2020年8月31日月曜日

そごうは本日で閉店

 徳島駅前の特色は見上げるように高いワシントン椰子並木であり、見上げると同時に目に入るのは「そごう」のロゴマークであったが、今日、そごうは閉店の日を迎える。この光景も見られなくなるだろう。

 利用者が少なくなり、赤字が積もり、鉄道などは廃線になる。しかし廃線が近づくと人は廃線に追い込んだのが惜しくなり、もうちょっと多く利用してれば廃線にならずにすんだのになぁと、ちょっぴり後悔する。そしていよいよその廃線の日には、どっと客が押し寄せ、押すな押すなの込み具合となる。
 そごうも同じで、今日は朝から列を作るほど客が集まっている。投げ売りに近い安売りもあるのだろうが、スマホで撮影している人がいるのを見ると惜別の気持ちで集まっている人も多いに違いない。下はそごう正面玄関。

 コロナの影響か、特別のお別れイベントはない。閉店時間前になるといつものように淡々と閉店のアナウンスが流れ、そして36年間続いた店が今日を限りに閉まる。

2020年8月30日日曜日

20番さんへ行ってきた その1

 徳島駅からバスにゆられて1時間と10分、いつもなら生名のバス停を降りるとすぐに参道入り口だが工事中ということで仮のバス停で降ろされる。参道入り口まで500mくらい歩く。

 ここから車道と別れて、遍路道に入る。ずっと上り坂である(かなり勾配のきついところがある)

 山道(遍路道)で寺までは3kmある。10分も登らないうちに遍路小屋があった。茅葺の遍路小屋だ。めずらしい、ウチの町にも(11番さんがある)遍路小屋はあるが、トタンの屋根だ。木製の卓が3つあり、寝袋を持っているとお遍路さんが3人くらい泊まれる。

 かなり勾配のきついところがあるが、休みながらゆっくり登ってたので急坂に難儀はしなかった。しかし薄暗い森の中、やぶ蚊、アブ、そのほか羽虫類が体のまわりにワンワンとまといついて困った。虫よけシュプレーはつけておいたが、それをものともしないで寄ってくる。手で払うと何匹も手に当たる。

 ちょうど真ん中ごろまで登ったところに「お水大師」がある。

 この大師の下の岩屋から冷たい清水が流れ出している。

 暑さと急坂のため歩行は全然はかどらない。水分補給には凍らせたペットボトルの茶とスポツドリンクなど3本持ってきたが、すでに一本空になった。寺まであと1kmくらいのところから、100m登るごとに汗を拭くために休息をとらねばならぬほど、体が火照り、噴き出る汗でべとべとになる。
 休み休み登ったので山門に着いたのはバス停を出発して2時間が過ぎていた。山門に大きな額がかかっている「霊鷲山」(りょうじゅせん)と読む。

 山門には仁王像がいらっしゃるが、寺伝ではかの有名な(鎌倉時代の仏師で中高の歴史の本には必ず載っている)運慶の作であるという。(ホントかな?
 阿形の仁王様

 吽形の仁王様

 寺域には樹齢千年に近いのではないだろうか杉の巨木が何本もある。境内の杉の巨木から山門を望む。

 石段を登ったところにあるのが本堂である。石段の向こうに本堂が見えている。右上のほうに見えているのは三重の塔(多宝塔)

 石段を上る前に、左を見ると不動堂、それと続きの棟に大師堂がある。前にお賓頭盧様がいらっしゃるがそこが不動堂(右上に額が少し見えている)、ここでは御祈祷のためお護摩が焚かれる。あけ放たれた座敷の奥が大師堂に続いている。

 大師堂を正面から見たところ。

 不動堂、大師堂をお参りして、石段を登り本堂へ向かう。下が本堂、御本尊は地藏菩薩さま、本堂前の一対の鶴がこのお寺の特色である。鶴林寺の名にちなむものであろう。

 多宝塔(三重の塔)もある。本堂前から撮った多宝塔

 今朝6時半出発、帰ったのは午後5時過ぎなので、まだ整理もできておらず、残りの写真や動画などは編集してお目にかけたいと思います。お寺の様子や参拝の詳細については次のブログで書こうと思っております。  

 続きは次回ブログで 

2020年8月27日木曜日

ふんどし、ペタシペタシ

 連日の猛暑である。年寄りから言わせてもらうと2010年代頃から、日本の夏のグレードが違ってきているような気がする。もちろん高温のほうにである。昔は35°をこえるような猛暑はほとんどなかった。しかし今年の夏はウチラの地方でも連続で35°をこえる日が続いている。先ほど天気予報のお姉さんが小クイズをいっていた。今年の8月、猛暑日が一日もない唯一の県はどこでしょう?というのである。直前に今日の北海道内陸部で35°こえたといっていたから北海道ではない。それは沖縄県、南に位置するため意外だが、海に囲まれた諸島群であるため海風の影響で猛暑日にはならないそうだ。

 それにしてもインド人の暑さの耐性はすごいなとおもう。インドの最も暑い月は今の日本の8月の暑さより10°は高いのである。最高気温45°こえ!猛暑を通り越している、なんと表現するのだろう。アラビヤのように湿度が低いわけでもない。けっこう湿度もあるようである。まあそれだから不毛の砂漠にはならず農業生産性が高くインドの人口密度が多いのであるが。いったい40°こえる暑さでおまけに湿度が高かったらどないなるんやろ。どないもならん!庶民はそれなりに元気で生活している。
 (前のブログの写真、再掲載)

 前のブログの写真を見ると現代インドの男衆の格好がわかるが、なるほどインド人はこんな姿で夏をのりきっているのだな。帽子もかぶっていない、黒い肌の上半身はむき出し、直射日光が当たるのも気にせず、はだしでペタシペタシと歩いている。インドでも金持ちの暇のある連中は猛暑の中でも涼しく過ごすやり方もあろうが、庶民は猛暑の中でも働かねばならない。その時の格好が前のブログの写真にあるような格好である。

 日本の猛暑でもインドの庶民の格好に習って上半身裸、腰のまわりだけ布をつければ、インドの猛暑でもそれで乗り切れるんだから、それより優しい日本の夏の暑さくらいと、おもったが、しかし歴史を思い出してみると、何のことはない、明治まで日本の男衆の夏の働く時の格好は『フンドシ』姿であった。これは幕末から明治初期、日本の夏に来日した外国人はみんな、日本の男の労働着(?)はふんどし姿で、どこもかしこもフンドシ姿で働いているのが目につくと異口同音に述べている。やっぱ、南インドの働くお兄さんがたと同じで、猛暑には腰巻のみとか、フンドシ姿がいっちあっているのである。
 幕末の夏の労働着、フンドシ

 しかし明治政府はそう思わなかったようで、たぶん外国人の目を気にして(特に居留地にいる外国の御婦人の非難を気にしてか)、文明開化にふんどし姿はあわない、と罰則をもって禁止するのである。おかげで(良かったか悪かったは別として)、この猛暑の中でも日本では上半身裸あるいはフンドシ姿、はたまた腰巻、腰蓑のみの裸で街をペタシペタシと歩いている人はいないのである。たぶん今、そんな恰好で街中を闊歩したら、警察に連れていかれるだろう、これが日本の夏の伝統じゃ!っつうてもこらえてはくれんだろぅ。

 日本は世界の中でも割合と伝統的な服が残っているといわれているが、少なくとも明治までの日本の夏の男の労働着である『フンドシ姿』は残っていない(特殊な神事を除いて)。その点、インドは伝統に忠実であるし、夏の労働着に関して外国の目なんど気にせず自主自律的である。

前のブログと今回のブログ、どちらもインド人の腰巻姿が目に付くが、ここでふと思い出したことがある。昔、すごくおもしろかったギャグ漫画で、それこそこんなインド人のような恰好をしたおじさんキャラがいた(左)、作者は誰だったか思い出せないのでネットで検索すると「谷岡ヤスジ」さんだった。そういえば最近、この人のマンガ読んでいないな、と続けて略歴を読むとなんともう21年も前に56歳の若さで亡くなっていた。すごく個性的で面白い漫画家だったのに若死には残念である。
 今日のブログの題、フンドシに決めたとき、なぜかペタシペタシの足音がすぐ思いうかんで、フンドシと一緒にそれをブログの題にしたが、大昔、この谷岡ヤスジさんのこのキャラがかすかな記憶に残っていて、このキャラの擬態語ペタシペタシが浮かんだのだ。

炎熱の国・身毒の衣服と仏像

前のブログで十三仏堂のホトケたちを取り上げたが大日如来さんを除いて仏像さんらしい感じはしない。なぜかと考えるとそれは着ている衣装に問題がある。閻魔王をはじめ○○王は古代中国の法服と冠である。これでは仏さんらしくない。それではどのような衣装がホトケ様らしいのか?

 如来さま方はゆったりした無地の一枚布を身にまとっている、菩薩さま方はきらびやかな瓔珞(ネックレス、腕輪など)・宝冠などの装身具で身を飾っている。そして如来、菩薩さまともに生地はかなり薄くて一枚布であるため襞やドレープの曲線が美しい、そして肌を晒している部分が多い。右肩を晒していたり、上半身はほとんど布類をまとっていない場合もある、このようなお姿が我々の持っている仏のイメージであろう。

 そもそも如来さま菩薩さまのお生まれは2000年以上前のインド(印度、身毒ともいう)であるから、その当時のインドの衣装を着たお姿が仏像の姿となるのは当たり前である。インドは炎熱の国である。片肌ぬぎ、上半身裸、薄物の布、というのはこのような風土では当たり前である。現代のインド(特に南インド)でも伝統衣装はそのようなものである。2000年以上の時を経ても如来・菩薩の衣服の伝統は脈々と受け継がれている。こういう炎暑の国では金持ちだろうが身分の高い人だろうかゴテゴテと派手な衣装は暑くてつけられないから、貧富・身分の上下にかかわらず薄着、身の露出が多くなるのは変わらない。差をつけるとしたら、薄物の生地を高級にするとか、首飾りなどの装身具(瓔珞)を派手にたくさん着けてジャラジャラいわせ、キラキラまばゆく人の目を射ることになる。そのため悟りの境地にいる如来は別として菩薩さまがたはド派手な飾りを身に着けている。

 もう一つ如来・菩薩の服地には特色がある。それは一枚布が基本であるということである。生地を裁断せず縫わず、大きな一枚布、あるいはもう一枚加えて二枚を身にまとっているのである。この伝統はインドの伝統衣装、特に聖職者の衣服に受け継がれている。なぜ鋏を入れたり、縫ったりしないのかということについては、一説には布も神聖なものであり、それを切ったりくっつけたりしないのだといわれている。

 では仏像の衣服と現代インドの庶民の服装あるいは伝統衣装の類似についてみていきたいと思う。

 下は南インドの庶民の服装である。腰に布をくるくる(股もくぐらせて)まいただけの半裸体である。別に行水の後たまたま裸体になったのではなく、このような格好で普通に仕事や作業をしている。

 いくらなんでもこんな裸体に近い仏像はないやろと思われるが初期のインドの仏像ではよく似たようなものがある。それが下の仏像である。仏像誕生期に近い中インドのマトゥーラで作られた仏像で、なんと、これは「弥勒菩薩」さま、右手は施無畏で左手には油壷(水瓶かもしれない)を持っているので仏像の定型姿である。上記のインド青年の恰好と同じで布はほとんど股間を隠すのみ(薄物の布であるためモッコリと性器の形までわかるではないか!)、この弥勒様も南インドの青年と同じでフェロモン出しまくりのような魅力的なお姿である。

 次にガンダーラ仏像を見てみよう

 これは釈迦如来である。右手と左手は欠けているため印相はわからないが衣服の様子はよくわかる。下半身を覆う一枚布、そしてもう一枚を左肩にかけ腕に回し垂らしている。そして右肩は露出している。これも現代まで伝わるインドの伝統衣装である。

 このようなインドの伝統衣装はドーティと呼ばれ、今も正統な中インド・南インドの伝統衣装となっている。下が現代の伝統衣装ドーティを着たインド青年。

 上記のガンダーラの釈迦仏像と比べるとよく似ていることがわかる。(上半身にかけている布は首から垂らしているが腕に回して垂らせばガンダーラ仏と変わらない) 現代のドーティはおそらく結婚衣装か何かフォーマルな儀式のときのもので色物かつ金の縁取りがされているが、現代でも聖職者のドーティは釈迦時代とおなじで無地で無染かそれに近いものである。

 このドーティは大きな一枚布(下半身用)であるため、袴状に両足に巻くには特別の着方が必要となる。その図解を下に示す。

 まず一枚布をこのように腰に巻き、残った布(かなり余りも広い)を正面でこのように左右に折り返す。禁欲が求められる聖職者以外はふんどしはつけない、フリチンで布を巻く。


 このようにして袴状に両足に巻きつける。(股をくぐらせ後ろに出すことにより袴状となる)

 そして次のようにして仕上げる。

  後ろから見るとこのようになっている。
 
 これがドーティの正装であるが、上半身にもう一枚布を細目におって肩から垂らす。イラストで示すと最終的にはこのようになる。

 しかし下半身のみの衣服(上半身は裸)でも炎熱の国インドでは立派な正式ドーティである。下半身のみのドーティをやはりイラストで示すとこのようになる。ずいぶんカッコいい。

 ただお釈迦様は南インドではなく、中インドからヒマラヤ山麓あたりを活動されたのであるから冷涼期にはかなり気温が下がる。上半身裸ではその時期ちょっと寒いだろう、だから上のフォーマルなインド青年のドーティのようにもう一枚布を肩から掛けていたたと考えられる。それがガンダーラの釈迦の仏像のお姿である。

 ドーティの正式な着方は上の図解のとおりだがこの通りするのはちょっと厄介だし、また結構広い布が必要となる。そこで略式で腰のまわりを巻いたルンギーと称するもの、あるいはウンと布をけっちったドーティ式巻き方(当然丈は短くなる)が庶民の間では普通で、正式ドーティはフォーマルな席か、聖職者が身に着けるくらいである。

 下は今でも伝統衣装に身を包む南インドのお兄さんがた、ルンギー(腰巻)、半分ドーティ、Tシャツと折衷、など色々である。


 今、日本の如来さま、菩薩さまの仏像のお衣装を見ると、縫い目のない薄物の一枚布を身に着けていらっしゃる。古代からのインドの伝統の衣装であることがわかる。

2020年8月26日水曜日

冥土の閻魔と地蔵

 死者の国として「冥土」あるいは「黄泉の国」などが考えられているが、冥土とは冥(くらい)土(土地)、そして黄泉も薄暗さの意味であるから、死者の国とは闇かそれに近い暗い国と思っていたのだろう。人類が弔うことを覚え、遺体の処理として世界の多くの場所では死者を埋葬してきたから、土中あるいは深く穿たれた横穴、竪穴は光のささない暗い所に違いない。

 しかし人類が弔いを行いだしたころ、それは何十万年もの昔だろうが、人は死んでも肉体から離れて「霊」や「魂」が存在しつづけると信じた。そうすると肉体は滅びても霊や魂が残っていることになる。これは愛する人を失い悲しみにくれる遺族にとっては福音である。

 その霊魂の行方は世界各地の古代民族によってさまざまな場所が考えられた。「冥土」や「黄泉」の言葉からわかるように、埋葬された肉体は滅びても霊魂はなお地中深くの国に赴くと信じた民族もいる。古事記にあるようにイザナミが死んでいった黄泉の国、あるいは古代ギリシャの死者の国としてしられた「ハデス国」も地中深いところにあるイメージである。しかし一方、霊魂は重さを持たない極めて軽快俊足に動くものとしても考えられたようである。フワフワと日常世界をうろついたり、一足飛びに遠くの場所へ移動するというイメージも持たれた。重さを持たず俊足軽快な霊魂は、埋葬場所にとどまることなく上昇して行って遥か天に上り、土中の深いところにある冥土や黄泉の国とは反対の天の高みにある「天界」に移ってそこが安住の地になるとも考えられた。

 その土中と天上の国の中間に死者の国を考えた民族もいた。地でも天でもなく山の向うのまた向こうの人の行けない山奥に死者の国を求める場合、あるいは海の遥かかなたこれまた人がいけないウンと遠くに死者の国をもとめる場合、などである。

 いずれにしてもどの民族でも死者が常時自分たちの生活空間に死者の霊魂がフワフワうろついてもらっては困ると考えた。必ず生者の国と死者の国との峻別はあるのである。死ねば霊魂は肉体から離れ、生者の国から離れ、遠い死者の国へ旅立てねばならぬのである。旅だったあとは、鎮魂のためのある一定の期間を除いて死者の国から霊魂が生者の国に訪れることは普通はなかった。

 上記のようなものが太古の民族が持っていた死者の行く国に対する素朴なイメージであろう。でも同じ事なら地中の暗い国よりは高いところにある明るい天上の国のほうがいいような気がする。それは太古の民族もそう思ったであろう。しかし一様に天上へは上昇できるものとはかんがえない、いい魂は天上へ、悪い魂は土中深くの「冥土」へ、と考えだすのは自然である。

 仏教が伝来すると死後どうなるかを詳しく描き、魂の行方を説明してくれるようになった。仏教は輪廻思想を基としているため魂の永遠の循環が考えられているが、とりあえず「いい魂」(生前の業によって決まる)は次回は「天界」に生まれるので死後の次の世は「天界」ということになる。(程度の低い良い魂はまた再び人間界に生まれる場合もある、ただし前世の記憶は消えている)

 悪い魂はどうか、これは悪趣(餓鬼界、畜生界、地獄)に行く。ただ悪い業に引かされた魂であるため、本人の自覚がなかったり、忘れたり、あるいは意図的に隠したり、または開き直り、ワイそんなことせえへんで証拠みせぇや、と言ったりで、そんな推定無罪のような被告の魂をどこの悪趣に落とすか(地獄でも八種類ある)判断・分類が難しい。

 仏教が中国に入ると中国土着の死後の魂を裁判する十王伝説と結びついていわゆる「閻魔大王」がうまれた。そしてそれが日本にはいると平安末期までにそれをベースとして「地蔵十王経」(日本で生まれた偽経)が編まれた。それに基づいて日本の閻魔信仰、十三仏信仰が起こるのである。

 善業の魂は誰が判断することもなく善業にひかれて天界へ赴くが、厄介なのは先ほども述べた悪業に引かれ悪趣に赴く魂である。亡者に思い出させ、有無を言わさぬ証をし、認めさせなければならない、そこで死後悪道に落ちた魂が最初に行くところには、裁判官と検察官をかねた「○○王」がいる。慎重を期すためか、あるいは細かく行き先を決めるためか、一つの審判が終わると次々に十人の「○○王」に審判される。現代日本の裁判でも三審制なので十審制にもわたるということは絶対間違いのない、有無を言わせぬ判断であるといえる。ただ審判の場はちょっと凄惨な場であり、例えば嘘をつくと舌を抜かれるとか、拷問と呼ばれるものもある。十王伝説が生まれた当時の中国の裁判の様子を描いたものではないかと思われる場面である。ちなみに閻魔大王も含めた十王の姿は何やら中国怪奇映画の「キョンシー」のような冠、衣装であるがこれも当時の中国の裁判官の格好である。普通のホトケの衣装とは違うこのような格好を見ても死者審判の十王は中国生まれであることが推察される。

 死後7日目に審判されるのが①秦広王である、以下7日目ごとに②初江王 ③宋帝王 ④五官王 ⑤閻魔(閻魔)王 ⑥変成王 ⑦泰山王 ⑧平等王 ⑨都市王 ⑩五道転輪王 と続く、重要なのは五七日(35日)、五番目の閻魔王である。閻魔の住む閻魔庁には生前の行為はすべてつぶさに記録されており、閻魔庁において記録係が亡者の罪を陳述する。また特別な鏡があり、否定してもその行いがそれに映されるのである。ここで悪行を為した亡者は地獄行が決定するから、閻魔王が亡者の行き先すべてを一人で決定しているイメージがあるがそうではなく、閻魔も含めた十王が7日目ごとに段階を踏んで亡者の罪を定め、自覚させ、行き先を振り分けているのである。

 またこの閻魔庁には地蔵菩薩も住んでいらっしゃるという。あとで説明するが実は閻魔と地蔵菩薩は同じホトケの表裏一体であるとも見られている。ご存知のように地蔵菩薩は六道(地獄も含む)すべてに赴き、たとえ無間地獄に落ちた亡者であっても救いの手を差し伸べてくれる菩薩である。しかしこの閻魔庁においては閻魔王と地蔵菩薩は別のホトケとして表れているようで、閻魔の審判において閻魔が追求し、それを地蔵が弁護するという話も残っている。

 このように地獄に落とす存在としての閻魔王と、地獄の唯一といっていい救い主の地蔵菩薩が一体であるという考え方があるため十王の中で閻魔王を最もキャラ立のあるホトケにしたのである。閻魔王の名は一般人も知っているが、他の十王たちの名は全く知らないだろう。専門家である真言宗の僧侶でさえ十王の名前をソラで全部言えるかどうか怪しいものである。

 また閻魔王は十王では唯一インドに起源をもつホトケである。上記の十王の名前を見てもらうと他の九王はいかにも中国っぽい漢字名であるが閻魔はサンスクリットの当て字っぽいのがわかる。これはインドの「ヤマ」というリグ・ヴェーダ(神の讃歌集)に出てくる冥界の神の名からきている。それらのこともあって閻魔王の名のみが冥界の王、そして地獄行の審判者として高まったのである。

 十王の考えは日本に取り入れられ日本生まれのお経「地蔵十王経」が生まれたのであるが中世になると日本では「本地垂迹説」が広がり、土着の神、あるいは天、明王などは実は本地(ほんま)は別のホトケ(如来、菩薩などの上位の仏)であり、それが衆生の便宜のため仮に姿を変えて別の尊格(神々、天、明王、権現など)としてあらわれたのであるという思想が受け入れられた。そうすると十王も本地は実は別の仏であり、それと一体であるという考えを生んだ。それを下に示す。

 閻羅王というのが閻魔王のことで本地は「地蔵菩薩」となっている 。地蔵菩薩は慈悲のお優しいお顔をしたホトケであるのにその一体化した閻魔王は地獄の入り口に厳格な審判者として恐ろしい姿を見せるホトケである。このような反する尊格を持った合体仏は密教ではよくある。お優しい表情の大日如来は忿怒の表情の不動明王ともなるのである。

 亡者は生前の善業、悪業を十王の前で自覚させられ審判されるのであるが、悔悟や悔悛しても亡者となってはどうにもならない。善業を行うことももはやできない。しかし縁ある親族など、この世に残された生者は亡者が悪趣(餓鬼、畜生、地獄)に落ちるのをどうにかしたい。そこでこの世の生者が亡者のために行うのが「追善供養」である。それによって亡者が少しでも「よき処」に行けるようにホトケに供養し祈るのである。つまり残されたものが亡者ため十王の本地仏である仏をそれぞれの順序(初七日~三回忌)に従って礼拝し追善を行うのである。

 中国の風習では親などの服喪は三回忌(満2年)までとされていた。三回忌までだと上記の表のように十仏(十王)でよいが、日本では中世になるとさらにそれに、七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり、それに応じてそれぞれの仏も割り当てられた、順に阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩である。上の十仏に加わって十三仏となる。

 追善には見てきたように十三仏さんがそれぞれ配されているが、一般的な死者の供養については十三仏の中では圧倒的に「地蔵菩薩」さまが人気である。次いで観音様であろう。いまでも交通事故死現場、水難現場、そのほか不慮の死の場所などに一体のお地蔵さんが立っているのを見てもその人気がわかる。法体姿で今にも救いに行けるぞ、というように片足を一歩前に出し、柔和なお顔で、六道の隅々(地獄であっても)までも救いに行かれるお地蔵さまは大した追善供養もできない庶民にとってはありがたい仏さまである。

 昨日はそのお地蔵さんが御本尊である名東の地蔵院へお参りに行ってきた。


 本堂の上の奉納額に描かれているのは地蔵の霊験譚であろうか。


 大師堂の天井には胎蔵曼荼羅が描かれているというので撮影したかったが、小さなガラス板の入った格子ごしなのでうまく撮れなかった。下が天井画の一部、ガラス板が反射して不鮮明である。

 境内には十三仏堂もあるので紹介しよう。

 十三仏、十三体の仏さまがいらっしゃる(お姿は垂迹姿の十王になっている)。追善供養の仏さまはお不動様に始まって虚空蔵菩薩様まで順序が決まっているが、この十三仏堂は大日如来さまが中心におられ、左右対称に六体ずつ並んでいるので追善の十三仏様とは順序が変わっている。

 中心を占める大日如来さまは胎蔵・大日如来姿で定印を結んでいる。なお中国伝来の十王が日本独自の十三仏となったため、三体余分の○○王は日本で作られ加えられた。

 各仏の右に○○王が、左にその本地の如来・菩薩名が書かれている。これを見ると閻魔王の本地が地蔵菩薩であるのがわかる。

 下が動画で撮った地蔵院・十三仏堂の内部の様子、

2020年8月22日土曜日

災厄、まだ12月までだいぶ残っとうで、次はなんやろ、ドキドキ

 初春のころ黄塵にかすむ大陸からわるい疫病のうわさが流れて来ぃよ~わ、と思う間もなく日本列島に上陸、ドミノ倒しのように未感染県がつぶされていき最後まで残っていた岩手県も感染確認県となり、8月までにはコロナ感染列島となってしまった。ワイの住んどぅ徳島県は7月までは一桁に抑えられていたが今日の地方紙ニュスを見るといつのまにやら三桁になっている。

 今年の災厄はこれにとどまらなかった、集中豪雨、そして猛暑である。コロナ蔓延と手を携えての襲来なのでかなりきつい災厄となっている。この猛暑に顔半分を覆うマスクを半ば強制され、顔に熱がこもって余計に暑い。外を歩く時などは外していてもよさそうなものだが、街行く人の大半は律義にマスクをしている。「猛暑(もうしょ)ぅがない」とギャグの一つも言いたくなる。しかし熱中症で死ぬ人が増えているから、冗談を言うどころでなく、暑さ対策としてマスクを外すことも考えるべきである。時と場所によってこまめにつけたり外したりしたらいいのだろうが、これかなり面倒である。結局、汗を拭く時とか、顔の熱を放熱するときには、マスクを下へズリ下げている。なんやらヨダレ掛けがアゴまでズリ上がったような変なアゴマスクの人が多くなり、今年の夏の風物誌となっている。

 さてコロナ災厄はまだまだ収まる状況ではないようだから、これからはその上に一つ加わった(あるいは二つかもしれない)災厄も覚悟しなければならない。かなり高い確率で予測されるのが「台風」の襲来である。まぁ小ンまい台風で適度の雨と可愛らしい風をもたらしてくれるなら、この猛暑と相殺されていいのだろうが、そんなに都合の良い台風なんどはまずない。破壊的な暴風と豪雨水害が心配である。

 台風は一週間くらい前にならにゃぁ日本列島のどこらあたりを狙うか、その時の規模はどうかという予測は難しいが、台風の進路に関してはある経験則があるんじゃなかろうかとオイラは思っている。(実際、そういう経験則をいう気象学者もいるが否定的な人もいる)

 それはその年にいくつか発生する台風の進路は、不思議とよく似たコースをたどるということである。下は本日発表の台風8号予想進路である。

 これを見てあることに気づかないだろうか?そう、今年に入って朝鮮半島に向かう台風はこれが初めてでなく確か3回目である。台風は普通、朝鮮半島に向かう進路をとることは少ないので今年の何度目かの朝鮮半島コースは特に注目をひいた。やはりその年の台風は似たコースをたどることが多いという経験則が当てはまるのだろうか。

 まあそれはともかく今年のこれからの台風が朝鮮半島に大きく反れてくれれば日本は助かる。(やってくる朝鮮半島の人は大迷惑であるが)これを受けてあちらでは釜山に大勢が大団扇を持って集まり、一斉に団扇を煽り立て、台風を列島方面に吹き飛ばしてしまおうという運動が・・・全然高まっていない。

 今年の災厄、台風だけではすまんような気ぃがする。これからのことだから予測もしがたいし、人力だけで何とかできるかどうかもわからん。なんか大きな大仏を作るとか、「大元帥法」を修するとか、「大般若経」を転読するとか、国家鎮護の祈りをしぇにゃぁならんぞ。

2020年8月20日木曜日

どんぶりもん

 ヨンのフドコートにある天麩羅屋に行って「天丼」を注文したら、今日は割引日なので普通天丼の値段で上天丼が注文できますよ、と言われたので今日は上天丼を食べた。たまにヨンに行って昼めし食べる時きゃぁ「きつねうどん+稲荷寿司一つ」か、「天丼」を食べている。(大体500円ちょっとでたべれるから)

 ちなみに普通・天丼は、海老一匹、茄子、南瓜、玉ねぎ、海苔、竹輪の天麩羅がご飯の上にのっている。今日初めて注文した「上天丼」とどないにちゃぁうか?食べる前に観察すると、上の天丼の上に、海老がもう一匹追加、そして新たに烏賊の天麩羅が余計にのっているだけの違いである。下がそう

 値段は天丼が490円(税抜き)、上天丼だと690円だから、海老と烏賊がひんずについているだけで200円高い。

 昔の出前などが盛んだったころは丼もんは店屋物ンの中でも一番安かったものである。だから大切なお客様の時は握り寿司、うな重など注文するが家族内や気心の知れた人などで手間を省くため店屋物ンを注文するときには安くて腹のふくれる丼もんにしたものである。

 だいたい丼もんなんど昔しゃぁ家庭で作る場合にゃぁ、ほとんど残り物の汁かけ飯か、くずものの食材をごった煮にしてそれを飯にぶっかけたのが丼もんとなった、ちょっと良くて残りの汁ぅに卵を落としたぶっかけである。例えばすき焼きの最後の残り汁を飯にかけたのが「肉丼」、八宝菜の残りもん、ひどいときにゃぁ食い残しのラーメンの残り汁を飯にかければ「中華丼」、ほとんどワン公の犬ご飯である。また天麩羅あげて、本体は頂いた後、次の日に衣ばかりの失敗作や、揚げてて形が崩れた半端ものを飯の上にのせて天麩羅汁をかければそれが「天丼」となった。だから天丼は本来そんな上品な食べ物ではない。

 この天丼に類した(?)もっと下作な丼もんもあった。ワイの小ンまいとき家の天麩羅鍋の油はなぜか黒ずんでいた。今から考えると、使った天麩羅油を何度も濾して使いまわしていたから最後にゃぁ黒ずんできたのだった。今だったら何度も使いまわしたりしないだろうが食糧難の大昔しゃぁそうでなかった。ところでこの使いまわしの天麩羅油を濾すとかなり黒ずんだ「天かす」がとれる。この天かすをご飯の上にのせてその上から「汁」(うどん汁でもいいし、みそ汁でもいい)をかければ、天丼もどきゲサク丼の出来上がりである。かなりひどい調理だが、これが結構おいしいのである。いまはこんなげさくな天丼もなかろう。しかしふしぎなものでもう一度子どもの頃に食べたあの黒ずんだ天かす丼を食べたいと思うのである。

 東京の方には天かす丼があるようで「タヌキ丼」と称するようである。

2020年8月18日火曜日

涼しい列車か?

 ボニすぎて暑さのピークがやってきたみたいで昨日はうちらの地方でも最高気温が38°をこえていた。午後5時過ぎアミコを出ると外は溶鉱炉の火口のような空気である、おまけに西日に炒られながら汗だくになって徳島駅に入るとホームにはこんな列車が止まっていた。


 幕末維新号とあり、列車は壁も窓もないのでホームから内部がすっかり見える。いわゆる「トロッコ列車」である。内部の様子は遊園地の列車によく似ている。「トロッコ列車」が徳島駅のホームに入っているのは珍しい。普通は阿波池田駅から大歩危経由で土讃線を走っていてこちらには来ない。だから実物を見るのは初めてだった。期間限定で徳島線も走っているのだろうか。

 吹きさらしの列車であるため真夏などは風が入って涼しかろうとおもうが、昨日のように人の体温をこえるような異常な猛暑の場合はどうだろう。涼しいだろうか?熱風に吹きまくられて涼しさを感じないかもしれないなと思うが、外気温38°のなか実際に乗っていないのでわからない。

2020年8月15日土曜日

猛暑の精神的な対処法

 ここ数日、うちらの地方でも35°をこえる猛暑日が続いている。旬間予報によれば今日から数日間がこの『熱波』(と呼んでいいだろう)のピークになるようで、予報(吉野川市)では今日の最高気温は37.9°となっている。さらに一段グレードが上がった猛暑になるようだ。さらに同じ予報ではこの『熱波』は一週間くらいは続くと言っていた。

 NHKのアナウンサは「・・・危険な暑さとなります、こまめに水分を取り、冷房を適宜活用してください・・云々」と呼び掛けている。7月まではワイもふらふらと自転車に乗っあっちゃこっちゃ出かけたが、さすがこの期間、できるだけ外へ出ないようにしている。外を歩くときは外見なんど気にせず、日傘をさして歩いている。もちろんタオル、ペットボトルの飲料持参である。若し衆はええけんど、ワイと同じようなお年寄りは外出時はこの三点セットぜひ持って歩きましょう。

 もっとも車で移動する人はクウラの聞いた車内で涼しぃ顔してるが、たまたま一時停車した車の横を歩いてすり抜けるとわかるが、車内は涼しいがその奪った熱量は全部エンジンの熱の上に加わって外へ排出されるから、車からすごい熱気が出ている。その熱で余計に猛暑に拍車をかけている。今はええけんど、将来どうにかせなんだら、殺人熱波で住めんようになるぞぉ。

 世界にはこの日本の猛暑なんど晩春か初夏くらいしか思えない炎熱の国がある。それはどこ、赤道直下、熱帯のシンガッパ?ジャバのバタビア?いや東南アジアのそれらの都市の暑さは日本の夏と変わらない。最高でも35°くらいである。それ以上40~45°あり時として50°近くなる国がある。そういうと、でもそんな国って、砂漠でしょ、荒廃地で人もほとんど住んでないんでしょ、といわれるが、いやいや、人口密度も多く、湿度も高い国があるのである。
 もうおわかりでしょうか、あのお釈迦様の国、インドである。そんな暑いところで死に絶えるどころか、深遠なインド哲学(ウパニシャッド哲学)や多くの仏教理論をその環境の中から生んだのである。

 歳ぃいってお釈迦様のふるさとインドへのあこがれが強くなるこのごろ、しかし耄碌した貧しい爺である、インドの仏跡なんど行けようはずもない。そんななか猛暑、猛暑というのを聞きながら

 「いんやぁ~、まだまだ!45°ちかくならなんだら、お釈迦様のいらっしゃったラージャグリハ・王舎城や、その近くの霊鷲山の環境に近ぅならんがな、太陽はん、へたれんともうちょっとがんばって、ここをインドにしてつかい!」

 と考えることにしている。そうするとこの猛暑よりはあと10°は気温が上がらにゃインドにはならん。これがなにが猛暑な!お釈迦はんのインドに比べたら涼ぅしいもんじゃわ!

 これがワイの猛暑精神的対処法である。

 インド・王舎城、霊鷲山へ行けないから、ググルマップのビューなど利用してバァチャルな観光を試みた、そのブログがこれ、ここクリック

2020年8月14日金曜日

百年前の阿波踊り

 ここ半世紀以上、阿波踊りが全面中止になったことはありませんでしたがモラエスさんの時代、もう100年以上前ですが、何度か中止になりました。当時の当局は今と違って強権的に中止命令を出しています。当時は今と違って小さな町内ごとに、思い思いの格好で自然発生的に踊りが始まったのが多かったのですが、そんな市井のボニ踊りも有無を言わさず中止です。「徳島の盆踊り」という本も出版したほど阿波踊りに強い思い入れのあったモラエスさんは、今年は見られない、と残念そうに書いています。理由も述べていますが皇室の不幸であったり、戦争のためであったりしました。

 阿波踊りの見られない今年は静かなボニを迎えています。そんななか過去のボニ踊りのようすを偲ぶのもいいかなと思い、モラエスさんがここ徳島で生活した時代の阿波踊りの写真をいくつか集めてみました。

2020年8月13日木曜日

仏さんとボニ

 ボニがやってきた。ボニは死者の招魂、そして先祖供養、終わったら先祖の御霊を良き彼岸へとお送りする、という日本人の風習である。いまコロナ蔓延のため例年になく静かなボニをむかえているが、ボニの趣旨から言えばこのような静かな環境でボニを迎えるのがふさわしいはずであるから、本来のボニに戻ったともいえる。

 ボニと聞くとワイら一般人は仏教と強く結びついたイメージがある。墓参りに墓地に入ると六地蔵が立っていたりする。墓の後ろに立っている卒塔婆は梵字や供養の漢字が書かれているがそれらは仏教の供養のしかたである。墓前で香華を手向け、唱えるのも短いお経や真言であったりする。そもそも葬制や墓制が仏式に基づくもので、火葬もその延長(ただし火葬がすべてに広がるのは明治以降)にある。
 ボニの供養も仏式に基づいて行われる。旦那寺からオジュッサンを招き、霊前でお経をあげてもらい先祖霊を家で供養するのである。ボニは先祖供養の社会習慣であるが葬制と同じで仏式で行うのが大多数である。日本人でキリスト教や回教に改宗している人も若干いるが一神教的性格の強い宗教の人はそもそもボニなどはしないであろう。

 ボニと仏教は上記のようにかなり強い結びつきがあるが仏教=先祖供養とはかなり矛盾があるのはたびたび指摘されるところである。仏教ではもちろん死んだ後の霊魂のようなものを考えるがそれは生前の「業」によって六道を輪廻する。簡単に言えば別の「生き物」になるのである。良ければ天界にうまれ天人となるし、悪ければ虫けらになるかもしれない。しかし悟りを啓ければ輪廻から解脱し輪廻の生死を超越できる。また仏教の別の教えでは別世界「極楽浄土」に生まれる場合もある。そこには死んで「先祖霊」となる余地はないのである。

 なぜこのように仏教とボニ(先祖供養)に食い違いが生じたのかを考えるともともと原初の日本人の素朴な死生観があって後に仏教が入ってきてその教えがかぶさったためこのような矛盾となっているのであろう。太古の日本人の死生観は地域によって少しの食い違いはあるが、死ねば霊魂となってしばらく生前の場所にとどまりそのうちに「山の向こう」あるいは「海の向こう」など霊魂の安住の地に旅立つのである。しかしその霊は行きっぱなしではなく、時として子孫のもとに帰り、子孫の守護霊となる場合もある。そして年月がたち孫、ひ孫と子孫が下るにつれて死んだ個々の霊も浄化され先祖の大きな霊として合体すると考えられた。その合体した先祖霊は多くの子孫の守り霊となり幸をもたらすのである。その死後しばらくとどまる霊とそして合体した先祖霊を供養したのがもっとも原初のボニの起源ではなかろうか。

 初期の仏教では先祖供養については何も言っていないが、中国に伝わり中国の古来からある先祖供養の風習を取り入れた結果、「お経」に先祖供養に特化したものが中国で出来上がった。「盂蘭盆経」である。「お経」とは言いながらお釈迦様の教えの系譜にあるものではなく、インドで生まれたものでもないため「偽経」ともいわれる。
 しかしこの「盂蘭盆経」が日本に伝わるとそれはまさに「ボニ」の仏教的な裏付けとなる「お経」となった。しかし見てきたようにこの「お経」は仏教のオーソドックスな教えからはかなり逸脱している。

 その「盂蘭盆経」の骨子は以下のようなものである。餓鬼草子絵巻にその盂蘭盆経のもととなった説話が入っているのでその絵巻の絵図とともに紹介しよう。

 お釈迦様には十大弟子がいるがその中で神通第一(つまり霊力が強いのだろう)と言われる弟子に「目乾連」通称、目連がいた。彼には老母がいたが孝養を尽くせぬまま亡くなってしまった。死後母のことを慮っていた目連は神通力をもって母親の様子をみた(絵巻では母親に他界で実際にあっている)。するとあろうことか母親は餓鬼道におち餓鬼となって苦しんでいたのである。

 その絵巻の場面を見てみよう。僧侶の姿が目連である。対する母は餓鬼道に落ち、飢えて骨と皮ばかりになっていた。目連は大いに悲嘆し、大きな鉢に食物をもって母に与えた。母がそれを食べようとするとなんと、食物は燃え上がり炎が吹き出す燠となったのである。餓鬼道に落ちたものは食欲は無限に増大するが、いろいろなさわりが起きて食べられなくなるのである。死んでも母に孝養を尽くしたいと願っている目連にとっては耐えられない悲しみである。

 目連は仏(釈迦)に救いを求める。その場面が次の図である。中央が釈迦、両脇は観音・勢至菩薩であろう。後ろに変わった形の山が見えるのはその形から霊鷲山(鷲の頭の形をしている・インドの王舎城近くにある)である。仏に合掌する目連がいる。仏の慈悲による救いを乞うたのである。

 仏は目連の願いを聞き入れてくれた。仏は次のように目連に言った。
 
「まず、自恣の僧を供養すべきだ、そののちに母に与えよ。」

 自恣(じし)とはインドで夏安吾(一か所にとどまり修行する夏の期間)の最後の日(旧暦7月15日とされる)に僧たちが集会し、互いに自分の罪過を懺悔し合い、他の僧の訓戒を受けることである。その時に果物も含んだいろいろな食べ物を盆にいれて、断食も含んだ修行期間後(旧7月15日)の衆僧に供養(ふるまう)せよというのである、しかる後にその残りを母に与えよ、ということである。

 目連が仏の教えのようにし、その食べ物を母にすすめたところ、食物は炎を吹き出すこともなく、母はおいしそうにそれを食べたのである。下がその場面の絵巻である。

 なるほどこのような筋のお経ならば、旧7月15日に僧侶を招いて先祖の霊を供養し、かつ僧にたいしても供養する(もてなす)。といういわれとなりそうである。だが何度も言うようにこの「盂蘭盆経」は先祖供養の風習のある東アジア(中国)で仏教と先祖供養と結びつけるために生まれた「偽経」である。(偽・ニセという意味にはとらないほうがいい、原書であるインドの言葉(パーリ語)で書かれたお経にそのオリジナルがなく後世に別の場所で作られたお経である、というくらいの意味である)

 最後に、「盂蘭盆経」では僧を供養すれば、(死んだ父母が)悪道に落ちた苦しみから救われ、天界に生まれ変わることもでき、時期に応じて解脱もできる、めでたしめでたし、で結んでいますが、絵巻の方は餓鬼草子ということもあってかちょっと衝撃的な母親が出てきます。もう一度、上の最後の絵図を見てください。まず、母親、供養の食物をおいしそうに食べることができ喜んでいるように見えます。ところが右にいる目連の表情を見てください。なぜこのような悲しそうな顔をしているのでしょうか。
 それは左にいる三人の餓鬼と母親のやり取りによってその悲しみの原因がわかります。どこからともなくやって来た三人の餓鬼はおいしそうに食べる母親に対し、自分たちにもその食物を恵んでくれるように手を差し出しています。それに対する母親は、やらじ!とばかり、その食物の入った鉢を尻に敷いてしまいます。仏の慈悲、供養に対する母親の態度がこれだったのです。それを見てしまった子の目連は、餓鬼道に落ちた母親の業の深さに悲しんでいるのです。

 めでたし、めでたし、で結ぶ「盂蘭盆経」より、同じ話ながら絵巻の方が仏教説話的には味わい深い気がします。この母親を見て芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のカンダタを思い出してしまいました。