好的雰囲気が伝わって来そう。若き鳥居さん(26歳)やっぱり男前やわ、いよっ!「和製インディ!カッコイイ」

 山岳民族の集合写真と少年の写真、確かに尚武の民族らしい顔をしている。少年なんか日本の鎧兜を着せればりりしい若武者で通りそう。

これはアミ族の写真、比較的早く日本の植民統治に順化した。左の夫婦は着ている服も明治大正時代の日本の庶民と変わらぬ格好をしている。

こちらはタイヤル族、少数民族は二重まぶた、お目々ぱっちり、濃ゆい顔が多い。われら現代日本人の中にもこのような顔は結構見られる。原始日本人の形成過程で彼らと共通の遺伝子が南方から流れ込んできたのではないか。このような遺伝的形質は美男美女を生みやすい。

彼は帝国からの委嘱をうけて台湾各地の少数民族を調査した。下が彼のそのときの足跡である(1枚目)。この中で私が注目したのは台湾の遙か南東に浮かぶ孤島「紅頭嶼(こうとうしょ)」である(2枚目)。


ここの孤島に「ヤミ族」という民族が暮らしている(上のアミ族とは違う)。この少数民族は漁が主な生計手段である。昔も今も「トビウオ漁」が有名である。鳥居さんがその船を写真に残している。
これを見ると舳先、艫とも上にぐっと立ち上がっている。大きさは違うが、北欧バイキングの船とよく似ている。バイキングの船もそうだったが波を切って進む外洋航海に向いている船である。実際にヒリピン当たりまで遠征するそうだ。漁師民族ではあるけれども、海洋民族でもある。
 むかし、太平洋に広がる民族はマヤ、インカの南米民族が船で航海し、ポリネシアなどの太平洋諸島に広がったという説を唱えた北欧の学者がいて、実際に自分でコンコンチキ号とか言う船を作って航海して証明しようとした。しかしそのコンコンチキ号より、このヤミ族の船のほうがず~~~っと外洋航海に向いている。
 ここで、太平洋諸島に暮らす民族の来歴が出てきたのでそれについてちょっと話したいと思う。過去、いろんな人がその来歴について説をとなえた。おもっしょいところでは太平洋に沈んだ古代文明の「ムー大陸の民」の生き残りだというのがあった。そして北欧の学者などは先のように南米からという説をとなえた。現在ではどちらもあり得ないと思われている。いまは太平洋の東から来たのではなく、西のほう(東南アジア、ニュギニア、など)のどこかから太い幹の流れとして海洋民族が太平洋へ押し出し、それが枝葉として太平洋(ミクロネシア、メラネシア、ポリネシア)に散らばったと思われている。
 そしてその中で有力な説はこの台湾である。ここから根幹の幹の太い流れが枝葉となって太平洋に広がったのではないかというのである。そうなるとこの台湾の紅頭嶼(こうとうしょ)」は台湾から太平洋へ乗り出すまさに入り口、この島の原住民はミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの人々のご先祖さまに一番近い人となる。
台湾大好き、台湾少数民族大好きの私としては心情的にもっとも支持できる説である。

下のヤミ族の男性、見た時、まずこの肢体に驚いた。なんと足が長く、そしてスリムなのだろう。長距離の航海に乗り出す海洋民族の人種的特性なのか。この人々がミクロネシア、メラネシア、ポリネシアのご先祖の直系の子孫かも知れないのだ。

 この後、わが大日本帝国の領土の拡大とともに鳥居龍蔵さんは帝国が領有した樺太・千島、朝鮮、そして帝国の勢力圏となった満州、モンゴルなどに足跡を延ばす。その後、帝国は1920年にはミクロネシア(太平洋諸島の一部)をも領有する。北から南まで大日本帝国は多くの多民族を抱え込む、文字通りの「大帝国」となる。

 私がみるところ領域内の多くの多民族のなかでは、南方系の台湾やミクロネシアの民族と日本人とは、もっとも親和性が高い気がする。今でもそれらの国々(ミクロネシアは今は3つの国に別れている)の人々の親日度が高いのをみるとそう思える。それに比べどこの国とはいわないが千年恨みを忘れないといってなにかと文句をいうどっかの国とは違っている。

 もちろん植民地支配した贖罪は持たねばならないが、台湾を含めた南方系の植民地の国にたいしては、親日度にかまけて日本の贖罪意識が薄いのはちょっと問題である。それにくらべると北西系の植民地の国に対しては、大声で反日をいうからか、過度に贖罪意識を持ちすぎる気がする。

 鳥居はんが台湾で活躍した時の若い帝国は、力強く成長したくましい青年となるが、壮年期の56歳にして(明治憲法発布からかぞえる)帝国は崩壊し本土は焼け野原となってしまった。しかし鳥居はんは帝国が死んだ後も生き、調査研究をつづけた。