2021年2月17日水曜日

牡丹雪

  午前9時ごろ外へ出ると大粒の雪が激しく降っている。気温が高く水気が多いのだろう、木の枝や芝生、草花にはけっこう分厚く降り積もっているが、道路は路面がぬれているだけで積雪は全然ない。自転車に乗って駅まで行くが正面から降雪が顔に当たると大げさではなく、ボタボタと音がする。雪の一つの塊が大きく水分を含んでいるためこのようになるのだろう。目に雪が入るとすぐ融けるのだが目薬を二三滴目に入れたような不快感がある。

 このような雪片がたくさん集まった雪を「牡丹雪」というようなのだが、まさに実感で顔にボタボタ当たるから、これって「ボタン雪」っちゅうんか?と半分冗談で思っていた。しかしこのブログを書くついでに「牡丹雪」のいわれを調べると、これがなんと冗談ではなくホントにそうのようなのだ。もっとももう一つ説があって、こちらは文字通り牡丹からきていて、雪片が多く集まり重なった状態を牡丹の花になぞらえているというのだ。しかし今日の経験から言うと第一の説に説得力がある。

 下は駅の跨線橋から撮った降る牡丹雪。

2021年2月14日日曜日

緋寒桜

 昨日くらいから昼間がずいぶん暖かくなった。吹いている風も冷たくなく仲春の頃の陽気である。それもそのはず昨日のここいらへんの最高気温は19.3°を記録した。季節は経めぐり春が来るが、年々老化が進むわが身には回春はない。

 両国橋横の公園の緋寒桜もほぼ満開を迎えている。




中東を背景にした映画 アラビャのローレンス

 映画『アラビャのロレンス』が封切られたのは私が中学一年生の時であったが映画を見たのはずっと後である。いつごろか思い出せないがテレビの名画劇場で見たからおそらく封切りから20年近くたっていたように思う。一応そのとき見たという記憶はあるがほとんど印象に残っていない。昭和時代のテレビ名画鑑賞というのは、今でこそハイビジョンで横長の大画面だが、当時は横縦4:3で画面も小さい、一応カラーになっていたが解像度や色調は良好なものではなかった。映画を原語で鑑賞したくても日本語の吹き替えであり、またこれが最も致命的な欠陥なのだが、商業放送の都合でオリジナルのフィルムのあちらこちらを勝手に切り取り、時間内に収まるように短くされていた。これではどんな名画でも面白さは半減、いやそれ以下になるであろう。印象がほとんどないのも無理はない。

 だから封切り映画館で見るような鑑賞が可能になったのはハイビジョンテレビとDVDの普及後である。最近、中東に興味が出てきて中東あるいはイスラム関係の本を図書館で探して読んでいるが、その図書館のDVDコーナーにこの『アラビアのロレンス』があった。お蔭でじっくり見ることができて実質これが初めての本格的鑑賞といっていいだろう。

 さてその鑑賞後の私の感想であるが、これが実に不思議な印象を受けたのである。表面は、ラクダにまたがり土着のアラブ反乱軍の指揮を執るロレンス、彼は雄々しい姿であり、敵の列車爆破、そしてトルコ兵をやっつけるところなどは、血沸き肉躍る冒険活劇の一種とも見える。しかし、その中に実に深刻で深遠な(と私には思える)挿話(エピソード)がいくつも入っていて、その中には重々しすぎて映画全体の印象を180°転換させるのではないかと思われるものがあるのだ。なぜこのような全体を(つまり反乱冒険活劇というジャンルでの面白さ)ぶち壊しかねないような挿話を入れるのだろう、もちろん、現実のロレンスは生身の人間で、誰でもそうであるように彼だって善行もあれば多少の悪行もあり、また強烈な個性も考えられるし、奇行、奇癖だってあるだろうが、大作映画のヒーローともなればやはりそこは偶像(アイドル)として演出がされるはずだ、一体監督はなにを狙っていたのだろう。ロレンスの実像に少しでも近づけようとおもってこんなちぐはぐな挿入場面のある筋になったのか、と思った。

 その不思議な印象を与えた挿入場面(エピソード)、一体何か気になるところだが、これはもう実際に直接自分でDVDを鑑賞してそれを確認してもらう以外ない。私が指摘したところでそれは私の印象であり、見た人がそう思うとは限らないからである。しかしこれだけは言っておくが、彼の回顧録ともいえる「知恵の七柱」を読むと、その挿入場面は実際あったことであり、映画の描かれ方よりもっと深刻なものであった。映画の方が実はかなり婉曲にしか表現していなかったのである。

 そんなわけで中東に対する興味によってこの映画鑑賞をしたが、それにひかれて映画の元となった彼の著作「知恵の七柱」ではいったいどうなっているのだろうと、さらに興味がわきそれを読んだ。映画による偶像ではなく実体のロレンスを知りたかったのである。もちろん自叙伝でもあるロレンスの著作を読むときは、かなり批判的に読まねばならない。後世に残す自叙伝であってみればどうしても自分に不利、欠点に類することはあまり書きたくないであろうし、また話を面白くするため誇張しがちになる。中には大ぼらと批判されるものもある。

 だからアラブの反乱軍を率いての彼の戦勲の記述などはそのように批判的な見方で読むべきであり、またそのためには他人の彼についての評価なども読む必要がある。しかし中東の歴史や風土に興味があってロレンスの映画、そして彼の自叙伝を読む私としては、血沸き肉躍るような戦記の記述にはほとんど興味ない。私が彼の自署の「知恵の七柱」を読んで最も知りたいのは彼の、アラブの風土やそれがもたらすアラブ人の性向のついての分析である。この「知恵の七柱」は5巻もある大作であるが、そのようなアラブの風土やアラブ人の性向について書いてあるのは第1巻の最初の方である。このあたりは序文に近いこともあって具体的な戦記や戦況の記述はない。その部分を読んでいると、まるで歴史や哲学が専門の学者が書いているようにおもえる。

 風土がもたらす人々の民族性ないしは性向という記述では、和辻哲郎の『風土』がある。以前読んだことがあったが、特に最近中東の歴史、文化に関する本を次々読んでいるので、和辻の『風土』の砂漠地帯の章の部分をもう一度読んだ。学術書らしく和辻の記述は個人的な感情の抜けた中立的なものであり、価値判断などは持ち込んではいない。ところがこれと比較するとロレンスのアラブの風土とその性向についての記述はかなり個人的な感情が入っていると見えてしまうのである。全体的には冷静にアラブについて分析しているなと思えるが、ところどころそれが噴出しているのである。まあそれがこのロレンスの書の面白いところではあるが。

 その中で特に私が印象に残ったものをここに引用する。

『男どもは若く、強壮で欲望をたぎらせた肉と血は無意識のうちに権利を主張し、彼らの下腹部を異様な渇望でさいなんだ。さまざまな不如意と危機が、考えられる限りに過酷な風土にあって牡としての火を煽り立てた、独りで過ごせる閉所はなく、肉体の要求を覆い隠せる厚手の衣服もなかった。男と男が、あらゆることであけすけに生きていた。

 アラブ人は、生来が禁欲的であり、普通婚の慣行で部族内の不身持はほぼ一掃されている。何ヶ月も歩き回っているうちにまれに出くわす集落に足を踏み入れると、身をひさぐ女は、そのすさんだ体が健常な器官を持つ男に好ましく思えた時ですら、我々の仲間には無価値だった。この種の不潔な交渉を嫌う若者は、汚れのない自分の体でなんのこだわりもなく相互の欲望を満たす(比較の上でいえば性を伴わない、純粋とすら思える寒々とした便法)ことを始める。後のことだが、この実りのない方法を是認する人が出てきて、こう断定した。『やわらかい砂上で熱っぽい四肢による至福の法要に体を震わせる二人は、情火に燃えるひとつの行為に身も心も融ける官能的な情念の共同作用が、暗闇の中にひそかにあると知っているのだ。』と。また数は少ないが、完全には止めることのできない欲求を懲らしめようと切望するものは、体を貶めることに狂おしい誇りをもち、肉体上の苦痛、汚穢をもたらすあらゆる習慣にやみくもに身を委ねている。』

 英語から日本語への訳文であるにしてもわかりにくい文である。アラブの風土やその気質、そしてそれがもたらす性向(文字通り性的な気風)について叙述しているのはわかるとしても後半部分は具体的に何のことやら読者にはわかりにくい。この後半部分の「やわらかい砂上で熱っぽい・・」云々という描写についてはおぼろげながら想像はつくが、叙述について具体的に想像するより先にイメージとしてまず私の頭に思い浮かんだのは、5年ほど前やはり映画でアカデミー賞をとった「ムーンライト」の一シーン、夜の砂浜の上で身を寄せあう二人の黒人少年であった。

 アラブ人の特にベドウィン(砂漠の遊牧民族)の性的な性向を叙述するにしても、ちょっと生々しすぎるというかドギツい(特に当時は)と思ってしまう。これは和辻の「風土」と比較すれば明確である。和辻は術語(自分でも作りだしながら)を駆使しながら論じ、中立的客観的態度を堅持して、学術書のように砂漠の民の、風土がもたらす人々の性向について書いている。しかしロレンスの文章の場合、風土とそれが与えるアラブの人々に対する影響・性向についての描写には彼の個人的感情や思い入れを強く感じる。私などはこの部分を読むと一種の彼のロマンの発露ではないのかと思ってしまう。

 古代ギリシャ、そして近代までの中近東には、師弟愛、年少者の年長者に対する敬愛、その逆の未熟な若者に対する大人の慈愛、そして男ばかりの戦士の同志愛、という男同士の愛の表現が文学、絵画、彫刻などに多数存在する。それが過度の熱愛になるともはや「同性愛」といっていいだろう。それは相手(男性)に対する美の賛美や肉の接触の希求となって表れる。引用したロレンスのアラブ人の性向については、男性美への賛美は見られず、もっぱら肉の接触となっている。これは表面上は同性愛行為ともみられるが、よく言われるように、男ばかりで構成されている閉鎖社会、例えばこのような戦場でもそうだし、また刑務所の中では本来は男性との肉体的な接触を忌避するものが、女性の代替として男を求めることがある。昔はこのようなのを疑似あるいは仮同性愛と呼んだ。このアラブの戦士社会に見られる傾向もそうではないのか。と思うが、疑似だの仮だのといってそう単純に割り切っていいものではない。

 中近東の文化を少しだけ勉強して驚いたことがある。中世から近世にかけてペルシャ、アラビアでは詩作が隆盛を見た。その中で「恋愛詩」は日本語に訳されたものしか読んではない。だから原詩とのニュアンスの違いはあるにしても日本人の私が読んでも素晴らしいものが多数ある。ところがなんと詩中の熱愛の情の吐露、美への賛美のほとんどがこれ詩作の男性から、対象となる男性に対するものだったのである。これにはカルチャアショックを受けた。日本の伝統的詩歌に和歌があり恋愛を歌ったものは多数あるが同性同士のそれはきわめて少ない。それを考えると中世ペルシャ、アラブの恋愛詩が大抵男性に向けられたものでありその内容にも驚かざるを得ない。これを見ると、先の引用のアラブの戦士たちのある性向が、女性がいないから一時的に同性に代替を求めるためだけにそのような傾向があるのだとは言えなくなる。砂漠に日が落ちて、火を囲み多くのアラブ戦士が唱和したであろう恋愛の有名な詩が男性への愛、そして男性への美を讃えるものであるなら・・・果たして。

 最後に彼の大著『智慧の七柱』の冒頭部分にある彼の詩を挙げておきたい。イニシャルS,Aへこの本とともにささげるとある。出版されてから百年、このS,Aとはいったい誰か、ということが問題になっており(彼は明言しなかった)いまだ確定はしていないようだが、おおかたのみるところ、彼が23歳ころメソポタミアの発掘作業で使っていた15~6歳の少年で彼がうんと可愛がっていたダフウムであるといわれている。ダフウムはロレンスがアラビアを去るまえ21歳ころ発疹チビスで亡くなっている。詩の内容やそのダフウムについて考える時、私もこのS,Aはダフウムに違いないと思うのである。


 この英詩は英文学の専門家から見ると秀作というよりむしろ駄作と評価されることが多い。それだけに難解な単語や文法はなく、高校英語以上の力があると自分でも逐語訳はできるが、その内容はちょっと謎めいている。下に和訳(田隅恒生訳)もあげておく。

私はお前を愛していた、それで私はこの潮のごとき人の群れをわが手にひきいれ

空いっぱいに星々でわが遺書を書き残した、

おまえが「自由」を、七つの柱が支えるあのみごとな家を手に入れ、

目を輝かせて待ちも受けてくれるように、

私の来るのを。

死はわが道行きの僕だった、二人でお前に近づき、

お前が待っていると知るまでは、

お前が微笑むと、死はねたみに駆られて私を追い抜き、

お前を連れ去った

おのれの静寂の世界に。

かくてわれらの恋の得たものは投げ棄てられたお前の体のみ、

抱けるのは一瞬の間しかなく

やがて「大地」のしなやかな手がお前の頭をまさぐり

盲目の蛆虫どもが変えてしまう、

朽ち果ててゆくお前の体を。

男たちは私に請うて私の手になるまだ穢れなき家を

お前の形見にしたいという。

だがふさわしい記念碑を求めて未完のそれを私は打ち砕き、そしていま

小さな破片が這い出ては集まり、あばら家に仕上げようとする、

お前のもらった贈り物が

壊されたすぐそばで。

 ダフウムはどんな青年であったかちょっと知りたくなる、彼の写真は少ないが下にあげておく。


 ところでロレンスに対する日本人一般のイメージはやはり映画「アラビアのロレンス」の影響が大きい。名優ピーター・オトゥールの演技もそれに与かっている。ピーター・オトゥールのように金髪、碧眼であることは同じだが体躯はウンと小さく英国人としてはチビである。アラブ風の服装のロレンスは目に焼き付いているが、下は軍服姿で同僚と撮った写真である。これを見ると確かに小さい。華奢な彼ではあるが2m近いラクダの背にまたがりアラブの服をまとい縦横無尽に砂漠をかける姿には土着のアラブ人も瞠目したといわれている。


 なおロレンスはアラブ独立を願いファイサル王子を助けたのであるが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の元、戦勝国のパワーゲームに翻弄され、イギリスがファイサル王子に約束したことは空手形に終わった。それでもイギリスは少しはファイサルに済まないと思ったのかアラブを分割して作ったイラクにファイサルを国王として推している。よく中東の歴史を知らない頃は、この映画に出てくるファイサル王子の系統が今のサウジアラビア王家であると勘違いしていたがこちらは全く別系統、リアド周辺の土侯サウジ家である。そして元々ファイサル王子の王家の本拠であったメッカをサウジ家は力で奪いサウジアラビア王国を建てている。
 イラク国王におさまったファイサル一家は子、孫と三代王家がつづくが1958年、クーデターが起こり孫にあたる23歳の若い国王を含め王家の人々はクーデターの当日を出ず虐殺されイラク王国はそれをもって終わっている。

2021年2月6日土曜日

水仙の丘

  暖かくて風もなく春らしい陽気になったので、明日ムランドへ遠出をした。主目的は風車のある丘の水仙を見ることである。以前に比べると水仙畑は狭まっており、盛りの水仙の花もちょっと貧相に感じられた。それでも日当たりのよい丘を登っていくとそこかしこに水仙が群生していてよい香りがする。


幼いころ聴いて中東のイメージを決定づけた歌

 月の砂漠 (大正12年)


ウスクダラ(昭和29年)

 完全なファンタジーなのに幼い心に染み入った曲であった。今この年になって中東のことをオベンキョしていても、このファンタジーロマンの中東のイメージは離れない。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。

明恵上人に贈られたペルシャ文字

 大昔から、今の中東地域(アラビア・ペルシャ)の文物は日本に入ってきていた。有名なものに正倉院御物がある。ササン朝ペルシャで製作されたものかあるいはその強い影響下で作られたものが正倉院御物の中にある。しかし、今、私がその地域(中東)の文化や文物と日本の遭遇、あるいは受容で私が問題にしているのは、その時代である。興味があって調べているのは7世紀後半以降のイスラム社会との文物の遭遇・受容である。

 ササン朝ペルシャは、イスラムが生まれその結果できたイスラム共同体にペルシャが征服される前の王朝である。宗教は有名なゾロアスター教(拝火教ともいわれる)で文化、言語、文字も違っている。時代でいえば7世紀中期以前となる。これ以降、ペルシャの支配者はイスラム教徒となり、ペルシャの一般人にも徐々にイスラムの教えが広がり10世紀を超えると大半がイスラム教徒となる。またイスラム教の受容と同時に聖典クルアーンの文字であるアラビア文字の使用ががペルシャに浸透していく。

 そのことを前提に次の古文書を見てみよう。

 紙本墨書南番文字(したが全図、上は一部を拡大したもの)



 古文書だから漢字ばかりの羅列はいいとしても、何やらミミズののたくったような曲線の列が漢字の列とは直角に違って描かれている。現代人が見ると、これアラビア方面の文字じゃないかと推測がつくがこの古文書の作成されたのは西暦1217年である。当時の日本人が見てこれがどこの文字か推測はつかなかっただろうと思われる。この古文書もとは京都・栂尾高山寺支院の方便智院に所蔵されていたものである。実はこれは南宋に仏教修行のため大陸に渡海した僧・慶政が京都高山寺にいた師・明恵上人のために持ち帰ったものである。来歴をもっと詳しく言うと次のようになる。

 「慶政が、渡宋中の南宋嘉定10年(1217年)、泉州の船上において3人の異国人と出会い、彼らに「南番文字」で「南無釈迦如来 南無阿弥陀仏」と書いてもらったものである。慶政の師である高弁和尚(明恵)がインドに深いあこがれを抱いていたことから、土産とするために揮毫してもらったものだという」

 出てきましたね。明恵上人、私が最も魅力を感じる中世の坊んさんです。左が明恵はんといわれる同時代の肖像画です、なかなか写実的に描かれています。これを見ると明恵はんかなりの男前ということができますね。生没年は鎌倉前期(1173~1232年)これについてはブログにかなり詳しく書きましたのでそちらのほうも読んでみてください(ここクリック)。
 この明恵はん、お釈迦様のふるさとインドが大好きで、玄奘三蔵はんのように日本からインドの旅を企てました。もう身も心も準備ができて出発瞬前までに至りますが、結局断念してしまいます(これについては先のブログをご覧ください)。このインドに焦がれ焦がれたお師匠はんのために南宋に渡海した弟子が、インドまでいけなかった明恵はんにインド人らしき人に梵字を書いてもらって土産にしたものと思われます。

 さて、上記の古文書の文字、果たして梵字か、来歴のいわれとしては南蛮(蛮が番となっている)文字であるとされている。インド大好きの明恵はんに土産に持って帰ったのはいいが、梵字にも当然詳しい明恵はんが見ればこれは梵字でないことは明らか、しかしそれでもどこか南蛮諸国の国の文字らしいということで「紙本墨書南番文字」の古文書の名称になったものと思われます。

 このようにしてもたらされたいわゆる南蛮文字、鎌倉初期(1217年)から、どこの国の文字やらわからず秘蔵されていました。注目を帯びるのはそれからなんと700年もたってから明治も末になっていました。
 「どうも、こりゃぁ~、ペルシャ文字らしいでぇ~」
 と学者はんが気づき解読作業が始まります。

 和風漢文のほうは当然初めから解読されています。以下のようなものです。

此是南番〔ママ〕文字也」南無釋迦如來」南無阿彌陀佛」也、兩三人到來」船上望書之、
尓時大宋嘉定」十年丁丑於泉洲〔ママ〕」記之、
南番〔ママ〕三寶名」ハフツタラ ホタラム ヒク
 
 西暦1217年に南宋の泉州で僧・慶政はんは3人の南蛮人に会います。泉州は南蛮貿易(遥か南海から来るというので地域は東南アジア~インド、ペルシャ、アラビア半島)でやった来た南蛮の人たちの拠点です。そこで3人の南蛮人に会いますが、どう誤解があったのか(たぶん言語がわからず意思疎通に困難があったためでしょう)、この3人をお釈迦さんの故地の人と間違えたようです。その国の文字で南無釋迦如來、南無阿彌陀佛、と書いてくれと頼み書いてもらったのですが、明治以降に解読されてみると、仏さまの名前でも仏教の術語でもなく、ペルシャ文字でペルシャの詩を書いたものだったのです。僧・慶政はんはその3人の名前も自分の耳で聞いて聞こえた通り、ハフツタラ ホタラム ヒク、と書いていますが、今のペルシャ・イスラム圏の人のよく似た名はイメージとしてちょっと浮かんできません。強引に推察すれば、「ハフツタラ」と聞こえたのは、「アブドゥーラ」(アラビア風でありそう)かなと思いますが、どうでしょう。

一部を紹介すると

第1文前半(ペルシャ詩『ヴィースとラーミーン』より)

جهان خرمى با كس نماند فلك روزى دهد روزى ستاند

訳、歓びの世は誰にも永続きはしない/天は(それを)ある日与え、ある日とり去る

第1文後半(詩『シャー・ナーメ』より)

جهان يادگارست و ما رفتنى به مردم نماند به جز مردمى

訳、世は思い出、われらは去りゆく者/人に残るのは善き行いのみ

(岡田恵美子訳)

 前の私のブログ「回教徒との遭遇」(1月30日)で、史実で確かめられる回教徒と日本人の初遭遇は鎌倉中期、フビライが日本を脅すために派遣した回教徒の元使であると思っていましたが、それよりは70年近くも古いイスラム教徒との遭遇、そして彼らの手で直接書いてもらった文字が日本の古文書の中にあったんですね。驚きです。

2021年2月5日金曜日

ワクチンと駱駝

  先日、病院の予約診療に行ったとき、コロナのワクチン接種時期について先生に聞いた。この病院は地域で一番大きい総合病院で、私の主治医はこの病院の院長だったので、その地位上、地域の保健衛生行政にもかかわって他の医師より詳しいはずである。すると私のような高齢者は、4月頃から接種が始まるのではないかとのことであった。

 ついでに、ワクチンの効果についてネットなどでいろいろうわさが出ていて、効果に疑問があるだの、ほかの人が打って様子を見てから、というのがあり、私もすぐに打とうかどうかちょっと迷っているときいたら。いや、その機会に打っておくほうがいいですよ、私も(院長)真っ先に打つつもりです。という。また、行政から集団接種のクーポンが届いているのにパスしたら、なかなか次の機会が来ないかもしれないから、打てるときに打っておいたほうがいいですよ。と言われた。

 なるほど、いままでちょっと躊躇する気持ちがあったが、保健当局から接種スタンバイの通知が来たら迷わず打とうかなと思っている。

 ところで、最近、中東イスラムの歴史・風土・文化・文学などに興味があった勉強をしている。図書館にそれ関係の本はたくさんあるがモノとして目に触れ、手で触れるそれ関係のモノは、この四国の田舎にはほとんどない。博物館、美術館などは皆無である。それではとこの地域の風土に必ず出てくる地域特産の家畜・ラクダなら動物園に行けば会えるかもしれないと考えた。とくしま動物園に行けばラクダに会えるとおもっていたが、まあ念のため行く前に電話して確かめてみた。すると、なんと!「うちにラクダはいません」とのこと。なんで~ぇ、動物園にラクダがおらんのじゃ、おかしいやろが!でもおらんのはしゃぁない。代わりに図書館で左のDVDを借りて映像でラクダをみた。(中国河西回廊にいるウイグルの一派、ユグル族の少年と駱駝の話である)。これを見てラクダの種類の分布について一つの知識を得た。このDVDを見る前にやはり中東の歴史のオベンキョに「アラビアのロレンス」のDVDを同じ図書館で借りてみていたが、この地域の(アラビア)のラクダはんはみんな一こぶらくだで背中の中央部が大きく盛り上がっている。それに対しこの中国西域のラクダはフタコブラクダで背中に山が二つある。背中の形としては窪みに人がまたがるためこちらのほうが乗りやすい気がするが、アラビアの一こぶラクダは鞍が工夫されていて映像を見てもそう乗り心地が悪くないようである。また一こぶラクダのほうが体も大きく、力強く渇きにも強いようであるから、一概にどちらが砂漠にいい乗り物だとは言えまい。

 写真や映像からだけだが、ラクダは睫毛が異常に長く、優しい顔をしている。近くによって触ったり乗ったりしてみたい気がする。現代日本人は身近に大型の家畜などに接する機会はほとんどない。だがワイらのちんまいころはド田舎ということもあって、牛耕用に牛を飼っている農家が周りにたくさんあり、身近に大型の家畜を見ている。ラクダ、牛にしても草食系の動物は大型であっても怖くはない。しかし、ラクダは見知らぬ人にはけっこう性悪で、おとなしく乗るのは困難の上、蹴ったり、かみついたり、つば(反芻した粘液を)吐きかけられるから慣れねば厄介だ。

 他にもラクダに関してはきわめて剣呑な話もある。厚生省から中東旅行する場合、パンデミックを引き起こす疫病に関し注意が喚起されている。この発生源の一つが何とラクダなのである。我々17年前にパンデミックの可能性のあったSARS(重症急性呼吸器症候群)についてはまだよく知っているが、その同じような伝染病にMERS(中東呼吸器症候群)についてはほとんどといっていいほど知らない。しかしこれも大流行を引き起こす疫病である。致死率も高くSARSと同じように呼吸器不全を起こす。これはその名も示すように中東地域が流行の中心でなんとラクダの唾や粘液から感染するのである。新型のパンデミックは蝙蝠あるいは野鳥、家禽、豚などが発生源と言われたがなんとラクダもその中の一つだったのである。幸いなことにMERSはパンデミックにはならず中東地域に限定されているが、ラクダに安易に触ることには要注意とのことである。

 なんやら家畜も含めた動物は病気に関しては災厄をもたらすばかりかと思うがそうでなはい。いまコロナの病の救世主ともなる「ワクチン」、英語で書くと「vaccine」というが、これはラテン語のVacca(雌牛)に由来する。世界初のワクチンである天然痘ワクチンが雌牛から取られたため、この名がつけられた。18世紀イギリスのジェンナーが牛の乳しぼり女がかかった牛痘が天然痘の強力な免疫を作ることを発見して種痘ができたのはよく知られた話だが、この種痘(ワクチン)が作られたのは牛さんの腹にできた牛痘のかさぶたの膿からだったのである。災厄ももたらした家畜ではあるが、その名の語源の示すように牛さんは人を感染病から救うワクチンも作っていたのである。