2020年4月12日日曜日

百年前のパンデミク その5 この時の徳島をふりかえって

 今とほぼ同じの県民総人口で、一回目(実質3ヶ月間の山)のスペイン風邪が終息したときの死者が4.422人(もちろん我が一県だけで)である、当時の県民の恐怖・不安はどれだけ大きかっただろうと思うが、その推測も現代から見てのものである。今現在日本国内でパンデミックの武漢ウィルスが広がっている。現在の全国内の患者は6千余、死者は約百人となっている(米、J・ホブキンズ大の調査資料、4.11日時点)。その人数でもこの恐怖・不安、そしていささかのパニックである。我々が大正・徳島のパンデミックの影響ををそれ以上に大きく見るのは当たり前である。しかし確かに社会不安、人々の恐怖、などあったに違いないが、それはいま我々が推測するものよりは小さかったであろうと思われる。なぜ人々の恐怖、不安が我々の想像より小さいといえるのか、いくつか挙げてみたいと思う。

 その資料の一つとなるのがたびたびあげてきた『内務省衛生局』のスペイン風邪流行報告書である。以下その報告書に基づいて述べる。

 疫病の大流行は短期間に多くの患者・死者を出す、それが社会不安・恐怖・パニックとなるのだ。中世末・西欧に広がった黒死病(ペスト)は一年余の間に西洋の総人口の三分の一(一説には半分)を死に至らしめた。年代記には疫病のため全滅した村々があることを記している。全員死亡ではないかもしれないが地域共同体が再生不可能な人数までに減ったと考えられる。恐るべき死者数である。共同体は死ぬ人、生まれる人、そして働く人のバランスの上で維持され成り立っている。共同体が壊滅するくらいの死者となればおそらく死者数は平年の数十倍の規模であろうか。もし5倍、いや10倍かな?くらいまでなら恐怖にかられながらも何とか共同体は維持できるかもしれない。そのように考えると平年より死者数がどれくらい多いかを知るのは、どれくらいこの疫病が人々に心理的社会的影響を与えたか知るバロメーターになる。

 ではこの大正のスペイン風邪はいったいどれくらいの割合で人の命を奪ったのか先ほどの資料を見てみる。見る数値は「人口千人当たりの年間死者数」である。年を順々に見ていけば少しの誤差はあるが、疫病が大流行しない限りは大きい変動はない。その死者数割合で見てみる。ところが残念なことにこの資料には徳島限定の年次「人口千人当たりの年間死者数」は載っていない。しかし全国統計があるのでそちらを見てみよう。

資料は大正6年度と大正7年度を比較している。一回目スペイン風邪流行は大正7年秋に始まり次の春には終息に向かっているので年度で考えれば大正7年度内に収まる。そして前年の大正6年はまだスペイン風邪は国内に入って来てないのでその年次間の死者数の差や比を見ればよい。左にその全国合計表をあげておく。この数から比をとると、大正7年の死者の増加率は約25%である、前年より約1.25倍である。これはちょっと意外な感じがした。数倍はあると思っていた。この意外感は何だろう。

 それは現代の目でもって見ているからだろうと気づいた。このあまり大きくない増加率は決してスペイン風邪で死んだ人の数を過小評価しているわけではない(徳島では一回目で約4500人もなくなっているのだ)。そうではなくてスペイン風邪で死ぬ人も多いが、そもそも毎年普通に死亡する人が多いのだ。当時は平均寿命も今よりウンと短く、子供の死亡率も高かった、土着したような感染症(肺結核、はしか、赤痢、チビスなど)で亡くなる人も例年多く、呼吸器、消化器系の細菌感染症で亡くなる人も今よりダントツに多かったのである。だからスペイン風邪で4500人も死んでも前年との増加比率は1.25にしかならないのだ。だから私が思うほどには大正時代の人々は悲惨さを感じていなかったのではないだろうか。

 もっと詳しく知るため、この1.25倍の死者増加率が県民の心理、生活にどのような影響を与えたのか、当時の徳島の地方紙のストックがあればよいが、県、市の図書館の資料には欠けていて(この前後二三年がかけている)知る手掛かりはない。しかし全国紙は当時の復刻版があり見ることができる。そちらも主な記事はコピして、おいおいブログでも紹介しようと思っているが、それをみて確実に言えることは、今進行中の「武漢ウィルスのパンデミク」よりは民衆の恐怖、不安あるいはパニックが大正のほうがずっと小さいということである。これは徳島も同様であると考えられる。

 当時の新聞の最大関心事は第一次世界大戦(大正7年の秋に終わった)の終結と講和に関することである。欧州に比べると戦死者の数は殆ど無きに等しいくらいだったが、日本は戦勝国となった。日本は一等国であり世界の五大国の一つと言われ始め、国民の自尊心をくすぐるようになった。独仏などは戦場となり荒廃が広がり経済が落ち込んだうえに日本を倍するくらいのスペイン風邪の死者である。それらの比較も新聞を通じてしり、彼我の違い、そして日本の幸運を思った。これは国民の心を明るくさせ気分を高揚させる好材料であった。

 また景気であるが、スペイン風邪の防疫措置として当局は、最盛期に蔓延を防ぐ目的で工場、企業の一部に一時休業を要請したことはあるが、今、日本や世界でとられている大規模のものではなく、多くの死者を出したにもかかわらず経済活動は停滞しなかった。それどころか欧州が戦場となり供給が途絶えたのに乗じてむしろ日本は各種生産が活発になり好景気に向かいつつあった。徳島もこの時期はいろんな産業が活況を呈し、木工業や製糸業などが延びている。好景気も国民の心を明るくさせ気分を高揚させる好材料であった。

 最後にこの資料(内務省衛生局報告書)の中に唯一、徳島県の保健行政に関する記述があるので紹介しておく。

徳島県 民衆の多くは前流行時には本病の性質を理解せざる為め医療を怠り多数の重症者死者をだしたるに鑑み後流行時には一般に自ら警戒する処ありしも救療に関しては一層之が督励に努め貧困患者に対しては恩賜財団済生会の救療を為し一面山間其の他地方医の配慮不十分なる個所等に対しては特に技術員を派遣し予防接種の傍ら一般患者の診療に従事せしむる等専ら医療の普及に努めたるが尚名東郡佐那河内村は山村にして面積広く多数の患者発生したるに医師の乏しきを以て技術員を派遣救療せし外特に徳島衛戍病院に交渉して軍医の派遣を乞い救療の普及を計る等遺憾なきを期したり

 県民の衛生の啓発、貧窮者や医者のいない僻地の対策処置、特に感染の広がった医者の少ない地域である山村の特段の措置を報告している。これを見ると少なくとも二回目流行以後は「予防接種」があったことがわかる(予防接種の効果については今後もブログで取り上げるが結果から言うと、ほとんど効果はなかったのである)

 こういう昔のことを知る手立ての一つとしていわゆる「古老の話」などがある。昭和の大戦などの近い過去の歴史を知るうえで重要な手段であるが、なにぶん百年の昔は古すぎる。ワイの知り合いのお父っつぁんが今年満101歳になるが、その人でさえ生まれたのは二回目の流行時であるため話など聞きようがない。ワイはジイバア子で祖父母に育てられた、その祖父はこのスペイン風邪流行時、20代の青年であった。もちろんその大流行を経験したはずである。生きていたときにそのスペイン風邪のことの一端でも聞けていたらと悔やまれるが、いまさら遅い。昔話は結構してくれたが今ワイの記憶にその病気流行時の話はない。でも子供の時、なぜか富山の薬売りはんの売薬箱とは別に、胃腸薬は1ポンド入りの瓶で、そしてなぜかアスピリンも味の素様の結晶のまま半ポンド瓶に入れて買っていて備えてあって、何かというとその胃腸薬とアスピリンは(目分量ではかって)飲まされた。なんでアスピリンだけこんな瓶で買って備えてあるんだろうと不思議に思ったものだが、実は先の内務省の資料の治療・薬剤の部の一番最初に挙げてある薬が「アスピリン」である。もしかするとスペイン風邪の時の経験から(当時の全国紙の新聞紙面にはアスピリンの需要が多く売り切れ続出とある)、家の常備薬としてアスピリンの瓶入りが置かれ出したのかもしれない。それもいまさら確かめようもないが。

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