2020年5月31日日曜日

ワイの国のアマビエ伝説(らしきもの

 海から来るものには幸があると思われていた、と前々回のアマビエのブログで書いたが、事実、海は高波や津波(稀だが起これば大災害となる)で被害をもたらすときもあるが、全般的には幸をもたらすほうがずっと多かった。漁獲をもたらすだけではない。次のような思わぬ大収穫もあった。時はもう明治に入ってからのこと明治26年11月4日朝、ウチラの国(阿波)のアブ(阿部)湾の東端女郎ばえのはずかし灘に八間(15m)もの弱った鯨が打ち上げられた。やがて死んでしまったが、直前まで生きていた鯨である。浜のものは鯨を解体しその獲物の富を広く分配した。鯨は肉をはじめ髭、筋、皮骨、すべて捨てるところなく利用できる海の幸であり、一頭の鯨を獲ると近隣数か村が潤うといわれるほどの大きな「海の幸」であった。大いに潤った浜の村の人々は、感謝の気持ちもあったのだろう、その鯨のために坊さんを呼んで供養したそうである。

 また黒潮洗う県南地方では珍しい異国の漂着物があったり、難破船から流れ着いたモノもあったりした。難破船の漂着物については流れ着いた浜の者に所有権があるとするのが、江戸時代の慣習であったようだ。

 なんか棚ぼた式に海から富がやってくる話が我が国には多い、それが「常世の国」、「蓬莱山」、「補陀落浄土」などの海の向こうには良き所があるという伝説を生んだのだろう。しかし島国である日本は異国からの侵入者も海を通ってやってくる。だが凶悪な意図をもって海外から侵攻してきたのは歴史上「元寇」のみで、それも北九州の一部である。日本は幕末まではそんな心配はしなくてよかった。同じ島国でもイギリスは大陸と近いせいもあって、アングル・サクソン人、ノルマン人、ブルターニュのウィリアム征服王など度々海外からの侵入を受けている。だから日本人のように素朴に海から幸がやってくるというような感覚はない。

 また人・モノだけでなく、海から珍しい生き物がやってくることもあった。最近でもこのブログで取り上げたが、この徳島にアゴヒゲアザラシが数年の間隔をあけてヒョックリとやって来て浜や河川敷に姿を見せた(その時のブログ、ここクリック)。その愛嬌あふれる姿・動作から大人気となった。今でこそアザラシなどは実物を見なくてもいろいろな情報で知っているが、江戸時代の人は海などめったに見ないどころか、一生見ないで過ごした人もあるくらいである。もしアザラシのようなけったいな生き物が現れたとの情報だけを知っても、そのインパクトは今以上である。その情報は江戸や京阪の大都市に伝えられ、瓦版などを通じて予想されるより早く多くの人が絵入りのその「けったいな海から来た生き物」をみた。

 下はその瓦版である。こちらは見たところ「ゴマフアザラシ」のようだ。耳のない獅子舞のようでなかなか愛嬌のある顔をしている。

 けったいな人も時々姿を見せる。この阿波国では江戸中期、県南にハンペンゴロはん(ハンガリー貴族で世界周航の旅の途中)の帆船が現れた(ハンペンゴロウについてのブログ、ここクリック)。ハンペンゴロはんは上陸したようで浜人を驚かしている(幕府の手前、上陸して村人と交歓したとは公的には言えない)、このハンペンゴロはんは世界に冠たる「ひょうきんもの」のオッサンである(欧州ではホラ男爵の冒険として知られる)、浜人は驚いたかもしれないが恐怖などは感じなかったに違いない、なんかおもろい異人はんやと浜人には映ったであろう(後の冒険譚ではハンペンゴロはんは、この阿波の国で大いに歓待を受けたと書いているが、なにせホラ男爵であるから、上陸したことは確実でもどこまでホンマかは怪しい)、もし幕府の統制・抑制がなければ上記のアザラシ以上のネタとなり江戸・京阪の人を絵入り瓦版で楽しませただろうと思う。

 さて鯨にしても、けったいな生き物やあるいは異人にしても今日の我々からすれば実際に存在することは確かだと説明がつく。しかし江戸の瓦版を見ると説明のつかない「異形のモノ」が現れている。下に描かれた瓦版の絵を見ると、これは今の我々からしても説明のつかない「異形のモノ」である。見たところキメラ(ギリシア神話の怪獣)に似ている。あらわれたところは大坂の淀川というから辺鄙な田舎ではない。遠い国の伝聞でなく大坂近辺であるから何らかの生き物を見たのであろう。(一説ではオオサンショウウオとも)

 凶悪げぇな姿だが説明文ではこれは豊作の予兆をもたらす縁起のいいモノであるらしい。上半分は雷光の図だが、雷光が落ちたところは豊作になると信じられていた。つまりこの二つは豊作を願う縁起物の絵図ということになる。今日でこそ新聞紙などは襖の裏張りでも使わないが、江戸期はこのような縁起の良い絵は瓦版であっても壁など貼ってたのだろう。肥後に現れたアマビエさまの瓦版も家に貼る、あるいは絵を写せば御利益があるといわれていたから、こちらの瓦版の絵もそのように使われたと考えられる。

 瓦版は江戸期のマスコミ、今日の新聞のようなものであるが新聞とは決定的に違うことがある。新聞で最も重要なのはニュースである。そしてそのニュースで一番大切にしなければならないのは「事実」である。読者の興味や嗜好の欲求などは考慮されるが絶対的なものではない。しかし江戸の瓦版は徹底して、読者の興味・嗜好の欲求を重視する。事実などは針小棒大というが、少しあれば、いや全然なくても何ら問題ない。読み手買い手が喜び、買ってくれればよいのである。すがすがしいまでの事実無視である。江戸期とはいえ読者もそのことには気づいている。瓦版の記事はシャレ満載であるのもそれを裏付ける。事実ではないとわかっていても瓦版を買ってしまうのは、たとえれば自然ではありえないことで人によって造られたまがい物の珍人・珍獣と思っていても、その禍々しくド派手な表看板にみせられて、なぜか木戸銭を払って見世物小屋に入ってしまう心理とよく似ているかもしれない。

 わが阿波国にもアマビエらしき出現の話はないかと探してみた。わが蜂須賀藩には城下町として人口数万人の徳島の町があったが江戸や京阪の都市と比べれば貧ちょこまい町である、そこには阿波限定の瓦版などはない。そこで昔話の中にそんな話はないかと探すと一つだけ似た話があった。県南・美波町の民話「磯島の小女臈」である。

 『県南の沖に磯島という小さな島があった。全島が浜名主の土地だった。そこに長い漆のような髪を持つ小女臈(おじょろう)と呼ばれる異形のモノが住みついた。怖くて浜の人は近寄れずにいた。浜名主は鉄砲を持って磯島に上陸し、大声で威嚇した。おどりゃぁ、ここに住みつきくさって、ここはワイの土地じゃ、出てうせい!しかし小女臈はこたえなかった。そこで浜名主は鉄砲を小女臈めがけてズドンとぶっ放した。その時、小女臈は持っていた手鏡(当時の鏡はガラスでなく金属製)で弾をカィィンと跳ね返した。浜名主はそのあと小女臈に向かって、島に二人の持ち主しゃいらん、もし立ち去るなら、ワイが島に祠(ほこら)を作って祀っちゃるわい。といった。それを聞くと海中にザンブと入り、二度と現れなかった。そこで祠は約束通りつくった。』
 
 小島に現れてその名前が小女臈(女の人魚を暗示する)であったことや髪が長く、最後は海に入って消えたということから、人魚っぽい異形のモノであると想像できる(姿かたちはアマビエと類似する)。しかし地方の古老が言い伝えてきた昔話なので、その絵も文も残っていない。この民話は肥後の国に現れたアマビエのように直接幸をもたらす話ではないが話の中に「祠」を作り祀ったとある。祀ることによって祟りを鎮めるとも読めるが、さらには祀ることによって人に幸をもたらすとも読める。そう解釈するとアマビエとの共通点は多くなる。

 このように人魚っぽい異形のモノが云々、という話は全国各地に存在するが、ほとんどは「昔々、或るところに・・・」というように時代場所を特定しない民話・伝説の類である。しかし中には先に言った瓦版に取り上げられたものもある。下の図は時も場所もはっきりと限定したいかにも実際に起った大ニュースであるかのように報じられた瓦版である。

 説明文を読むと文化二年四月上旬(1809年)、越中国(今の富山県)に現れ、海を荒らし漁民を困らせたため、討伐隊が編成され、退治されたとある。全長が10mにも及ぶ巨大な人魚であった。えぇぇ~~~!ホンマかいな、嘘やろ、とは江戸の人も内心ではお見通し。でもそんな怪異の話やそれを討伐した話には興味ある、見たい知りたいとホラ話であっても飛びついて瓦版を買うのも江戸の人である。もしかすると後日、両国あたりの見世物小屋で、その時討伐された人魚の一部、長い髪の毛とか大きな鱗、ひれの一部でござぁ~い、と展示されて木戸銭を稼ぐ、つまりは瓦版屋と見世物小屋との連携商売だったというのがオチかもしれない。

 アマビエ登場の瓦版も真偽がどうかというような話をするのは野暮というものである。これは眉唾ものの面白い話を絵草子的に仕上げた読み物であり、なおかつ豊年祈念と疫病退散のめでたい護符の効用もある、いわば二度おいしく味わえる瓦版として売られ買われたのではないだろうか。

2020年5月29日金曜日

暑さとマスク、そしてなぜか中世絵巻物

 昨今、コロナの影響でマスク装着率が汽車や密室などではほぼ100パーセントになった。しかし、これから夏に向かう。極寒期などはマスク装着で暖かくもあろうが蒸し暑い時のマスクは余計に暑苦しさを増す。また肺の力の弱い人は息苦しさを感じる人もいる。蒸し暑さと息苦しさで「布団蒸」状態の苦痛を忍ばなければならない。

 できれば十分暑くなったこの頃、マスクなんどはつけたくないが、人のいるところはどこへ行ってもマスク必須みたいな雰囲気で自分一人外しているのははばかられる。こんなのを無言の同調圧力というのだろうか。これから益々暑くなるのに何とかならないものだろうか。

 そう考える人は多いみたいで、それならと、アイデアマスクを考えた人がいる。名付けて「冷やしマスク」。なんか冷やし中華みたいなネーミングだが、要はマスク内部を二重ポッケにして保冷剤を入れて使用するらしい。ヒンヤリと気持ちいいそうであるから、これから夏に向けて流行って売れるかもしれない。保冷剤はあらかじめ冷凍庫で凍らせておくようだ。いいかもしれないが私は使わない。価格が数千円もする上、いちいち使用の度に冷凍庫から保冷剤を入れ替えねばならない。そこまでしてマスクをしたいとは思わない。

 日本の夏はタダものではない。マスクで顔の半分も覆っていれば、冷房のない所では多くに人に熱中症が発生するかもしれない。マスク装着の無言の同調圧力のある中、いったいどうすんだ?と思っていたら、当局さすがに熱中症でバタバタ倒れるのはまずいと思ったのか。「熱中症の心配があるので無理にマスクをしなくていいですよ、ただし三密を避け、ソシアルデスタンスは取ってくださいよ」と言い出した。当たり前である。しかし当局が言わなければマスク同調圧力を崩すのは難しい。

 もう一つ、当局はいいことを言いだした。これなど私はちょっと感心させられた。それは、「外を歩く時はソシアルデスタンスをとるため傘をさして歩きましょう。」という呼びかけだ。これなど少なくとも傘の半径以上は距離をとる上に、直射日光を防いで熱中症を防ぐ一石二鳥のいい方法である。ここ数年、熱射病を避けるため男でも夏の日中、日傘をさす人が増えたが、コロナを防ぐためのソシアルデスタンスにもなるので、これからは男でも大っぴらに日傘をさして歩いたらよいと思う。

 西暦1270年代の中世日本の風俗を見る上での格好の資料がある。「一遍上人絵伝」である。これに日傘が出てくる。鎌倉時代に早くも畳める傘があったことも驚きだが、日傘をさしているのはほぼすべて男である。



 そうそう、この「一遍上人絵伝」を見ていてソシアルデスタンスをとるのにいいグッズが中世の風俗にあるのを発見した。女性は日傘を差さない代わりに「市女笠」というかなり大きな直径を持つ深笠を被る。下がそうであるが、これには周囲に薄物の長い絹のカーテンがついている。これを「虫垂れの絹」という。これなどは軒のような大きな傘で相手との距離が取れるし、虫垂れの絹は、今、コンビニのレジにあるようなビニルシートの役割を果たし、飛沫感染を防ぐことができるのである。誰ぞ、若い子ぉでもこれを被って流行らしてくれんかな。ええと思うがなぁ。


 もう一つ、飛沫感染を防ぐグッズが中世にある。下の絵巻に見える「扇」(おうぎ)である。扇子ではない。今の扇子と違って丈夫でかなり大きなものである。中世の貴人や女性は大口を開けてしゃべって唾を飛ばしたり、ゲタゲタ笑ったりしなかった。しゃべるとき、笑う時は、このように扇で口元を隠したのである。これなども飛沫感染を防ぐいいグッズになる。ものに触れる時なども閉じた扇で触れたり、また直接手渡ししないで扇を広げてその面に乗せてもらったりした。皮膚接触がないため衛生的である。

 最後にこの絵巻を見ていると集団でマスクをしている人々があちらこちらの寺社の境内にたむろしている。中世にマスク?まさか、でも、白の布で目から下を広く覆っている。この人々はいったい誰?



 この人々、寺社の一応、下級労働者(特殊な技能をもつ非農の集団)で「犬神人」と言います。(後世の非人や穢多に比べられるが、差別される人々であったかは不明)

2020年5月24日日曜日

アマビエさま

 つい最近知ったのだがコロナ疫病退散に御利益があるとして「アマビエ」さまの絵を描くのが流行っているらしい。この「アマビエ」の文字だけを見た時は一瞬、刺身盛り合わせ定食についている刺身の「甘エビ」かとおもった。いったい甘エビならぬ「アマビエ」さまとはどんなお姿なのだろう(描くとしても手本がなければ描けないわな)。

 ネットで調べると170年ほど前の古文書にそのオリジナルはあった。下がその古文書である。

 江戸期の古文書というから絵も文の内容も堅苦しいのかと思っていたが、なんの!ずいぶん漫画チックで笑ってしまった。こんな着ぐるみ人形を作れば今どこかの「ゆるキャラ」としてあっても不思議でない。絵を見るとくちばしのような口、四角の目、長い髪、鱗、下半身は鰭のようにも見える。あまり見たことがないの「者」なのでどういっていいか迷うが、髪の長い女性の人魚のようにも見える。

 説明の文には『夜ごとに海に光り物がおこったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して、当年より6ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし疫病も流行がしたら、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ、と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った』とある。年号は弘化三年とあるから西暦1846年である。

 海中で光るものがあり、それを求めて云々、というのが発端の伝承は各地にある。この徳島にもそれはある。つい最近私がお参りしてきた小松島の金磯弁天縁起にも語られている。『海中の光を求め弘法大師がそこへ行くと・・・』という話になっている。

 またあらわれた異形の者が人に幸をもたらす話も各時代、各地域にある。遥か海の向こうから現れる異形の者は災いより幸をもたらす者が多い。海の向こうには幸せな理想国があるという「常世の伝説」が民間伝承には多く存在するようである。

 そういえば浦島太郎の話も基本的には海中の「良き国」に行った話である。また古事記にある話も、海の向こうから波頭の上にのってやってきた「スクナビコナ」がオホクニヌシの国づくりを助ける良きカミの話である。

 そう考えるとこのアマビエ様の話もこのような民間伝承の話として各時代、各地域にもありそうであるが、時代としては明治にかなり近く、それも目撃者が役人である。この弘化年度は異国船が日本の近海を往来して沿岸警備の意識も高まり、幕府から度々の異国船警戒令が発せられ、海上の監視には特に注意していた時代であるから、役人の大ぼらの話として切って捨てるのにはちょっと戸惑いがある。もしかすると何者かとの遭遇はあったのかもしれない。

 このアマビエ様は「六年間は豊作・疫病を保証する」という意味のことを語っているが、この言葉は意味深である。なぜならばこの六ヵ年が過ぎ去った次の年に、アメリカのペリー艦隊が浦賀にやって来て幕末の動乱の引き金を引くし(1853年)、またさらに翌年(1854年)には恐るべき疫病の「コレラ」が蔓延し多くの死者を出すのである。保障の6年が過ぎると怒涛の如く災厄が降りかかってきたのである。
 (※古文書を読むと豊作は6ヵ年の保証だが、疫病の方は保証期間を区切っていないとも読める。とすると疫病退散には保証期間限定はないから今現代でも有効であると解釈できる。)

 このような民間伝承の疫病退散のお札(この場合はアマビエさまを描くのであるが)は明治も過ぎ大正時代になっても存在し流行したことがモラエスさんの随想録に書かれてある。それは「久松留守」と書いたお札である(詳しくはそのブログ、ここクリック)。さすがに21世紀の今日、そんなものは廃れたと思っていたが、令和の御代でもやはり疫病退散のお札の類「アマビエさま」が流行っていたのである。

 なおアマビエさまは人魚っぽいが、人魚といえばアンデルセンの影響もあってか女性人魚を思い浮かべる人も多いが、日本、東洋では男の顔を持った、あるいは顔は魚で手足が人間という人魚が一般的である。下は中国の『山海経』をもとに描かれた人魚である。


 

2020年5月21日木曜日

八万を流れる川

 文化の森駅から文化の森図書・博物館へは徒歩で半時間弱、運動不足の解消に歩いていくにはちょうど良い。できるだけ車の少ない道を選んでいる。一番いいのは園瀬川土手沿いの遊歩道であるが、時々違う道を行く、脇道は田園地帯に住宅地が散在するところを通っている。その途中、園瀬川とは別の結構大きな川の横を通る。園瀬川に流れ込む支流の川と思っていたが、昨日歩いた後調べると別系統の川で「冷田川」であった。この川の下流に流れるプール「ヤングマリン」があったのは、もう半世紀も昔だ。

 そして八万地区でもっとも大きな川である園瀬川を渡るとすぐ文化の森公園だ。

 文化の森の橋の下にはもう一本、川が並行して走っている。星河内川だ、この橋のすぐ下流で園瀬川と合流する。

 帰り、二軒屋駅で降りて買い物をしたが駅近くにこんな表示案内杭が立っていた。乗り合い馬車発着場とある。鉄道の開通するずっと前、明治の話だ。発着場は旧八万村役場付近とあるからこの辺りに旧村役場があったのだろう。

2020年5月16日土曜日

雨の季節の始まりか

 今日は降ったりやんだりの雨の一日だった。今の時期、晴れると外は太陽光が強く室内から出た時などまぶしさを感じるが、今日はそれと対照的に薄暗い。5月から6月にかけては晴れの日は紫外線が強いので日にさらされたウィルスは射られて死滅する。また今日のような雨の日、インフルエンザのウィルスは湿度に弱いといわれている、同じRNAウィルスであるコロナウィルスも弱まればいいと思うがどうだろう。ともかく初めて流行するウィルスなのでインフルエンザのように梅雨から盛夏にかけて下火になるかどうかはわからないみたいだ。

 最近は地球温暖化の影響からか、雨の季節が早まっているようだ。珈琲を呑みながらふと窓の外をみると早くも枇杷が色づき始めている。子供のころ住んでいた家の裏の家庭菜園の隅に枇杷の木が植えられていたが、梅雨の初めの頃、祖父が熟した実をとって食べさせてくれたのを思い出す。枇杷の実のなるのも早まっている。

 田んぼでは田植えも終わっているが、まだ苗が小さいので一面に広がった水面が見え、水面には灰色の濃淡のムラのある乱層雲を映し出している。このように水に写る天を「水天」と呼ぶそうだ。下は汽車の車窓からとった田面の水天である。

 中学か高校の時、なんかの文章を読んでいて「髣髴」(ほうふつ)という語が出てきた。意味が分からず、辞書を引いたら、この語、ほぼ反対の意味があるのを知った。例文が示されていた。
 〇「母の面影が髣髴と・・・」こちらはありありと見えること
 〇「水天髣髴として・・・」こちらはぼんやり見えること
  その時、例文2にある「水天」の意味も知った。だから田面の水天をみると、必ず「髣髴」という言葉も思い出される。

2020年5月13日水曜日

気延山登山

 登山といってもたかが標高212.3mの山である。ワイのような体力の落ちた高齢者の登山にはちょうどいいかもしれない。先日、史跡公園をぐるっと巡ったが奥に気延山登山口があったので、いつかは来ようと思ってたが今日がその日になった。ここニ三日30℃近い暑さが続いていたが今日は一段落したようで山道を歩いたら暑くはあるが夏日すれすれの最高気温で風がかなりありさわやかな初夏の登山日和である。
 下は国鉄徳島線、石井~府中間から見た気延山である。源平合戦のおりに源義経がこの山を訪れ休息したことから気延山と名づけられたといわれている。

 入口は史跡公園奥にある。

 気延山付近の概略図

 登山道に沿って多くの古墳がある。円墳が多いようだ。コフンばかりか信じられないようなデカい黒いフン(糞)もあった。なんの動物だろう。古墳は数えただけでも6つ、他にもたくさんありそうである。



 途中に八倉比売神社があるので参拝する。

 御祭神は八倉比売であろうが、なんとこのお方、アマテラスオオミカミの別名だそうだ。またの名を(いくつもある)大日孁女命(オオヒルメノミコト)、三文字目難しそうな漢字だ。大きく書くと孁」、ほとんど見たことのない文字である。このアマテラス大神の別名(大)ヒルメのミコトの「ヒルメ」はあの古代史で有名な「ヒミコ」からきているという説がある。邪馬台国神山説によればこのあたりは神山の入り口付近であるから、その説に従うとなんかそれと関係づけられそうである。下は神社の由来書き。

 気延山の山頂部は大木が生い茂り見晴らしはよくない。山頂の表示と熊野修験道のお社がある。

 お社を中心に、役小角、修行大師の石像がある。

 下りは別コースをとり、大泉神社に参拝する。

 その社名の通り、横に湧水の井戸がある。そして石を積み上げて囲った四角の小さな石室が神社の本体である。このようなかたちは神社の原初の姿をとどめていて貴重な神社形態であるといわれている。

  くたぶれた。

2020年5月12日火曜日

 日本人に意外と有難味がないのは「水」である。イスラエルの評論家だったか「日本人は水と安全はタダで手に入ると思っている」といったそうだが、その通りである。「水」などはまわりにありふれていて当たり前になっている。地震などで水道が一時ストップして飲み水に不自由することはあるが、水そのものはどこにでもある。川、池、いざとなればそれを濾して煮沸すれば飲料として使えるだろう。また震災の時、古い井戸や地下水まで打ち抜いた手押しポンプが活躍し助かったという話も聞く。水のあふれるわが風土だからである。

 武漢ウィルスの予防のためアフリカなどの開発途上国で困っているのは流水で手を洗えないことだと聞く。飲み水でさえ事欠く人々にとって流水で手を洗うなんどというのは恐るべき浪費と映るのであろう。そんな国々からすると日本の当局が

 「石鹸をつけて爪先までごしごしと、30秒は流水で洗いましょう」

 などというのを聞けば信じられない贅沢であると思うだろう。それらの国々に対しては国際機関や善意ある団体などによって、清潔な水供給のためのインフラを援助しているが、清潔な流水で30秒手を洗うというような豊富な水供給は初めから無理である。そもそも水の絶対量がそれだけないのであるから。

 まったく我々はいい風土の国に暮らしていることを感謝しなければならない。雨が多く、国土の7割は森林におおわれ(草原などに比べると保水力が高い)、中小の無数の小川が流れ、雨も平均三日に一度は降るので降水量が大変多い。我々の先祖はこんなに水のあふれる国土をほめたたえて「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)といった。

 生活用水には有り余るほどの清潔な水、天水(自然の雨)だけでもちろん農業ができる。しかし、より豊かになるため、さらに多くの収穫を求め、ワイらの先祖は主穀として「イネ」を選択した。イネは極めて優秀な作物である。これによって江戸時代でも三千万近い人を養えたのである。しかしイネは水田で栽培しなければならない、そして水田のためには水の供給システム(用水路)を完備しなければならない。中世などでは小規模な中小河川を利用した用水でよかったが、近世(江戸時代)に入ると大きな河川を利用した用水システムが作られ、新田が大きく広がり、コメの収穫が増大する。人口規模はコメの増産に裏打ちされ倍増する。当時の国力を示す「石高」はコメの生産量であるとともに人口規模にも連動していた。

 わが徳島藩は近世初期には25万7千石、しかし新田開発によって実際はそれ以上あった。その新田開発に不可欠だったのが用水の開発である。今、国道192号線鮎喰橋東詰めにあるのが江戸時代の用水開発の先駆者の碑がある。楠藤吉左衛門さんである。


 ちょうど田植えの時期で水田には満面の水、現在はコンクリの用水路、電気揚水機となったが楠藤吉左衛門さんのつくった袋井用水は現在も利用されている。

 わが国の水の豊富さは土の中にも表れている。大河吉野川、鮎喰川、その他の河川が徳島平野を流れているため、伏流水や地下水脈が平野を縦横無尽に走り、掘れば井戸ができる。上記から北西に2Kmばかしいくと「井戸寺」がある。奈良時代、お大師様が錫杖で突いてできたという伝説の井戸を擁しているためこの名がついた。

 井戸寺境内、水大師お堂

 中の井戸

 由緒書き

2020年5月6日水曜日

平等寺参拝、仁王さんがマスクしていた

 津乃峰神社参拝を終えて橘駅まで降りてきたがまだ午前10時過ぎ。そこから二駅で平等寺のある新野なのでそちらにも参拝してきた。

 新野駅から歩いて30分ほどで山門が見えてくる。

 山門には阿吽の二体の仁王さんがいらっしゃるが、このご時世だろうか、お二方ともマスクをしていらっしゃる。阿吽といわれるように「阿」と「吽」が対になって二体、まず「阿」形の仁王さん、マスクに梵字で「阿」(ア)と書いてある。マスク姿でお口の形はわからないが「阿」だから口を大きく開けている。

 こちらは「吽」形の仁王さん、マスクには梵字で「吽」(ウン)と書いてある。お口は「吽」(ウン)で、むすぶ形となる。

 山門をくぐると大師堂、大師御神水、納経所があり、

 そこから石段を上ると御本堂がある。御本尊は薬師如来である。

 本堂横に護摩堂兼不動堂がある。

 本堂前から眺めると前方の小山がお大師様の寝姿に見えるそうだ。それを報じる新聞の拡大掲示が建ててある。

 そこで写真を撮った。お大師様の寝姿に見える?

 マスク姿の仁王さんの動画

今日で阿波の三峰をまわり終えた

 阿波の三峰とは日の峰、中津峰、津乃峰である。それぞれには有名な寺社があってその霊峰の信仰を集めている。日の峰神社、中津峰如意輪寺、津乃峰神社である。日の峰(ここクリック)と中津峰如意輪寺(ここクリック)はすでに参拝をおわりブログもアップしている。

 今日は残された津乃峰に参拝してきた。ウチの駅から唯一出ている「海部行」に早朝乗り、8時前に橘駅に着く。駅を降りるとすぐに大きな赤い鳥居が目に付く、そこをくぐれば後は道なりだが二の鳥居付近から急な登坂になる。休みながら登ったので50分ほどかかった。

 駅横の大鳥居

 八合目付近

 津乃峰神社、お灯明をあげて参拝する。

 今日はあいにくと霞がかかり視界が悪い。天気が良ければ橘湾と内湾の島々、紀伊水道まで眺められる。動画をご覧ください。

2020年5月5日火曜日

一億萬遍

 あらゆる災厄を防ぐという「光明真言」、以前、石井町にその光明真言を百万遍唱えた功徳を祈念した石塔「光明真言塔」を紹介したが(そのブログ、クリック)、今日、井戸寺の南を自転車で通っていて光明真言一億万遍の石塔を見つけた。石井の百万遍もすごい数だがさらにそれの百倍の一億万遍とは恐れ入る。石井の真言塔もこちらの塔ももちろん一人で唱えたものではない。石塔表面を見るとどちらも「講中」とあるから多くの同志(知識)がとなえたのべ総数である。光明真言は慣れて早口で唱えれば5秒もかからぬが、しかしいくらのべ総数とはいっても一億万遍大変な人の数と時間がかかるだろう。

 まさか何か作業(農業、家事など)をしながら唱えるわけではなく、それに集中しなければならないからどこかの家、あるいはお堂、寺などに集まって講を組んで唱えたのだろう。唱えっぱなしでは何遍唱えたかわからないので、例えば大きな数珠の輪を繰りながら一まわり爪繰れば百回とかで数えたのだろう。それにしても一億万遍とは大したものである。さぞや御利益も大きかったに違いない。

 光明真言を数多く唱えるのは江戸時代にウチラの地方で大流行した。今はお遍路さんなどがお四国の寺などで一回あるいは数回唱えられるのをたまに聞くくらいである。この石塔が建てられたのは明治になってはいるが年号は明治三年、廃藩置県の前年で、徳島藩の時代である。江戸の信仰、風俗がまだまだ強く残っていた時代である。

 なお、石井の光明真言塔の上部の種子はアーンク(大日如来)こちらは「ア」の種子(こちらも大日如来を表す)である。真ん中の石仏は右手の持ち物が書けているので何の仏さんかちょっと断定できない。(地蔵尊か?)白毫があるから「大師像」ではない。右には庚申塔もある。(この三者、他にあったものを区画整理でここにまとめられたものかもしれない)

2020年5月2日土曜日

中津峰如意輪寺

 徳島駅から自力(自転車+徒歩)で中津峰如意輪寺へ参拝してきた。
 
 午前8時16分、徳島城大手門前を自転車で出発。左隅が我が愛車。

 ルート11号沿いの切り揃えられたツツジの植え込みが美しい。

 勝浦川沿いに道をとる。

 土手沿いにあった。桐の花だ。

 丈六寺横を通過。9時25分。

 宮井小学校奥の急坂で自転車を降り、右道路横にとめて歩き始める。午前10時7分。

 午前11時20分、仁王門に着く。ここで昼食の弁当を開ける。

 そこからしばらくまた上る。15分ほどで如意輪寺境内入り口に着く。午後0時6分。

 長い石段を登って鐘楼門をくぐる。

 くぐると赤い橋があり、椿の赤とともに寺とは思えぬ華やかさを感じる。さらに石段を上った奥に見えているのが本堂である。

 橋の左は広場になっていて多くの仏さまの石像が並んでいる。真ん中に不動明王が鎮座している。前には柴燈護摩のあとがある(シートで覆っている)

 
 本堂とまとめ動画。御本尊さんはその寺名のとおり如意輪観音さんである。