2019年4月24日水曜日

藤の見ごろとなった

 徳島の藤の名所は石井町が有名である。石井駅で列車を降りるとホームの藤と八重桜もなかなか見事。



 駅から歩いて2分で地福寺の藤が見られる。まだ少し早いのか、藤棚の藤はちょっと貧弱だった。

 こちらは童学寺の藤棚、下から見上げると全体を覆う藤棚が素晴らしい。紫の光があふれている。

2019年4月16日火曜日

ノートルダム大聖堂炎上

 朝、起きぬけにテレビをつけたら飛び込んできたのがノートルダム大聖堂炎上の衝撃的な映像だった。驚いたことは驚いたが、なんかデェジャブ感がある。なんで?と考えると去年の今頃、ネットでみた西洋時代劇の中世もの『大聖堂』で大聖堂炎上の回があってそれを見た記憶があったからだ。面白かったので毎回配信を楽しみに最終回まで欠かさずみた。

 その聖堂炎上シーン


 まあドラマなら安心して見られるが、現実にノートルダム大聖堂炎上となってはたいへんである。しかし仏大統領はさっそく再建の強い意志を示し、全世界で寄付を募ると表明したそうである。このドラマも全編を貫いている主題は「大聖堂再建」であるから、ますます去年見たこのドラマの類似を思い浮かべた。ドラマでは最後は大聖堂が立派に完成し大団円を迎えるから、現実のノートルダム大聖堂再建もきっとうまくいくだろう。

 ノートルダム大聖堂が完成したのは14世紀(12世紀から建築が始まったが)といわれるが、それより600年も古い大寺院にわが日本の「東大寺」がある。この東大寺なんかは8世紀にたてられたが12世紀と16世紀に二度兵火に罹り炎上している。石造りがメインのノートルダム大聖堂と違い木造建築であったため派手に燃え落ちている。それでも二度とも再建を果たしている。12世紀でも再建できたのだから21世紀の現在、ノートルダム大聖堂の石造部分はほとんど損傷をうけなかったこともあり再建は容易だろう。

炎上中の大仏殿と燃え落ちた大仏殿


 映画より大仏殿炎上シーン


 平家物語巻五では「奈良炎上」という一節を設けてこの大仏殿炎上を叙事詩的に述べている。

 「・・・御くしは焼け落ちて大地にあり、御身はわきあいて山の如し、八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十悪の風にただよふ、煙は中天にみちみち、ほのほは虚空にひまもなし。」

 炎で大仏の首が落ち、首以下の胴部分も溶けて形定かならぬ山のようになったと描写している。このようになったのだろうか、(映画の大仏炎上より)

そして本節はこのように締めくくる。

 「聖武皇帝、宸筆の御記文には、我が寺(東大寺のこと)興福せば、天下も興福し、我が寺衰微せば天下も衰微すべし、とあそばされたり、されば天下の衰微せんことも疑いなしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり。」

 これは日本の中世の開幕を告げる衝撃的な事件であった。当時は末法思想の流行もあり、このまま日本国は衰退滅亡してしまうだろうと嘆いた人々も多かった。しかし1180年の大仏炎上直後から再建の動きは始まり、勧進帳をもち(それを隠れ蓑に義経と弁慶主従らの逃避行は有名である)全国津々浦々に勧進聖・山伏が回り貴族、武士、庶民の別なく浄財を募り、立派に再建を果たした。以後日本国は衰退滅亡に向かわず、武士の勃興もあってダイナミックな中世を迎えるのである。21世紀の現在、おフランスのノートルダム寺院もきっと立派に再建されるだろう。

2019年4月14日日曜日

阿波の国をよんだ歌は

 令和の元号の影響か、万葉集に関心が集まっている。わが住む阿波の国にも万葉集ゆかりの地はないかと探した。万葉集ゆかりと言えるのは、万葉歌人がこの阿波に来て直接詠んだもの、あるいはこの阿波に暮らす詠み人知らずの人の和歌でもいい、実際に阿波の国で作られていなくてもこの阿波の国の地名を読み込んだ万葉作品でもよしとしよう。しかし残念ながら万葉歌人はこの阿波に来ていなかった(もし来ていたとしても記録も作品もない)から阿波の国で作られた作品はない。また阿波国住人の「読み人知らず」の歌もない。あるのはこの阿波国の地名を読み込んだ次の一首のみである。

眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 
懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも
                 船王

  この歌だけ見ると船王さんは、後代の土佐日記の紀貫之はんが土佐から都へ帰るため阿波沖を通ったように自身船に乗っていて詠んだ歌かなとおもうがそうではない。万葉集巻六のこの一首の位置や序の詞書を見れば、海が見下ろせる難波の宮(大阪の上六台地あたり)にいて沖合を淡路あるいは阿波の方向にむかって進んでいく船を見て(あるいはイメジして)詠んだ歌とわかる。

 沖合を行くあの船、海上遠く眉のように見える山を指して進んでいるが、今夜の泊りはどこかしら、というような意味であろう。実は難波の宮から西方に広がる海上に阿波の山は見えない、摂津播磨か淡路の山ではあるが、はるかとおくかすんで見える山を阿波の山と表現したものであろう。

 というわけで「阿波の山」という言葉は入っているが万葉集と阿波の結びつきはかなり薄いものと言わなければならない。しかし、この歌を由来としてわが徳島市の正面にそびえる山を眉山と命名し現在でも呼び親しまれていることを考えるとわずか一首ではあるが万葉からうまれた言葉がここ徳島で今に生きていることがわかる。この万葉歌は徳島では昔から有名で、眉山のいわれとしてわが郷土の大人も子供もみんな知っている。

 その歌の万葉歌碑をみてみよう。まず鮎喰橋のたもとにある歌碑、向こうに眉山が見える。


 そして眉山山頂にある万葉歌碑、石碑に刻まれた文字は万葉学者の「犬養孝」さんが揮毫したものである。原典とおなじ万葉仮名(漢字の音をあてて和歌を詠んでいる)である。


 淡路島や紀伊水道の向こうにかすかに見える紀伊の山々、このような山を見て「眉のごと・・・」と詠んだのであろうか。

 山頂展望台から撮った動画

2019年4月10日水曜日

曽我氏神社にお参りしてきた

 今では有名な敵討ち、といえばだれでもまず「忠臣蔵」を思い浮かべる。忠臣蔵の発端となった江戸城松の廊下の刃傷は18世紀初頭であるからそれ以前に人々の口に膾炙する敵討ちはなかったのかというとそんなことはない。それまで日本史上一番有名な敵討ちは鎌倉時代の初めに(12世紀末)に起こった曽我兄弟の敵討ちである。

 赤穂浪士の敵討ちが起こった江戸中期以降も曽我兄弟の敵討ちはそれに勝るとも劣らないくらい有名で江戸時代を通じてどちらの敵討ちも読本、絵草子、講釈、浄瑠璃、歌舞伎などに取り上げられ、史実とはかなり違う歪曲を受けながらも人気であり続けた。江戸歌舞伎では新春恒例の「曽我の敵討ちもの」(毎年少しづつバリエーションを変えている)が毎年取り上げられていることでもその人気の高さがわかる。

 その曽我兄弟を祀った神社があるというので一昨日お参りに行ってきた。石井町の南の山麓、城之内にある。曽我兄弟のそもそもの本領は相模や伊豆であり、また敵討ちを行ったのは富士の裾野である。なぜここ石井に?と不思議だが、神社の由来書をみて納得した。曽我兄弟の家臣の鬼王丸というのがここ石井町にある昔からの名族・武知氏の祖先なのである。兄弟の死後菩提を弔うためこの地に箱根権現とともに祀ったのがこの神社の最初だそうである。

 少し山を登るがちょうど落花の時期、坂は桜の花びらの絨毯が敷かれていた。

 曽我氏神社

 由緒書き

2019年4月7日日曜日

昨日の近くの公園

 徳島に開花宣言が出てから気温の低い日が続いていたためか満開になるのが遅い気がしたが昨日、近くの公園の桜はほぼ全木(ソメイヨシノ)は満開となった。


2019年4月4日木曜日

令和の出典を調べていて意外なことに気づいた

 元号が発表されたのが4月1日であった。私なども世の多くの人と同じで、一体どんな元号になるのだろうとワクワクしながら午前11時半から生中継を見守っていた。

 それで決まった新たな元号は『令和』、出典は万葉集とのことである。今回は国書が出典になるかもしれないと噂されていたので私なんかはやはりという感じでそれ以上の感想はなかったが、国書の専門家(日本史や国文学の学者)は多くある国書の中でも万葉集は意外だったと述べていた人がほとんどだった。

 昨日は図書館でその出典の万葉集の原書を読もうと行くとすでに今話題の本の「ホットコーナー」として万葉集関係の本を特設していた。十冊くらい並んでいた。原文は万葉集巻五の815の最初にある梅花の宴序文なのでさがすとすでにその巻のある本は貸出されていた。あとは万葉集の秀歌の抜粋とその解説、読み易く書かれた万葉集の概説、万葉集の舞台となった写真集などでそこには原文は載っていない。もしやと思い、古い本が収蔵されている地下書庫を検索すると小学館の古典全集の中に一冊だけ巻五の入っている原文が見つかったのでさっそく借りて読んでいる。

 その原文を読んでいて、私事だが意外でちょっと不思議なことを前日(元号発表の前だから3月31日)体験していたことがわかった。

 この日の午後、茶飲み友達とちょっと早かった花見をしたあと、まだ時間の余裕があるのでどこか近くに行こうか、となった。どこでも良かった。思いつかなかったら喫茶店でお茶でも飲みながらグダグダ話をしてもよかったのだが、ふと私が思いついて「そうだ、市の考古資料館へ行こう、確か阿波国府跡の出土品かなんか展示してあるから・・・」で、行ったのが考古資料館である。残念ながら国府跡の出土品の特別展は直前に終わっていて見られなかった(解説のパンフレットはあったのでもらった)。しかし常設資料は展示してあるのでそれを見ながらツレと話していた。

 話題は展示してある当時の庶民の家についてである。
 
 ツレ、「え~~~っ、奈良時代の庶民の家もまだ竪穴式なん?」

 私、「そうだよ、この時代、大多数を占めていた農民はまだ竪穴式住居だよ、ワイらが子どもの頃あった草ぶきの家の壁を無くし、屋根だけストンと落とした形、その代り土中を掘り下げ空間を確保していた。庶民の住居の歴史は、いわば地面に接していた屋根が次第に持ち上がってきて壁が上に伸びてくるのが庶民住居の変遷じゃないんかな。」

 ツレ、「以外やわ、ホンマに奈良時代こんなんやったん?」

 私、「万葉集の中に山上憶良の、貧窮問答歌っちゅうのがあり、その中に、確か、伏廬(ふせいお)の曲廬(まげいお)の云々、とあるが、それが竪穴式住居に近い庶民の家を表しているといわれとるから、間違いないわ」

 果たしてツレがその私の言った「山上憶良」「貧窮問答歌」「伏廬・曲廬」といった私の言葉を呑み込んでくれたかどうか、そして今覚えているかどうかわからないが、確かに私はその場でその言葉を言った。

 ここからが奇妙な「令和」との関連になるのだが、令和の出典は万葉集巻五である、昨日借りた万葉集を調べていてわかったのだがその典拠となる梅花の宴の序の少しあと、同じ巻五になんとその山上憶良の貧窮問答歌が入っているのである。そして令和の典拠となる梅花の序文を書いたのは主催者の大伴旅人と公式には言われているが実は山上憶良である。

 令和については国民、ほぼすべてといっていいほど予想を外し、出典も全く意外な万葉集(巻五)だった。もちろん私もいくつか予想はしていたが外れた。しかし前日、場所も万葉時代の阿波国の中心地にある考古資料館で、ツレとその万葉集巻五にある山上憶良の歌のお話をしていたのである。全く偶然には違いないが、考古資料館なんどには滅多にいかないし、また半ボケの70近いジジイと60代半ばのババアが万葉集巻五のある歌の話をするなんどはたまたまという以上にほとんどありえないことである。滅多にないことの例えとして『盲亀の浮木、優曇華の花」というのがあるが、まさにそんな感を強くしている。前日、「令和」に直接ぶち当たりはしなかったが、かすめてそのすぐ横を通っていたんだなぁ、と思う。

2019年4月1日月曜日

新元号が発表された

 正午ごろ図書館に新元号が掲示されていた。「令和」、まだなじんでないため少し違和感があるがそのうち慣れるだろう。

 昨日は石井の山際にある森本院・歓喜聖天さんへ花見に行った(写真は森本院の山門)見たのは桜だが、上記の「令和」の元号の出典は「万葉集」で、梅の花の歌の序文からだそうだ。梅の花見は終わったが令和の出典の梅花の序文はこれから見ごろを迎える桜の満開の雰囲気にも似通うものがあろう。(元号出典の万葉集・梅の花の序文)

 『初春の月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす』