2021年1月30日土曜日

回教徒との遭遇

 正確には覚えていないが去年の暑い時期である(歳ぃいって時の認識が鈍っているから一昨年ということもあり得る)。徳島行きの汽車に乗った時である。一見して東南アジアの青年と思える7~8人のグループと同じ車両に乗り合わせた。何語かはわからないがみんなでおしゃべりしている。中国や朝鮮語でないことはわかる。見たところみんな小柄で色が浅黒く、クリッとした目の顔立ちが多い。日本人に似た顔立ちが多いベトナム人とも違うような感じがする。みんな陽気そうな雰囲気なので、思い切って日本語で「どの国から来たのですか?」と聞いてみた。すると訛りはあるが聞き取りやすい日本語で中の一人が「インドネシアです」と答えてくれた。

 それをきっかけに少し会話をした。思った通り日本の介護福祉の現場に研修に来ているインドネシア青年たちである。その日は休日で徳島へは遊びと買い物に行く途中とのことである。インドネシアは日本のようにいくつかの大きな島と無数に近い小さな島が集まった国である。その政治や文化の中心はジャワ島である。「皆さんジャワ島の出身ですか?」と聞くと、違うという、その青年はたぶん私のような田舎の爺さんはジャワ島以外の島は知らないと思ったのか、島の名は言わずにジャワの西にあるもっと大きい島の出身であるという。「それならスマトラやな」というと、うれしそうに「そうです」とにっこりと頷く。


 もっとも私はスマトラという島の名前を辛うじて知っているだけでそれ以上の地理的知識はない。しかし思い出すと、日本の太平洋戦争史に日本軍の蘭印(インドネシアのこと)進駐というのがあって、この地帯の石油施設を狙って軍はスマトラの戦略拠点を占領した、その中で確かパレンバンという地名が出てきたことを思い出した。唯一スマトラで知っているその地名を口にしたとたんそのインドネシア青年は少し驚いたようだったが、「ええ、パレンバン。私たちその近くです」という。そうは言われてもスマトラ島のどの辺にパレンバンがあるやら正直、まったくわからない。あとで家に帰って地図帳を見て確かめなけりゃと思った。まあ、その程度の会話でおわったが、前回のブログでイスラムの修行者について書きながら、そのことを思い出した。なぜなら彼らも(その時はあえて宗教的な話には触れなかった)イスラム教徒であったのである。

 後で調べると、インドネシアは世界最大の人口を持つ回教国である。その数2億5千万というからすごい。東南アジアへの初めての伝播は13世紀初めであるらしい。伝播の最初の拠点は上記地図のスマトラ島(パレンバンのある島)の北端部分の港湾王国であった。

 田舎に住むジジイで、回教徒などとはまず接触はすまいと思ったが、近年インドネシアをはじめとしてバングラ、パキスタンなどの国から日本へ出稼ぎ、留学、研修などでやってくる人は増えている。ここ四国の田舎で回教青年に遭遇したのも日本全体に回教国からやって来た人が増えた証拠である。

 歴史的に見ると回教と日本人との接触は一般的には明治以降とみられている。その明治以降でも回教は耶蘇教のように宣教師による積極的な布教活動もないため、日本人が回教に入信することはほとんどなかった。これに対し耶蘇教と日本との接触は16世紀のポルトガル人及びその宣教師にはじまり、その後、禁教令が出て弾圧される17世紀初めまでにはおそらく100万近い日本人の耶蘇教信者がいたのではないかと思われている。

 しかし日本史の史料を詳細に調べると、回教徒との接触は16世紀の耶蘇教よりずっと古く、まず確かであろうと確認されるのは、なんと13世紀まで遡れる。大陸の元帝国(前身はモンゴル)が日本を屈服させるため鎌倉幕府に5人の使節を送った。幕府執権の北条時宗は頑固とした拒否を表すためこの5人全員を鎌倉の入り口龍ノ口で斬首した(当時としても使節を有無を言わさず斬首するのは無茶なやり方である)。どうもこの中の2人が回教徒らしいのである。漢字で書かれてはいるがその名前からして一人はペルシャ人でもう一人はウィグル人と推定されるからまず回教徒に間違いはあるまいと思われている。

 そうすると日本史上、古文書で確認できる限りこれが日本人と回教の最初の接触ではないだろうか。これから後にも資料の中にはまず回教徒であろうと思われる人が(当然)船で交易の為入ってきている。次の史料は室町時代、応永15年とあるから西暦1408年のことである。古文書にはこのようにある。

 『応永十五年六月二十二日南蕃船着岸、帝王の御名亜烈進卿、蕃使使臣問丸本阿、彼帝より日本の国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了』

 これを読むと、自称かもしれないがいちおう使節と称している。そして派遣された帝王は亜烈進卿(卿は尊称)であるという。そしてゾウやクジャク、オウムなど日本人の見たことのない珍獣珍鳥、南海の産物を進物として日本国王(足利将軍)にさしだしている。この南蛮船の出発地はスマトラのパレンバン(先ほどの!)とされている。当時このあたりにあった王国を考えると回教国であった可能性が高い。これもまず回教徒であったと見て間違いなかろう、なによりその国王の名前「亜烈進」卿、これ、素直に読むと「あれっしん」、しかし訛っているから「アラジン」ではないのか。これはまさにアラビア系の名前であることはまちがいない。

 さて、これまでの歴史上の日本人と回教との接触は恐らくそうであろうという推定であるが、確実と思われる接触が江戸時代にあった。日本漁民の漂流記にボルネオ島で回教徒の礼拝を記録したものが残っている。その礼拝の方法、祈祷の言葉から回教の礼拝であることは間違いない。江戸中期の明和年間(1764~1772年)、筑前の漁民・孫七から漂流譚を書きとった蘭学者・青木定遠の『南海紀聞』に次のようにある。

 「黒坊(ボルネオやジャワの現地人を色が黒いのでこう呼んだ)、平生の修行あり、西方にアフタアラと云ふ尊き神仏ありと、朝夕清水を汲み、手と耳とを灌(あら)ひ、両手を挙げて額に斉(ひと)しふし、西方を仰ぎ誦して曰く、アフフアラアライララアライフイラアライラアアと数百編複唱す・・・」

 この呪文のような念誦で何でイスラム教とわかるのが疑問だったが、イスラム教のアザーン(礼拝の呼びかけ)を直接耳で聞いてみると、なるほど、日本人の耳には上記のように聞こえるのだなぁと納得した。このアザーンを聞いてみてください。(カタカナ文字が画面に出てきますが、目をつぶって聴いてみてください)。なるほど!江戸時代の漂流民、孫七が聞いたように私にも聞こえる。

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