2019年7月31日水曜日

ミロクさまのはなし その1

यु 弥勒菩薩さんは未来仏と言われている。なんで未来仏かというと、仏陀になることが将来約束されているからであるが、その実現の日は、なんと56億7千万年の後、気の遠くなるような長さである。56億7千万年と言葉で言うのは容易いが、その長さについてちょっと考えてみると、この我々の住む太陽系の年齢は46億年くらいであるといわれている。生命の歴史はもちろんそれ以下である(36億年くらいか)、生命は単細胞生物として生まれ、以後進化を繰り返し、無脊椎動物から脊椎動物、魚から両生類そして恐竜~哺乳類~猿~類人猿~人間と気の遠くなるような長い生命の歴史である。そのことから考えてもこの56億7千万年は途方もない長さということがわかる。

 そんなはるか遠い未来に救済仏として出現しても果たして生物などこの世に存在するだろうか、太陽系の余命はあと55億年くらいだそうだがそれまでに太陽が膨張して地球を飲み込むから少なくともこの地球に生命は存在はすまい・・・とはまあ弥勒さんを信仰していない人の言うことである。弥勒さんを信仰している人はその肉体は死んでも魂は別の世界に再び出現すると信じている。どこの世界に出現するかは人によって違ってくるという。はるか上方の天上世界の天人に転生すれば今よりもはるかな寿命を持つことになる。下方の畜生道に生まれれば人よりはるかに短い寿命と恐ろしい弱肉強食の世界がある。魂は決して滅びることなくいろいろな世界の「生」を転生しつつこれを無限に繰り返すことになる。

 だから弥勒さんを信仰する人にとって56億7千万年の後というのは自分に関係のない話ではない。まさに56億7千万年の後、転生を繰り返した今の自分の魂は何らかの世界にとどまって、救済を待っているかもしれないのである。天上界の天人に生まれてもやはり輪廻は免れないのである。天人五衰もあるし、苦悩もあるのである。天人ですらもそれである、ましてやその下の五道(人間界、修羅、餓鬼、畜生、地獄)に生まれた時の苦難はいかほどとなるか。そんな輪廻の桎梏から救ってくれるのが56億7千万年の後に現れる弥勒さんである。

 詳しく知るには弥勒菩薩さんについて書いてある「お経」を読むのが一番早いだろうが、「お経」を読んで理解するなど、英語を読むよりむつかしい、ほとんど古典ギリシァ語を読むようなものである。もちろん私にはそんな能力もない。図書館においてある弥勒菩薩についての本から得た知識でしかないが、弥勒さんの未来仏の性格は上にのべたようなものである。ちなみにどんなお経があるか経の種類を調べると弥勒については三部経がよく知られているそうだ。
 『弥勒大成仏経』 鳩摩羅什訳
 『弥勒下生経』 竺法護訳
 『観弥勒菩薩上生兜率天経』 沮渠京声訳

 鳩摩羅什といえば確か高校の時の世界史で聞いた名前だ、中国の魏晋南北朝時代の仏僧でインド人の血を引く西域出身の人だ。

 弥勒さんについての予備知識はこれくらいにして、先日、実際に弥勒本尊の寺に行ったが、その寺で何かもっと弥勒はんのことについて知る手掛かりはないか、撮ってきた写真を詳しく見てみた。

 本堂の上に額がかかってる。本尊彌勒大菩薩とあるから、確かに弥勒さまだ。礼拝のあと格子の隙間から覗いてみたが本尊の弥勒菩薩様の像は見えなかった。それもそのはず、後で納経所にいた寺の人に聞くと秘仏だそうで誰にも見せないとのことであった。額の左上には弘法大師御作とあるが、これは四国の寺の縁起によくあるもので、お大師お手植えの松とか、お大師さんが錫杖で突いて噴き出た泉、等々のように真実とはいいがたい。秘仏だから学術的な調査の対象となったこともなく、もちろん写真もないので仏像の様式から作られた年代も推定できない。

 我々弥勒菩薩像といえば飛鳥時代に作られた片足をもう一方の足にのせ、片手を頬のあたりに持ってきて、瞑想するような形の仏、いわゆる『半跏思惟像』の姿とすぐ結びつけるが、調べると弥勒像はそのルーツ、そして飛鳥よりもっと古いインドや中国の弥勒像を見ても半跏思惟像は一般的ではない。日本でも飛鳥奈良時代に半跏思惟の弥勒像がつくられるが奈良以降は半跏思惟像の弥勒は作られなくなり坐像か立像となる。下は飛鳥時代の半跏思惟弥勒菩薩像(広隆寺)である。

 この徳島で公開している弥勒菩薩像を探すと鳴門大麻の東林院の弥勒像があった。本尊ではないが寺の重要文化財となっている。この弥勒像は坐像で手の形は(印相)は転法輪印(てんぽうりんいん)とよばれ両手を胸の高さまで上げ、親指と他の指の先を合わせて輪を作る。手振りで相手に何かを説明している仕草を模したもので「説法印」ともいう。「転法輪」(法輪を転ずる)とは、「真理を説く」ことの比喩である。下が鳴門大麻の東林院の弥勒像、平安後期、木造 像高 96cm。
 秘仏である常楽寺の弥勒像はどんなものかわからないが半跏思惟ではないだろう。おそらくこの東林院の弥勒像とあまり変わらないのではないだろうか。

 賽銭箱の横に弥勒菩薩さんの真言のプレートが貼ってある。この真言を唱えながら弥勒さんを拝むのである。下の写真がそれ

 『おんまいたれいやそわか』となっている。これを少し分解してみると弥勒菩薩さんのルーツであるインドの弥勒菩薩さんの名前が浮かび上がってくる。古代インド語で弥勒菩薩さんのお名前はマイトレーヤである。真言の文句を見ると、最初の「おん」と最後の「そわか」は真言の接頭句と接尾句であるのでこれを除くと「まいたれいや」まさに弥勒様のお名前を古代インド語で呼びかけていることになる。

 常楽寺の大師堂の横にはこのような石碑が立っている。ちょっと読みにくいが「上生佛 弥勒慈尊」と彫ってある。

 次のブログではこの「上生佛 弥勒慈尊」ということばの意味について考えてみる。

2019年7月29日月曜日

弥勒菩薩が御本尊の寺

 四国八十八ヶ寺の中で唯一御本尊が弥勒菩薩様であるというお寺にお参りに行ってきました。第十四番札所常楽寺です。

 今日は昼過ぎに最高気温33.5℃、自転車に乗っていったので途中、水分補給と汗を拭きとるため国府観音寺の舌洗い池で休憩した。水場で木陰や東屋があり一服にはもってこいの場所だった。

 常楽寺全景

 百日紅の花があちらこちらで見られた。真夏の花だ。

 このお寺の弥勒様についてはまた次のブログでも話題にします。

マンマイサン、アン

私が小さいころから親しみのある仏さん(仏像)といえば、おやくしさん(薬師如来)、お大師さん(弘法大師)、観音さん(観世音菩薩、これにはいろいろな種類がある))、おっぞうさん(地蔵菩薩)、おふどうさん(不動明王)などがあげられる。仏さんを認識したのは何歳くらいからだろうか、ワイの生まれたころはまだまだ地域の仏さん(路傍の石仏が多い)に対する畏敬尊敬もさかんであった。私が祖父母に育てられたこともあって道端にある石仏がめに入るたび祖父母に促されて手をあわせ頭をたれ、お祈りの形をさされたものだ。ウチラのへんの幼児方言というのだろうか、祖母が、幼児の私に向かって(最古層の記憶だから2歳か3歳ころ)

 「ありがたい、ほとけさんやからな、マンマイサン、アンしょ~~~ぅな」

 と合掌礼拝を促された。それでわたしも

 「マンマイサン、アン」

 といいながら小さな手を合わせ、祖母のするように拝んだことをかすかに覚えている。この幼児語の「マンマイサン、アン」だけは妙に記憶が鮮明でハッキリと覚えている。このマンマイサンアンも極めてローカルな幼児の言葉でそれも70年も大昔だから、今も残っているかどうか確かめたことはない。おそらく消え去っているのじゃないだろうか。

 マンマイサン、アン、と二つに区切ったのは礼拝合掌でもその区切りがあったからである。マンマイサンは対象となる仏さんに対する尊称呼びかけ(幼児語としての)。そしてアンは頭をコックリとたれ、祈りの短い言葉(私なりに解釈すればまだ言葉も満足に出ない子供のための短い「真言」をまねたもの)。実際その通り幼児の私は、仏さんの前で手をあわせマンマイサンと呼びかけ、アンと言いながら首をコックリしたのである。光明真言は「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」ととなえるが、この最初のフレーズが「オン」最後が「ウン」となるが舌足らずの幼児が発音しやすく「アン」となったのだろう。これでも何となく真言の最初あるいは最後の締めくくりっぽく聞こえる。この「マンマイサン、アン」が仏さんの称名も念仏も唱えられぬ幼児専用の祈りの言葉であった。もっとも幼児にとっては仏も神も礼拝対象としては一緒だった。ただ神社の前では祖父母のするようにパンパンと柏手を打ったことは覚えている。逆に仏さんの前で柏手を打つと、ここはパンパンしたらあかんのでよぉ、といわれたがその違いはよくわからなかった。

 やがてかなり言葉も話せるようになり理解が進むと、マンマイサン、アン、をしながら何か「祈願」をすればかなえてくれると教えられた。それでマンマイサンアンに「・・・がよぉ~なりますように」とか付け加えた、まだまだ黙祷はできず必ず声に出した。同時に、なにか仏さんや神さんに悪いことをすれば「罰があたるんじょぉ」とも教えられた。神や仏は畏敬すべきものであることも何となくわかってきた。私が2~3歳くらいのことだった。

2019年7月22日月曜日

信貴山縁起絵巻にみる鼻 
 中世説話に基づく芥川龍之介の短編『鼻』をご存知でしょうか?中学や高校の国語のテキストに良く取り上げられているのでご存知の方も多いと思います。知らない人はここクリック

 中世説話の話とはいえ、実際にこのような鼻を持つ僧侶がいたので「説話」として後世に残ったと思われます。大袈裟なように思われましょうが、外科手術も発達していない中世、良性腫瘍、こぶ、何らかの皮膚疾患でこのように著しい外見の変異をきたした人は多かったと思います。

 童話で『こぶとり爺さん』というのがありますね。頬からブ~ラブラ、今だと手術で取ってしまいますよね。でも昔はそうではなかった。放置さざるを得なかった。だから、この「鼻」の話もあり得るわけです。

 今だと病的に巨大化した鼻をそのままにする人はまずいないでしょう。鼻というのは顔の中心で最も目立つものです。病気ではないが巨大で特徴のある鼻を持つ俳優にジェラール・ドパルデューがいます。
















 
 このような鼻でもかなりインパクトがあるのにまして説話のような僧侶がいたとなると大変な噂になるでしょうね。そしておまけにこのような食事の仕儀となれば・・・・・(下手な絵ですがワイが描きました)

 これほどではありませんが、先日、信貴山縁起絵巻を見ていて、その同じ僧侶で見事なというか、一人は明らかに何か鼻の病気のようなのですが、特異な鼻を発見しましたのでご紹介します。

 この僧侶は単なる立派な大きな鼻ですね。ジェラール・ドパルデュー並みのインパクトがありますね。
  下の僧侶は加持祈祷を一心不乱にしているんですが大きな膨らんだ鼻をご覧ください。ユーモラスですね。拡大するとますます・・・

2019年7月17日水曜日

今日から祇園祭

 蔵本の祇園神社(八坂神社)の今日の様子、日中なので誰もいない。賑わうのは日が沈んでから

 この参道に夜店が並ぶ。

 本殿横には特設ステージもできている。今夜から奉納大演芸会が開かれる。今夜は地元中学生のブラバン演奏と地元のオッサンオバはんらののど自慢大会がある。ステージの紅白の幕の後ろは共同墓地、賑やかな夜のお囃子に一か月早いが亡者の霊も浮かれ出てくるかも。
 今夜から21日(日曜まで)いろいろな催しがある。土曜日は古武道の「剣舞」たら言うのがある、見たことないので見にこようかなぁ。

 最近、古代のインド史をお勉強しているがこの祇園祭の名のいわれとなったのは古代インドでお釈迦様やその弟子そしてつき従う大勢の修行者のため、ある長者が土地と建物を寄進してつくった修行道場『祇園精舎』に由来しているということを最近知った。この「祇園精舎」という名はほとんどの人は聞いたことがあるはずである。もちろんワイもそう。高校古典で必ず習う平家物語の一節「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり云々」というのは誰しも頭の片隅にインプットされていよう。

 祇園というのは古代インドにあった修行道場いや僧院といっていいかもしれない祇園精舎が語源だったのである。でも千年近くもの大昔の日本でどこにあるのか定かでないはるかかなたにある天竺国の祇園精舎ってどれだけイメージできたのだろう。平曲に取り入れられるくらいだから何らかの仏教施設としてのイメージはあったのだろうか。当時の人の祇園精舎に対するイメージを知りたくて同時代の文献を探すと、その「祇園精舎」に関する由来の話が見つかりました。平曲より少し古いが有名な「今昔物語」にありました。高校の古典ではこの今昔物語は本朝部の世俗の巻が有名で扱うのはこちらばかりなので知られていないのですが今昔物語の第一巻は天竺部なのです。その一巻の第三十一話に祇園精舎を寄進した長者の話が述べられているのです。『須達長者祇園精舎を造れること』というのがそれです。大昔に遡れば遡るほど仏教信仰は盛んで特に仏教説話はもてはやされます。中世の日本人のほうが「祇園精舎」については高校の古典で名前だけ知っているわれらよりずっとよく知っていて、その何たるかをしっかりイメージできていたのである。その今昔物語の説話には祇園精舎には大伽藍や多くの堂舎、もちろん生活に供する建物も含んで建ち並び、そこにはブッダをはじめ多くの弟子が起居し、そのほか500人以上の修行者もいたとあります。もちろん衣食も長者によって供養されていました。その長者(インド名はスダッタというが今昔物語の日本風の発音では須達・すだっ?になっている)がこの祇園精舎を造るにあたってその土地を手に入れるいきさつが面白いのだが本題とは関係ないので興味のある人は巻一、三十一話を読んでください。

 このように中世人には直接知らなくても超有名だった祇園精舎には当地の(インド)の多神教の神様の一つが守護神としていました。それが日本へ伝わってきたのが「牛頭天王」、これがまさに祇園社の神さまでした。そこで別名祇園神とも呼ばれていました。ここから祇園神社となり、祇園祭という名になったと考えられています。下が「牛頭天王」、左は日本に江戸時代来たケンペルが描いたもの

 こんなに中世以来名前だけは有名だった「祇園精舎」ですが、江戸時代が始まる近世になっても誰一人として「祇園精舎」を見に行った人がいません。お隣の中国なら1500年以上も前から法顕だの玄奘(三蔵法師)だのがはるばる天竺まで行って「祇園精舎」を見てます。日本人も見たかったに違いありません。特に仏教を篤く信奉する人ならね。でも天竺ははるか遠い。中国なら地続きだから理論的には這ってでも(?)行けるが、海国日本では海は歩けない!でも待てば(500年びゃぁも)・・・とうとうチャンスは訪れます。江戸時代のごく初期、まだ鎖国令が出されておらず、南海貿易に大勢の日本人が船を仕立てて南方の海に勇躍していきます。貿易の利だけ求めたのではありません、もちろん大部分はそうでしょうがチョッぴりロマンもあったはずです。「祇園精舎」に行くという夢もその一つでしょう。しかしその場所といっては天竺にあるということ、それと玄奘の「大唐西域記」や法顕の「仏国記」の紀行文しかありません。当地のインドでも仏教が廃れて500年以上たちます「祇園精舎」は荒廃して廃墟、埋もれているかもしれません。地元のインド人に聞いてもわかりゃぁせんのに果たして日本人が「祇園精舎」にお参りできるのかはなはだ疑問ですね。

 しかし、この近世の海外雄飛期に「わいは祇園精舎に行ってきたわ!」という人がぞくぞく現れます、いやもとい、ぞくぞくは言い過ぎ、何人かが行きましたと体験談とともに話し始めました、ホンマやろか?まだ20代だった徳川三代将軍家光も「祇園精舎」にロマンを感じたのでしょう、自らが(行けまへんが)命令しています。長崎のオランダ語の通訳・島野兼了(嶋野兼了)に仏教の聖地「祇園精舎」の視察して来いと。島野兼了はおそらく行ったという日本人の体験談をもとに天竺(インド)の「祇園精舎」といわれるところまで行って視察してきます。別の日本人は「わい、行ってきた証拠に、自分の名前石壁に彫り付けたわ」とかいう人もいました(ずっと後その落書きが発見されている)。この島野兼了は祇園精舎といわれる遺跡に落書きは残しませんでしたが行った証拠に「祇園精舎」の絵地図を残し、その模写が今に伝えられています。それが下の図、『祇園精舎図』です。

 しかし明治になってどうもおかしい、ということで詳細にこの図や当時行った人の話を調査した結果、彼らが「祇園精舎」と思い込んでいたのはインドではなくカンポチャにある「アンコールワット」であったことが判明しました。南海の向こうにある天竺の大伽藍ということでカンポチャの「アンコールワット」をそれと思ったのでしょうね。でもそれはそれですごい仏教施設探求の冒険じゃありませんか。

今年の夏は?

 あと2~3日で夏の土用に入る(終わるのはもちろん立秋)が、まだまだぐずついた天気が続きそうであり、梅雨明けも遅くなりそうだ。ここ四国でも梅雨が長引き、半そでではちょっと寒い日が続いている。おかげで夏風邪をひいてしまった。まあそれはともかく、この分で行くと北日本では冷夏になるのではという心配も出てきた。雨年には日照不足の上、気温も低く、冷夏になるのである。
 涼しいからええわ、とも言っていられない。熱帯がルーツの稲は冷夏には弱く、実りが乏しいか、ひどくなると全く結実しなくなる。昔から東や北日本の農家のひとは「雨年に豊作なく、旱魃に不作なし」といっているが、このまま多雨低温傾向が続けばそうなるかもしれない。若い人は知らないが今から26年前の平成5年、冷夏で稲の実りが悪くコメ不足がおこり、スーパーや米屋からコメが消えてパニックになったことがあった。自炊していたおいらもコメが手に入らずあせった。店の棚に並んでいるのはタイ米のみ、主食が手に入らないので仕方ない、同じコメに違いないからものは試しと、買ってみた。長っ細い粒でいやに白っぽいコメだったのを覚えている。炊飯したが、まずいのなんのって、毎日食べる主食にできるものではない。
 これがのちに「平成の米騒動」といわれる現象である、原因は梅雨が長引き、冷夏になったことであった。しかし実際以上にコメが不足したのは、人々が不作でコメが買えなくなるのではという心理から買い占めに走ったからである。石油ショックの時のトイレットペーパーと同じである。
 東日本の低温傾向はこの平成5年時によく似ているという。もしや、また米騒動がおこるんちゃうやろか。そうあってほしくない。早く梅雨が明けてカッと太陽が照りつける暑い夏が来てほしい。暑い夏は不快だが米作にとっては必要条件である。

 そごうアミコのテラスは暑い日射除けのためにゴーヤの葉の壁ができていて照りつける暑い日には涼しそうだが梅雨寒の今日この頃の天気ではなんか陰気さがただよう。


 小さな実をつけていた。

2019年7月12日金曜日

古代阿波の廃寺6 どんな仏像だったのか

 前回のブログで阿波の古代廃寺の見学と紹介は終わったが今興味があるのはその廃寺の御本尊である。いったいどんな仏像が祀られていたのだろうかということである。しかし残念ながら廃寺から仏像などは出土していないので廃寺に果たしてどんな仏像が安置されていたのかはわからない。尊い仏さまだからもし廃寺になるとしてもそのまま遺棄したとは考えられない、別の寺、またお堂などに安置したかもしれないし、また寺やお堂に囲い込まず有力者の家に安置したこともありえる。しかし廃寺の時代の(白鳳、奈良前期)の伝世の仏像の類はいまそのあたりにはない(それどころかこの徳島県全体にもそんな古い仏像は残っていない)。世々を経る間にどうにかなってしまったのだろう。また穏便に廃寺が進んだことも考えられるが、火災、落雷、兵火、何か暴力的なアクシデント起こった場合、仏像がそのまま破壊されてしまったのかもしれない。

 あ~ぁ、残念!なくなってしまったものはどんな立派なものであったとしても我々はそれを見ることはできない。日本書紀に初めて仏像を(西暦6世紀の中頃)見た人が、その美しさと荘厳さに打たれたとの記述があるがその古代の仏像のお顔を見てみて、ワイもその一端でも追体験したいがないものねだりしても仕方ない。せめてその仏像の種類でもわからないか。日本は古代仏がたくさん残されている。もし仏像の種類がわかったら、同時代の同種類の仏さまをみて、ああこの廃寺の御本尊さんはこのような仏さんだったのだなと思いをはせることができる。しかし私が見学した廃寺の御本尊さんのお名前は確かめられてはいない。

 郡里廃寺と川島廃寺は寺名がそれぞれ「立光寺」、「大日寺」と言い伝えではあるが「立光寺」の方は寺名ではちょっと手掛かりになりそうにもない、しかし「大日寺」ならば寺名からこのご本尊さんはもしかして「大日如来」さまじゃないのかしらんと想像するのは自然だろう。仏像には多種類ある、時代とともにまた地方によっても流行り廃りがあるのもわかっている。我が四国は真言宗の盛んなところからお大師様の像を刻んで各寺に祀ったりしているがこの阿波でもそうである。そのお大師様が開いた真言宗のもっとも重要な仏は「大日如来」である。寺名に「大日」がついているのだから郡里廃寺の本尊は大日如来はんじゃないんかしらと誰しも思う。しかし川島廃寺は阿波で最も古い部類の寺である。空海さんはまだ生まれておらず真言宗もまだない、はるか遠くイランやインドの神に由来を持つといわれている大日如来さんの仏像が飛鳥や白鳳時代に日本に伝わり作られていただろうか。少なくとも中国には存在しただろう。そのため空海が入唐し大日如来信仰を日本にもたらし、大日如来が作られたのではないだろうか。調べてみても平安初期以前の大日如来像は見つからなかった。そもそも大日寺というのは古老の言い伝えである。後世になって(その時はまだ川島廃寺が存在していた)真言宗が流行ったため、大日如来を祀ったため大日寺と俗称で呼ばれだしたかもしれない。ともかく創建当時の御本尊が大日如来であったとは考えにくい。

 仏像は発掘されていないといったが今まで紹介した阿波廃寺の中で川島廃寺には塑像製の仏像のごく一部(螺髪・頭髪の巻き毛)がのこっている。本尊ではなく脇仏とも考えられるが、それでも古代の仏像の一部が出てきた。それから考古学的な何か考察でその仏像の全体像は無理としてもいったいどんな種類の仏像だったかということが推測できないのだろうか。しかし川島廃寺あとの螺髪は椎の実ほどの大きさのものなので全体像を想像するのはむつかしい。

 それではもう自分勝手に大胆な想像(妄想に近い?)するしかあるまい。仏像は流行というほどではないがその時代にもてはやされ作られた仏像の種類はある。逆に後世にならなければまず作られない種類の仏像もある。この白鳳期から奈良時代初期のころ地方でもっとも作られたものに釈迦如来像及び釈迦三尊像がある。なんといっても仏教の開祖様である。様々な仏教の支流が分化する前である古代にお釈迦様の人気があったのも当然である。聖武天皇の国分寺造立の詔でも本尊は釈迦如来像にせよとなっている。六十いくつもある国分寺に像を作るのだからかなりの数作られたのであろう。この詔以前より聖武天皇は丈六の釈迦三尊像を作るのを各地にすすめているので釈迦如来像は当時、もっともメジャーな仏像であった。
 釈迦如来像についで作られたのは薬師如来像であろう。御手に薬壺まで持っているので病苦平癒の御利益を願うには一番ふさわし仏様である。昔も今も人気のある仏様である。それと後にはあまり作られなくなるがこの時代よく作られたのは弥勒菩薩像、半跏思惟の弥勒菩薩像を教科書の挿絵で見た人は多いと思うがこの弥勒菩薩像もこの時代よく作られていた。


 いままで郡里廃寺、石井廃寺、川島廃寺、国分尼寺廃寺、4つの廃寺を紹介した。どのような御本尊であったか確認はできないがいま挙げた釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩はおそらくそれらの廃寺の御本尊の一つであった可能性が高いと思われる。

2019年7月5日金曜日

古代阿波の廃寺5 阿波国分尼寺

 今まで紹介した郡里廃寺、石井廃寺、川島廃寺は白鳳時代から奈良時代前期までに創建された寺であったが、この国分尼寺はそれよりはすこし遅くなる。創建は奈良時代中期以降であると推測されている。ご存知のように尼寺創建のきっかけは天平13年(741年)2月14日、聖武天皇から出された「国分寺建立の詔」である。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどであった。

 詔が出されてすぐに全国に国分寺や国分尼寺ができるわけではない。資金、技術、労働力、本尊、仏具、各地の寺ごとに必要であり、また各寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められたためその員数(足りない場合はその養成)も必要であった。そのためここ阿波でも国分尼寺が実際建立されるまでには10~20年はかかったであろうと思われる。この少し南にある阿波国分寺が文献上現れるのは天平勝宝8年(756年)であるので、尼寺もやはりその少し前頃に開山されたのであろう。

 その尼寺発掘跡に見学に行った来た。(7月4日)

発掘は昭和時代にかなり進み、左地図のように赤線部が史跡として指定されたあと敷地は荒地として保存(放置?)されていたが徐々に史跡公園として整備されつつある。とはいっても平城京跡のように建物まで復元しようというような計画ではない。尼寺跡に整備後の完成予想図が出ていたが次のようなものである。




 現在、尼寺の伽藍の一部である「講堂」の基壇部分が作られている。次の写真がそうである。(そのほかの場所は草ぼうぼうのまま)

 その「講堂」の説明板

 ところで先に挙げた史跡指定の地図の赤線内を見ると尼寺の伽藍配置が示してあるが、これには「塔」がない。今まで見た郡里廃寺、石井廃寺、跡には(川島廃寺跡は定かではないが塔部分もあったと思われる)「塔」の基礎部分や礎石などがあり伽藍には塔がそびえていたことが確認されているが、この尼寺には「塔」ないのだろうか?しかし聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔には『各国に七重の塔を建て…』とある。これは国分寺のみのことで国分尼寺には当てはまらないのであろうか。そこで各地の国分尼寺跡の史跡の説明図を探してみる。

 まず下野の国分寺と国分尼寺の想像図、手前の大きな伽藍が国分寺、なるほど七重の塔があり、金堂、講堂など七堂伽藍がそろっている。そしてはるか向こうに見えるのが下野の国分尼寺、これを見ると「塔」ない。

 次に三河の国の国分尼寺史跡にある尼寺想像図を見てみる。今度は先の想像図とは反対で尼寺のほうが手前で国分寺が遠くにある。これを見るとやはり尼寺には塔はない。

 これで尼寺の標準仕様に「塔」がないことがわかる。一般的な国分尼寺の伽藍配置図は次の図のようになる。阿波尼寺跡の史跡の説明板の配置図とも一致する。

 出土物

 国分尼寺礎石(この跡になく石井駅前の地福寺境内に展示されている。

 国分尼寺廃寺全景(動画)