2020年4月29日水曜日

つつじ満開

 「躑躅」つつじ、って漢字で書くと画数が多くて難しい。漢字オタクでなければまず書けまい。書くどころか読めるかどうかも怪しいものである。漢詩などでは「てきちょく」と読んだりもするからややこしい。かすかにこの文字を見たことある人は、なんとか読もうと気張って頭の記憶部屋を大急ぎで家探しする。ようやくと滅多に開けたことのない引き出しにたどり着き開こうとするが開かない、その時である、なぜかはっと気づき、ほとんど自信をもって・・・

 「どくろ」

 大外れ!どくろは「髑髏」、うぅ~~~ん、画数の多さと旁の一部が似ているだけで、そんな間違いするか?でも昔、オイラがたどった間違いであった。美しいつつじと怖~ぃドクロ、本体は似ても似つかぬものだ。

 今、ツツジの花が満開、体の紫外線消毒にツツジの道を歩いてきた。




こんぢゅワル

 感染者が全国で三番目に少ないウチラの県でもアッチャコッチャが閉まり、行くとこがなくなっている。今日からマックも閉まった。田舎のマックは朝からジジババの憩いの場であるのに。近くの公園も利用自粛の看板が。感染増大の都会じゃあるまいし、ちょっとやりすぎじゃないかと思う。

 この武漢ウィルス、かなり性質(タチ)が悪い、タチが悪いというのは致死率ではない。むしろ他の指定伝染病に比べて致死率が低いことにタチの悪さの原因がある。タチの悪さのもう一つは軽症者どころか感染しても症状の現れないものが非常に多いことである。ウチラの方言ではこんなタチの悪さを「こんぢゅワル」という。もし致死率が高い伝染病なら厭も応もなく隔離、封鎖、接触禁止である。しかしこの「こんぢゅワル」の武漢ウィルスは潜在的に広がり、また顕在化して症状が出たものであってもそんなに高い死亡率を示さない、そしてその多くは7~80歳の高齢者が多い。そうなるとかなり緩い、自発的な自粛で何とかしようとする。日本やスエデンみたいに。またこの致死率の低さと疫病規制による経済の落ち込みとの両者を天秤にかけ、あまりにも経済的損失が大きいため、もう規制を緩めたいという誘惑にかられる。アングロサクソンの国々(米、英)などはかなりその誘惑に駆られている。

 その誘惑に駆られて規制を甘くするとどうなるか、再び感染が大きく増えそうである。武漢ウィルスの「こんぢゅワル」なところはまさにここである。緩めた結果、感染爆発が起こると、この性ワルなウィルスに口があったらこういうだろう
 
「ざまぁ~、みさらせ!」

 もう一度言うと、もしこのウィルスが非常に致死性の高いものならば緩めるという誘惑には乗らないだろう。そこそこの致死率だから、自粛あるいは法的規制の結果、甚大な経済的被害が出ることに怖気を感じて、もういっそのこと止めてやろかとなるのである。

 例えると火事がいって逃げ場がなくビルのベランダに出ている人がいるとする。もしその高さが30mもあれば、破れかぶれの絶望状態にでもならない限り飛び降りるという誘惑にはかられないだろう、しかし5mくらいならば、大けがで済んで死ぬこともあるまいと飛び降りる誘惑にかられる。これが「こんぢゅワル」をするものの場面設定である。(完璧なワルならば絶望的高さに追い詰める)

 この「こんぢゅワル」ウィルスの『ざまぁ~、みさらせ!』という憎まれ口を我々は何度か聞いた。日本のダイヤモンドプリンセス号の感染対策を対岸の火事と見ていた欧米諸国はやがて感染爆発したし、日本でも三月の連休でちょっと気が緩み外出が多くなると、二週間後てきめんに感染者が大きく増えた。まさに『ざまぁ~、見さらせ』とウィルスに言われているようである。

 さて、よその国はおくとして、我が国では5月6か7日に今までとってきた自粛、規制をどうするのかという期限が来る。行政府もかなり判断が難しかろうと思う。人命優先と経済活動の正常化が同時に達成できればいいが、そのような方策が果たしてできるのか。判断に迷うとすると今までと同じ状態をズルズル続けるという選択肢をとるかもしれない。しかし多くの人に強いたこの抑鬱的状態はとてものことに長続きするようには思えない。

 私などは病弱なジジイで武漢ウィルスに罹れば死ぬかもしれないが、もうスエデン方式を採ってもいいんじゃないかという気がする。(アメリカも州によってはスエデン方式を採用するかもしれない)、ちなみにスエデン方式とは、国民の自律に任せ、規制はかけず、緩やかな蔓延も許しつつ医療体制はしっかりと充実させ、重症化率、死亡者を極小化するやり方である。

2020年4月27日月曜日

興源寺と野いばら

 興源寺(蜂須賀家菩提寺、見えているのは藩主の墓)

 日本の風土では荒地は砂漠化しない。恵まれた風土といえるだろう。最初に雑草がはびこり、夏草の草原となり、やがて灌木、藪、茨の類が生え、さらに年月が経つと、林になる。この河川敷では夏草草原の状態は終わり、遷移して今は八重葎・茨の状態か。そばを通ると野茨のいい香りがする。

バイラスとは俺のことかとウィルスいい

 お題のフレーズ、よく言われるのをまねている。次のようなものである。

 「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」

別バージョンもある
 
「チョピンとは俺のことかとショパンいいい」あるいは「バッチとは俺のことかとバッハいい」

 欧米の原語で表示された名前をもとに日本語の表記(たいていカタカナだが)に直すと幾通りかのカタカナ表記になる。欧米の原語を忠実に日本語であるカタカナに直すことなど本来無理だが、少しは似せることができる。そのとき耳で聞いた発音を重視してカタカナに直すか、それともアルファベトで表記される文字を重視してカタカナに直すか、あるいは折衷案をとって発音を重視しつつアルファベトも重視するという方法もある。そのカタカナ表記、時代によって変わってくるのが面白い。

 ワイがチンマイ時、昭和30年代は、ウィルスのことを「ビールス」と呼んでいた記憶があるし、その表記も見たことがある。さらにはもっと時代が違うかもしれないが、おいらの記憶にはウィルスのことを「バイラス」とも呼び、表記していたこともある。まあ、ビールスだろがバイラスだろが、はたまたウィルスだろが、指し示すものが一つであることには違いない。しかし、時代とともにその指し示すものの表記が女性のスカトの丈や男のズボンの幅のようにくるくる流行して一つに定まらないのは感心しない。

 その武漢ウィルス、スカトやズボンの流行ならいいのだがいまそれがおお流行りである。こんなもの流行ってほしくないが、それとともに関連した「カタカナ語」も流行りだした。自然発生というのではなく、オリジナルは知らないが、その言葉を広めたのは、あの東京のおばはんである(石原慎太郎は厚化粧のおばはんといい、さらに最近のマスク姿がずいぶん魅力的だとされ、仮面ライダーを髣髴とさせるともてはやされているあの女首長である)。曰く

 「ロックダウン!」(ロックで少女たちが失神した60年代の現象かとおもたわ!)
 「ソシャル・デェスタンス」(社交ダンスの間合いかなんかのことか?)
 「スティ・ホム」(ホームステイがでんぐり返ったんか?)

 はかにもクラスタ、オバシュト・・・などなど、もう頼むけん、こういうのやめてくれんかなぁ。

 カタカナ語をすべて排除したいわけではないが、できるだけ日本語で言ってほしい。微妙なニュアンスが伝わってこない、とおっしゃる方もいるが、学者相手に「術語」を作り、操作するわけじゃあるまいし、一般人を相手に「新造のカタカナ語」を勝手に作ってどうする。ちゃんと日本の言葉で説明しろと言いたい。

 いやぁ、標語的にはカタカナ語のほうがええんですわ、それもあんまし知られていないほうが都合ええんですわ、とのたまう。なるほど、それなら「三密」はどうじゃ?これカタカナ語ですか?これなど真言宗の神聖な言葉を勝手に使いさらしてからに、ええかげんにせぇや。こちらもカタカナ語のシュウキンペイ(集近閉)にでもすりゃぁええと思うが。

 最近、武漢ウィルスで日本の世相がガタガタになるにつれ、つくづく、台湾ってうまく武漢ウィルスを抑え込めて大したもんだと感心しきりだが、台湾は日本のように安易に外来語を用いたりしない。そこで「ウィルス」のことを何といっているか調べるとこれが「病毒」、うぅ~~~ん、素晴らしい!

 でもこの「病毒」、そもそも日本語の医学術語として日本で作られたものである。日本は江戸時代の18世紀に杉田はんや前野はんが「ターヘルアナトミア」(オランダの医学書)を苦労して日本語に翻訳して「解体新書」を作った。その時、安易にカタカナ語を使うことなく、人体に数百ある骨、小骨一本もらすことなくすべて翻訳した漢字の文字を当てた、他の医学学術用語もすべて漢字に翻訳した。真の翻訳作業の創造性とはこういうのを言うのだろう。そしてワイのブログでたびたび引用する百年前のあの内務省衛生局には「濾過性病原体」である「病毒」(ウィルス)の術語が用いられている。

 何のことはない、そもそものウィルスの漢字訳語は日本で作られた「病毒」であったのだ、それはそのまま台湾(大陸中国も同じ)に輸出され、今日まで大切に使われているのである。日本は戦前台湾を植民統治したが同時に台北に帝国大学を作り熱帯医学研究の前線をおいた。百年後、その愛弟子台湾が「病毒」という日本ルーツの医学術語を使っているのに、おっ師匠はんだった日本がいまや怪しげぇな外来語の氾濫である。

 「青は藍より出でて藍よりも青し」とはこのことであろう。今までのところ台湾以上に防疫で成功している国はない。

二ヶ寺参り

 まだ200日にもならないだろう。おそらく湖南省のどこか、去年の11月あるいはもしかすると10月かもしれない。もともとの宿主はコウモリとかチンスコウとか言われているがよくわからない。ある種の生物だろう。それが持っている新型コロナウィルスに感染した人間が初めてあらわれた。その日が第一日目、そして感染者1人、それからの展開は・・・今に至っている。

 いったいなぜ、感染したのか、生活習慣からどうしても逃れられない接触だったのか、初めの一人が注意して感染していなければ、そして数日後かなりの人が感染しエンデミク(地域流行)になった時、迅速に地域隔離を行っていれば・・・

 千遍ゆうてもせんないことだが、たった一つの小さなロウソクの炎をひっくり返しただけで、都市が壊滅するほどの大火になった江戸時代じゃあるまいし、なんとか初期消火で収める方法はなかったのか。

 この世界的な大災厄、行動制限、心理的抑圧、それが起こったのはたった一本のロウソクの炎である。なぜ、燃え移させてしまったのか、まったく悔んでも悔やみきれない。この武漢ウィルスの蔓延が収まった後、どうすれば、どの時点でどのような方法をとったら、防げたか、あるいは地域的なエンデミク流行だけで抑えられたか、遠慮会釈のない科学的・客観的な調査が必要であり、みんなに知らせる必要がある。

 さて、わが徳島県、僥倖に違いないかもしれないが、京阪神にこれだけ近いのに現在のところ、感染確認者5人で47都道府県の中で3番目に少ない。なんとか持ちこたえてほしい。そんなこともあって今、県では大きな自粛要請は行っていない。今、県が県民にお願いしているのは次のことである。

三密(さんみつ)禁止
換気の悪い密閉空間
多くの人が密集する場所
近距離での密接した会話

 ●手洗い・咳エチケットを心掛けましょう!
 ●「県をまたいだ移動」は自粛してください!
 ●「繁華街の接客を伴う飲食店等」への外出自粛をお願いします!

 県をまたいでの移動はかなり抑制されているようだが、今日のニュスを見てみるとわが県のパチンコ屋に県外からきている人がいるという、ホントにこういうのやめてほしい。

 昨日は、徳島県のお願い指針を十分守りつつ、疫病退散のお参りにお四国の二つのお寺さんを歩いて回ってきた。今、納経所は閉鎖、県外客も来ないようお願いしているせいもあり、休日だがどちらにも誰一人参拝者はいなかった。

 常楽寺

 国分寺、今、本堂は工事中である。


 境内には光明真言塔の大きな石塔が立っている。光明真言はどのような災厄も防ぐという、百万遍ではないが三遍唱え、疫病退散をお願いする。

2020年4月26日日曜日

ふじっさんの藤

 この寺の名前は藤井寺というのだが、昔からオイラの地方では親しみをこめて「ふじっさん」といっている。「ちょっと、ふじっさんにお参りに行ってくるわ」というような呼び方で。

 冬から春にかけての温暖化の影響から、年々藤の開花が少しづつ早まっているといわれている。今、見ごろかもしれぬと、自転車で15分ほど距離で、四国山脈の谷筋にあるその「ふじっさん」に藤を見に行った。

 花の見ごろには少し早かったようだ。



2020年4月24日金曜日

園瀬川土手沿いの芝桜

 いまウチの町の図書館も徳島市の図書館も閉まっていて、読みたい本が借りられない。今唯一、県立図書館のみは予約本の借り出しができるので、今日、文化の森駅まで汽車で行き、そこから半時間ばっかしあるいてあらかじめ電話で予約していた本を借りてきた。行く途中、園瀬川沿いの土手には芝桜が植わって綺麗ぃかったので写真を撮った。

 世にもてはやされる経済評論家といわれる近未来預言者(?)は武漢ウィルス蔓延の後にはリマン級をはるかに越える不況がやってくるぞ、とみんなを脅しまくっている。いったいどれほどすごい不況やろか?ワクワク、ドキドキ、そのこころの準備のために、不況どころか国家的経済破綻のため国家消滅の崖っぷちにたたされた昭和21年から23年にかけての市井の窮乏・耐乏生活、荒れ狂う政治経済の時事などを詳細に記録したある青年の日記本読んでみようと県立の書庫から借りだしてきた。その青年は後に山田風太郎として知られる小説家である。

 ぼちぼち読んでいって、面白けりゃぁ、またブログのネタにでもしようかな。

2020年4月23日木曜日

徳蔵寺の藤

 今日(4月23日)の徳蔵寺の藤


 この寺はモラエスさんゆかりの寺だ。詳しくは以前の「モラエスはん石井へ行く」のブログをご覧ください(ここクリック

2020年4月22日水曜日

観音寺から日の峰さんへ

 自粛要請がこんな田舎まで影響を与えているのか、汽車の中、人がほとんどいぃひん。

 府中駅で汽車をおり、そこに置いてある自転車でチャカチャンリンする。途中、お四国の16番札所の観音寺にお参りする。境内には誰もいなかった。疫病の影響で納経所も閉じているそうだ。

 佐古に自転車を置き、再び汽車に乗って今度は小松島へ行く。目的地は小松島の市街地のどこからでもみられる日の峰さんだ。山頂にあるのが日の峰神社。

 杖を頼りによろぼいながらようようのことで神社まで登り切った。

 小松島市街を一望のもとに見下ろせる。

 日の峰遊園からは一昨日行った小神子の北にある大神子海岸が見える。
 

2020年4月20日月曜日

久しぶりに小神子海岸へ

 屈託があるとなぜか海が見たくなる。護岸などのない自然の海辺で汽車で行けて便利なところは小神子海岸だ。それでも汽車を降りて半時間ほどは歩かにゃならん。休みながらゆるゆる歩く。

 この町の街路樹は今、花が真っ盛りである。「花水木」である。昔しゃあ、こんな花、見かけなかった。それもそのはず、戦後になってメリケンから渡来した街路樹だそうだ。今はたくさん植えられ市のシンボル花となっている。

 毬のような八重桜も満開だった。こちらは旧国鉄の廃線沿いに街路樹として植えられている。この赤くて丸々した八重桜を見ていると、大昔、式日にもらった紅白まんじゅうを思い出す。なつかしいあの紅白まんじゅ、食べたい!

 小神子の海岸、誰もいない。海岸の岩の上に座りぼんやりと半時間ほどすごす。

疫病退散

 疫病(武漢ウィルス)に罹らないようにするには集・近・閉(しゅうきんぺい)を避け、手指の消毒、マスクの着用をする以外あまり思いつかない。家に閉じこもって一歩も外へ出なければいいかもしれないが、全員となると不可能である。いっちょ効果があるのはワクチンができてみんなが接種をすることだろうけど、かなり(一年以上)時間がかかりそうだ。幸いなことにわが県の感染者数は全国で三番目に少ない(3人)が、クラスタが発生しそれに伴い感染爆発した多くの都道府県を見ていると、いつウチラの県でも急激な蔓延が起こらないとも限らない。いや、密かに潜行し広がっているかもしれん。常にポーの小説の「赤い死の仮面」の恐怖を思い浮かべるほうがいい。(赤い死の仮面で前にブログを書いてます。ここクリック

 「赤い死の仮面」を読むと絶対的な隔離にもかかわらず、疫病はやすやすと入り込む。なぜ絶対的な隔離にかかわらず「疫病」は入れるのか、それは不合理じゃないか、と思うが、この怪奇小説っぽい話は、人の傲慢、不信心に対する「罰」(報い)の話じゃないだろうかと思う。芥川の「蜘蛛の糸」のカンダタのように自分だけ(ポーの小説では自分や身内の貴族だけ)助かろうとした罰(報い)ではないのかと思ってしまう。もしポーの小説の主人公やカンダタが自分だけ助かろうとせずにいたら、篤い信仰を持っていたら、破局的な終焉は迎えずに済んだかもしれない。

 いやそうじゃなく、死はどのように足搔こうが絶対逃れられない運命だということを強烈に教える話ではないのかということも想像できる。むしろ欧州の文化的土壌から言うとこっちのような気がする。前者の、自分だけ助かろうとした報いだとか、瀆神、傲慢への罰というのは日本や印度のような東洋的解釈かもしれない。14世紀、黒死病蔓延のため人口の三分の一から半数近くが死亡した西洋ではその後「死神が描かれる」絵画が流行った。その絵画には大勢の老若男女、貴賤、聖職者あらゆる人が登場する。その中に「死神」(死の運命の擬人化)が不気味な姿見せている。そして手には死の大鎌をを持っていることが多い。ひとたび死神が、フッ、と大鎌を一振りすれば、地上のどんな人々も命を絶たれる。まことに恐ろしい絵画であるが、この教訓は「常に人は死を思え」ということであるらしい。そう考えるとポーの小説はむしろこのような欧州の中世以来の教訓の一つであると見たほうがよさそうかもしれない。

 ルネサンス期に描かれた死神の絵画


 このような絵画は、何をやっても結局は死ぬのだから、刹那的に快楽的に生きたほうが良いという教訓を示すものではない。死を常に思うとともに常に神の目を思い神の審判を思うべきだというのが表裏一体となった教訓的寓絵である。死神は描かれるがそれは決して死神への賛美ではなく、唯一神への強い信仰を促すものであった。結局、日本にしても西洋にしても非力な人間が最後によりどころとできるのは神仏ということか。

 まあ、今は科学万能の21世紀である。なにがなんでも神仏に頼るというような狂信的あるいは原理主義的な信仰を持つ人は少ない(でも世界のある地域には結構おおい)、しかし「人事を尽くして天命を待つ」という態度は今でも充分納得できるものである。あらゆる努力、手立てを尽くし、最後は神仏に祈る、というのは今でもアリな気がするがどうであろうか。

 日本は印度とともに多神教世界にある。たくさんの神さま仏さまがいらっしゃる。唯一神のようにオルマイティの神仏は少ない、ある御利益に特化している神仏が多い。神仏に参拝に行けば聖域の入り口にその神仏の能書きが書いてある場合もある。また口コミで、あの仏さんは、脳の病に効くんじょ、とか言って広まっている場合もある。

 そこでオイラの現在の行動範囲で「疫病退散」(罹らない予防で病気平癒とは違う)の神仏がどこぞにないか思い出してみた。そうすると「ぎょんさん」(祇園社)・八坂神社があった。ぎょんさんが疫病封じの神というのは昔からよく知られていた。日本三大祭りの一つである京都の祇園祭も疫病封じから始まったと聞いている。そういえば京都本社の祇園さんに参拝したとき鳥居を入ってすぐに「疫神社」というのが摂社としてあり、多くの人の信仰を集めている。ぎょんさんが疫病封じの神の性格を持っていることがこれを見てもわかる。

 ワイが疫病退散のお祈りに行ったのは大滝山にある「ぎょんさん」・八坂神社である。この大滝山のぎょんさん、なぜか栄枯盛衰の波の呑まれ今は参拝者のごく少ない寂れた小さな神社となっている。しかしモラエス爺さんのいた大正期は祇園祭の時は参拝者の列がひきも切らず今の天神社のあたりから祭りの露店が途切れることなくつづき、夏の一夜、そこをそぞろ歩いた思い出が随想記に載っている。参拝者の賑わいを見せなくなったのは大東亜戦争後であるという。今では徳島の祇園祭といえばみんな蔵本のぎょんさんを思い出すが、本来はこちらの方が主な祇園社であったのである。

 まあこんだけ寂れた神社であったら、集・近・閉(しゅうきんぺい)の心配はしなくてよさそうだから思う存分、参拝できる。

 神社だから祝詞風に「かけまくもかしこき八坂のおおみかみ、なにとぞ、はやりやまいを、おさえたまえ、しずめたまえ、かしこみかしこみ、もうしさふろう、(パンパン)」でもいいし、お経ではあるが「般若心経」をとなえてもよい。簡単に「疫病退散、御願い奉る」でもよい。人それぞれ、お願いするとよい。

 小さな神社だが、茅の輪(茅、萱、藁などで作ったくぐり輪)がある。

 これをくぐると、特に疫病封じになるそうだ。くぐり方には作法がある。作法に興味のある方はググればよい(くぐるとググるをかけているジジイギャグはずかし)。右には神馬も奉納されている。

 動画

2020年4月18日土曜日

石井の藤

 こういうご時世で4月にあるさまざまなイベント、祭り、みんな流れてしもた。石井の藤まつりも中止予定、でも藤の花は咲きだした。下は石井駅にある藤棚。


 地福寺の藤



真言密教の言葉を手ンごろ易く使うな

 ツツジの名所、椎の宮さんに行ったが、まだほとんどがつぼみでツツジの道を歩くには早すぎた。
 お宮さんだが大師堂がある。

 そうそう前のブログで言っていた、村はずれにあった幼くして亡くなった子の供養塔、小さな疱瘡地蔵さんも、こんな大きさ形だった。これも風化が進んでいるが、大師堂の敷地にきちんと並べられている。おそらく近くの路傍にあったものを区画整理や住宅地建設のためここに集められたのだろう。

 大師堂の前には光明真言の石塔が立っている。真言宗では光明真言をとなえればどのような災厄もまぬがれるといわれている。江戸期にここ四国では光明真言をとなえる、それも百万遍繰り返し唱えること、が大流行した。百万回となえると、このような供養塔を立てた。

 真言宗では真言(呪文)などを特に重視する。そして居ながらにして即身成仏となり救われるという信仰を持っている。その即身成仏に至る大事な加持に「三密」がある三密とは「身」「口」「意」である。手(身)に印契を結び、口に真言をとなえ、心(意)には大日如来を観想し一体となる、ように、言われている。

 その三密であるが、急に別の意味で使われだした。「三密」禁止である。はじめ聞いたときはオイラの家の宗旨が真言宗のためか、すぐ真言宗の言う「三密」をイメージした。しかし世に言われるのは「密閉」「密集」「密接」の三密である。武漢ウィルス感染を防ぐための方策である。それで「三密禁止・三密を避ける」ということになるらしい、しかし歳ぃいってそろそろワイも即身成仏せにゃとおもいつつ、なかなか密教の修行に踏み出せないオイラとしては、真言宗の大事なエセンスの「三密」をこのような標語に使ってほしくない。

 そう思っていると、一昨日、経済評論家の上念はんが、私は「三密」とは言いません。皆さんも「しゅう、きん、ぺい」(集、近、閉)と言いましょう。といっていたので、ああ、なるほどそっちがええわと思ったが、上念はんより、東京都のおばはんが言った「三密」のほうが影響力があるわな。みんな「しゅう、きん、ぺい」は使わんじゃろ、でも三密より、集(まるな)、近(づくな)、閉(じた空間あかん)のほうがわかりやすいと思うが、皆さんはどう思われます。

 しゅうきんぺい、を避けようでは外交問題になる?

2020年4月16日木曜日

疱瘡地蔵と徳政

沈みがちな世の中、華やかに咲いた駅の八重桜を見てから、パッと明るく本日のブログをはじめませう

 前々回のブログでも述べたように江戸期には疱瘡(天然痘)は土着し、万遍なく小流行を繰り返したため誰でも罹る病気となった。この疱瘡は成人してから罹ったほうが断然死亡率が高いので子供のうちに罹るほうが良いといわれ、子供の成長の上でほとんど通過儀礼のようなものになった。それでも疱瘡で命をとられる子供が多く、親としては路傍の地蔵、お薬師さんに願をかけ、あるいはさまざまな疱瘡除けのまじないなどを行って軽くて済むように願ったのである。その親の願いの中に、この病気の固有名をつけた『疱瘡地蔵』があった。

 そこでちょっとオイラは想像する。もし今流行の武漢ウィルスによる疾病が江戸期に大流行したとして、はたして、この固有の名前を持った、例えば『殺路無地藏』(コロナじぞう)のようなものが作られたであろうかと。まず作られないだろう。江戸期にも流行性感冒は十数回大流行する(よく引用に出す内務省衛生局の報告にもある)、少なくともスペイン風邪くらいの悪性度があったものもいくつかあった。しかし風邪地蔵というのは聞いたことがない。疱瘡のほうが悪性度がダントツに高く、子供がかかったためであろう。それから考えると、軽い風邪様で8割が自然治癒し、また重症化して死ぬのは高齢者がほとんどということを考えると江戸時代に武漢ウィルスの疫病が流行っても『殺路無地藏』(コロナじぞう)は作られなかったであろう。

 明治生まれのバアチャンからワイのチンマイ時に聞いた疱瘡地蔵はまだ昭和30年には辛うじて残ってた。他の徳島の田舎でも疱瘡地蔵は何体かあったはずであるが、疱瘡は種痘の普及とともに事実上国内から姿を消し、地球上からも30年ほど前に撲滅されてしまった。だから疱瘡地蔵も用途を終わり別の名前に変わったり、また撤去されたりした。今現在、徳島で調べても「疱瘡地蔵」は見つからなかった。全国に網を広げて調べるとヒットしたのが、奈良県柳生町にある『疱瘡地蔵』である。下がその現在の様子、今は覆い屋の中にある。

柳生の里、疱瘡地蔵

 摩崖仏になっているためその彫られた大石の表面を見るとこのようになっている。

 まぁ~、よくまぁ~、疱瘡が撲滅されこの地上から姿を消して三十年もなるのに疱瘡地蔵という名が残ったものだなぁ。と感心する。地蔵そのものは残っいても、時代とともに変わる願人のリクエストに応じて、失禁地蔵(ションベンのトラブル)、ボケ地蔵(老人性痴呆)やポックリ地蔵(寝たきり老人)と名を変えてもよさそうなものなのにと、思うが・・・・・
 ところがこの疱瘡地蔵そんじゅそこらの地蔵とは違って超有名なのである。鎌倉期に作られた伝統のあるものであるが、超有名なのは、高校のどの日本史の教科書にも載っている疱瘡地蔵なのだ。注目されるのは疱瘡地蔵さんそのものではない。この横に短冊形にある文言である。大石にレリフした地蔵さんの横に文言が刻まれていて、それが高校日本史の教科書にも取り上げられているのだ。
 この部分

 この疱瘡地蔵の碑文は、室町時代に頻々と起った「一揆・徳政」の事件の生きた資料なのである。碑文の文字は素人(国人、農民など)が彫ったのだろう、たどたどしく拙劣な文字で漢字は少なくカタカナで書かれてある。次のように書かれてある。

『正長元年(1428)ヨリ、サキ者(は)、カンヘ(神戸)四カン(箇)カウ(郷)ニ、ヲヰメ(負目)アルヘカラス』

 どういうことか簡単にいうと、

 「この年から以降はなぁ、この神戸(かんべ)郷(村落)四か所にある負債・借金は全ぇぇん部、棒引き・帳消しやでぇ、これお上に正式に認められ、宣言されたもんやさかい、四の五の言うんはナシや、念のためこの疱瘡地蔵の横にしっかり刻んどくから、みんなよ~見ぃや」

 室町期は庶民ばかりでなく上層農民、国人といわれる土着の武士でさえ、金融業者、土倉、酒屋などから金を借りてその支払いに困っていた。困窮はさらなる別の負債を生み、悪循環で負債はどんどん増えた。そこで都、地方のそれら大勢の人々が一味同心(一揆という)し、わ~~っと集団で(たぶん武装もして)京都室町にある幕府の役所に押し掛けて、デモンストレーションし、幕府から公式に「借金・負債、全部棒引き・帳消し」という宣言を出してもらうのである。お上(政府の)正式な宣言だから法的実効性は保証される。困窮のもととなる借金負債は無くなったのである。

 この政策(下から強要されたものだが)は、庶民、地方人、借金に苦しむ武士などには福音だが、貸した者らにとってはたまらない。いくら前者が多数で後者が少数とはいえ、かなりな悪手である。でもこの時代の人はこの政策を「徳政」(徳のある政治)とし、その宣言を「徳政令」と呼んだのである。あえて解釈するなら多数派が喜ぶからだろうか、この「徳政」は文言どおりなら素晴らしい意味を込めている。確かに生活苦から借金を重ね、借金が膨らみどうしようも無くなった庶民から見れば徳政に違いないが、恐るべきしわ寄せを被る人がいる。

 今現在日本も含め世界でこのような徳政(負債借金帳消し)という政策をとることは可能であろうか?もちろん非常時・緊急時にはそのような選択肢もあろうと思われる。いま世界にある国家の中には国家は絶対的主権をもっているからどんな政策をも行使できると信じている国家もある(旧共産圏諸国など)、そんな国ならば躊躇なく可能だろう。だがこれはそうとうな劇薬処方である。ある症状を抑えるために用いるが、ひょっとして副作用で死ぬ可能性のあるような劇薬である。

 現在の日本でも政府がその負債を肩代わりするような負債帳消しならば、形を変えた「徳政令」として現在の日本でも認められるかもしれない。事実、このような形を変えた「令和の徳政令」を希求する声が多い。国民すべてに金を支給せよ、というのはその最たるものである(他にも休業、損失を遍く補償するというのもある)

 疱瘡地蔵を調べていて中世の正長の徳政令に注意を向けられた。そして今、疱瘡と同じ伝染病の蔓延の中、なすすべもない人が大勢いる、そんな人は『殺路無地藏』(コロナじぞう)でも作って拝む以外ないのだろうか。いや、素晴らしい徳政令が発布され、人々は救われるかもしれない。数百年後、記念碑的に建てられた『殺路無地藏』(コロナじぞう)の横には「令和の徳政令」が刻まれているかもしれない。
 
ここからはワイのつぶやき!

 まあ、酢だの蒟蒻だのといわんとなんでもぇぇ、10万ちょうだいな、ほかはしらんが、ワイは喜びのあまりお上に向かって
 
~うれしやぁな~、令和の御代の徳政令~、いよ~、(カッポン)、降るわ、降るわ、黄金の雨ぇ~~~、ちゃりちゃりちゃりんと、なりひびけ~、いよぉぉ~(カッポン)

 と令和の徳政を讃える翁の延年の舞を舞い踊るわ。

2020年4月15日水曜日

百年前のパンデミク その7 当時の新聞を読む(大正7年)

 徳島の地方紙の大正7、8年は全部かけているので、東京朝日新聞を読む。記事は東京都下、全国の大きなニュースが中心だが、大正のパンデミクはどのようなものであったか知る手掛かりとなる。内務省衛生局報告書(スペイン風邪流行の記録)なども参考にしながら読んでいく。

 報告書によれば初発は大正7年10月中旬となっている。新聞に流行性感冒の記事が登場するのが10月22日だ。

 10月22日
これを読むとまだ新型の感冒・スペイン風邪は広がっていない。記事は感冒(風邪)一般の注意である。寒くなるので普通の風邪も多いが流行性もあることを記している。まだまだのんびりしたものである。おまけに今年の風邪は肺炎の併発もあまり起こさないとまで書いている。

 ところが10月30日になると

 10月30日
上記の日から10日もたたないうちに爆発的に患者が広がり、派出看護婦の要請が続き、あまりにも申し込みが多かったため看護婦が払底してしまい、その要求に応えられない事態になっていることが書かれている。今だと、医療崩壊か、という見出しが躍るだろう。
 また続く欄は軍隊における猖獗、学校内蔓延による秋季の運動会や遠足の中止を伝えている。どちらも集団感染による罹患者の爆発的増加があったためである。

 それからつづく下欄にはこのような記事がある。
見出しには、素人療法、とある。素人療法は危険なので医者に見せよ、と書いてあるのかと思いきやさにあらず、家庭内ではこのように療養あるいは予防すべきだという指針が書いてある。大正期に庶民は風邪など医者に見せず治していたのである。当時は医療保険などもなく医者の敷居は高かったのである。この記事で注目するところは、感染は飛沫だけでなく、患者の被服などからも接触感染すると書いてある。咳クシャミだけに気をとられてはいけない注意であるが、これは今日でも注意したいところである。
 死亡率は千分の二とあるが、これは例年の流行り風邪の場合である。まだ本当の死亡率の高さは知られていないことがわかる。だが記事ではすでに流行しているインド、アメリカでは大きな死亡率を示していることに留意している。

 11月5日
看護婦不足に続いて風邪薬の暴騰、品薄が続く。読むと、当時風邪薬の最も一般的で信頼できるものがアスピリンであったのがわかる。風邪の大流行による需要大に加え、(世界大戦)によるドイツからの輸入が途絶えたこともあり、なかなか供給が上手くいかず、価格も暴騰したことが書かれている。

 そして同日の下欄には、スペイン風邪によって家族全員が倒れたことが書かれている。まず身重の妻が死亡、後を追って夫も亡くなる、四人の子供も倒れ、うち二人は重体とある。夫は大財閥の三井の支店長代理というからセレブである、そのため記事にのったのであろうが、スペイン風邪は上級市民でも容赦しなかった。その他名もなき大勢の家庭内でも大変なことになっていたと推測される。

 11月7日
スペイン風邪は、益々猖獗を極めると、最大級の形容で感染が広がったことを報じている。軍隊は24時間大勢がすごし、寝泊まりする兵舎などはまさに三密の環境である。爆発的蔓延もうべなるかなである。この記事の左下にこのスペイン風邪の病原菌のことについての記事があるのでそちらに焦点を当てて次に読んでみよう。
おおぉぉ!今回流行の病原菌が北里研究所(当時もっとも有名な医学研究所、今もその系譜を引くのが北里大学である。)で確かめられたとある。その病原体は1892年にドイツのパイフォル氏が発見した菌と同じものであることがわかったというのである。病原体が特定されるとそれを培養処理してワクチンができる。感染予防に大いなる力を発揮する。この菌は記事にあるように16年も前に発見され、実はワクチンも存在していたのである。

 だが百年後の知見をもって見ると、これは誤りである。今ではみんな知っているようにこのスペイン風邪病原体はウィルスである。上述のパイフォル氏の菌は細菌で今日ではインフルエンザ菌(インフルエンザウィルスとは別物)と呼ばれ形状は桿菌(棒状)で光学顕微鏡で見られる(ウィルスは電子顕微鏡が発明されるまでは見られなかった)ものである。寒天培地でも増やすことができる(ウィルスは生きた細胞内でのみ培養できる)。だからこのパイフォル菌(細菌)のワクチンを接種してもスペイン風邪には効かなかった。

 スペイン風邪が猛威をふるい重症者、死者が増えるに従い、中小の製薬会社の中には怪しげなワクチンを製作して問題を引き起こしていた。それが次の記事である。

 11月15日
有用な菌(上記のパイフォル氏菌)ばかりでなく、雑菌が含まれていて接種した人に副作用が出たとある。今日でいう薬害である。このような注射液に雑菌を含むとは言語道断である。製薬会社の談として、他の製薬会社の反感(嫉妬)を買ったのだろう云々、と信じられないようなことが書かれている。疫病の蔓延に付け込んで商売していると非難されてしかるべきだが、そんな厳しさは記事からはうかがえない、この時代だからだろうか。

 そのスペイン風邪の病原体パイフォル氏菌説に対する疑問の記事である。なかなか学術的な記事である、このような疑問、検証などがやがて濾過性病原体(ウィルス)の発見に結びついていくのである。

 11月25日(二枚続き)
記事を読むと元凶はパイフォル氏菌(インフルエンザ菌)※ウィルスとは違う、と双球菌(肺炎を起こす)の二つを挙げている。パイフォル菌が主か、二つが混合して流行しているのか、という議論がある。また大流行の感冒の病原体は未だ確認に至っていない特定するのは早急であるという意見も強くあることがわかる。この記事の印象ではスペイン風邪の病原体は断定できないというのが結論のようだ。