2020年6月29日月曜日

飯尾川河口

 天気も良いので飯尾川河口を見に行った。鴨島を源流とする飯尾川の河口は徳島市の不動あたりで、鮎喰川とほぼ同じ場所で吉野川と合流する。

 航空写真で見ると飯尾川、鮎喰川、吉野川本流はこのようになっています。

 鳥観図で見ると
 紀伊水道に向かって

 河口から上流(西方)を見る

 蔵本から自転車で行ったのでまず鮎喰川を渡る。

 数百メートルいくと鮎喰川より幅の狭い川を渡るがそれが飯尾川の最下流だ。

 河口に向けて左岸を進む。鉄橋の下に併設小橋(人のみ通行可)があったので渡って右岸から写真を撮った。

  再び左岸にかえりしばらく行くと防潮のための水門があった。今は全開されている。

 舗装のない堤防をさらにいくと鮎喰川と同じところで河口となる。手前が飯尾川、向こうが鮎喰川。


 遠くに吉野川大橋が見える。

 河口から上流を見る。

2020年6月28日日曜日

鴨島を流れる地表水

 梅雨の期間中であるが今のところ(6月27日現在)例年に比べると少雨であるようだが、梅雨の後半期は集中豪雨のようにドサッと大雨が降るので今後はわからない。中国では反対に多雨傾向なのか、重慶の洪水の動画がアップされていたり、三峡ダムの保水ができず放流のため洪水が発生しているとのうわさがネットで駆け巡っているが、情報の統制が厳しい国だから真偽のほどはわからない。

 日本にいては水の有難さを実感することはほとんどないが中国を含め大陸諸国では水は生命のもととして非常に重要視される。それは量、質ともに必要な水を確保することが難しいからである。作物の水どころか飲み水さえ不足すればたちまち命にかかわってくる。またたとえ量が確保できても水質が悪ければ疫病などの健康被害も出る。

 日本人は良質で豊富な水を当然視しているところがあり、そのせいか、日本では○○の日というのを作ってその○○の価値を知り、それに感謝する啓蒙活動をしているが、「水の日」というのはほとんど知られていないし一般化していない。もちろん「水の日」も設けられている。実は私も知らなかった。ただ漠然とあるとしたら、あっちこっちに水たまりができ、雨の多い6月のいつかだろうと思っていた。ところが案に相違して「水の日」は8月1日である。炎暑の時期で、年によるが貯水池の水が干上がるというニュースが聞こえてくるころである。しかしこの8月1日の設定も考えると納得できる。6月の豊富な水が供給できるときでなく、需要がひっ迫する時もある炎熱期の8月1日のほうが水のありがたみがわかろうというものである。

 いい気候風土に生まれたためほぼ70年間生きてきて日照り水不足にあったことはない。むしろ豊富すぎて水害に会ったことがあるくらいである。といってもこの歳まで床上も下も浸水被害にあったことはなくせいぜい家の前の道が冠水したくらいである。しかし、二年ほど前、ウチの前を流れる「江川」の流路やその変遷を調べていてドキリとする事実を知った。それはこの江川は、大昔たびたび流路を変えて暴れていた吉野川(四国三郎の異名を持つ)の本流であったこともあるということである。ということはノアの洪水が起こるような世紀(百年に一度あるかないか)の大雨が降りつづいたら、あふれた吉野川の洪水が昔の本流(江川)にドッと流れ込み、ウチの家なんかは流れる川の底になるかもしれない。

 大昔、人為的な堤も堤防もない自然状態のわが故郷の河川の流路を見てみると下のようになる。

 なるほど、水不足はまず起こりそうにないが、水害の心配がある、というよりむしろこんな迷路のような河川が縦横無尽に走っている平野部にはそのままで住めるはずがない。たびたび流路が変わり、陸地部分も平地はおそらく湿地であろうから、住居には向いていない。だから縄文の頃は南の四国山地の裾野の微高地に住居を構えていたのである。ところが稲作が始まると、この低地平野部はよい水田地帯になる。ただしそのためには流路をを堤や堰堤などで安定させ、中小河川は田の用水に利用するため土木工事で統合、整理する必要があった。本流を安定させるため長大な堤防が作られ、中小河川は数本にまとめられ、また流路の後の低地には用水を引いた。

 その千数百年にわたる人為の結果、下が令和の御代の河川、水路の地図である。

 鴨島の地表水は二つの中河川、そして麻名用水にまとめられていることがわかる。中河川の二つのうちの一つはこの地図では見えていないが北方の江川(これについては以前ブログにアップしてある、ここクリック)、そして今一つは飯尾川である。北方の江川は昔は吉野川の本流ないし支流だったことを考えると鴨島の地(じ)の中河川というと現在は飯尾川一つになっている。もっとも四国山地の谷筋から流れ下る小河川がいくつかあるがいずれも飯尾川に流れ込み、飯尾川と一体化している。

 最初に見た太古の川の流路図と比べると二番目の現在の地図の流路はずいぶんまとめられて単純になっている。麻名用水と飯尾川である。飯尾川はいくつかの小河川をまとめ単純化、そしてコンクリで護岸をしたため、ある部分では自然河川とは思えないようになっているが、おおむね古くからの自然河川の形をとどめている。現在、大雨でも降らぬ限りは、実のところ流れる水の量を言うと飯尾川より麻名用水の方がずっと多い。また安定して流れている。飯尾川より麻名用水の方が水質がよく水量もだんぜん多いのである。

 それでは具体的にその鴨島の地表水の二つ、麻名用水と飯尾川とを見て行こうと思う。まず人工的な地表水である麻名用水であるが、これは吉野川本流の水を高低差を利用して川島の出水口から取り入れて用水路を流している。その取り入れ口は川島岩の鼻にある。下の航空写真で見ると赤の矢印部分が取り入れ口でその水はすぐにトンネルを通って城山の下を抜け黄色の矢印の部分で地表に出て平野部を流れる。

 その用水は西麻植を流れ2Kmばかり進むと堰堤によって北と南の二本の用水路に分けられる。北の用水路は牛島の北方を通って石井町の高原の方まで流れ、南の用水路は飯尾川と複雑に絡みながら山路、上浦から石井の浦庄まで流れている。

 航空写真を見てみよう。地図の右端近くに赤の矢印で示してあり少し見にくいがこの部分でY字を横にしたように分岐しているのがわかる。

 さらに分岐した東流を見るため地図を見てみると、別れた二つの用水は大きく隔たって北は石井町高原方面、南の用水は浦庄方面に流れていくのがわかる。

 上記分岐部分の写真を見てみよう。

 流れてくる水圧を受け止めるため煉瓦で頑丈に組んだ三つの三角形の形をした堰堤があり、水流を南と北の水路に分けている。赤い矢印が北流用水、黄色の矢印が南流する用水である。

 これがもう一つの自然河川である飯尾川の流れとなると用水のように単純には行かない。源流は四国山地のいくつかの谷筋から流れる小河川であるが、これにも当然のことながらその固有の河川名がある。そのいくつかが集まり飯尾川をなしているのだが、ハテそうなるとどちらの小河川の方が飯尾川の名を冠する本流としてよいか極めてあいまいになってくる。おまけに麻名用水と並行したり複雑に絡んだりして流れている。むしろこれは意図的に用水の流路をそのように作ったのである。それは麻名用水の水を飯尾川に流したりして麻名用水の水量調節をするためである。

 飯尾川を実際に遡って自分の目で確かめてみると、用水と並行して走っている川のあたり、あるいは絡み付いたりして流れているあたりでは、どちらが果たして飯尾川か用水か曖昧なところがあった。その飯尾川の名前も上流では谷川の名前をとった小河川になるので公式の地図においてもどこまでが飯尾川なのかはっきりしないようで、飯尾川と谷川の小河川の両方の名前の混乱が見られる。

 地図を見ながら説明しよう、
説明を追加

 地図の左端から流れる用水は先ほど見たようにAの部分で南北の麻名用水に分かれる。では飯尾川の源流の川はどうなっているかというと地図で見ると①が四国山地の谷筋から流れた小河川である。
 ところがBの部分、これは流路の矢印を見てもらうとわかるが並行して流れる用水に入っていくように見えるが、並行して走る二本の用水の真ん中部分は葦や水草があり、南の用水の水と交わりながら、用水の水を真ん中部分に落とし、それが並行して走る小川となっている。写真を見ると下のようになっていてわかりにくい。左から①の小川が流れて右の用水と交わる。


  用水側から撮った流れ込む①の流れ、橋の下から流れ込んでいる。

 この①の流れが飯尾川の源流の小河川である(飯尾の字名の地を流れているため)。

 上記の地図のBとCの間の部分、はたして①の流れがずっと下流の飯尾川につながっているのか、地図を見ると断線しているようにも見えるが、このBとCの間の部分は葦や丈の高い水草で覆われ、かつ①の流れはいったんは用水路に入るため(一部河川に流れる)普段は流れていないような状態である。しかし雨が続き山から水が小河川を流れ下ってくると、本来の飯尾川の流れをとりもどし、BとCの間の部分は水量が増え本来の流れる川状態になる。

 そしてCの部分の写真である。丈の高い雑草が河川床に生い茂っているのでわかりにくいが上方右から流れこむ流れと下方右から流れこむ水が合流して一つになり左に流れて行っているのを確認してください。下方右の流れがBから来る飯尾川で上方右からの流れは地図で言うと②の川で(地図では道路に隠れて消えたようになっているが北流してCで飯尾川に合流する)、藤井寺のある谷から流れている川なので藤井寺川と呼んだりしている。

 この藤井寺川をCの位置から南へ向けて撮った写真が下図、護岸されているが用水でなく藤井寺川である。ここでも用水と立体交差している。手前、横切るのは麻名用水である。藤井寺川と比べると用水の水面が高いので立体交差できるのだ。

 間隔の狭い南北二つの用水、その間に挟まれる飯尾川、お互いの水の交換もある、極めてこの三者はわかりにくいが、もう少し下流の③地点になると南北の用水の幅が広がり、三者は全く分離しているのでわかりやすい。真ん中の③の流れが飯尾川である。鳥観図で見てみると下のようになる。

 この③の飯尾川の流れはD位置まで流れてくるが、この部分、よく見る何本もの水路が確認できる、ちょっと拡大してどのような水路か確認してみよう。

 地図の種類によってはこの三谷川を飯尾川としているのもあるが、先にも言ったように上流に遡ればどれが本流かについては迷いがある。しかし飯尾の地名をとってそこに源流を発するほうの川を飯尾川とした。

 このD部分は用水と三谷川が立体交差している場所ですでに前のブログで紹介した。動画を見てもらうとわかるが上が用水、下を三谷川が直角に流れている。そして用水から三谷川に水が流れ込み河川の水を増やしている。

 この辺りの写真を矢印の方向から撮ったのでご覧ください

 ㋐の写真

 ㋑の写真

 ㋒の写真

 ㋓の写真 

 ㋔の写真

 ここより下流では飯尾川は用水との相互干渉は無くなり屈曲して流れるが普通の平野部の中河川の形態をとり鮎喰川の河口付近で吉野川と合流する。

 立体交差部Cの動画

2020年6月25日木曜日

河川と用水の立体交差

 森山小学校のグランドに隣接して麻名用水が走っているがその近くに用水と河川の立体交差部があるので動画に撮ってきた。
 地図で見るとこの部分

 上を用水が流れ下をほぼ直角に河川が流れている。見ると用水の一部が河川に流れ込んでいる。

2020年6月22日月曜日

部分日蝕

 昨日は部分蝕があるということで前日からニュースになっていた。午後4時から6時過ぎにかけて見られるらしい。しかし昨日は時々天空にある日の位置がおぼろげながらわかる程度のうす曇り、乃至はほとんど陽光も見えない曇りの天気で、ここ徳島では観測できないだろうと思っていた。

 午後5時半ごろ、自転車でたまたま西へ向かって走っていて、高曇りの空をふと見るとおぼろに太陽の形が見える。観測用の日蝕フィルターもいらないくらい直視してもまぶしくない弱い光だ。よく見ると半月状になっている。

 直接、携帯写メールで撮った写真

 上の写真ではわかりにくいが拡大すると半月状になっている。 

2020年6月15日月曜日

マスクが届いた

 わが町は特別給付金の振り込みはよその市町村より早かったが、マスクはなかなかとどかなかった。隣の町はとんどの昔に届いていたのに。しかしようやく昨日、なにげにポストを見ると布マスク二枚が入っていた。昨日は日曜日なので土曜日の夕方には届いていたのかもしれない。

 今日までできる限りは、人の目もあって律儀に(何度も使いまわし衛生は気にせず)マスクをしていたが、昨日、今日と、高温多湿のなか顔全体の半分は覆うマスクをしていると、熱がこもってほとんど熱中症になりかけた。顔がほてり、汗だらだら、おまけに息苦しい。マスクなどするの止めようと思っていた矢先である。今頃届いても六日のアヤメ、十日のキク状態だ。

 でも考えると、布マスクはガーゼであるので紙の不燃布より熱を逃がしやすく、また少々濡れると気化で涼しくなる。また不燃布よりずっと顔を覆う面積が少ないので、暑い時期どうしてもマスクをしなければならない場合、こちらのほうがいいと思い直した。

 みなさん、カネが遅いだのマスクがコマイだの文句タラダラだが、世界の国の中でコロナに困っているからと、十万円と布マスクを国民全員もれなく、配ってくれる国がどれくらいあるだろうかと思ってみてください。やっぱ、ありがたいいい国に住んでるとおもわにゃ。

2020年6月8日月曜日

国府町にもあった慈眼寺

 先の上勝の慈眼寺は鶴林寺の奥の院だったが、国府にも同じ名前の慈眼寺が十四番札所・常楽寺の奥の院としてある。鶴林寺とその奥の院の慈眼寺はかなり隔たっている(歩けば半日以上かかるだろう)が、常楽寺とその奥の院・慈眼寺はほとんど隣り合わせに位置している(間に神社を挟んで隣接している)。慈眼という言葉は観音経の中に出てくるが、このお寺も御本尊は十一面観音である。

 この慈眼寺は小さなお寺で寺務は常楽寺が兼ねている。
 本堂

 ここには「生木地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩がまつられていて霊験あらたかなお地蔵さんである。
 地蔵堂

 生木地蔵尊(檜に彫られている)

 その由来記

2020年6月7日日曜日

慈眼寺参拝その2 観音経をあげたこと

 慈眼寺は寺伝によれば平安初延暦年間に弘法大師が開基したといわれており、大師創建の寺はどこともそうであるように「大師伝説」が存在する。それは若き日の弘法大師が修行中、ここにいた悪さをする龍を退治したといわれている。その龍の住処であった洞窟も慈眼寺の広い寺域に存在し、洞窟巡りも信仰を集めている。もちろんこれは伝説であり、史料や遺物によって確かめられたわけではない。しかし古くから山岳仏教の聖地であったことは確かで10~11世紀頃には山岳修行者がここに登った形跡がある。御本尊の十一面観音像は空海作と伝えられているが、作風からみてもう少し後の藤原時代(摂関期)ではないかといわれている。

 登り口から二時間余りの登坂はきつかったが、ツツジやアジサイの花がほとんど途切れることなく道の両側に咲いており、また中小の滝も登山道から見えるところに数々あり、せせらぎの音、野鳥のさえずりとともに目や耳を楽しませる。もう少しで寺に着くという道の脇にはおいしそうな野イチゴがたくさん実をつけていた。こういう野生のイチゴはあまり甘みがなく、おいしくないのではと思いつつ、実をもぎると果肉が柔らかくジューシィな感じである。ちょっと期待しつつ口に入れると、結構あまい、栽培種のイチゴのような甘さはないが野生らしい好ましい甘酸っぱさが口に広がった。これだけ野生の実があればたくさん採ってジャムにしたらさぞかしよかろう、などと考える間もなく慈眼寺に着いた。

 山門はなく鐘楼の横が入り口となっている。

 横広の境内には納経所・寺務所、住居とともに大きな堂が二つ並んである。当然本堂かと思ったがさにあらず。大きいお堂が「大師堂」で左横にあるのが「不動堂」であった。本堂の「十一面観音堂」はここよりさらに山道を500mばかし登ったところにあり、その横には行場である「穴禅定」の洞窟がある。

 動画で見ると左に不動堂、右に大師堂、さらに納経所があるのがわかる。大師堂の上の山頂に石灰岩の露出した岩壁が見えるがこの下方に本堂と穴禅定の行場がある。
 

 そこから500mばかり登ると「本堂」と「穴禅定の行場」がある。写真左が本堂・十一面観音堂、右には穴禅定の行場入り口がある。

 穴禅定入り口(洞窟)

 穴禅定の修行(白い浄衣を借りて着け、ロウソクをもち案内人と一緒に洞窟内の行場をめぐる)は予め申し込みがいる(一人3000円のお布施がいるそうだ)。閉所恐怖症の人や足・体の不自由な人は勧められないとある。私は行わなかった。
 そのかわり本堂・十一面観音堂の前で「観音経」あげて私なりの祈願をした。その観音経の終わりの部分を読誦していて「具一切功徳、慈眼視衆生」のフレーズを読み上げたとき、はたと気づいた。ああこの寺の名は観音経の「慈眼」から由来しているのだと。


 帰りにインド人のお遍路さんにあった。笠杖、背中に遍照金剛の墨書のある白い衣装を身に着けた本格的なお遍路さんである(この慈眼寺は札所鶴林寺の奥の院に当たるのでお遍路さんの参拝コースとなっている)。山道でお互いすれ違うのだから挨拶以上の言葉を交わすものである。あちらの方から先に声をかけてきた。彼は袋に入った豆をボリボリ食べながら歩いていたが、挨拶が住むと私にいかかですかと袋を差し出す。ほとんど訛りのない日本語だ。歯を痛めているのでといって断ってから、今度は私が話しかけた。おそらく容貌や肌の色から、南アジアの人(インド・パキスタン・ネパル、スリランカ)じゃないかと思いつつ、どちらのお国の方ですか、と聞いた。やはりインドだった。

 インドの人はほとんどそうであるが彫が深くまつ毛が長く目が大きくぱっちりとしている。微笑むと柔和で優しく見えるし、黙するとなんだか哲学者のような深遠な表情となる。私がインドはお釈迦さんの生まれた国で一度は行ってみたい大好きな国であるというと、喜んでぜひ来てくださいという。彼は「バラナシ」という地名を挙げ、そこの名前をまず第一に覚えてください。必ずそこへ行かれるのがいいですよという。お釈迦さんの活躍したのは中インドのガンジス川中流域だ。バラナシも確かお釈迦さんが最初に修行したところじゃなかったかなと思い出す。あなたもガンジス中流域出身ですかと聞くと、彼は南インドだという。あまり根掘り葉掘りも聞けないので最後に印度はヒンドゥー教がマジョリティーと思うんだけれど、と聞いたら彼の宗旨はキリスト教とのことだった。それ以上は立ち入って聞かなかった。お四国巡りのいいところはどんな宗教の人でも巡礼できるということだ。お互いに道中の無事を祈る別れの言葉をかけながら別れた。

2020年6月6日土曜日

慈眼寺参拝その1 灌頂瀧

 慈眼寺という寺がある。鶴林寺の奥の院ということだが私はまだ一度も行ったことがない。寺は徳島バスも通っていない上勝町の山奥にある。だが町営バスがふもと入り口まで運行しているようなのでそれを利用して行くことにした。まず南小松島で汽車を降り、そこから徳島バスで終点の横瀬まで行き、そこから再び町営バスに乗り換え慈眼寺の登山口で下りた。二度の乗り換えで登山口に着いたのは家を出て約三時間たっていた。登山口とはいってもそこからは登り路で寺までは歩いてざっと2時間はかかる。用意してきた杖を頼りにゆっくり登り始める。

 藤や桐の花はすでに終わってはいるが色とりどりの鮮やかなツツジ、白い卯の花、青い紫陽花などが目を楽しませてくれる。ヘアピンカーブを二回ほどまわると、前方に100mはあろうかという山の断崖絶壁が見えてきた。なかなか勇壮な眺めである。断崖の上方に目を凝らすと一筋の白い糸のようなものが見える。これが灌頂瀧だった。灌頂瀧はもっと山道を登った先と思っていたが意外と登山口から近い位置にあった。

 紫陽花を通してみる灌頂瀧、一見したときはすごい断崖絶壁という印象で瀧があるとは思わなかった、よく見ないと頂部の一条の水流は見えない。

 瀧の石段の手前に灌頂瀧の説明板がある。

 石段を登りつつ見ると、だんだん見上げる角度が大きくなり、しまいには真上を見上げる形となり、いかに瀧の落差が大きいものであるか実感できる。



 瀧の落ちるあたりはほとんど霧状のしぶきとなっている。そのまま下まで太い水流だったら100m近い落差でものすごい水圧になるから、このようにシャワー状態になったほうが修行者の水行(灌頂)をするにはちょうど良いであろう。

 私が瀧を見た時刻は午前10時過ぎであった。説明板によれば午前8~10時頃までは朝日に照らされて瀧のしぶきが七色に輝くという。それでこの瀧を「旭の瀧」とかその現象を「不動の来迎」とかいうそうである。しかし写真を見るとわかるが、飛沫は陽光を反射しているが七色にはなっていない。不動の来迎を見るには少し時間が遅かったのかもしれない。

 石段は瀧の落ち場(水行場)の横をさらに上方に続き、瀧を真横に見る岩の龕のような場所で行き止まりとなっており、そこには不動尊(不動三尊像)が祀られている。岩の龕はわずかな平地があり、護摩行が行われるのであろう、焦げた地面、木材などが見える。

 この場所から見るとちょうど瀧の流れが真横に見える。

 不動を中心に向かって右が観音像、左が大師像である。

 左上方にも不動堂があり不動尊が祀られている。

 左上方のお堂にある不動明王尊

暗くて見えにくいが上の不動明王は「覚鑁上人」作と伝えられている。石段入り口付近にある看板はこの不動尊製作者の説明である。名前の「覚」は読めても次の「鑁」の字を読める人は少ない。

 覚鑁は「かくばん」と読む。弘法大師ほどは知られていないがこの方は新義真言宗を立てた人といわれ、宗教史では有名な人である。「鑁」の字の本来の意味は馬の頭の飾りだが、読み方を「バン」というところからその発音の類似で「鑁」を梵字のवं(vaṃ)にあてている。これは金剛界大日如来の種子になるから宗教で使う「鑁」はそちらの方に意味付けされている。覚鑁という名を分解すれば、「鑁」である金剛界大日如来を「覚」る、という意味深い名前になる。

 瀧の動画