2021年1月30日土曜日

イルミのお城

  藍場浜公園に建設現場の足場のようなものがある。


 昼間だと一体何か意味不明だが夜になるとこうなる。


 イルミのお城だ。

回教徒との遭遇

 正確には覚えていないが去年の暑い時期である(歳ぃいって時の認識が鈍っているから一昨年ということもあり得る)。徳島行きの汽車に乗った時である。一見して東南アジアの青年と思える7~8人のグループと同じ車両に乗り合わせた。何語かはわからないがみんなでおしゃべりしている。中国や朝鮮語でないことはわかる。見たところみんな小柄で色が浅黒く、クリッとした目の顔立ちが多い。日本人に似た顔立ちが多いベトナム人とも違うような感じがする。みんな陽気そうな雰囲気なので、思い切って日本語で「どの国から来たのですか?」と聞いてみた。すると訛りはあるが聞き取りやすい日本語で中の一人が「インドネシアです」と答えてくれた。

 それをきっかけに少し会話をした。思った通り日本の介護福祉の現場に研修に来ているインドネシア青年たちである。その日は休日で徳島へは遊びと買い物に行く途中とのことである。インドネシアは日本のようにいくつかの大きな島と無数に近い小さな島が集まった国である。その政治や文化の中心はジャワ島である。「皆さんジャワ島の出身ですか?」と聞くと、違うという、その青年はたぶん私のような田舎の爺さんはジャワ島以外の島は知らないと思ったのか、島の名は言わずにジャワの西にあるもっと大きい島の出身であるという。「それならスマトラやな」というと、うれしそうに「そうです」とにっこりと頷く。


 もっとも私はスマトラという島の名前を辛うじて知っているだけでそれ以上の地理的知識はない。しかし思い出すと、日本の太平洋戦争史に日本軍の蘭印(インドネシアのこと)進駐というのがあって、この地帯の石油施設を狙って軍はスマトラの戦略拠点を占領した、その中で確かパレンバンという地名が出てきたことを思い出した。唯一スマトラで知っているその地名を口にしたとたんそのインドネシア青年は少し驚いたようだったが、「ええ、パレンバン。私たちその近くです」という。そうは言われてもスマトラ島のどの辺にパレンバンがあるやら正直、まったくわからない。あとで家に帰って地図帳を見て確かめなけりゃと思った。まあ、その程度の会話でおわったが、前回のブログでイスラムの修行者について書きながら、そのことを思い出した。なぜなら彼らも(その時はあえて宗教的な話には触れなかった)イスラム教徒であったのである。

 後で調べると、インドネシアは世界最大の人口を持つ回教国である。その数2億5千万というからすごい。東南アジアへの初めての伝播は13世紀初めであるらしい。伝播の最初の拠点は上記地図のスマトラ島(パレンバンのある島)の北端部分の港湾王国であった。

 田舎に住むジジイで、回教徒などとはまず接触はすまいと思ったが、近年インドネシアをはじめとしてバングラ、パキスタンなどの国から日本へ出稼ぎ、留学、研修などでやってくる人は増えている。ここ四国の田舎で回教青年に遭遇したのも日本全体に回教国からやって来た人が増えた証拠である。

 歴史的に見ると回教と日本人との接触は一般的には明治以降とみられている。その明治以降でも回教は耶蘇教のように宣教師による積極的な布教活動もないため、日本人が回教に入信することはほとんどなかった。これに対し耶蘇教と日本との接触は16世紀のポルトガル人及びその宣教師にはじまり、その後、禁教令が出て弾圧される17世紀初めまでにはおそらく100万近い日本人の耶蘇教信者がいたのではないかと思われている。

 しかし日本史の史料を詳細に調べると、回教徒との接触は16世紀の耶蘇教よりずっと古く、まず確かであろうと確認されるのは、なんと13世紀まで遡れる。大陸の元帝国(前身はモンゴル)が日本を屈服させるため鎌倉幕府に5人の使節を送った。幕府執権の北条時宗は頑固とした拒否を表すためこの5人全員を鎌倉の入り口龍ノ口で斬首した(当時としても使節を有無を言わさず斬首するのは無茶なやり方である)。どうもこの中の2人が回教徒らしいのである。漢字で書かれてはいるがその名前からして一人はペルシャ人でもう一人はウィグル人と推定されるからまず回教徒に間違いはあるまいと思われている。

 そうすると日本史上、古文書で確認できる限りこれが日本人と回教の最初の接触ではないだろうか。これから後にも資料の中にはまず回教徒であろうと思われる人が(当然)船で交易の為入ってきている。次の史料は室町時代、応永15年とあるから西暦1408年のことである。古文書にはこのようにある。

 『応永十五年六月二十二日南蕃船着岸、帝王の御名亜烈進卿、蕃使使臣問丸本阿、彼帝より日本の国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了』

 これを読むと、自称かもしれないがいちおう使節と称している。そして派遣された帝王は亜烈進卿(卿は尊称)であるという。そしてゾウやクジャク、オウムなど日本人の見たことのない珍獣珍鳥、南海の産物を進物として日本国王(足利将軍)にさしだしている。この南蛮船の出発地はスマトラのパレンバン(先ほどの!)とされている。当時このあたりにあった王国を考えると回教国であった可能性が高い。これもまず回教徒であったと見て間違いなかろう、なによりその国王の名前「亜烈進」卿、これ、素直に読むと「あれっしん」、しかし訛っているから「アラジン」ではないのか。これはまさにアラビア系の名前であることはまちがいない。

 さて、これまでの歴史上の日本人と回教との接触は恐らくそうであろうという推定であるが、確実と思われる接触が江戸時代にあった。日本漁民の漂流記にボルネオ島で回教徒の礼拝を記録したものが残っている。その礼拝の方法、祈祷の言葉から回教の礼拝であることは間違いない。江戸中期の明和年間(1764~1772年)、筑前の漁民・孫七から漂流譚を書きとった蘭学者・青木定遠の『南海紀聞』に次のようにある。

 「黒坊(ボルネオやジャワの現地人を色が黒いのでこう呼んだ)、平生の修行あり、西方にアフタアラと云ふ尊き神仏ありと、朝夕清水を汲み、手と耳とを灌(あら)ひ、両手を挙げて額に斉(ひと)しふし、西方を仰ぎ誦して曰く、アフフアラアライララアライフイラアライラアアと数百編複唱す・・・」

 この呪文のような念誦で何でイスラム教とわかるのが疑問だったが、イスラム教のアザーン(礼拝の呼びかけ)を直接耳で聞いてみると、なるほど、日本人の耳には上記のように聞こえるのだなぁと納得した。このアザーンを聞いてみてください。(カタカナ文字が画面に出てきますが、目をつぶって聴いてみてください)。なるほど!江戸時代の漂流民、孫七が聞いたように私にも聞こえる。

2021年1月20日水曜日

大塚美術館・17世紀和蘭・自然科学が急速に発展した時代の一画家

   コロナの影響か大塚美術館は人少なである。ただっぴろい展示室には私一人しかいない場合も多かった。暗い回廊を抜けてギャラリーに入った時、ハッとして目に飛び込んできたのが下のレンブラント(17cオランダ)の「夜警」、暗い展示室の中、まるでこの絵画から夜警の持つランプの光が周りに放射しているような不思議な感覚おぼえた。この画家は、光と闇の画家ともいわれそのコントラストが印象深いというのが一般的な解説である。考えるとこの17世紀のオランダでは光学が発達し、「光」そのものの物理的解明が進んだ時代である。それまでは光は神秘的なものとして、神の領域とさえ考えられていた。それを同時代のこの地オランダで科学者ホイヘンスは、光は波動であると喝破し、それによって屈折や干渉などの光の作用の説明を行ったのである。また光の速度が推定されたのもこの時代であった。そう考えるとこのレンブラントがこのような光を印象的に使った作品を作ったのは光の科学的知見が拡大したのと無関係ではあるまい。


 やはりレンブラントには、この時代の科学的知見の拡大に基づいたほかの作品も描いている。それは解剖学である。江戸時代に杉田玄白らが解体新書の訳のオリジナルに和蘭語の解剖学の本を使ったのは有名であるが、この時代のオランダでは科学的な人体の構造の解明が進んでいた。下はそれを表すレンブラントの『トゥールプ博士の解剖学講義』の図である(これも大塚美術館にある) 彼が活躍したこの時代のオランダ(ネーデルランド)では自然科学が急速に発展した。おそらくヨーロッパで最も先進的な国の一つであった。絵画もそれに影響を受けるのは当然であろう。

2021年1月19日火曜日

大塚美術館・システィン礼拝堂

  大塚美術館の最大の呼び物は「システィン礼拝堂」の実物大に再現された空間に広がるミケランジェロの絵画群である。ここの作品の多くが額縁などに入った平面展示が多い中、システィン礼拝堂のレプリカ展示は「立体展示」あるいは「環境展示」とも呼ばれている。広大な美術館の入り口にあってまず最初に入り鑑賞するのがこのシスティン礼拝堂である。

 ここにミケランジェロが描いたのは、礼拝堂だから当然だがクリスト教の宗教的世界観である。天地創造から始まって最後の審判に至るまで、この世の始まりから終末までの一直線の時間の流れを描いている。時の流れが一直線というのはヒンドゥや仏教の時の流れ感とはずいぶん違っている。ヒンドゥや仏教の基本をなす輪廻転生の世界観だと時の流れは直線ではなく、壮大な円環となる、ある生き物が生として終末を迎えてもまた別の生物に生まれ変わりそれが果てることなく、くるくると輪廻転生を繰り返す(宇宙でさえ生成消滅を繰り返す)。まさに円環の時間の流れである。どちらも善をなせばクリスト教では永遠の天国が待っており、仏教的輪廻転生では段階の上がった生き物(天人もある)に生まれ変われるからどちらの宗教的宇宙観も勧善懲悪が基本にある。

 我々がシスティン礼拝堂に入ったときちょうど解説ガイドの案内が始まっていた。入館者はシスティン礼拝堂の祭壇方向を向いて礼拝席に着き、レザポインタをもった女性ガイドの説明を聞いた。朗々とした(天井の高いドーム状だからよ~響く)声でよどみなく、自信たっぷりの説明を聞くと、この眼鏡をかけた女性ガイドが、大昔の私の記憶から、なんか中学で教えてもらった英語教師によく似ているなとの印象を持った。その解説の中でこのような話があった。

 「この時代(ルネサンス期)庶民のほとんどは文字など読めませんでした。だから当然聖書などの話も聖職者から聞くしありませんでしたが、このシスティン礼拝堂の中に描かれている天地創造から始まって最後の審判の絵などを見ることによって、ありありとしたイメージを伴いながら聖書(旧約)の話をよく知り、最後の審判や地獄行の恐ろしさを理解したのでありまぁす。」

 なるほど!正面に描かれているのは最後の審判の絵である。宗教画とはいいながらずいぶんリアルな肉感の人々が描かれている(このキリストのマッチョな肉体はどうだ!)だけに、庶民はこの最後の審判を身近でリアルな情景としてみたであろうと思われる。向かって右は地獄落ち、そして左は天国が描かれている。これを見つつクリスト教のボンさんから神を恐れよ!だの最後の審判に備えよ!不信心者は地獄へいくぞよ、だの脅かされば、なるほど信仰も深まるだろうし勧善懲悪の効果も絶大である。正面上部にわずかな腰布をつけた裸体で右手を上げているのがイエス、そして天井部分は聖書・創世記の天地創造、ノア箱舟、アダムとイブの失楽園、などが描かれている。

 下が礼拝堂の動画(女性ガイドの解説を聞きつつ正面から天井を撮影する)

 

 と、ここまで書いて、そういやぁ、日本にもこのような宗教的な絵解きをする庶民派の聖職者、すなわち「聖」がいたなぁ、と思い出した(もちろん仏教・修験道系である)。今現在このシスティン礼拝堂(美術館の)でレザポインタをあっちこっちに動かしながら流れるように解説するおばさんガイドを見ながら、日本のその宗教的な絵解き「聖」も女性だったなぁ、確か・・そうだ「熊野比丘尼」だ! 今、ネットでブログを書いてるついでにこの熊野比丘尼のことも調べてこまそ、とおもいググろうとしたが、いやまてよ、ワイ、前に熊野比丘尼のことでブログかいとるわ、と思い出してワイのブログの左欄外にある検索欄に「熊野比丘尼」と入れると昔ワイの書いたそのブログが出てきた。(そのブログ、ここクリック

 ワイが書いたそのブログを読んで熊野比丘尼についてはよくわかったが、それにしても2年前に書いたブログなのに内容を忘っせてしもうとるのにちょっとショックを受けた。歳ぃいって勉強のつもりでブログをノート代わりに作っているが、あんまし勉強には役立たんっつうこっちゃな、閑話休題(それはさておき)

 ワイのそのブログを見ると熊野比丘尼はんはこのような宗教画を見せつつ解説する。


 そしてその解説する絵(熊野比丘尼の絵解きという)でこのシスティン礼拝堂の正面図と同じ効果を狙ったと考えられるのが次の図である。正面上部中央にいるイエスの代わりにこちらは阿弥陀如来、そして「心」が中心に来ている。上に架かるアーチ状の道は人の一生の道程を表す、右の誕生・乳児から始まって左に行くにしたがって青年~壮年~老年~老衰~死、となる、そしてシスティン礼拝堂と同じように下部には様々な地獄図絵が展開している。下部中央あたりにいる地蔵は閻魔を兼ねた天国地獄行の審判者であろうか。これを見ながら比丘尼はレザポインタならぬ指し棒で、人の魂のたどる宗教的宇宙を解説しながら、「悪ぃことしよったら、こないな地獄にいくんでよぉ」と善男善女に勧善懲悪を勧めたのであろう。これはシスティン礼拝堂で信徒相手に解説したボンさんも同じことを言っていたに違いない。このように聖書の話や法話を絵画で絵解き解説する方がボンさんの説教よりわかりやすく効果的なのは耶蘇教・仏教、洋の東西を問わず変わらぬものである。


 下がシスティン礼拝堂、祭壇上方には審判者イエス(右手を上げている)、そして右下部には地獄の様子が描かれている。

2021年1月18日月曜日

大塚美術館・最後の晩餐の絵について 

 昨日大塚美術館へ行った。前日のブログで紹介したのは(日本美術関連の)特別企画展であった。それ以外の常設展のネタでブログを作ろうと思えば、古代から近代にかけての西洋美術の膨大な名画作品があるため、一年くらいそれでブログが作れそうである。しかし最近は西洋の美術・思想・宗教の潮流のお勉強も、10年以上も似たようなブログを書いていると、なんぼぉ~興味があるといっても、もぅ~飽きてくる! 最近は前もチョロッといったように中東・ペルシャ・イスラムの文化のおベンキョをしている。ここにはそっち関係の作品は全くない。

 どっか近隣で(汽車で日帰りできる範囲)中東・ペルシャ・イスラム関係の作品展示がないかと探すと隣の香川県に中津万象園・丸亀美術館、ちょっと日帰りができるかどうかギリギリだが岡山に岡山市立オリエント美術館、がある。なんとか見にいきたいものである。

 それでも昨日は大枚3300円(大人一人料金)も払ってみたので、特に有名な作品についてのブログは作ってこまそ、と思っている。そこでこの美術館ではもっともメインになる作品二つのうち今回のブログはレォナルド・ダビンチはんの『最後の晩餐』を取り上げようと思う。まずは昨日撮った動画を見てから話を進めようと思っている。この美術館の『最後の晩餐』の名画展示は、修復前のものと修復後の絵が比較できるように対面する壁に大きく描かれていることである(もちろん陶板のレプリカ原寸大だが)。

 

 偶然とは面白いもので、「最後の晩餐」を見たことについてブログを書こうと思っていたら、テレビの今朝のニュースでその「最後の晩餐」についてやっていた。


  日本人の科学者が遠赤外線より波長の長い電磁波を当ててこの絵画がフレスコ画ではなくテンペラ画であることを確認した、というニュースだ。なんか大発見のような気がするが、後でよく調べてみると、とっくの昔にこれはフレスコ画であると推定されていたもので、ただ日本人の科学者が科学的技法で再確認したに過ぎないだけの話であり、まあそれだけでも大したものだが世紀の発見のような大それたものではない。

 この「最後の晩餐」の絵はこの美術館の大人気の一つである。中高の教科書の挿絵でおなじみということもあるが先にも言ったように修復前と修復後の二枚が見られることも呼び物の一つである。この作品は保存状態や戦火の影響もあり痛みが激しいことで有名な絵画である。保存のためには修復が欠かせない、しかし安易な修復はオリジナルをブチ壊すこともあるので慎重に修復が行われなければならないが、その前後が見られるのは名画ファンにとってはうれしいことだろう。

 そして最近(といってももう10年近くにはなるだろうかなぁ)もう一つ注目を浴びてミィハァや猫あるいは杓子にも人気が出たのが、映画や小説の『ダ・ウィンチ・コォド』の影響である。特に映画の影響は大きかった。有名な映画なので解説は省くが、この映画の驚くべき主題は、なんとイエス様には嫁はんがいてその子供もいて、代々子孫も続いていたということである。敬虔なカトリックや原理主義的なクリスト教の人には驚天動地、宗教的アイデェンティティーを木っ端みじんにしかねない話である。キリスト教国では受け入れられない人が多いだろう。しかし多神教国で宗教に寛容な日本では面白い一つの説としてもてはやされた。そんなこともあって、この大塚美術館の「最後の晩餐」展示のホールでは座ってジュックリ観察する人が多い。そしてあれやこれやとキリストとその嫁はんについての話に花を咲かせる。

 その『ダ・ウィンチ・コォド』でイエスはんの嫁はんとされるのは、イエスの向かって左に描かれている聖ヨハネ、その実マグダラのマリアといわれている。確かに晩餐の席の使徒の中ではこの聖ヨハネはんは違和感がある。長い髪、女性のような顔、横に傾くからだと顔は歌舞伎の女方もかくや、と思われるほど女性を感じさせる。なるほどこの人、実は女性であるというと、日本人なら少なくとも外見上は誰もが納得できよう。


 『ダ・ウィンチ・コォド』の説ではないが、別の少数意見もある。こちらの方がクリスト教徒はもっと許せない説ではあるが。それは聖ヨハネはんは男である、がしかしこのヨハネはん、イエスはんの「お稚児さん」つまり男色の、もっと言うとホモ相手であるというのだ。男色はクリスト教ではソドミーといって地獄堕ち確実の最も恐ろしい罪である。教祖はんがそんなことありえないと考えられるが、日本人はクリスト教ちゃぁうのでこんな少数意見も結構流布している。

 私としてはヨハネはんがキリスト最愛の(行為はともかく男色の情緒濃い間柄)弟子であった方の説がありそうであり、そっちに同意する。クリスト教以外の各宗教を見ると、教祖はんは性的に誰とも交わってはいかんとは考えないし、事実もそうである。回教の教祖ムハンマドはんにはよ~け嫁はんがいた(もちろん子供も)、またブッダもしかり、ブッダは最愛の弟子アーナンダがいてこの弟子はブッダのお稚児さんであるというのは有名な説である。

 下はエル・グレコが描いた聖ヨハネである。顔なんどは女性にもまた美しい少年にも見える。これを見るとイエス最愛の・・という言葉が意味深に(つまりホモ相手じゃないか?)見えてくるのは、神をも恐れぬ異教徒の妄想だろうか。

2021年1月17日日曜日

大塚美術館・特別展「陶板でめぐる日本の美の世界」

  今日、急に誘われて大塚美術館に行くことになった。誘った当人も急だったようであまり内容はごぞんじないらしく、たまたま地方紙に美術館の特別展の企画展示のニュースが載っていたので見たくなったとのことであった。

 この美術館は何度も行ったことがあるので常設展はよく知っているが、もう20年近くも行っていない。その間に追加された展示もあるようでそちらの方は当然見学はしていないので、もし見れるならとついていくことにした。そして最近は中東やペルシャ、イスラムの美術工芸に興味があるので、それらが追加されていればぜひ見たいとも思っていた。

 だが入館して入り口案内のお姉さんに聞くと古代から近代までの西洋美術の流れの展示が主で中東、ペルシャ、イスラム美術は全くないとのことでがっかりした。

 しかし特別企画展テーマ「陶板でめぐる日本美の世界」であるので、それを重点的に見ることにした。特別展の各作品は下のようになっている。


 パンフレットを見るとずいぶん立派な作品がたくさんあり(もちろんレプリカだが)展示室も広いのだろうと期待していたが、尾形光琳と酒井抱一の二双の屏風がホールに展示してあった以外は、他の作品は小さなブースにコンパクトにまとめてあった。ちょっと期待外れの感がないでもない。

 下はホール展示の尾形光琳と酒井抱一の二双の屏風、光琳は地が金色、もう一方の抱一の方は銀色とそのコントラストが面白い。



 葛飾北斎(下の写真)


 下はそれ以外の日本の美の世界の特別展示ブースの動画(火炎土器~雪舟~仁清など、菱川師宣まで、お大師さんもいた。)屏風以外の展示はこの一画だけ。広い美術館なのでよけいに狭く感じる。

2021年1月16日土曜日

ある宗教修行者の肖像より

   「聖」(ひじり)という宗教者がいる。歴史的ないわれを知らぬ人は字義通り解釈して「宗教的な徳の高い人、人々から慕われる聖人」と思う。歴史的にも本来の意味はそのようなものであっただろう。しかし日本史で登場する「聖」(ひじり)は違う。宗教的な徳云々は置くとしても、人々から慕われる聖人ではない。簡単にそれを要約すれば『諸国をめぐって勧進・乞食 (こつじき) などをして修行する僧。高野聖・遊行聖 (ゆぎょうひじり) などのこと。』である。行動やあるいは襤褸を着ているその格好も放浪・浮浪者、乞食と変わらぬもので、諸国をめぐり勧進や修行、祈祷などといえば聞こえはいいが、要するに定住せずあちこち遊行し、何らかの宗教に類する行為を行い「お恵み」をもらって生活していた人々である。

 だから慕われるというよりもむしろ排除したり差別されたりする場合が多かった。もちろん「聖」中には純粋に宗教的な動機そして修行から諸国をめぐる人々もいたが、多くはそのようなものではなく、乞食に近い「人々からのめぐみ・喜捨」をあてに遊行して暮らしていた人がほとんどであった。そのような聖が活躍するのは中世である。江戸時代になると社会階層は幕藩体制で固められ、そのように諸国を遊行して回る人々も禁止はされなかったが、規制され、何らかの組織に入るか、またはある頭領に統御された。そうでなくても公のところが発行した書付(免状)などの所有が求められた場合もあり、中世日本のように思うままに遊行聖ができるわけではなかった。

 さてこれからお見せするある「聖」らしき肖像画がある。時代は15世紀ころであるから室町幕府の中期である。まさに中世、聖が活躍した時代である。その図を下にあげる。


 ちょっと図の説明をしよう。なんやら貧相な顔をして足を組み手をまわして座っているのが聖らしき人である。前には椀がおいてある。椀は人々からお貰いする乞食の必須アイテムである。そして前にはなぜか木の枝が一本置いてある。日本中世の聖の肖像といっても誰も不思議がらないだろう(鋭い人は右耳の耳輪に注意を払う人がいるかもしれない、しかし仏像特に観音様などはこのように耳輪をしているのが多いので聖がこのように耳輪をしていることもそう考えれば不思議ではない)。日本中世15世紀のある聖の肖像といっても完全に信じ込んでしまいそうである。

 ところが私もこの肖像を見つけた時には驚いたのだが、これ実は日本の中世ではないのである。顔を見ると東洋系なのでそれじゃぁ中国かとも思われようがそうでもない。なんとこの聖らしき人、15世紀の中央アジアからアフガン~ペルシャあたりにいた人である、歴史でいえば「チィムール朝」の人の肖像画なのである。当然、「聖」ではない。しかしその説明をよく読むと「聖」とよく似ている。それはまず宗教の修行者であり(少なくともそれを標榜している)、各地を遊行というか巡礼というかともかく定住せずにあるく人である、そして図に椀があるように諸人の「おめぐみ」・喜捨をあてに毎日の糧を得ている、という意味で日本の聖と何ら変わるところはない。

 この肖像の人の活躍した国(地域)にも驚いたがもっと驚いたのは、この人の宗旨、仏教ではないのである。それじゃぁヒンドゥー教かとも思われようがそうでもない。このどちらかなら私もこの人の場所が中央アジアだろうがアフガンだろうが納得するのだがそうではない、もしやキリスト教徒?少数派だがゾロアスター教?いいや、違うのである。いろいろ思いつく中でもっとも思い付きから遠い宗教の人である。なんと!この人は「イスラム教徒」なのである。これはショックに近い驚きである。そりゃぁ確かにイスラム教徒は中国の新疆ウイグル地区やインドネシャに数多くいるからこの肖像のようにモンゴル系の顔つきでも不思議ではないが、だが丸坊主、髭もないという名はどうしたことか。イスラムの成人男子はまずほとんどが立派な髭を蓄え、また頭髪も剃る人はいないことを考えるとこれはイスラム教徒の中では例外中の例外なのではないか。それでいて聖に近いイスラムの修行者なのだろうか?

 ぜんぜんイスラムっぽくない。イスラムの聖職者や修行者にこのような人がいることが信じられない。どう見ても仏教系の聖職者や修行者の雰囲気である。ちなみにこの上記のイスラム修行者の顔を日本の僧侶の顔にコラージュすると下のようになる。もうまったくぴったり、ちょっとエキセントリックな高僧のようである。全く違和感がない。真言宗の阿闍梨といっても充分通用する。


  仏教、キリスト教などには聖職者がいる。真言宗では特に師となるような高僧を「阿闍梨」という。カトリックでも神父から始まって司教、枢機卿、法皇と聖職者は階層に分かれて存在する。しかしイスラム教では厳密にいうと聖職者は存在しない。ところでイスラムについて私は一般の日本人と同じくらいの知識しか持っていない。大方の世間の人と同じく高校世界史で習うくらいの知識しかない。厳格な一神教、神と俗世の人とは峻別している、そして神の前では信徒の絶対平等を説く、だから神と人を媒介するような聖職者はいないのだ、というのが教科書的な理解である。

 でもニュースなどで見ると「○○師」とか言ってイスラムの聖職者らしき人が登場したりする。あれを見て日本人は聖職者と思っている人は少なくなかろう、だがあれは聖職者ではない。このような人を「イマーム」という。強いて日本語に訳せば「宗教的指導者」となる。しかし他宗教の聖職者のように神と人の間に介在するものではないし、より神に親密な存在であることもない。本来は集団礼拝するときに唱導したりする人であり、常置の地位でもなかった。またこの人々とは別にクルアーン(コーラン)すなわちイスラム法学に詳しい知識人として「イマーム」という人がいた。これらの中で特に有徳で人々から慕われている人などを「○○師」と呼んでいるのである。(ただしこれはイスラム教の多数派であるスンナ派の意味であり、シーア派は聖なる系譜・ムハンマドの正統な継承者で聖性を有する宗教上の最高指導者をいう

 さて、最初に見たイスラムの聖らしき人、この人は「○○師」でもイマームでもない、この肖像の説明を見ると「スーフィー」とある。スーフィーの目的は神に近づくことである。そのためには禁欲、瞑想、連祷などの修行が行われる。そして特定の「師」や教団に派所属せず放浪し、物乞いするスーフィーが多かった。オーソドックスなイスラム教に対し神秘主義的な傾向が強く「神との合一」を説いたりした。そのため修行の究極の境地は自我が消滅し神の中に溶け込んでしまうことであるとされる。歴史的には(スーフィーは9世紀ころから近代まで存在する)正統派から異端扱いされるが、世界の様々な地域に広がったイスラム教圏の中で地域に見合った特徴的なスーフィーが活動し、地域、庶民の支持を受けている。

 上記の写真の人も15世紀ころペルシャから中央アジアにかけて物乞いをしながら修行(?)したスーフィーである。こう見てくるとその活動や生きざまは日本の中世に全国を回った「聖」とよく似ていることがわかる。また自我を消滅し、神との合一、という考えは日本の密教あるいは密教系の山岳宗教の考えに近い。スーフィーの場合もちろん神はアッラーであるが、これを「大日如来」に変えると密教系の聖が中世日本において同じことを言っても何ら不思議ではないだろう。

 イスラムという宗教は、日本人には(特に食べ物や酒、女性の衣服など)融通の利かない、そして戒律が厳しい、とっつきにくい宗教であるイメージがあるが、このイスラムの修行者であるスーフィーの写真を見、また彼らの行動や思想の一端を知ると何やら、日本の聖を思い出し親しみがわいてきた。

 追記
 最初の写真のスーフィーの修行者はイスラムとは思えぬような髭を剃った坊主頭である。日本のどこにでもいるような僧侶と変わらぬ格好に親近感がわく。また別のスーフィーの修行者の肖像(下記)を見ると日本の僧侶のように「数珠」を持っている。これも驚きである。「お数珠」がイスラムにもあったんや!イスラムについてまだまだ知らないことが多そうである。
 右手に念珠を持つスーフィー修行者

2021年1月11日月曜日

初春二回目の遠出 讃岐・観音寺市

  阿波池田は白銀の世界だった。しかし、小説『雪国』ではないが県境トンネルを抜けると全く雪はない。そのまま川之江(愛媛県)まで降りてそこから讃岐の国に入った。ちょうど県境は山が海岸に迫り国道や鉄道が並行して走っている狭い所。そこに道の駅があるが当然、すぐ前は海、数日前には荒れ狂っていた冬の嵐が嘘のように穏やかな春の海になっている、微風も心なしか春風のように暖かく感じる。下は道の駅から撮った瀬戸内海の海、ほとんど波はない。遠くには伊吹島も見える(かなりの数の集落もある


 
  そこからちょっといくと「豊浜郷土資料館」がある。入館して江戸時代の綿作と綿糸づくりの工程を見る。当時の道具も展示されている。昔この辺りでは綿花を畑で作り、それを繰り、糸に仕上げていたのだ。江戸時代は讃岐の三白といって塩、和三盆(製糖)そして綿は白い色をした三つの讃岐特産物であった。
 江戸時代の糸つむぎの道具を見るが手仕事ではどれほどの綿糸も出来まい。昔の手作りの綿製品製作の苦労を思う。
 下が資料館の様子、左奥に「糸つむぎ車」が見えている。

 隣接している「ちょうさ会館」も見学する。郷土の祭「ちょうさ祭」の山車が展示してある。山車の大きさと、祭りの規模の大きさにびっくりする。(各曳山は100以上あるそうだ

 あとは観音寺市内に入り、琴弾山に登り、札所68・69番(同じ敷地にある)をお参りして琴弾山の展望所から全国的にも有名な寛永通宝の銭型砂絵を見る。
 
 下は69番観音寺・68番神恵寺の本堂。


 銭形の砂絵の動画

2021年1月9日土曜日

寒い朝 今朝は雪化粧

  今朝もひどく寒い。起きて外を見ると外界は白く雪をかぶっている。震えながらも衣服を着かえ、外へ出て少し散歩をする。

 雪雲は去り、あさの光が眩しいくらいに射している。風もなく雪も舞ってはいないがともかく寒い。それなりの厚着はしているのだが。下は鴨島公園の様子


 陽光が当たっているところは解け始めているようだ(もう9時すぎだ)、しかし道路でも影の部分は雪か霜か氷かわからないがカチカチに凍っている。車が滑らないか心配だ。幸い今日は土曜日ということもあってか通行量は少ない。


 国318号線が跨いでいる江川の橋の東側はほとんどの部分が氷結している。凍った川の表面に降雪が散らされているが、氷点下のため解けず、表面を砂ホコリのように舞っている。橋の近く部分だけがかろうじて凍結を免れているようだ。江川のこの場所がこのようになるのは記憶にない。今年は厳冬のようだ。

 

 昼頃徳島へ行ったが今日は9日、えびす祭りの宵戎だ。兵庫県西宮市の蛭子神社恒例の福男行事は中止になったようだが、徳島のえびす祭りはどうだろうと思いつつ、駅前の歩道橋を渡ると福俵の付いた笹を持っている人が大勢歩いている。神社まで歩いていったが露店の数も人も去年とあまり変わっていなかった。つまり結構な人出があった。首都圏や大阪などは緊急事態宣言が発出されねばならぬほどコロナ患者が多発しているが、ここ徳島ではまだそのようにはなっていない。それがこのような人出となって表れているのだろうが、油断すると徳島とて危ない。



2021年1月8日金曜日

江川が氷結していた

  昨日の予報では暖国四国の平野部でも積雪といっていたが、明けると積雪はなかった。それでも近くの山が雪化粧をしていた。下は駅前通りから見た前山、山は雪が降っているのだろうか白くかすんでいる。


 しかし夜、晴れたための放射冷却の影響だろう。江川が氷結していた。渇水期で水の流れがなかったこともあるのだろうが、ずいぶん気温が下がったのだろう、写真で見ると薄氷だがほぼ全面に凍っている。


2021年1月6日水曜日

すごぼ 念ずれば通ず?

  昨日久しぶりに友達と会って食べ物の話になり、その中でゴボウ料理が話題になった。

「そういえば、ゴボウ料理の中ですごぼ(酢ごぼう)は、えっと食べたことないなぁ。バァチャンが生きとった大昔は、よくすごぼ作ってくれてたべてたなぁ。おいしかった、また食べたいなぁ。」

 といったのがつい昨日、そして今日、たまたま県庁の食堂で定食を注文してみると、なんと酢ごぼうがついているではないか。食べたいと念じていたら、通じた!

 メインディッシュはトマトソースで味付けした鮭とつけあわせのジャガイモ・タマネギのアルミホイル焼き、もう一皿に、「酢ごぼう」「胡瓜の酢もみ」「煮しめ」「冷ややっこ」が入っている。550円



2021年1月1日金曜日

新春初遠出

  元旦、海を見たくなった。昨日はしんどくて遠出などする力もなかったが、ヨンベはたっぷり寝たせいか(処方の薬が効いて)、ちょっと元気が出てきたのですこし遠出をすることにした。

 汽車に乗り南小松島駅で下りた、そこから歩いて旧阿摂航路の船発着場の埠頭まで行き、まず初春の海を眺めた。


 沖には白い大型フェリーが航行している・・のかとおもったがしばらくしても同位置のまま、フェリーも元旦は休日なのだろう沖で投錨している。

 60年も前、ここには終着駅があり、バァチャンにつれられてここから阪神行きの船に乗ったことを思い出した。旧客船ふ頭には貨物船が係留されていた。


 目的の海は見たが、埠頭から北を眺めると反対側の岬の山に白い灯台が見える。そこまで行くことにした。


 ゆっくり歩いて小一時間、白い灯台のねきについた。


 奥には東屋があり広く展望がきくので動画を撮影した。小松島港湾~岬突端部~そして小神子海岸もチョコッと見えている。

新しき年のはじめ

 新年明けましておめでとうございます

下は今朝八時過ぎに撮った我が郷土の霊峰高越山、昨日はなかったが今日は新年を寿ぐように薄っすらと雪化粧している。