2021年10月27日水曜日

アサギマダラ

  アサギマダラの見られる岩脇公園香風台は取星寺の山域にある。取星寺は3度も行ったことがあるのでよく知った道だが、羽ノ浦駅からかなり歩かなければならないので歳とともにきつくなってくる。約一時間かけて取星寺の山の中腹にある高台・香風台に着いた。眺めのいいところなので、そこのベンチで休み、そして遅い昼弁当を食べる。


 この裏の方にフジバカマの花園があり、アサギマダラが舞っているという。果たして運よくお目にかかれるか心配だったが、行くと花から花へと何羽もヒラヒラと飛んでいる。

ヒラヒラ舞っている動画

 

 荘子の(中国の戦国時代の思想家)説話に『胡蝶の夢』というのがある。ある時夢を見た、その中で自分は胡蝶になりヒラヒラと花から花へと飛び、宙に舞っていた。そして夢からさめ、人間の自分にかえった。そこで荘子は、ハタと思った。自分が蝶になって舞ったのが夢なのか、いや、反対にいま蝶が人間になった夢を見ているのかもしれないと。荘子の思想を象徴する有名な話である。

 花にとまっている静止画



 種類の違う黄色の蝶も来ていた。


 蝶は花の蜜を吸うがこのアサギマダラは特定の花の嗜好性が強いようで、フジバカマの花に寄ってくる性質がある。なぜそのような嗜好性を持つか、調べるとこの花の持っているあるアルカロイド(花の化学成分)がアサギマダラの性ホルモンにとって必要だということだ。カイコは桑、コアラはユーカリの木、パンダは笹、という嗜好性を持っているが、それと似たようなものだろう。

 またこのアサギマダラは鳥のように「渡り」をするのでも知られている。日本から台湾まで1500kmも「渡り」(旅)をする。海の上に出たら休むところがなかろうに、軽い小さい身でよくそれができるものだと感心する。でも台湾なら、奄美群島、沖縄、南西諸島、と島伝いに行けるが、島の配置や方向を知っているのか?疑問に感じるが、専門家でもこの大移動についてはまだわからないことがあるそうだ。

 羽ノ浦駅から岩脇公園までの岩脇街道は秋桜で飾られている。



 フジバカマ花園を登ったところは取星寺の最も奥まったところである。眺めも良いが、ここには経塚や伝説では悪星が墜ちてきた場所がある。

高野山遥拝所の石柱が立っている


悪星は堕ちてきて松の木に引っかかったそうだ、いったいどんな星じゃ!

2021年10月26日火曜日

空と海

眉山と青空

 空を見上げた。ずっと見ているとしんどさや嫌なことが消えていくような気がする。高いところに巻雲(すじ雲)がある。仏典によれば天の高いところには天人のすまいがあるという。よく見ると微細な巻雲は天人の羽衣に見えはすまいか。私は生来、聖的なもの超常現象、など見ない方でそういう意味では鈍感。目を凝らす、幻でもいいから天人が飛翔するのが見えればいいのに。仏典の解くように天には何重にも重なる天上界があれば死後行けるのだろうか。

 青空は上へ上るにつれ薄く、暗くなっていく、青空は宇宙空間につづく、宇宙空間は虚空とも呼ばれ、暗く空っぽである。「虚空」は真空であるがほんとに何も詰まっていないのか、何も生み出せないのか、仏説ではそうではないようであるし、最新量子力学では無から有(宇宙)が生まれたという理論もあるようだ。劫初、その虚空からわが世界はうまれた。空っぽは無と同じ意味ではない。そら(空)とはよく言ったものである。大空を見ると心が澄みわたってくるのはそんなことと関係あるのかなぁ

 青空~宇宙空間~虚空、そしてその虚空から有が生まれ、世界が誕生したなら、海はわれら有情(生き物)を誕生させた。青空のはるか上は暗い虚空に続くように、海も青く見えるのは表面に近いところだけで数百mももぐれば暗くなりさらにその下は闇となる。生命の誕生は昔は海の表面近くか波打ち際かと思われていたが、現代もっとも有力な説は深海の海底火山の付近であるという。とすると暗い虚空から世界が誕生したように、暗い暗い深海から命も誕生したことになる。

 海を見ていると大空を見上げた時とはまた違うがやはりなにか心がおおらかになりそうな気がする。原初、暗い深海のバクテリアから進化してわれら人類になったが、その受け継いできたDNAのどこかに、原初の命の「母」が海であることプリントされていて、海を見るとそのような感情が起きてくるのかもしれない。

 津田の海で大空と海を見つつ、港の突堤にあるお堂で、弘法大師が招来した不動明王(大日如来の化身でもある)を拝んでいると、弘法大師が宇宙の創造主・大日如来はありとあらゆるものすべてに遍満し、人はそれと一体化できると「即身成仏」を唱えたのを思い出す。この眼前の世界はである。はるか上の虚空、そしてはるか下の深海は、「宇宙」と「命」の始原につながっている。弘法大師が別名「空海」といわれるのはなるほどと頷ける。

津田の空と海


2021年10月25日月曜日

博物館特別企画展を見に行った(一部紹介)

  特別企画展は有料なので、特に興味のあるテーマの時以外は見ない。しかし今回は主テーマが「徳島のおふだ」副題が「~はらいたまえ きよめたまえ~」なので図書館で企画展のポスターを見たときから見学のつもりだった。歳ぃいくといいことはあまりないが65歳以上の入館料は半額になったのでこれはよかった。

 入り口で早速立ち止まり、まじまじ見る(ちなみに展示品はすべて触るの禁止、しかしフラッシュなしの写真撮影は一部を除いてOKである)。おおきなポスターの下に置いてあるのは幾歳月を経たであろうか古い神棚二つである。


 小さいのと大きい神棚である。どちらも神社正面のミニュチュァになっている。小さい方はひさし屋根なのに対し、大きい方は唐破風のついたものである。二つとも同一の家のものかわからないが、大昔、私を育ててくれた祖父母の家にも確か二つの神棚があった記憶がある。やはり大と小の神棚、大きい方はこの展示ほど立派ではない一回り小さいものだが、このように白木のミニチュァ神社建築の正面のようであった。小さい方は文字通り、小さな棚にお祀りしたもので本体は何であったか覚えていないが、前にはカワラけの皿やミニ三方、小さな花立などがあり、それには松か榊かさしてあった。小さいほうの神棚は釜屋(今の台所)にあったからなにかそれに関係した神だったのかもしれない。


 大きいほうの神棚はお正月(ウチは私の小学校高学年くらいまでは旧正月で祝っていた)にはロウソクが灯り、神棚は新しいたくさんのお供え物がおいてあり、横には松飾などもあり派手であったのを覚えている。こちらは本体は何であったか覚えていないが複数だったのは間違いない。木札や紙の札でも熨斗のような形をしたものがいくつもあったようである。

 ここを抜けるといよいよお札(思っていたよりずっと多様で多量のお札が展示されているのに驚くとともに喜んだ)の展示である。一応、ほとんど網羅する形で、どれかの写真の一枚には必ずどのお札も入るように撮影したが、たくさんありすぎるので、特に昔のウチに関係あり、それで目に留まったものだけ紹介する。

 まず、ウチの宗旨は古義(高野山派)真言宗であるが、昔はほとんどの家がそうであったようにいわゆる神仏混合であり、仏壇もあれば神棚もある、宗派の違う寺にも非氏寺にもお参りするのは当たり前、ある寺社に御利益があるといえば出向いて拝んだ。展示室の一部には、ある一家が保存してあるお札類を集めてあったが、寺、神社、宗派、阿波内外を問わず多種類のお札があった。一神教の外国人が見たらなんと無節操なとおもうが、昔の日本人の心情としては、多くの神仏の信心はむしろ信心深さ、敬虔さ、のあらわれと思うのが普通であった。

(ここからのウチ、という話は私が小学校時代の祖父母の家の話である)

 ウチに氏神神社からの持ち回り役の人が、毎月か数か月ごとか期間はよく覚えていないが、ともかくそれほど頻繁に「お日待ち」と称して神社のお札と小さな切り餅を配布してきたのを覚えている。子どもの耳に「おひまち、でよぉ~」という言葉が残っているがその時は何のことかわからなかったし、もちろん何やら難しい漢字で書いてあるお札の文字も覚えていない。しかし次の展示をみてその言葉と意味がよくわかった。おそらくウチの「お日待ち」もこれと変わらなかったのだろう。


 ウチでは特にジイチャン(明治中期の生まれ)が信仰していた神仏習合の「権現」さんに「高越大権現」がある。麻植郡の霊峰高越山の標高1000mにある高越寺である(寺だが鳥居もある)、幼稚園の時から小学校低学年にかけてこの御山に数度上った。山頂付近のあっちこっち小さな社を回ったようであるが、そのことは全く覚えていない。子どもの時高熱が出て寝ているときに、祖父がその話をして、お前ぃはジイちゃんとお山巡りをして神仏の加護を受けているから心配ない、とか言っていたのでそうだったんだ、と思い出す。下はその高越大権現のお札(真ん中)、ウチも神棚に木札かお札があったに違いない。


 それからウチでは春秋のお彼岸には必ず連れて行ってくれた札所の寺がある。川向うなのでバスで行った。「切幡寺」である。その切幡寺に登る途中に母方の先祖の墓があるのでそこへお参りし、そこから石段を登るが、途中の小堂で必ず、そげ木に祖父母が文字を描き、経木流しというのをやった。(経木に柄杓で水をかける)展示の多量のお札の中にはその切幡寺のお札もあった。


 阿波国内外の多種の寺社のお札があるとはいえ、まさかウチの檀那寺(そんな大寺ではない)のお札の展示はないだろう(そこまでやれば阿波国全部の寺の札を展示しなければならなくなると思うので)と思っていたが、見ていくと、なんとウチの檀那寺のお札もあった。


 祖父が結婚してからは鴨島に住んだが、先祖は阿波郡内にいた。吉野川の川中島である善入寺島(大野島)に住んでいた。ここには三ヵ村もあったが、吉野川の改修と洪水予防のため大正年間に全村退去した。その関係でウチの檀那寺は阿波郡にあるのである。

 このほかにもいろいろ紹介したいお札(珍しいものも含め)がありますが、今回のブログでは昔の我が家にあったであろうお札を紹介しました。

2021年10月24日日曜日

通ったことのない道を通って

  文化の森で「徳島おふだコレクション」~はらいたまえ きよめたまえ~ 。展をやっているので見に行った。こういうのは大変すきなので時間をかけて見学し、写真もタップリ撮った(いいネタができたので3本くらいこれでブログが作れそう、またこれについてはいずれ書きます)

 さて展示会を見た後、時間もあるので、文化の森駅の下を自転車で素通りして東進することにした。南環状線沿いにある西新浜のマルナカのフードコート(ここはラウンジのようになっていて居心地よい)に行って100円のドリップコーヒでも飲んで少しくっつぉごか、と思い。園瀬川の橋を渡りつつ東の河口付近を見ると小高い山が見える。


 「あれ、確か、津田山じゃよなぁ、川を渡った南岸土手をあの山を目指していけば津田へ出るんじゃないか」

 と考えた。津田は今まで何度か行ったことはあるが、いつも県庁前横の道路の昭和町沿いコースであった。この道路!車が多いし横からの出入りもあり、自転車で行くのは剣呑であった。しかし、もしこの土手沿いに津田まで行けるなら車もいないだろうし、川風が気持ちよかろうと、どうなるかわからないが土手沿いの道をとりあえず東進(下流に向かって)した。

 自動車は禁止の土手道なので歩く人がたまにいるくらいで自転車でここを走るのは爽快である。しばらく行くと(下流に)下水処理場があるが近代設備なのだろう、川に放つ放水路にも悪臭は全然ない。その処理場のある土手にはこんな水際の憩いの場所がある。

「こういうところでトランペットでも吹いたらさぞ気持ちよかろうなぁ」


 土手の道はやがて舗装が切れて、土むき出しの道となる。そこを少し行くと川が流れ込んでいて道が直角に曲がり、樋門とその上にかかる橋が見えてきた。その橋を津田山見えるほうへ曲がると、新興住宅地の中へ入っていった。


 そこから大通りに出ると、なんともう津田のはずれまで出てしまった(論田・小松島に近いほう)

 ここまで来たら津田の海を見ようと論田のほうへ行く橋まで行き、写真を撮る。河口が見えている。広い川だ、園瀬堤防を来たんだが、どうもこれは勝浦川のようだ。河口が見え、右は大岬(向こうに大神子がある)。右の川中には洲がありケケスヶ原(葦類)となっている。おもいっきり深呼吸したくなるような風景だ。


 橋の途中から引きかえし津田小学校前をとおり津田の港へ、ここには「波切不動尊」の堂があり地元の人々の信仰を集めている。左に少し見えているのがお堂。



 帰りも車の危うさを避けるため別の土手沿いを探しウロチョロする、何せ後で地図を見てみるとこの辺りは園瀬川、大松川、勝浦川が流れており、ややっこしい、だがともかく西へ向いていきゃぁええだろうと、どっきゃらわからん土手沿いを走った、向こうに日の丸と神社か寺の大屋根が見える、
 「あれ、護国神社とちゃうか」


 帰って地図で確かめるとやはり護国神社だった。上の写真を撮った地点は青のオタマジャクシマークのある当たり)この辺りの川ってどうも人工水路のような気がする。特に下の地図の千切川って、昔、新町川から勝浦川へ抜ける水路だったんじゃないかな(水上交通が主だったころだから江戸時代か?)わからん!

 車の少ない水辺を走ったので気持ちもよかったが、路傍の草花にも魅せられるものがある。昨今、道路沿いは帰化植物ばかりだが、土手沿いには純日本の野草花が多くあった。
 野菊

 葛の花

2021年10月22日金曜日

鴨島菊人形、今年はやってますよ

   去年コロナで中止になっていたが、コロナも下火になりつつあるためか、今年は吉野川市役所前で菊人形の展示が行われている。

 今までは臨時設置の屋内展示だったが、三密を避けるためか、屋外でこのように区切って展示していて見学者は露天で見ることになる。


 場面は三場、主題は毎度おなじみ、その年の大河ドラマなので今年は渋沢栄一の物語である。




和田島の幾何学的考察

  和田島に住んでいる人が気づいてるかどうかわからない。気づいている人もいるだろうが、案外、自分の生まれた土地の地形を鳥瞰的に見る人は少ないんじゃないだろうか。その点、外部の人間は初めていくから、一体どんな環境の場所だろうか、地形はどうだろうかとあらかじめ興味を持っている。私もその一人で、ともかく和田島に初めて行くので、行く前にまず大きな地図を見た。ほとんど三方が海に囲まれているところで大きな岬のようになっている。しかし地図を拡大してみるとみると和田島の特異な形がよくわかる。岬のようには見えない。和田島全体が丸まっちい形をしているし、また本土の方から和田島の海岸へ直進(東進)すると、普通海岸に向かって地形の標高は徐々に下がっていくはずだが、和田島の小学校あたりから海岸に向かってむしろやや高くなっているのだ。

 これはもともと砂洲が作った地形で、砂洲が円状に和田島の外殻つくり、円状の外周に囲まれた海が後に陸化するか埋め立てたなら、和田島の丸まっちい形も海岸寄りが微高地になっているのも納得できる。しかしこれは素人の推理で実際はどうなのかわからない。

 それはともかくこの和田島の形、見たときから二次曲線に似ているとブログに書いた。私のイメージとしては二次曲線の「放物線」を考えていた。しかしどうも放物線にはあてはまらないようだ。南に向かって直線に近い緩やかな曲線が放物線には当てはまらない。

 ちなみに二次曲線で有名なのは三つ、「放物線」、「双曲線」、そして「楕円」である。数学嫌いの人には申し訳ないがちょっとその三つの数式を示しておく。(円もx、yそれぞれの2乗の入った式であらわされるからこれも二次曲線となる



 さて、上図を見るとやはり「放物線」か、と思われようが、実は和田島の海岸の曲率を考えるとほぼ一致するのは「楕円」である。

 その重ね合せを見てみよう。まず和田島の航空写真地形図を下に示す。わかりやすくするため地図を90度回転させ、北が左になるようにしている。


 次にある曲率(楕円の場合は二つの焦点の距離によって楕円の大きさ部分の曲率が決まる)の楕円を重ねてみる。


 ほぼ一致する。つまり和田島は大きな楕円の外周の一部に極めて似ているのである。和田島の地形は、おそらく太古に海流や潮汐そのほかの海の潮の流れで大まかな形が作られたと思うが、それが楕円に一致するというのはいったいどういうことだろうか。偶然の一致かそれとも多くの要素(海流、土地の隆起、高潮による浸食作用・・)が合わさり、その結果として楕円に近い形になったのか。

円と楕円について
 
 何の形にでもなる形の定まらない柔らかい粘土を板の上にベタッと落とす。そして板をデタラメに動かす、力も一定せず力の方向もバラバラ、アメーバーのような粘土は板の上で揺すられアッチへ動いたと思ったら、またコッチヘ、どこへ行くかわからない動きがつづく、そうするとどうなると思います。そのうちある形を取り始めます。もうお分かりでしょう。そう球状になっていきます。このでたらめな動きを波とし、粘土を藻とすると、生まれるのが「マリモ」です。緑の美し球体ですね。

 古代ギリシァ人は円や球を「もっとも完成された完全な形」であると思っていました。その証拠として天の動きも、又この大地も円や球であることをあげました。プトレマイオスは天体の動きは円運動であるとして天文学を組み立てました。これは16世紀地動説を唱えたコペルニクスでさえ、天文学者は同じように考えました、太陽や惑星は円運動をしていると。そして地球は山脈があり多少凸凹はあるがこちらも円の回転体である「球体」であると考えていました。

 ところが事実は違ったんですね、それがわかるのはもう17世紀まじかでした。ケプラーが天体の運動は円ではなく「楕円」であることを発見しました。また地球の形も円に近いものではなく、回転「楕円」体だったのです。地図つくりの測量士さんはよく知っています。天体運動も地球の動きもそして地球の形さえも『楕円』だったのです。円に比べるとなじみ薄く、また作図も面倒ですが、創造の神は円よりも「楕円」を選んでいたんですね。この和田島が楕円に重なるというのは、楕円を好む「創造の神」にこの地が愛されているのかもしれませんね。

2021年10月19日火曜日

遍路小屋

  お遍路さんの中には宿に金をかけず、暖かいときは野宿したり、あるいは無料の遍路小屋で泊まりながら遍路をしている人がいる。きつい旅だと思うがそういう泊まり方で一巡(八十八ヵ寺)どころか数えきれないほどぐるぐるまわっているお遍路さんもいる。十年以上も前から始め、いつ果てるともなく歩ける限りはお遍路を続けるという人も少数だがいる。こう人を見ると芭蕉の奥の細道序文ではないが、まさに旅をすみかとし、旅に一生を送る人であるといいたくなる。

 だいたいどの札所でもその近くやそこに至る道筋に、地元の人々の金や資材の寄付、土地提供で遍路小屋が設置されている。そこを利用すれば宿に全く金をかけずまわることも可能である。しかし遍路小屋でも立派なものから、ただ屋根があるのみのみすぼらしい四阿のようなもの、古びたコンテナや廃車のバスというのもある。金をかけず巡礼をするということは、人々の善意やご報謝を受けながらの遍路旅であるということである。ぜいたくは言えない。本来の四国遍路はそれが王道だろう。

 恩山寺から立江へ向かう道筋にこのような遍路小屋があった。こじゃれた屋根の遍路小屋だ。しかし雨露はしのげるが吹きさらしである。この遍路小屋は前々回のブログ(10月17日)で紹介した「お京塚」の隣にある。

いつかはワイもいくぞ、四国遍路旅

信念の人

 

 彼、もう50年以上も昔、城山に県立博物館があったとき自習ブースでよく見かけた。何冊ものハードカバーの専門書を持っていた。ブースが隣り合うこともあり、どんな専門書を持っているのか気になり見たことがある。イタリア語の本、そして東欧系の言語だろう、キリル文字が見えた。そして他には言語学概論の本があった。当時私は言語学の重要性などあまり認識はしていなかった。大体、うち等の県の大学は、第一は英語、第二にドイツ語くらいで、当時イタリア語など勉強する人間は皆無だったと思う。ましてや東欧系言語を図書館で勉強しているのはちょっと尊敬に値した。(というのも私などは英語一か国語だけでも手に余っていたので)へぇ~、語学のずば抜けた才をもつひとがいるんだなぁ。と。図書で頻繁に会うのでご挨拶もしたし、数語言葉を交わしたこともある。私より3、4歳くらい上だったとおもう。

 社会に出て何か語学のスキルを活かした仕事をするのか、高等教育機関で言語学の研究をするのかと思っていたが、地元に残った。よくあちらこちらでお見かけするようになった、というのもあるプロパガンダ活動をずっとやり続けていたためである。その内容や彼の服装についてはいわないが、主張も姿も人目を引くものであった。

 そして30年くらいたった時(いまから20年ほど前か)、県庁所在地の繁華街の橋詰めで小冊子を販売していた(もちろん彼の著作)。表題をみると万国言語なんとかかんとか、書いてある。以前彼が言語学を専門に勉強していたのをおもいだし、彼がどんな冊子を書いているのか興味があったし値段も高くなかったので購入した。内容を読んだが私の頭が悪いのかほとんど理解できなかった。自分の小冊子を売っていたのはその時ぐらいでそれ以降もだいたいプロパガンダ活動を続けているようだった。

 初めて知り合って50年以上たった今日この頃、彼も私より数歳年上もあって、体がよわったのだろうか、あまりお見掛けしなくなった。気になって時々図書館(ずっと彼、図書館を利用している)のガードマンの人に、彼来ますか?と聞くが最近見ないという。病気でもなければいいが、と思っていた。

 すると一週間ほど前、彼、地方の某選挙区で衆議院議員総選挙に立候補するというニュースを人づてに聞いた。半信半疑だった。しかし三日前、駅前で自転車に乗って歩道にとまっていた彼に会ったので、確かめると立候補しますという、もう供託金も納めたそうだ。もう、驚いてしまって、がんばってね、としか言えない。二万票以上取って供託金没収されないようなんとかやります。と言っていた。ということは本人も当選するつもりはないなかしらん、プロパガンダ活動の集大成として自分の主義主張をおおやけにする最後の大舞台に出るのかなとおもったが、私があれこれ聞くことでもないし、がんばってな、応援しよるけんな、とわかれた、別れ際に主義主張を書いたパンフレットをくれた。

 このように公示日の今日からは総選挙が終わるまでは公的な人になってしまった彼だから、いろいろ遠慮会釈なく批判、避難、いや悪口までもを大っぴらにいう人もいるだろう。しかし語学、言語学を独学で専門に勉強しつつ、半世紀以上にわたって自分の主義主張を絶対曲げなかった彼に対しては私は、そのような側(避難悪口)には絶対に組しない。彼はその主義主張をもって総選挙という大舞台に立つのである。並大抵の人にそれができようか、前の私のブログでいえば、観客席側の人間が自分の意志ですっくと立って、つかつかと舞台にかけ上がり、パホーマンスをするのである。いったいどれだけの人にそれができようか。勇気、気力を持っているだけではない、没収されるかもしれない供託金300万もいる。金銭の損得や世間体を気にする人に(ほとんどの人はそうだろう)はとてもできないことである。

 公職選挙法で立候補者には必ず誰にでも割り当てられた主義主張を書いた広報掲載や、NHKテレビの政見放送がある。おそらく彼には最後の大舞台になるであろう。しっかりと自分の生きざまの締めくくりになる舞台を演じるつもりであろう。世間の多くの人が観客席側にいて一生を終えるなか、彼は一時的とはいえ大舞台にたつのである。

 彼の政治的な主義主張は(選挙用のパンフに書いてあるが)とても私の賛同できるものではないが、彼の半世紀以上にわたって曲げなかった(ほとんど人からは無視されるか陰口をいわれた)信念はすごいと驚嘆する。そのことだけでも私のささやかな一票を彼にささげたいと思うが、私の所属する選挙区でないのでそれはできない。

 彼のこと半世紀以上前から知っているといったが、それは多様な言語学をコツコツ勉強する姿や半世紀にわたって続いてきた政治的な主張のみである。彼のもっとも深遠な部分の人生観や、そして彼ならおそらく持っているだろう自分独自の哲学などは全く知らない。今まで(50年間、そして以前冊子を購入した時など)の何かの機会にそのようなことを彼と話してみたかったが、もうそれはできないだろう。彼、歳とともに、特に古希を過ぎて、もともと贅肉の少ない人ではあったが、痩せて、顔かたちも、深山や、大瀧、で苦行をしたり、高山の峰々を回峰修行する僧のような近寄りがたい雰囲気になってきた。徳の高い阿闍梨のような雰囲気を身にまとう彼にそんな話はできない。

 ところが、その彼、もっとも世俗の極みであるような政治家を目指すのは、矛盾があるのではないかなとも思ったりする。徳の高い高僧と見える外面的雰囲気は必ずしも内面を表すことはないから、高徳の僧のよう、とみる見方は私の独断的な思い込みであろうか。しかし、ギリシアのプラトンのよれば「政治学」は哲学やそのほかの多数ある実践学の最高に位置する学問であり、もっとも最高の政治形態は哲学者が統治する「哲人政治」といった。現代あまりにも世俗にまみれた政治である故、政治すなわち世俗の極みのようなイメージを持つが、本来はプラトンのいうような哲人政治が理想であったはずである。彼もそのような政治の理想を抱いて立候補するのかもしれない。

 なんとか彼に賛同支持する人が有効投票者数の10%をこえて供託金だけは没収されないことを願っているが冷静に考えるとむつかしい。清貧にしか見えない彼から300万没収するのは見ていてつらくなる。

2021年10月17日日曜日

この落差、ふるえおののく

  今日の雨ですっかり空気がいれ変わってしまったよう。さっき図書館に来たが(午後9時まで開館している)、外は少し風が吹いて、夜気は、老骨にふるえるような寒さあたえる(若い子は薄着で駅前をウロチョロしているのでそんな感覚はないのだろう)。昨日の昼は自転車をこいでいて汗をかいたのにたった一日でこの変わりよう。一週間予報を見たらこれから一日一日とますます気温が下がるようだ。そして数日後には最低気温がなんと10度を下回っているではないか。今日でもこれだけ寒さを感じているのにこれからが思いやられる。歳ぃ行くと寒さが特に身にこたえる。暑いほうがましだ。

 今、図書館からブログをアップしている。この図書館のパソコンは一時間の制限付き、またUSBもSDカードも端子を断っていて写真、動画をアップできない。ところが逃げ道はあるもので、パソコンのディスクの読み取りはできるので、ディスク録画の写真はアップできるようだ。家の古いパソコンでわがディスクに必要な写真や動画を録画し、図書館へ持ってきたらブログに文とともにアップできる。

 写真はこの通り(立江道の遍路の伝説地)


 動画はどうかな?ユーチューブの貼り付けはできないのでディスクから直接動画をブログにアップしてみた。図書館のパソコンではブログの動画は見られないが一般のパソコンではみられるかな。(釈迦庵の池と竹藪の動画)


前のブログ・釈迦庵・仏足石の修正追加

 前のブログで小松島の田野の「釈迦庵」について書いたが、その時はいくつかの観光パンフレットとそれらしいネットの記事をいくつか読んだ知識に基づいていたが、あとになって調べると足りないところ、それ以外にわかったことがあるので再び「釈迦庵」について書きます。

 まず直接行って見る前に釈迦庵は廃寺という固定観念があった。だいたい私のような素人の歴史好きや古いものを懐かしむ気持ちのあるものは廃寺と聞くと、かなり昔(明治以前)に無くなり、寺所蔵の貴重な文化財が散逸してしまったという大変残念な状況を思い出す。奈良飛鳥には古代の廃寺跡がたくさんあり、また身近ではウチの近くにも中世の廃寺跡・河辺寺遺跡がある。それらは見るたびに、もし今残っていれば貴重な文化財になるのになぁとの思いを強くする。そのため釈迦庵を訪ね、寺院様式の泉水池などを見るとこれは大規模な寺があったんじゃないかとか、動画を見てもらったらわかるが池の向こうの磨崖には何か磨崖仏か、仏の名号、梵字があったんじゃないんかな、と勝手に思うことになる。


 しかしそのあとで調べると、「廃寺」であったというのはどうも私の夢想というか妄想に近いことわかった。だいたいパンフにも以前発行された小松島市史にも「廃寺」なんどという言葉なぞ出てこない。この時点で私のブログでいかにも惜しまれるようなニュアンスで用いていた「廃寺」というのは私の思い込みのようである。そもそも昭和56年発行の小松島市史には釈迦庵の存在を現在形(・・建築様式を保ち、・・がある。)で書かれていて、同時に釈迦庵の写真も(不鮮明だが)載っている。左がそうである。だがこれって?前の私のブログで弘法大師伝説の一つである襁褓をおさめた「おむつき堂」のことじゃないのか?下がそのお堂である。

 瓦や壁は改修されているようだが横にある大きな木やお堂全体の形から、40年前の小松島市史に載っている写真とみてよい。ということはこの時点で釈迦庵は現存すると書かれているのはこのお堂のことであり、ここを釈迦庵と呼んでいたのである。だから40年たった今でもこのお堂を釈迦庵と呼んでいるのだろう。とすると大師伝説の「お襁褓(むつき)堂」はどうなるのだろう、二つは一緒のものなのか?この疑問は今も残っている。だれか知っている人がいたら教えてください。

 そもそも考えると名称は釈迦であり「寺」でもなく「堂」でもなく「庵」という言葉を使っている。それだけでも「寺」のような規模は想像できない。荒廃しているが竹藪に侵された敷地(池も含む)は広い。資料によるとここは昔は人が住んでいたことが知られている(恩山寺から引きこもった僧侶が住んだともいわれる)。そのため数棟の建物が昔はあったのかもしれない。また別の文献によればこの釈迦庵では遍路道にあたるため昔は巡礼のための宗教的な物品も販売していたようでもある。ともかく「庵」と「寺」の使い方も間違っていたようで釈迦庵は廃寺ではなかった。

 しかし寺ではないにしても江戸の寛政時代には、この釈迦庵はかなりな重要な宗教施設であった証拠がある。もう少し釈迦庵に関する資料がないかと、地元である小松島図書館に出向き司書さんの協力も得ながら郷土資料を探した、しかしこの釈迦庵に関する記述は前のブログでも書いたと思うがかなり観光的にもマイナーなものであるためか、取り上げられている分量は驚くほど少ない。そうかといって文化的価値のある釈迦庵の遺物は何もないのかというとそうでもないのである。(ただ今は散逸しているがルーツは昔の釈迦庵である

 私があまり熱心というか、その実、ドびぃつこかったのか、小松島の宗教的な文化財の写真が載っていいるA4版のりっぱな冊子(40pもある)を、非売品ですけどまだ冊子に少し余裕がありますので、よかったら差し上げますといってもらった。小松島教育委員会発行の『小松島の文化財』である。これが今回私のブログのネタに大変役立った。以下はその冊子の写真、文章の引用から述べます。 

 まず釈迦庵敷地にある私の趣味の注意を引いた「仏足石」の文字であるが、文字が磨滅したり石が割れていたりで、前回のブログでは一部しか私には読めなかったが、この冊子に解読可能な拓本があった。そのためこの仏足石に刻まれた刻文がわかった。下がその拓本である。


 右文字列『三国傳來佛足跡之圖〇』、左文字列『薬師寺所珍藏之者也』がわかった右文字列の最後の〇は読めない。だれかこの文字わかりますか?また仏様の足裏のめでたい奇瑞の御印(相)は私の写真ではよくわからなかったが拓本ではかすかではあるが模様が見える。法輪のようなものが見えている。

 また同じ江戸時代寛政年間、この釈迦庵に所蔵されていた重要な文化財に「両界曼荼羅」がある。ところが今は前のブログを見てもらったらわかるように庵ともお堂ともいえるような小さな建物がぽつんと一つだけ建っている。とてもそんなたいそうな両界曼荼羅が所蔵されているような場所ではない。その両界曼荼羅(胎蔵界、金剛界と二枚ある)はいまはそれぞれ別の所蔵となっている(胎蔵界は市内地蔵寺、金剛界は個人所有)。

 その二枚の曼荼羅がこの釈迦庵由来のものであるのがわかるのは、この頂いた冊子の曼荼羅図とともに載っていた図の裏や掛け軸にかかれていた古文書からである。

 まず胎蔵界曼荼羅(右)金剛界曼荼羅(左)を見てもらおう(ほぼ4m強の正方形に近い)


 金剛界曼荼羅の古文書を見てみよう


 そして胎蔵界曼荼羅の古文書である 


 漢文(和風)であるため知識の乏しい私などは読みにくい。それでも大意はわかる。特に黄色の線で引いたところに注意してほしい。どちらにも「高雄」という言葉が出ているがこれは京都の高雄山神護寺である。弘法大師空海が9世紀初め唐より持ち帰った両界曼荼羅のオリジナルは残っていないがそのもっとも早い時期の第一の模写である曼荼羅がこの神護寺にあるのである。つまり空海のもっとも所縁のある曼荼羅を模写しようと思ったら高雄山神護寺をもとにすればよいのである。当然宗教的な価値高い。それを寛政年間に金剛界と胎蔵界曼荼羅を写して作り、同じ黄色の線で示すように「釈迦庵」におさめられ保管され使用されたのである。

 模写とはいえ空海のオリジナルに最も近い高雄山神護寺の両界曼荼羅に似た曼荼羅というだけでもかなり文化的価値は高い。そしてこの両界曼荼羅は真言密教では最重要な儀式の時に使われる(灌頂など)、真言宗の寺とはいえどこの寺にも手ンごろ易くあるものではない。それが江戸の寛政期にこの釈迦庵にあったということは、ここは真言宗のかなり重要な宗教的な儀式の行われる庵であったと思われる。だから今は無住のみすぼらしい庵になっているが当時は幾人かの僧侶や修行僧がいてまた幾棟かの宗教的な建物もあり、修行者や信者で賑わっていたことであろう。それは珍しい仏足石や六億万遍にも達した光明真言の記念石塔があることでもその宗教的な賑わいは想像できる(光明真言塔も寛政四年である)。そののち、廃れるとともにこの釈迦庵にあった両界曼荼羅も別の所有者に帰するようになってしまった。釈迦庵は「廃寺」ではないけれども往年の宗教的な賑わいは全く消滅してしまったといっていいだろう。

 仏足石を直接見、手に触れ、そしてこの釈迦庵にそもそもあった両界曼荼羅の上図の絵を見るにつけ思うことがある。

 昔の庶民は仏教の高邁な思想や教えをよく理解していてお参りしていたわけではない。易行門(要するに小難しいことはナシに易しく救われる)のような浄土宗や浄土真宗などはひたすら阿弥陀を念じ、名号を唱えることで済度されるといわれる、真言密教の場合はちょっと違う、確かに南無大師遍照金剛とか光明真言(オン、アボキャ・・)は念仏に似ているが、同じ作用をもたらすものではないと言える。弥陀が極楽から光速ジェットに載って迎えに来るのではなく、真言宗の究極の到達は「即身成仏」(そこでそのまま仏になる)である。そのためには三密に基ずく加持、観想、あるいはその他の修行が行われた。また他力っぽいが阿闍梨による加持祈祷もそれに至る道程として考えられる。

 しかしここ四国は真言宗が盛んな土地ではあっても、やはり庶民には三密だの修行だのは難しいし、専門僧に頼んだ加持祈祷もそうそうできるものではない。やはり易行(誰でもできる易しい行い)が求められる。その中でもっとも効果ありそうなのは「仏様」に直接触れることである。普通はお触り地蔵をのぞいて、なかなか本尊には手を触れさせてはくれない。その中で平たい自然石のような石に刻んだ仏足石は直接手に触れ祈願することができる。仏足石ではあっても有難い仏様に直接触れるのと変わりがないと思っていた。「触れる」ということは六字名号の念仏と同じように易行の行いと言える。(そうそう、嫌な思い出だが、去年滑くれて足をベシ折った太龍寺に参拝したとき、五鈷杵か金剛杵に直接触れられる礼拝所があった。これも「触れる」ことによる祈願であろう。

 仏足石などはかなり庶民的な信仰の対象だが、昔この釈迦庵にあった両界曼荼羅はそのような庶民的な易行とは違う。両界曼荼羅の使い方は即身成仏を求める修行者に対するものである。もちろん庶民も御拝見くらいはできたがやはり密教の修行において用いられるものであった。曼荼羅を用いる密教の儀式はたいへん複雑で深遠なものであるためとてもブログなどで書くことはできない。

 この釈迦庵において仏足石と両界曼荼羅の二つがあるのは、お釈迦様の涅槃後、初期仏教からやがて仏像を作る仏教となり、そして大乗仏教となりさらにそれが最終段階で密教になるというインド仏教史の最初と終わりの形態を見るようで面白い。初期仏教では礼拝の対象としてブツダそのものを表すのは恐れ多いと考えたのか、菩提樹や法輪あるいは仏の居ます座(仏足石)などがその象徴と考えられた。すなわち仏足石は仏像が現れる(ガンダーラで)前の仏教の礼拝形態であると言える。そして数百年たった紀元頃インド西北部(今はパキスタン)のガンダーラで人身の形のブツダ像が作られるようになり、いろいろな種類の違った仏様も作られるようになった、一体ではなく、三尊(三体)となったり、あるいはもっとたくさんのものが並べられたりした、そして最後は密教の曼荼羅宇宙のように大日如来を中心として宇宙にたくさんの仏が存在するようになった。その大日如来を中心とした宇宙に遍在する無数の仏・神の世界を表したのが曼荼羅である。

 もう今はないが江戸期にはこの釈迦庵では初期仏教の礼拝対象としての仏足石がある、それが発展しやがて仏像がつくられ、大乗仏教となり千年かけてそれは終着の密教に行きつく、その密教で視覚化されたのが曼荼羅であった。ここでは仏教のはじめと終わりの二つの聖物に触わることができ、また見ることができたのである。これも真言密教の、古い新しいを問わず、インドも含めた神やさまざまな仏をも包含する、幅の広さだろう。

 釈迦庵を見学し、仏に手を合わせながら、無慈悲な殺生を思わずしてしまい、心が痛む。藪に囲まれ、丈高い雑草も生い茂るなか、蜘蛛の巣を払いながら、あちらこちらを見た。その時、首筋に違和感を感じたので手で払うと、大きな女郎蜘蛛が私の手から細い糸でぶら下がっている、ヒェ~といいながら思わず振り払い足で踏んでしまった。殺生禁断の境内でひどいことをしたと悔やまれる。

 エピソード

 曼荼羅を写真や本でなく直接実物を見たのはもう30年も昔、場所が四国レオマ世界村にあったチベット寺院か、愛知県の世界村かどちらか忘れたがチベット仏教系の曼荼羅であった。確か砂絵のようであったのを記憶している(当時は仏教に今ほど関心がなかった)。

 「へぇ~、チベットにも密教があるんだ」

 と思ったが密教史を勉強するとインド仏教の最終到達形態である後期密教の伝統を受け継ぐのは日本ではなくチベット仏教のほうだ。ちなみに空海のもたらした密教はそれより一期前の中期密教であるといわれている。ただし、日本人の感性には中期密教でよかったと思われる。後期仏教となれば二体の仏さんのお姿が合体して、ほとんど浮世絵の春画のようなものもある。まぁ日本にもお聖天さんのように二体結合の仏像もあるが、チベットのそれはあまりに赤裸々で礼拝どころか初めて見ると周りを気にし、赤面してしまう。

2021年10月15日金曜日

釈迦庵跡と仏足石

  和田島へ行ったとき帰りし近くをかすめて通ったが、行けなかったのが「釈迦庵」である。機会を改めて再び行くぞと思い、それが気がかりになっていた。ぬくい初秋の天気も今日までと聞いたので今日その「釈迦庵」へ行くことにした。自転車は文化の森駅に置いてあるので、そこからバイパスを通り、恩山寺入り口には一時間ちょっとびゃぁでついた。近くにある義経像を真近で見てから、自転車を置き、旧遍路道を歩いた。

 「釈迦庵」はどちらかというと地元の観光協会も積極的には薦めないマイナァーな名所旧跡である。なぜかというと「釈迦庵」というからには寺院ではないにしてもお堂か何か昔から現代まで伝わる建物があって然るべきだと思われようが、じつは「釈迦庵」は廃寺なのであって今はない。しかし廃寺とはいっても中には(鴨島の河辺廃寺跡などのように)礎石を配置し、旧境内は芝生などで整地されているところもあるが、ここは周りはうっそうとした竹藪の中にあり、多くの竹が寺の敷地へ侵入し放題のまま放置されている。そのため廃寺がどのような伽藍配置であったかわからなくなている。ただ寺院の庭園だった思われるところにある池の広さや(文献には鶴亀池との名が出ている)池にかかるいくつかの飛び石などから昔はかなりな規模の寺であったのだろうと推察される。

 恩山寺から立江の方への昔の遍路道は、源平合戦の時代、屋島へ向かう義経が通った道と一致するところがある。今はこのような竹藪が多い山の細道である。


 義経が敵の伏兵に備え、弓矢を携え用心しながら通ったところから、この山路の坂には恩山寺に近いほうから「弦巻坂」(つるまき)、「弦張坂」(つるはり)と名づけられている。下の写真は「弦巻坂」で道ばたに石地蔵が祀られている。


 なにかの由緒ある石地蔵だろうか、そばの石柱に「花折地蔵」と書いてある。優美なネェミングである。地蔵の右はお不動さんのようだ。


 そしてこの「弦巻坂」を上り「弦張坂」を下りたところ(恩山寺からいくと)にあるのが「釈迦庵跡」である。そこに今は弘法大師むつき堂があり(奥に見えている)、入り口付近に仏足石がある。(木柱には弘法大師おむつき云々、とある)


 中に入るとすぐ仏足石が目に入る。


 磨滅や苔によって見にくいがお釈迦様の二つの足裏の刻印が見える、長方形に近く扁平足である。そして文字も見える。右の方の文字は『三国〇来佛足跡』と読める。


 左の文字は読める文字が少ないが『薬〇寺所〇〇〇者〇』と読める。



 説明板によれば上の仏足石は江戸初期に作られ、四国では大変珍しいものであるという。

 仏様は体に生まれつきの「奇瑞」があるといわれている。足裏にもその奇瑞があり一般的には右ようなものであるという。(魚の目やタコじゃないよ)しかし、上の仏足石は磨滅が激しいのかそのような奇瑞はよくわからなかった。

 ここでちょっと一つの挿話を。仏様の体に生来からある奇瑞は頭上、頭髪から始まってつま先までいろいろある。三十二あり三十二相といわれる。仏教関係者でもその詳細を言える人は少ない。ところが現代の十代の若者がその三十二相の主なものを知っていたのには驚いた!どこで覚えた?と聞くと漫画の「セイントお兄さん」というブッダとイエスが現代東京の下宿で仲良く暮らす漫画があり、そのブッダの特異な体の特徴が漫画であらわされているというのだという。へぇ~、と感心した。しかしブッダとイエスというあり得ない異色のコンビが現代で暮らすってそれ、もしかするとコミカルなものか、と問うとそうだ、という。調べるとわが図書館に全巻そろっていたので読んだ。確かにお笑いの面白さだが、中に盛り込まれたブッダやイエスに関する知識の多さに驚いた。(もっともこれは手塚治虫の「ブッダ」の漫画がベースになっているらしい。)ブッダやイエスの生涯の勉強や、仏教やキリスト教の雑学のええ教材になるわ。

 仏足石の横には江戸期に大流行した(明治までその影響は続く)「光明真言塔」が建っている。信仰の証であろうかそれともご利益を願ってだろうか、オン、アボキャ・・の光明真言を一味同心してみんなが多数唱える。百万遍とかが多く、それを記念して光明真言塔を建てるが、この光明真言塔は何と六億遍である。すごい!のべ回数としても何人の一味同心する人がいたのだろう。裏を見ると「寛政四年」の年号が刻まれている。18世紀末である。


 そして小さなお堂の右の竹藪の中にあるのが釈迦庵跡とその池である。こちらは動画で見てください。旗山の義経像の次に釈迦庵跡が出てきます。


 恩山寺から立江寺への道を行きつ戻りつしていると、名古屋から来ている同年輩の歩きお遍路さんと三回顔をあわせた。挨拶したり一言二言話しかけていると三回目には、無人販売所で買ったミカンが多くて背負うのに重いのでよかったら召し上がりませんかといって10個近く頂いた。阿波の住人であるこちらがお接待しなけりゃならんのに、お遍路さんの方からお接待された。ありがたや、南無大師遍照金剛