2020年9月29日火曜日

太龍寺 その3 龍伝説について

  前のブログに紹介した太龍寺各伽藍の中に龍天井がある。これは太龍寺という寺号にちなんでのちに作られたもので天井画にちなんで太龍寺という名があるわけではない。今回のブログではその「龍」、これはおそらく寺号がつけられたいわれと関係しているであろうと思われるのだが、伝説をもとに述べていこうと思う。

 太龍寺にまつわる伝説には2つの龍に関する言い伝えが知られている。その二つは人にとっては相反する龍、つまり「良い龍」と「悪い龍」である。「良い龍」のほうは神武天皇が行幸した折、天から降臨した虚空蔵菩薩を守ったというものである。日本神話と仏教説話がごっちゃになったような話で具体的な細かいいきさつはわからないが、大事なことは虚空蔵菩薩の守護としての龍、つまり仏法の守護者としての龍として理解するほうがいいだろう。
 
「悪い龍」は干ばつ、嵐、大雨、等々で作物を荒らし、農作物や人命に被害を与えたのである。ここで注意してほしいのは、その被害は悪天に関係しているということである。悪龍と悪天が結び付けられていたのである。この太龍寺のふもと付近の村々はたびたびの悪天(すなわち悪龍)に苦しめられていた。そこへわがスーパーヒーロー「お大師さん」があらわれ、村人を救わんと仏教の秘法を用いて悪龍を取り押さえ、山中(太龍寺山)の岩屋へ閉じ込めたのである。悪龍を封じ込めたため被害はなくなり、めでたしめでたしとなるのである。各地に存在する「お大師伝説」の一つである。

 この良い龍、悪い龍、相反する二つの龍であるが、実はこれは二つ結びついて一つの龍としても考えられる。上記の二つの話を読んで感じることは、悪い龍の話のほうがずっと生き生きしていて本来の龍伝説にふさわしいことである。つまり本来の龍の性質は生き物として生きることそのものがその意図には関係なく、悪天(嵐、大雨、干ばつ、とくには竜巻、突風など)をもたらすという因果なものであった。しかし結果として人に被害をもたらすならばなんとかしなければならない。その時、お釈迦さまやお大師様のような宗教的パワーの持ち主は「封じ込め」や本来龍の棲み処である「湖中」や「海中」などに鎮まってもらう、という手を用いるのだが、それよりなおいいのは、龍そのものを仏法に帰依させ、さらにはその超能力を持って「仏法守護者」になってもらうことである。つまり本来は龍は良いも悪いもない人と同じように煩悩も持てば、悪行も善業も積み重ねて生きる生き物である。それが仏法に出会い、仏法に帰依することにより、人に被害をもたらす生き物から、そうではない生き物になるのである(降雨をつかさどると考えられたため、適宜による雨はむしろ人に良い結果をもたらす)

 太龍寺の岩屋に閉じ込められた龍は、その後、閉じ込められっぱなしか、それとも仏法に回心して良い龍となったか、そこまではわからないが、仏典の中には一転して仏法の守護者となった龍(生き物の一種と思われていたのでその数も多い)がたくさんいる。このように考えると、悪龍⇒仏法に帰依する⇒良い龍⇒さらには仏法の守護者の龍、という成長(修行か)を遂げ、太龍寺伝説の第一の話、虚空蔵菩薩さまの守護者としての龍伝説にも結び付くのである。

 さて龍も人のように煩悩もあるし喜怒哀楽のある生き物であるといったが、現代人は龍などという生き物が実際にいるわけではないと知っている。しかし歴史的に見ると洋の東西を問わず、世界の多くの地域では龍は存在すると信じられていた。西洋では「ドラゴン」と言われギリシャ神話、ケルト神話、北欧神話に登場する。もっとも現代人が「龍」という言葉を聞いてのイメージは中国伝統の「龍」が強いためそれが一般と思われようが、世界各地に存在する龍・ドラゴンのイメージはもっと幅広いものである。でも共通点はある、鱗を持つ、極めて巨大である、爬虫類的特徴を持つ、他特殊なものとして火を噴いたり、鉤爪があったり、また空を飛ぶため翼があるのもある(中国の龍も空を飛ぶが、雲を呼びそれに乗るためか翼などはない)この一般的特徴を広義に「龍・ドラゴン」と規定すると日本神話にも龍伝説は存在する。ご存知、記紀神話の『八岐大蛇』である。原文で読むと八つの頭を持つ大蛇である。

 なんでこんなに各地に龍伝説が存在するのかについてはいろいろな研究がありどれももっともなものと思われる。例えば、猛威を振るう自然現象を龍と見立てたことが考えられる、特に豪雨の後の渦巻き迸るような川の流れや、川の段差を飛沫を上げうねるような落ちる太い水流、同じように空気の激烈な流れ、それはつむじ風や竜巻など(山火事時の巨大火炎竜巻も考えられる)であるのだが、その水流や気流(火流)の中に何か巨大な生き物がいて怒ってのたうち回っているように感じることである。その他、現実に存在する巨大爬虫類(大蛇、オオトカゲ、鰐)への恐怖が龍へのイメージを生んだことも考えられている。イメージであるためそれらの生き物を合体し、もっと巨大化して考えられたとしても不思議ではない。中国系の龍などは、顔部分と手足は「鰐」、長い体長は「大蛇」そして巨大なまずの髭や尾びれなどを配せば、ほぼ龍のイメージとなる。

 しかしもっと直接的に龍・ドラゴンに似ている生物はいる。いや、正確にはいた!この地球上に存在したがそれは1億年も前の話である。そう恐竜類のことである。時代的に古代人とは結びつかない。しかし、これも龍伝説の説明でよく言われていることだが、その化石は今も存在する。発掘作業などしなくても、岩石の風化や、地震山崩れなどにより、恐竜の化石の骨格(運が良ければ頭をはじめ体の大部分)、あるいはごく一部の「爪」や「歯」でもよい。それが古代人の目に触れることもあったであろう。それを見たとき、これは龍・ドラゴンの死骸の一部であると思うのは自然なことである。
 世界各地において龍・ドラゴンのイメージはこのようにして形作られた。日本においては変成岩の多い火山国であるため化石類が目にされることは少なかったであろうが、自然の風水害の猛威時に見る恐ろしい水流、竜巻などは目撃される。また巨大爬虫類はいないがそれでも人間の体長より長いアオダイショウは存在する。みた恐怖心から何倍もの大きさのダイジャとしてイメージが植えつけられるのはありうることである。それが元になって先に述べた「ヤマタノオロチ(大蛇)」伝説となっているのであろう。

 日本の古代、中国から文物そして仏教が伝来すると今日まで伝わる「龍」もその中に入ってもたらされる。いま我々がイメージする龍もそれである。雲を呼び、風を巻き起こし、雨を降らせる、超能力を持つ龍である。以前のブログに紹介した太龍寺の天井画に描かれた龍はそれである。これとは別にもう一系統の龍も日本に入ってきている。仏教にかかわる龍であり、当然インドにルーツを持つ。インドであるから現実に存在する最悪最強の「キングコブラ」などがそのルーツかな、と思うが、実際にその説はかなり有力なようである。こちらの方は仏教に関心のある人以外はあまり知られていない。

 胎蔵曼荼羅にその図象を見ることができる。「龍王」である。胎蔵曼荼羅はいくつかの部分に分かれるがその最外院に龍王がいる。下が胎蔵曼荼羅の外部院の龍王である。南門を守護する「天・神」の四人のうち二人が龍王である。

拡大すると

 体は下の二人の阿修羅と変わらないが、後ろから七つの蛇が光背のように生じているので龍王との区別がつく。やはりインドコブラのイメージの強い龍王である。最初に述べた様にこのように仏典(胎蔵曼荼羅)に取り入れられた龍王は仏教の守護者であるし、またこの龍王も「天・神」として人々の尊崇を受ける存在である。龍王はこの図では二人だが龍の王であって龍族はたくさんいるし、また龍王も多数いる。有名なのは「八大龍王」の八人である。上図の難陀龍王を筆頭に八体セットして独自に「八大龍王」として祀られる。

 わが町にもその「八大龍王」を祀った神社がある。仏典(曼荼羅)根拠なのになんで神社かとも思われようが胎蔵曼荼羅の最外院ともなれば神々の乱舞する世界である。神仏習合の神々がたくさんいらっしゃる。

 下はわが町の南方、四国山地の麓・谷地に近いところに祀られている「八大龍王社」である。御利益はやはり、天気(旱魃・大雨、他風水害に関することである)の願いである。
 
 この神社から少し行くと谷地に沿った道は終点となる。そこにあるのが我が町の名水・龍王水である。

 この龍王は上図の曼荼羅を見てもらえばわかるように最外院の南門を守護する天部である。そう考えると太龍寺の龍伝説第一の良い龍は、虚空蔵菩薩(胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院にいる)をも守護するこの龍王であることがわかる。
 太龍寺伝説の第二の悪い龍は仏法に感化される以前の龍族であろう。太龍寺山麓の村々に対し悪さをしたといわれているが、別の太龍寺伝説では大師が太龍寺山で修業中に龍は美しい娘に化けて修行を妨げんとし、そのため空海によってやはり岩屋に閉じ込められとも言われている。

 この岩屋は実際に太龍寺山に存在する(した)。岩屋から想像できるようにかなりな奥行きを持った「鍾乳洞」で人が奥まで行くこともできた。そこは山岳宗教の験者・山伏たちの修行場でもあった。と・・このように過去形で述べなければならないことは大変残念であるが、今この龍の岩屋は存在しない。江戸時代の後期から始まったこの付近での石灰石採掘(太龍寺山付近は石灰岩・大理石埋蔵されている)によって龍の岩屋も石灰石採掘の対象となり昭和30年代に消滅してしまった。昭和の高度経済成長によるセメントの需要増大に伴い、歴史文化の遺跡になどに経済成長第一主義の当時は考慮は払われなかったのである。

 下は今に残る数少ない龍の岩屋の写真(昭和30年代)、前に写っているのは照明のライトである。これが今に残っていればなぁ、と当時のセメント会社やそれを許可した県、役場を恨むが、今となっては、せんべんゆうてもせん無いことである。

2020年9月26日土曜日

上勝の深山であったインド青年について考えたこと

  6月7日のブログの中に山中であったインド青年が出てくる(読んでない方はここクリック)。人の宗教信条を詳しくは立ち入って聞かないのは日本の常識だが、人懐っこいインド青年でお話好きでもあるらしいので(日本人の目で見ると、インド人はおしゃべりで陽気な人が多い。シャイなインド人と言う二つの言葉は結びつきにくい)、これくらいは聞いてもいいだろうと「インドではヒンドゥー教がマジョリティーだと思うんだけれどあなたもそうですか」というと「いえ、僕はキリスト教徒です」と彼の方から答えてくれた。お互いの宗教信条についてはそれ以上話さず、後は一般的なインドの観光・文化・歴史・ヒンドゥーの聖地に話になった。

 その中で私が強く興味を持っていたインドのある宗教宗派について聞いてみた。

 「古代ペルシャの民族宗教であったゾロアスター(ツァラトゥーストラ)教が3000年を経ても滅びずにインドのボンベィあたりにパールスィー(ペルシャのインド訛り)教として残っていて長い伝統の命脈を保っているのを最近知って歴史好きの私としては感動したんですよ」

 と話すと、彼は「おおパルスィね、うんうん、」とこれまた愛想よく答える。しかしそれ以上に話は展開しなかったから、彼はその宗教についてあまり知らないか、あるいはキリスト教徒として他宗教には関心がないのかだろうと思い、インドの宗教聖地の話になった。

 さて、ここで現代インドの宗教事情を見ると、この国くらいあらゆる宗教が存在しているところは珍しい。そしてそれらが平和的に共存共栄している状況を見ると、(インド以外の文化圏と比較すると)宗教的寛容さが大きいのではないかと思ってしまう。しかしそれは相対化した宗教平等主義や、他者(宗教)尊重の近代的合理精神に基づくものではない。この点インドは日本の宗教事情と似ている。どちらも多神教世界という共通点がある。この世界でよく言われるのは、要するに「他人の神棚や仏壇にチョッカイをださない。」ことである。また多神教世界では一人の人間が多くの神を信じることも許される。時と場所によって多くの神を祀っている。そのため隣人がどんな神、あるいは宗教を信じようが、社会的付き合いにほとんど影響をもたらさないのである。これが多神教世界の宗教的寛容の実態である。

 インドが日本よりこの点、もっとすごいなぁと思うのは、その社会の中に、排他的宗教であるイスラム教やキリスト教も包摂していることである。日本では(明治以降は別として)排他的宗教であるキリスト教は受け入れなかった。日本の宗教的寛容性から言えば唯一の例外であったが、キリスト教だけは排除したのである。これはキリスト教の神が唯一絶対である、という信仰そのものを忌避したためではない。信者がそのように思うことまで否定するほど日本は非寛容ではなかった。そうではなくて祖霊信仰や民間信仰を否定し、また神社・仏閣の破壊に及んだからである。そして信者を構成者とする「島原の乱」が起こるに及んで幕府・各藩による徹底的な禁教政策が実行されるのである。

 インドでも中世以降(11C~)唯一神宗教(イスラム)が入るにあたっては大いなる軋轢があった。そして日本よりもっと大変だったのはイスラム教が征服者・支配者の宗教であったことである。多神教世界(ヒンドゥー)のほうが弾圧される側となるのである。キリスト教の入る以前の欧州やイスラムが征服する以前の中東には様々な土着信仰(多神教世界に似ている)が存在したはずだが、ほとんど痕跡を残さず滅ばされてしまったことを考えると、人口では多数派でありながら、もしかするとそれらの信仰が滅ぼされていた可能性が大きかったのである。しかし多神教世界(ヒンドゥー)は支配者の圧力にも屈せず、しぶとく生き残ったのである。為政者がイスラム信仰である場合、イスラム教も徐々にヒンドゥーの被支配者層に浸透していったがインド北西部以外は多数派とはならなかった。そして支配者の宗教の動向はともかくイスラム教も含めてヒンドゥー社会には多くの宗教が混在するのである。

 私のような歴史好きにとって、このように時代を経ていろんな宗教が入って来ても、昔からの伝統的な宗教も同時並行に存在する社会は魅力である。それらは古代の人の信仰や精神生活を知る上での生きた史料となりえるからである。だからこそ3000年来の伝統を持つ古代ペルシャ(むしろアーリヤといったほうが正しいかも)の宗教・ゾロアスター教の伝統を引くインド・ボンベイ付近のパールシー教に興味がわくのである。それと同じくらい古い伝統を持つ宗教・ユダヤ教も西インドには残っている。しかしユダヤ教は現代でも色々な意味で有力宗教であり、パールシー教のような細々と伝統を伝えるようなものではない。

 歴史的な深みのある宗教を残しているインドではあるが、われら日本人にとって残念なのは、「インドでは仏教はお釈迦様が生まれた地であるにもかかわらず滅びてしまった」と言われていることである。この言葉、最初は私も鵜呑みにしてしまった。しかし最近はそうかなぁ、いやそうではあるまい、と思っている。インド文明圏という言葉が許されるなら、それはスリランカも含まれる。スリランカでは仏教は最有力の宗教である。またインド本国においても東インドの山岳地帯、ネパール国境付近などにはそれこそパールシー教のようにインド仏教が細々と生きているのである。

 またこれもよく知られていることだが、ヒンドゥー教のパンティオンの中には仏教の開祖であるお釈迦さまが存在している。ヒンドゥー教の有力神の一つにヴィシュヌ神がいるが日本の密教の大日如来様のように、ヴィシュヌ神はさまざまな他の神の尊格をあわせもっている。確かその九番目の尊格がお釈迦さまである。つまりお釈迦さま(仏教)はヒンドゥー教の中に取り込まれてしまっているのである。こうみると果たしてインドにおいて仏教が完全に滅びてしまったと言えるのだろうか。これは日本密教においてもよく似たことがある、密教の曼荼羅の中にはヒンドゥー教の有力神がずらずらとたくさん入っていてそれらヒンドゥー起源の神・仏も信仰を集めている、日印お互いさまである。日本においてもインドにおいてもこれはヒンドゥーと仏教(密教)がある部分融合したものとみなすことができる。実際にヒンドゥー教の寺院にはヴィシュヌの第九番目の尊格のお釈迦様の尊像があり祀られているから、インドでは仏教はヒンドゥー教という織物の織り糸の一つとして入っているのである。

 インドの宗教の多様性・寛容性について最近あることを知ってちょっと感動したことがある。それは最初に戻るが、あの上勝の山中であったインド青年のことについて考えて、調べた結果である。彼は「キリスト教徒」であるといったが、それ以上のことは言わなかったしこちらも聞かなかった。その時の私の知識としては、インドにおけるキリスト教は恐らくカトリックかプロテスタント、南インド青年ということを考えるならおそらくカトリックだろうと思った。なぜなら1498年、ポルトガルのバスコダガマが南インドに着き、その後、南インドの港湾を中心にポルトガルが勢力を広げていき、同時にカトリック信仰も宣教師の活躍もあって広がったことは、世界史の常識であるからそのように考えたのである。また一方、カースト差別が現代でも残るインドにおいて神の前の平等を強く主張するキリスト教にこの青年の世代が魅かれ、最近に入信したことも考えられる。その場合、プロテスタント系キリスト教であることも考えられる。

 ところが、歴史好きだとは言いながら南インドの宗教事情に対する不明を大いに恥じるのであるが、調べるとなんと南インド(特にケララ州)には全人口の2割近くを占める大変古いキリスト教の宗派(インド独特)があったのである。大航海時代のはるか以前、西欧にキリスト教が伝わる、あるいは日本に仏教が使わるずっと以前にインドにはキリスト教が伝わっていて、脈々とその信仰の流れは2000年を経て今に至るまで途絶えなかったのである。

 キリストが磔刑になってまもなく十二使徒のひとり「トマス」がこのインドに布教に来ていてその信仰を植え付け、広がる元を作っていたのである。その流れを引くのがインドでは「トマの子」とも言われ、また専門的にはインドにおけるキリスト教非カルケドン派と呼んだりしているインド独特のキリスト教宗派である。その儀軌、教会、聖堂内のつくり、などを見てみると例によってヒンドゥー教の影響もかなり受けていると思われる。また16世紀が始まると戦闘的なカトリックの宣教師が新参者としたやってきて布教を始めたため軋轢を生み、近親憎悪のようにカトリック側からは異端として烙印を押されたりするが、途絶えることなく現代まで多くの信者がいてその信仰を守っている。

下はその教会のようすと聖職者(主教)

 この南インド青年、インド独特の「トマの子」と呼ばれる古いキリスト教宗派であると断定はできないが、南インド出身ならその可能性は大いにある。もしそうだとすると2000年にわたる先祖伝来の宗教である。他にもインドには前にも言った3000年来のゾロアスター教、2500年来の仏教が生きている、そして南インドの港湾都市にはここにやってきて1500年以上とも言われるユダヤ人もいる。それらのことを知るとインド世界の宗教的多様性(もちろん寛容性も含む)とその歴史の長さに感動してしまった。ますますインドが好きになりそうである。

2020年9月22日火曜日

ちゅうにっつぁん

 毎年二回の「ちゅうにっつぁん」(春分と秋分)には必ずといっていいほど切幡寺へお参りしているのだけれど、足を怪我してしまい、切幡寺の急坂で333段もある石段を上ることができないので今年は断念した。その代り駅から歩いてすぐ近くにある札所・立江寺へ参ってきた。立江寺については9月5日にもお参りし、ブログに書いているので寺の様子などは省きます。

 下は立江駅


 下は8年も前になるが、切幡寺へお参りした時の動画である。今年は行けなかった代わりにこの動画の本堂をみて手をあわそうかなぁ。



2020年9月21日月曜日

太龍寺参拝 その2 各伽藍について

  鷲敷東でバスを降り、そこから西日本一の長さを誇る太龍寺ロープウエイに乗れば、境内まで直接通じている。朝7時前に家を出て汽車、それからバスを乗り継ぎそのバス停に着いたのは9時半を過ぎていた。そこから徒歩5分ほどにある道の駅・鷲の里がロープウエイ乗り場だ。行きも帰りもロープウエイにして楽に参拝しようか切符を買うときに迷った。しかし有名な山岳霊場である。下り道くらいは昔の遍路道も体験したく、また、上ってから気が変わり下りもロープウエイにするなら、太龍寺でも切符を変えるとのことで、片道切符にした。(これがあとでたいへんな結果をもたらすのだがそれはまた追々お話しします)

 ロープウエイの素晴らしい眺めは前々のブログ(太龍寺その1)を見てもらうとして、ロープウエイを降りれば、そこは本堂下の境内である。広い寺域で山の峯付近にあるため降りてみても本堂に続く石段とその上に本堂がチラと見えているだけで、寺の各伽藍は見えない。

 ロープウエイ降り口正面が本堂に続く石段、石段上にあるのが本堂

 

本堂の正面写真、ご本尊は虚空蔵菩薩さま


 虚空蔵菩薩さまへの祈願やそのご利益については薬師、観音、地蔵さんよりは一般の人の理解が薄い気がする。本堂横の説明版をよく読んでみる。


 その名前に由来するのであろう、「無限に広がる大空の蔵より・・云々」とある。それは際限のない空間にたとえ、そこには無尽蔵の豊かさのモノがある、と解釈できるのであろうか。この虚空蔵の意味解釈については、独断と偏見で私的に解釈したブログを以前作っていたのを思い出した(ここクリック

 真言宗について少しでも知ると虚空蔵菩薩さまは真言宗では重要な仏様であるとわかってくる。御大師様が行った修行に「虚空蔵菩薩求聞法」というのがある。そのご本尊は修法の名を見てわかるように虚空蔵菩薩様である。真言は

 『なうぼう、あきゃしゃ きゃらばや、おんありきゃまりぼり そわか』

 である。本堂前でこの真言をとなえ、参ったあと本堂の上方の丘にある多宝塔をお参りする。下が太龍寺多宝塔写真である。


 仏塔といえば一般的には中には仏舎利が納められ、それが礼拝・信仰の対象となるものである。多宝塔も仏塔の一種であるが、以前のブログ(鶴林寺その2)でも見たように、多宝塔は仏舎利を納めたものでなく、如来や菩薩(像)がまつられているものが多い。下は鶴林寺の多宝塔であるが正面の額にまつられている如来の名が掲げてある。五仏あるのは金剛界曼荼羅にもとづいている(成身会)。下は鶴林寺の多宝塔と額


 ここの(太龍寺)多宝塔も同じように五仏(菩薩)をおまつりしている。五つの虚空蔵菩薩像である。なんで同じ虚空蔵菩薩を五体も、と思われるが、同じではない。法界虚空蔵、金剛虚空蔵、宝光虚空蔵、蓮華虚空蔵、業用虚空蔵、の五体一組の虚空蔵菩薩である。まったくなじみのない仏さまたちであるが、鶴林寺の五仏と同じで金剛界曼荼羅成身会の構成である中央、東、南、西、北、の五方向にそれぞれの虚空蔵菩薩を当てはめていると思われる。これは五大虚空蔵といわれるが、曼荼羅の解釈にもとづいていることは間違いないであろう。

 多宝塔にお参りしたあと石段を下りて左に曲がると石橋があり、奥には大師堂がある。下の写真で左上に見えているのが多宝塔、石橋の奥、こんもりした木立に囲まれて少し見えているのが大師堂である。

 この大師堂は他の札所の大師堂とはちょっと違っている。正面から見たらどの札所にもあるような様式の大師堂であるが、太龍寺の大師堂を特徴づけるのは、その裏にある「大師御廟」である。裏にあるので正面からは全く見えない、知らずに大師堂をお参りして裏にある御廟の方まで回らない人は結構多い。大師堂の回廊を左にとり裏に回ると御廟がある。

 御廟から紐が延びてきて回廊にある礼拝所の金剛杵に結び付けてあり、参拝する人は金剛杵に触れると御廟の大師まで絆でそのこころが通じるようになっている。高野山では大師は亡くなったのではなく御廟の中で今日までずっと瞑想に入っていらっしゃるのだという言い伝えがある。ここ太龍寺でも高野山と同じように御廟をつくり高野山に模しているのである。この太龍寺が「西の高野」といわれるのは、深山巨木に囲まれた環境が似ているためばかりではない、このように高野山に模した「御廟」があることにもよるのである。

 そこから本坊の方に向かい、石段を下りる途中に鐘楼門がある。下がった紐を引けば鐘が鳴る仕組みである。静かで広い山内に鳴り響く鐘の音は、こころに共鳴し煩悩が洗い落とされたようなすがすがしい気分にさせる。

 鐘楼門をくぐると本坊である。本坊の端が納経所であるが、ここで有名なのは「龍天井」である。下は本坊

 本坊(持仏堂)の天井に描かれた龍の絵

 京都天龍寺も龍の名の入った寺で天井に龍の絵があることで有名だが、この太龍寺もそれと同じで寺名にちなんでか龍の天井絵がある。

 本坊横には護摩堂があり、不動明王を前に護摩が焚かれ加持祈祷が行われる。

 ロープウエイ出口から参拝したため最後になったが本坊を下っていくと最後に仁王門がある(鶴林寺から遍路道を歩いてくる場合はここが正面入り口である)

 この門には鎌倉時代の運慶・快慶様式の金剛力士像が鎮座していて寺を守っている。阿吽二体いらっしゃるがこれは「吽形」の金剛力士像である。

2020年9月20日日曜日

長崎物語(曼殊沙華)考

 まず歌詞を読んでみよう

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る

濡れて泣いてる じゃがたらお春

未練な出船の あゝ鐘が鳴る

ララ鐘が鳴る


うつす月影 彩玻璃(いろガラス)

父は異国の 人ゆえに

金の十字架 心に抱けど

乙女盛りを あゝ曇り勝ち

ララ曇り勝ち


坂の長崎 石畳

南京煙火(はなび)に 日が暮れて

そぞろ恋しい 出島の沖に

母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く

ララ流れ行く


平戸離れて 幾百里

つづる文さえ つくものを

なぜに帰らぬ じゃがたらお春

サンタクルスの あゝ鐘が鳴る

ララ鐘が鳴る

 日本の演歌には叙情的歌詞が多い。もちろんこの歌もそうなのだが、しかし題に「○○物語」とついているだけあって歌詞にはあるストーリーが込められている。今は亡き名司会者だった玉置宏が、歌は「三分間のドラマでもある」といっていたがまさにこの長崎物語は三分間のドラマである。

 まず第一連目の歌詞に「♪赤い花なら曼殊沙華、阿蘭陀屋敷に雨が降る」と歌い、それを聞くものにその情景と異国情緒を思い浮かばせる。それを「♪濡れて泣いてるジャガタラお春」と続けることによって、美女だがなぜか忌まれ、泣いている薄幸の女性がその情景と重なる。

 ところでなぜ赤い花なら曼殊沙華なのだろう、それが薄幸の美女とイメージされるのだろうか。今の若い衆(し)は曼殊沙華を先入観なしに愛でるから、純粋に美しい花として受け取れる。日本原産リコリスの一種として栽培されるくらいだ。しかしこの歌の歌詞の作られた時代の曼殊沙華のイメージはそうではなかった。これには私の体験を話すほうがいいだろ。昔も曼殊沙華は今頃の時期にたくさん咲いてあちらこちらに赤い帯のような花群があらわれた。しかしその場所は寂しい土手沿いだったり、墓地が多かった。ワイのちんまい頃、こどもの目には、時代劇のお姫様の豪華な髪飾りのような形をしている大輪の花が美しく映った。家に飾ろうと何本か摘んで帰ると祖母から「ソウレン花(葬式か?)やこい持って帰って来ぃまわって!こんな花は家に飾るもんとちゃぁうんでよ、はよ、捨ててきなぃ」といわれた切り花にして飾るなどもってのほかだったのである。

 今になって調べると忌み嫌われる理由はいくつか列挙されている。墓地などに毒々しい赤(これも主観だが)として土中から葉も持たず茎のみがある日突然にょっきりと出てくるのは、なにか墓地の土中の遺体遺骨から生え出たようで気色悪かったこと。その形が葬式の模擬花に似ていること。茎を折ると何か酔うような匂いがすること、そして有毒植物(茎根に毒が含まれること。などである。そんなことから人々に縁起の悪い花として忌み嫌われたものと思われる。

 その忌避されつつも美しいところが、曼殊沙華と国外追放されたジャガタラお春と共通するのである。人は美しいものを純粋に愛でるという本来の性質がある。しかし慣習、決まり、噂などなど後天的な先入観から美しいものであっても曼殊沙華のように忌避するものがある。うわべだけを見るとジャガタラお春は、異国人とのハーフ、あるいは邪教の(耶蘇教)の信者の疑いを強く持たれていたとみられる。それが表向きは忌避される理由となりえる。それはまさに美しい花でありながら慣習や言い伝えなどによって忌避される曼殊沙華と同じである。

 第二連目の歌詞を見ると、耶蘇教を心に秘めていた、とも読めるがあくまでも心に秘めていたのであって、態度に、ましてや公に表明したものではない。長崎地方はこのようなカクレキリシタンが島原の乱以前にはたくさんいた。だから表面上はともかく人々が本心から忌避したとは思えない。人々が忌避せざるを得ないのは幕府による厳しい「お達し」のためである。それはジャガタラお春の国外追放である。このお達し(法令)によると、かくまったものは同罪、知って訴人に及ばないのも有罪、連座制もあり、また訴人を奨励し褒美も出た。このような状況では人々はジャガタラお春を忌避せざるを得なかったのである。

 隠れキリシタンでさえ適応されなかった国外追放がなぜ、か弱い彼女に適応されたのであろうか。それは鎖国令の条文を読めばよくわかる。鎖国令は都合四回出されているが。第三回寛永十三年(1636年)の条文にはこのようにある。

●一 バテレンを密告した者にはほうびを与える。(以下略)

●一 南蛮人の子孫は日本に残留させないように,詳細に厳命するものである。(以下略)

 日本人の母を持ち、ずっと日本で育った日本人であっても父親が異国人というだけで彼女は有無を言わさぬ追放である。だから一連目の歌詞「♪未練な出船」は自分が乗らねばならぬ追放船である。

 いったいどこへ?最後の歌の連を見てみると、「♪平戸(長崎北部港町)離れて幾百里、つづる文さえ着くものを、なぜに帰らぬジャガタラお春」、とある。具体的にどこの国か示されてはいないが、彼女の持つ二つ名「ジャガタラお春」にその解答がある。ジャガタラとは現代のインドネシャ、ジャワ島である。ここはこの時代から20世紀半ばまでオランダ植民地であった。彼女はジャワ島へ追放されたのである、そして父は最初に平戸にやって来たポルトガル人か後に平戸に商館を立てた阿蘭陀人であろうと推定される。

 この歌詞の3分間のドラマはあくまでもフィクションではあるが、ジャガタラお春は実在の人物である。「ジャガタラ文」として有名である。史実の彼女は望郷の念止みがたく、不可能と知りつつ、祖国の縁ある人に送る文にその思いを書いているのである。

 「恋しや、恋し、一目だけでも、故郷を見たい・・・」

 この望郷の念に対する抒情は歌・長崎物語の最後の連に歌われている。

 「♪平戸離れて 幾百里 つづる文さえ つくものを なぜに帰らぬ じゃがたらお春 サンタクルスの あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」

 今日みた曼殊沙華

 そして今日のヨウツベの歌動画はオリジナルの「長崎物語」1939年(歌・由利あけみ)を共有、張り付けておきます。歌詞を見ながらお聴きください。




2020年9月19日土曜日

この時期、ご存知の

  曼殊沙華はある日、突然、咲いているのに出くわす。こんな花はちょっと他にないだろう。昨日まで赤いものが何もなかった野ッ原にすっくと立つ曼殊沙華の花である。




 さて、例年のごとく、この花を見ると『長崎物語』のあのフレーズが必ず口をついて出てくる。今年はヨウツベで藤圭子さんの歌を共有して貼り付けた。

2020年9月18日金曜日

21番さん太龍寺について その1

 太龍寺参拝したのは10日も前でしたがいろいろな出来事があってブログをすぐに作ることができませんでした。太龍寺については三回くらいに分けてブログをアップしようと思っています。今回はその1で動画のみ張り付けておきます。

2020年9月16日水曜日

遍路道で足首を痛めてしまった

 加齢による足の衰えはなかなか自覚できないものである。慎重に歩めば大丈夫と思っていても足の筋肉や反射神経、運動神経はその気持ちについてきてくれない。高齢になると大丈夫と思う状況で転倒したりするのはそれである。

 まさに私のケガがそうだった。下のような険しい遍路道である。急で滑りやすいため、坂にはロープが道に沿って張られており、そのロープの助けを借りながら降りるようになっている悪路である。ゆっくりゆっくり慎重に降りているつもりだったが、けつまずいたかすべったか(そこのところが今思い出してもどちらともいえない、たぶん両方だろう)足が妙にねじれて仰向けに坂を滑り落ちた。左足首に普通の痛さとは違う痛みが走った。

 結局、6日間の入院となった。その後通院しているが完全に治るまでには1~2ヶ月(普通に歩けて、痛みまったくなくなるまで)かかるだろう。高齢者なので多少の機能障害や若干の傷みは残るかもしれない。
 自分の年齢を客観化し、少しでも可能性があるなら、遠くても迂回したり、あるいは行程そのものを止めたりすべきなのだろうが、けがをしてから思い知っても遅い。ただ後の教訓にはなる。しかし猫のような忘れっぽさに加え、頑固な自信や、まさかそのようになりはすまいという楽天的な運命論は、時がたてばまたぞろ沸き起こってこのジジイを捕らえてしまう。お利口なジジイなら再びそんな陥穽には落ちないものだが、生まれてからずっとアホなことを繰り返してきたオイラのことである。後の教訓として生かせるかどうか、はなはだおぼつかない。

 病院食も体験した。普段の食生活が貧しいためか、世に言われるほどまずくはなかった。

 少しでも動けるようになると病室にいるのが嫌で、といっても病棟のフロアからは出られないので、談話室で自販機のコーヒーを飲んだり、(5階なので)ぼんやり下界を眺めたりして過ごした。たっぷり時間はあるのでしっかり読書しようと本も持ち込んであったがなぜか集中できず読書はほとんどできなかった。下は談話室から外を眺めたところ。

2020年9月7日月曜日

台風10号 うちらは大したことなかった

 九州などでは被害が出ているようだがウチラの町では目に見えた被害はなかった。強風域には入っていたものの飛ばされているモノはなかった。長らく雨が降らなかったので台風に伴う雨は天水の供給となった。

 汽車で鮎喰川橋梁を渡るとき下を見るとこのように泥色の奔流となって川幅いっぱいに流れていた。

2020年9月6日日曜日

20番鶴林寺参拝 その3

 鶴林寺参拝のその3については歴史的な参拝と重ね合わせて紹介しようと思っている。その参拝は今から370年ほど前、江戸時代前期の西暦1653年(承応二年)にここに参拝した澄禅(ちょうぜん)はんという僧侶がいた〔生没年・慶長13年(1608年) - 延宝8年6月12日(1680年7月7日)は江戸時代初期の真言宗の僧〕。その人がかなり詳細な日記を残しているのでそれを見て当時の鶴林寺参拝がどんなものであったのか見てみることにしよう。

 まず澄禅はんは前日は恩山寺を参拝した後、寺より東南約十町ほど離れた民家に一宿している。そして明けた7月29日は、恩山寺の次の札所、立江寺にお参りしている。ここで澄禅はんはこの立江付近の地形について言及しているが、なるほどなというものがあるのでそれを紹介しよう。この立江寺周りは広い畑や田に囲まれているため海まではかなり遠いだろうと予想される。汽車で行くと立江駅手前の赤石駅あたりは海が近いとなんとなくその風景からわかるが、この立江付近かなり遠望が利くが海など見えない。

 しかし歴史的に見ると海岸線はどんどん沖の方に移動する傾向がある。数千年前の縄文時代、山裾までほぼ海が来ていた大海進期から海岸線はどんどん沖の方へ向かって伸びて行った。理由としてはまず第一に洪積平野や沖積平野の中を流れる河川の堆積、そして人為的のものとして干拓があげられる。農地をひろげるために海を埋め立て、あるいは入り江,砂洲などを囲い込み陸化させるのは江戸時代になると盛んに行われたのである。この立江でもそうであった。でもまだ澄禅はんの巡礼した江戸前期はまだ干拓が進んでいなかった。

 彼の日記である
 『此の景誠に立江なり、海より此処まで、川のように入り江あり、三里余りなり、寺右奥へも十四、五町入るなり・・・』

 なるほど寺近くまで入り江が入っていたのである。「立江」という名前に、澄禅はんが「この景色誠に立江(にふさわしい)なり、」と頷く様な景色だったのである。今からはその昔の景色は想像がつきがたい。

 さてその日のうちに(29日)鶴林寺の参拝をしたい澄禅はんは鶴林寺への道を急ぐのであるが、どうも道がややっこしくて(澄禅はんは、マギラワシキ道、、と言っている)、ちょうど通りかかった渭ノ津の塩商人・忠次郎(塩商人忠次郎については別のブログがある、ここクリック)に道を教えられ、鶴林寺への参詣道の川原ににでた。これは勝浦川でこの川原に出れば上流へ辿れば鶴林寺の登山口へ迷うことなく行ける。どこの川原かわからないが今の登山口のある生名よりはだいぶん下流であろう。澄禅澄はんは、ここで村人に問うと六十八町(約7km弱)あると教えられている。

 先日、ワイが登った時も坂はかなり急で、暑さもあり、八合目越えるくらいからは100mごとに休み休み汗を拭きながら登ったが、澄禅はんも同じで、「・・汗を流し、坂中にて幾度も休み、漸々(ようよう)山上の境内に至る」とある。澄禅はんの参拝日は旧暦の7月29日、新暦はだいたい一ヶ月くらいそれより遅れるから、まさにワイの参拝した8月30日と重なる。暑さの中の登攀で苦しかったワイと一緒や。

 令和の御代のワイは写真や動画で境内の様子を紹介できるが澄禅はんは文章による描写しかできない。それを読むと

 仁王門があり、本堂は南向き、御影堂(大師)、鐘楼もあり、寺の坊(僧侶たちが住む住居)も六棟あり、なかなか立派なお寺であることがわかる。寺領百石とあるからかなり藩から優遇された寺であるようだ。それとこの時代、御本尊は直接拝めたようだ。大師御作、高さ一尺八九寸とあるから50cmくらいか。御本尊の光背の板が失われているといっているから拝みながらよく観察したのだろう。あと寺宝として小さな鐘、鎌倉殿(頼朝か)より寄付の錫杖を記述しているからこれも近くで見たのだろう。今だと寺宝館拝観料がいるがこの時代はどうだったのだろう。(澄禅はんは真言宗の僧侶なので特別便宜を図り、いろいろ見せてもらったのかもしれない)

 澄禅はんはその日(29日)のうちに鶴林寺参拝を済ませた。立江から三里、約12km、しかも険しい山を登り、頂上付近の寺まできて参拝したら、おそらくもう一日の終わりが近づいていたことだろう。澄禅はんの日記によるとこの日は鶴林寺の寺坊(上記の六坊の一つ)・愛染院に泊まったことが記されている。坊主たちとなぜか深夜まで話をしたようである。夜更かしして元気なように見えてはいるが、いやいや(自分としては)むしろしびれた様に疲れていたと感想を述べている。戌の刻(夜の午後9時前くらいから)雨が降ると記してこの日の日記を終わっている。(翌日は晴れになり太龍寺に向けて出発している)

 澄禅はんよりずっと後の時代、江戸中期になるが、阿波名所図会に鶴林寺があるので見てみよう。

 図絵の下のほうを川が流れているがこれは勝浦川、左が下手となる。川に沿って左から道が続いている。中ほどに三人の姿が確認できるが参拝者であろう。このあたりから右上方への登坂となる。右山の尾根下に鶴林寺の境内がある。わかりにくいので拡大図も一緒にあげた。

 現代のこの図絵付近の地図をググルアースの鳥観図で見ると下のようになる。

 鳥観図の下を勝浦川が流れ、川沿いの平地の里(生名)あたりから右斜め上に山を登ると頂上付近に鶴林寺とある。上の江戸期の阿波名所図会によく似ていることがわかる。

2020年9月5日土曜日

十九番立江寺、ここも地蔵菩薩が御本尊

 昼から十九番立江寺に汽車でお参りしてきた。山道を二時間以上も歩かにゃならん二十番鶴林寺と違って、汽車を降りると駅から歩いて5分の距離にあるので今回は容易に参拝することができた。

 御本尊様は先日の鶴林寺と同じ地藏菩薩さまだが、こちらは「延命地蔵菩薩」とある。鶴林寺のお地蔵さまは立ち姿であるのに対し、立江寺のお地蔵さまは、御本尊を写したお札の絵を見ると座っていらっしゃる。錫杖と宝珠を持っているのは変わらない。立ち姿と座っている姿、どのような違いがあるのだろうか。立ち姿の地蔵はすぐに救いに行けるように。座っているのは人々の悩みや願いをじっくりと聞くためか。ともかくこちらの立江寺の延命地蔵菩薩さまは蓮華座に座っていらっしゃる。




 山門

 本堂

 多宝塔

 護摩堂 

 ここではお護摩が焚かれていた。今日は御祈祷日のようである。


2020年9月3日木曜日

地球温暖化で台風の進路が変わりつつある?

 昨夜九州西方をに抜け朝鮮半島を北上した台風9号はうちらの県には直接的な被害はなかった。それでも深夜になんどか目覚めたとき、外では豪雨のような音がしていたため雨は夜のうちにずいぶん降ったようだ。今朝、鮎喰川橋梁を渡るとき下を見ると昨日までは堰堤に全く流れがなかったのに今日は河原が見えないほど黄色っぽい濁流が流れていた。

 ホッとするのはまだ早い。数日を置いて今度は台風10号が列島を狙っている。マスコミはその台風の異常に強い勢力を強調し、視聴者を脅しまくっている。確かに警告を大きく広報して、実際大したことなかったら、外れやがって、とあざ笑われるが、それだけのこと。もし警告以上の威力でやってきて被害が出れば、非難囂々だから、まあ大げさに言うくらいがいいのだろう。それにしても被害に出そうな大型台風を形容するのに大型台風、超大型、並外れた大型・・・などなど、大きさの形容詞の枕詞は聞き飽きて食傷気味である。しかしそうなると「オオカミ少年」の叫びではないが、聞き手が鈍感になっても仕方がない。

 そこで新しく登場した超大型台風を形容する枕詞にこんなのが出てきた。

 「今までに経験したことがない台風となる恐れ云々」

 である。そんな形容詞はあまり聞いたことがない。っちゅうか、今までに経験したことがないんだからそりゃ、今までに聞いたことがないだろう。でも考えればすごい言葉である。もし大隕石が落ちてきて人類が死に絶えても、それは「今までに経験したことのない」ものであるから。ちょっとこれ以上の脅す形容詞は見つからない。もしこれから地球温暖化の影響でどんどん威力が増せば、毎回、「経験したことのない・・・」になるのか。そうするとこれも使い古され、またもっとすごい形容詞が生まれるかもしれない。

 ところで8月22日のブログでも書いたが、なぜか今年の台風の進路は朝鮮半島へ向かうのが多い、昨夜の台風9号も結局は半島へ向かった。そして次に来る10号の進路予想も朝鮮半島に向かうコースである。

 半島方面へ向かう台風は今年、もう4個くらいになっているのではないだろうか。なんで朝鮮半島方面へ行くのが多くなっているのか、これはちょっと考えればワイのような素人でもだいたい推測がつく。迷走台風以外は普通、発生地から発達してだいたい横放物線を描くのはみんな知っている。そこで発生地をいつも台風が発生する南海洋上よりずっと北にするとどうなるか。

 下左が例年の発生地、そしてそのあとたどる放物線である。そしてその発生地をずっと北にするとどうなるか、単純に放物線を北へ移動したのが右の図である。そうするとなんと、右図は朝鮮半島直撃コースとなっているではないか。

 まあ台風発生域、進路はこれほど単純ではないが、発生地や台風の勢力を涵養する高温海水域が北に偏ると例年とは進路も違ってくるのが当たり前である。それが今年の何度にもわたる朝鮮半島北上ではないか。この原因である発生域、および高温海水の北上は地球温暖化の現象の一つであるとおもって間違いない。

2020年9月2日水曜日

絵日記

 台風10号が発生したばかりだが、これが超ド級の台風に発達し西日本に大きな被害の恐れあり、と今からマスコミは脅しまくっている。ワイとしては祈るしかない。
 どんな祈りでもいいのだけれど、観音経を読誦すればどんな危害が降りかかろうと避けられると観音経にはある。観音経の中では具体的な危害をいくつもあげているがその中に風水害の被害もある。そして具体的な危害を挙げた後には、一つ一つ「念彼観音力」(ねんぴぃかんのんりき)とまるで咒言のように力強く誦する。

 今日は久しぶりに雨が降り、外をウロチョロできないのでパソコンで絵を描いてみた。
 
  『やまさん、インドのサドゥー(行者)の格好で観音経を誦するの図』


2020年9月1日火曜日

20番札所霊鷲山鶴林寺について その2

 鶴林寺さんにお参りしたわけであるが、鶴林寺にちなんだ3つのキーワードのお話をして一昨日の参拝の感想に代えたいと思う。

霊鷲山

 寺の名は「鶴林寺」といわれるが、寺には別の呼び名「山号」もある。この寺の山号は『霊鷲山』である。この名は実際にある山の名からきている。仏教徒の間では非常に有名で、特に浄土宗、浄土真宗、法華宗の人には特に良く知られ、行ったことはなくてもお経やお坊様の法話などを通じてよく知られている親しみのある山である。この山の所在地はインド・ビハール州のラージャグリハというところにあるそう高くない山(小高い丘のような雰囲気)である。なぜ浄土門や法華宗で重要な山かというとここでお釈迦様は「観無量寿経」(浄土経三部集)、そして法華経をこの山において説法したといわれているからである。前者は浄土門、後者は法華宗の所依の仏典だからである。

 もちろん真言宗も霊鷲山は様々な経典における聖地なので重要に思っている。このインドにある霊鷲山はもちろん仏典類が日本に伝わった1500年以上前から日本人に知られてはいるが、中国の三蔵法師らのように実際、インドの霊鷲山に行ってみた人は一人もいない。仏典に残るわずかの風景描写などを参考に日本人はその霊鷲山をイメージしてきたのである。そのイメージが絵巻となったものがあるので見てみよう。下は鎌倉時代に作られた「三蔵法師絵巻」である。

 なにやら大和絵風の山であり、深山幽谷のような山間で、雉が数羽飛んでいる。山の峰を見るとその形が鷲の形をしている。どうも仏典の一部にあるようにその峰の形が鷲型をしているというのを信じてこのようにイメージして絵巻を描いたようである。

 しかし実際のインドの霊鷲山はこの写真のようなところである。喬木はほとんどなく背丈の低い灌木がまばらに生えている感じで深山幽谷の雰囲気ではない。ゴツゴツした岩、風化して剥がれ、とがった岩などの一部に猛禽類の頭に見えるようなものもあるが、昔の日本人のイメージした霊鷲山とはずいぶん違う。

 寺の言い伝えでは周りの山容が霊鷲山に似ているからそう名づけたとある。霊鷲山はインドの王舎城を山々が取り巻いていてその山の一部が霊鷲山であるから、確かに下の写真に見えるように平地部を取り巻く山々の峰上の20番鶴林寺を霊鷲山に見立てるのはわからなくはない。(取り巻く山々の、右奥の峰上には21番太龍寺もある)

 20番鶴林寺は88ヵ寺の中でも大師が定めた難所修行の寺、6ヵ寺の一つであり、山の聖地でもあるからこのように鶴林寺の山をインドの霊鷲山になぞらえればありがたみも増す。しかしこの鶴林寺のある現代の住所の字名をみて、そもそももとから鷲に関係する地名であったのではないかと思われる。現在の鶴林寺の所在地名は「勝浦町生名(字)鷲ノ尾」であり、鷲の地名を冠している。こちらのほうが本当のところではないのだろうか。

鶴林

 仏教関係で言われる「鶴林」の言葉の意味を最近知ったのだが、これには「死に望む場所」という意味がある。辞典によれば
 『釈迦入滅を悲しんだ沙羅双樹(さらそうじゅ)が枯れて鶴のように白くなったという伝説から》沙羅双樹の林。転じて、釈迦の入滅。』
 この意味合いから「鶴林寺」と名付けたのなら宗教的にはなかなか意味深長な言葉である。しかし考えれば涅槃の場所として鶴林寺の鶴林が意味されるなら、中には死に場所を求めたお遍路さんがここに集まっても不思議ではないが、そんな話も聞かない。寺も涅槃を求めてお遍路さんがやってきてここを死に場所とされても困るだろう。

 そうではなく、前のブログでも少し説明したがこの鶴林という名は大師伝説に基づくものである。大きな霊木(大杉)に雌雄二羽の白鶴が交互に舞い降り何か光るものを守るようにしていた。それが小さな黄金の地蔵菩薩であった。大師は自ら地蔵菩薩を刻みその中にこの黄金仏をおさめて、それが本尊になったとされている。その鶴と霊木のいわれから「鶴林寺」と名づけられたのである。

 しかし私としては「死に臨む場所」としての「鶴林」の言葉に強く惹かれるものがある。お釈迦様はこの鶴林のいわれとなった沙羅双樹の木の下で涅槃に入った。定住場所も持たず、財産も持たず、ただ多くの弟子に囲まれて静かに涅槃に入っのである。最後の言葉は「すべては遷ろいゆくものである、怠らず修行せよ」であった。この寺の鶴林という名の語源はともかく、鶴林は、仏教徒ならお釈迦様が涅槃に入った場所を意味するというのは覚えておいていいと思う。

地藏菩薩

 このお寺は真言(密教)宗のお寺である。仏教にはいろいろな宗派があるが密教系の寺院に祀られているのは釈迦如来ばかりでなく実に他種多様な仏さま方がいらっしゃる。仏様ばかりではなく、日本古来からの「お神さん」とも相性がよく明治以前には境内の中に鳥居があったり、神殿があったりした。仏教の宗派の中にはその宗旨の御本尊以外はほとんど祀らないのがあることを考えると、ある意味、密教寺院は多神教的である。境内に仏さま方があふれ、パンティオン(万神殿)の様相を呈しているのはまず密教(真言・天台)系の寺院であるとみてよい。

 この鶴林寺も真言宗の寺であり、多くの仏さまたちをお祀りしている。境内に三重の塔がある。その塔の前には額がかかっており、五体の仏さま(如来)が祀られていることがわかる。

 真ん中に大日如来、左は阿閦如来、寶生如来、右は無量壽如来、不空成就如来さまである。大日如来は真言宗の根本仏であり、阿閦如来は十三仏の一つだから知っている方もおられるだろう。無量壽如来さまはあまり聞いたことがないかもしれないが別名、阿弥陀如来さまでこっちの別名が有名である。

 この五体の如来さま方は金剛界曼荼羅にもとづいている。曼荼羅は、仏さま方、神がみなどがあふれる宇宙を表しているともいえるが、真言宗で重要なのは金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の二つであり、タペストリーのような方形の平面に仏さま如来さま明王、天、神などの図象、象徴である三昧耶形などが描かれ、それが秩序だった宇宙を形成しており、密教の修法などにはこの両部曼荼羅を壇横に掛けて行われる。

 さて地蔵さまは菩薩さまであるため、この曼荼羅の中にその位置を占めている。胎蔵曼荼羅では地蔵院というスペースが特別設けられている。(下の黄色の部分)そしてその中心にいらっしゃるのが地蔵菩薩さまである(赤丸)。

 拡大した地蔵菩薩さま

 これを見ると我々のよく知るお地蔵さまとずいぶん違っているのがわかる。有髪でお飾り(瓔珞、腕輪、釧、髪飾りなど)なども付けており、どう見ても地蔵らしくない。

 鶴林寺の御本尊はお地蔵さまである。御本尊は直接拝観できないが、それをかたどったものが本堂前の金色の地蔵像である。下がそれであるが、これが我々のイメージ通りのお地蔵様である。

似ているのは片手に「宝珠」を持っていることくらいである。しかしそもそも地蔵様は菩薩さまである。菩薩系の仏さまがたはむしろ胎蔵曼荼羅の地蔵菩薩の姿のほうが普通で頭を丸めた法体姿のほうが菩薩としては異様である。インドにおけるルーツの地蔵菩薩さまを見ると胎蔵曼荼羅の地蔵菩薩お姿のほうがオーソドックスな系譜をひいているのがわかる。

 中国、日本で生まれた各種の地藏経にあるように、たとえ地獄であっても、すぐに、どこにでも救いに行けるように頼りがいのあるお姿として、インドから東漸するに従いこのように立ち姿・法体姿にかわったのであろう。

 鶴林寺参拝動画