2023年2月28日火曜日

小松島まで貫歩(歩き通す)

  貫歩(かんぽ)という言葉は一般的な言葉ではない。もう半世紀以上前に、大学の新入生歓迎コンパの一環だろうか、「夜間かんぽ」というのがあり、新入生でもあった私は、訳のわからんうちに強制的に参加ということになった。「夜間かんぽ」とは、宵のうちにある地点までは列車で行き、そこからみんなが一斉に、途中からは三々五々にバラけながら、夜通し歩き通して夜明け前に目的地である大学構内にある学生食堂に着くというものである。その時は「かんぽ」とはどういう字か意識しなかったがたぶん「貫歩」という言葉から来ていると思う。

 年によって出発地は違っていたが行きは列車なので、だいたい徳島線沿いの駅か牟岐線沿いの駅であった。私が参加した年は、牛島駅集合で、そこから少し北へ向かい吉野川の南岸土手の道を夜通し徳島の常三島まで歩くのである。日付は正確には忘れたが春の遅い頃であった。まだ入って間もない新入生同士だったが、一晩中歩くのであるから、何人かで群れて歩いているとけっこう話が弾む、ポータブルラヂヲを持ってきていて流している学生もいるから、流れる音楽に聴き入ったり、音楽についての話題などでも盛り上がり、親密さも増すというものだ。女子も参加オーケィだったが、いたよ~な、いなかったよ~な、はて?少なくともワイの歩く周りでは見た記憶はない。深夜の土手の道で男子学生同士だけであったが、それでもウキウキと楽しかった。参加するまでは、えぇ~一晩中あるくのぉ~ 、と不満タラタラだったが、終わってみるといい青春の思い出として今も心に刻まれている

 さぁそれから半世紀以上たった今日!72歳のジジイが貫歩をやった。学生時とは違い、昼間、そして一人歩きである。文化の森駅から小松島までひたすら歩いた。学生時の牛島~徳島常三島よりは距離は短いが、なんせ70過ぎのジジイなのでそこはこらえてもらうとして、今日のブログはジジイ貫歩である。ブログにするにあたっては、なにぶん途中で撮った写真が多く普通にテキストに貼りつけるとブログの容量を超えそうなので、今日は各地点の写真を「スライドショー」にしました。よかったらご覧ください。(なお、このスライドの中に「鵜」ではないかと指摘した鳥がいます。見たところ成鳥ではなく、鵜の子どもと見ましたが、違っていたらごめんなさい、野鳥はあまり詳しくないのです。でもこの園瀬川では、潜水する鳥がたくさんいます、鵜の仲間とは思うのですが

2023年2月21日火曜日

太古、そして古代、阿波の歴史ロマン

  『太古』、『古代』と同列に並べ歴史ロマンと言ったが、歴史といってもこの二つは次元と言おうか、その対象が大いに違う。『太古』は100万年を一単位とするような時代で、対象は「地質時代の生物の歴史」である。『古代』のほうは「日本列島の人」の歴史で100年、いや10年刻みで記述されうる弥生時代の歴史である。

 前々日とはうってかわってあられが降るような寒い昼頃、眉山麓の天神社へ紅梅を見に行ったがせいぜい二分咲きくらいで被写体にはならず、社殿の石段をひきかえしてきたが、あまり寒いので石段下横にある阿波踊り会館に入った。そこで二枚のビラと何やら奇妙な生き物の模型が目に入った。


 「これは一体なんだろう」、恐竜のようでもあり、恐竜の手に当るところをよく見ると羽のようにみえから原始的な鳥なのか。高校の時、地学の教科書に載っていた「始祖鳥」のようだ。そうすると恐竜でもありまた鳥類の祖先か?下にビラが貼ってあった。

 

 ビラをよく読むと、一億年も昔に生息していたイグアノドン類の恐竜の模型のようだ。県南の勝浦町で昔から恐竜らしき化石が発見されていたが、だいたい骨のごく一部で全骨格が見つかったとは聞いていない(世界でも全骨格が見つかるなどは希なことらしい)、恐竜らしきものの一部の爪や歯から地質時代の歴史好きの人は、個々に想像力を働かせて、こんな恐竜だったんじゃないかとそれぞれ頭の中に想像上の恐竜を描いていた。まさにそれがロマンである。

 しかし、このようにずいぶんとリアルに再現すると、え、ほんとかな、科学的根拠はあるのかしらん、と思ってしまうが、このリアル恐竜再現もまたロマン(多分に観光としての魅力)じゃ、と目くじらを立てることでもあるまい(学術論文じゃないんだからな)。

 恐竜も昔想像していたのと現在とでは大いに違ってきている。昔のイメージの恐竜では皮膚はうろこ状で、蛇、ワニ、トカゲのようで、色は暗色(灰色、黒茶など)の一色(腹のみ明色)だった。しかし、最近の研究の成果か、恐竜は実は、現在生息している鳥のように、派手な色彩を、それも縞、まだら、各部分それぞれに色を持っていたという説が有力になり、さらには上のように皮膚は羽毛も生えていたとされるようになった。

 それで上にある勝浦出土の恐竜さんはまるでトラさんかキリンさんのような模様をもっていたように想像されている。疑ったり、突っ込みを入れようと思えばできそうだが、これも太古のロマンとして、私は受容したい。

 そして次は弥生時代といわれている「古代のロマン」である。ここ阿波国に天孫降臨の地があったというのである。これは阿波に「邪馬台国」があったというのと同じ郷土史の古代ロマンである。恐竜のビラの次に見たのが下のビラである。


 うぅ~ん!なんと言っていいのか、真ん中の、美豆良を結い、七支刀をもつ太めの古代人らしき人をみると、思わず微笑んでしまった。こういう兄ちゃん好きやわ。取り囲む(どこかで見知ったひともいる)皆の笑顔もいい。十年以上前に、神山が卑弥呼の里とかいって、卑弥呼らしい美女の御当地ビラをみたが、そうすると、阿波天孫降臨地説だと、この古代人の兄ちゃん、神武天皇と言うことになる。見たところやさしげなパパで、まつろわぬ熊襲だの土蜘蛛だの、退治したようには見えない。笑いと和でもって仲良く統一したのかもしれない。

 これもまた、学術的には云々かんぬん、などと固くならずに、一つの夢多い我が郷土の歴史ロマンとして楽しんだらいいと思う。ビラのタイトルの横にはちゃんと「フェスタ」とあるから、まぁ歴史ロマンの楽しい祭りである。なおもおもしろいのは(?失礼)、協賛する阿波古事記研究会の支部の多さである。ビラの下にあるが106も支部があって、よく読むと今ホットな話題の国、ウクライナ古事記研究会というのがある。いやぁすごい研究組織である。

 太古ロマン勝浦恐竜は、今週末から始まる「勝浦ビッグひなまつり」の一環として取り上げられるようだし、古代ロマン(阿波は)天孫降臨の地フェスタも今週末の土曜日にある。もし私に孫でもいたら、どちらにも連れて行って喜ばしてやれるだろうが、独居ジジイではしかたない、行く足もないし入場料もいるので今回は遠慮する。

2023年2月20日月曜日

春一番

  昨日は「春一番」が吹いた。知ったのは夕方のローカルニュースであった。昨日、朝は少し雨がぱらつき、その後晴れた。昼頃には風が少し強くなった。しかし風には冬の気は感じられず、吹かれた体の感覚としては「春の強風」だな、である。その後、春一番だったとわかったが、なるほど、確かにあれは春を強く感じさせる風だった。

 このように「春一番」は今では、春の暖かさを感じる突風的な強風と言うように理解している。とはいえ、私が、春先の強風がそれであると独断でわかるものではない。気象庁の発表を待って、ああ、あれがやっぱそうやったんや、と認識している。昨日の気象庁によると、去年は「春一番」吹かなかったようで二年ぶりといっていた。

 この「春一番」という語彙、知ったのはいつ頃だろう?学習や経験とともに語彙量がうんと増える高校生になっても私がこの語彙を知っていたという確証はない。もしや聞いたことはあるにしても、春一番という言葉を自ら使ったことはなかったし、高校生の頃吹いた春先の強風を「これが春一番では」と疑問に思ったこともなかったと思う。俳句が好きなこの頃の高校生はもう知っていたのかしらん?俳句の「歳時記」には当然入っていたろうなぁ。それにしてもこの春先の強風、春先の最初に吹くから一番と名付けたのか?でも初冬に吹く「木枯らし」は「木枯らし1号」という。春も「春風1号」でもいいような気がするが、なんかJRの春の臨時列車の名前みたいでやっぱ春一番がしっくりするか。

 そこで語源を調べると、意外や意外、なんとこれが新しいのである。幕末も幕末、ペリーが浦賀に黒船で来てからさらに6年も後、1859年、ある海難事故があった、それまでにも九州西岸の漁師たちの間で春先の、船を転覆させるような危ない突風を伴う強風を「春一」、あるいは「春一番」と呼んでいたが、それ以後、全国に知れ渡る名前となった。なるほど、まだ生まれて150年、それも最初は九州西岸のローカルな地域での言葉だから、全国的に知られるようになったのもずっと後だろう。「歳時記」の本に取り上げられるのも明治以降だろう。

 でも、気象用語とは別の方面から、この「春一番」は私の頭のなかにしっかり刻み見込まれた。時は昭和51年、私は満25歳、ある音楽を聞いたからである、高校から大学、そして収入を得る社会人となるに従って音楽を聴く媒体は、ラヂヲでの深夜放送の歌から、レコードプレーヤー、そして出始めたラヂヲカセットテープレコーダー(いわゆるラジカセ、録音できて好きな曲をラヂヲから録音も出来た)と進化していったが、そこから昭和51年春流れてきたのが、キャンディーズの「春一番」、陽気で楽しく、モテなかった陰キャラの私でもなんかいい恋ができるような雰囲気にさせられる歌だった。一度聞いてすっかり好きになってしまった。

  私は後に出演した映画の影響もあって伊藤蘭ちゃんのファンだった。歌にときめくにはその時25歳でちょっと薹がたっていた。だから当時は、この歌大好きとは公言できなかった。一番はまってもてはやしたのはこの頃高校生くらいの子だったんじゃないかな。でもそのときの高校生も今は60代半ば、もう半世紀に近い昔だ。

 でも、今聞いてもなんか楽しくて陽気でいいよなぁ。(上にヨウツベを張っておきます、クリックして久しぶりに聞いてみてください)

2023年2月18日土曜日

映画『太陽の子』を観ての感想

 一昨日、なにか面白い映画DVDはないかとビデオ屋に寄った。特に見たいものはなかったのだが並んでいる棚に『太陽の子』という映画DVDを発見した。そうだ!一年前に新作でリリース開始の時、旧作落ちしてレンタル料が110円になったら見ようと思っていた映画だ。すっかり忘れてた。リリース開始から一年たつので旧作コーナーにある。さっそく110円で借りた。

 すこし期待していた映画なので、いつもなら二週間のレンタル期間のあるDVDはなにゃかやと他のことをしながら、中断しつつ見ていたが、二時間弱の映画を一気に最後までみた。見終わった感想としてはかなりいろいろのことを、それもさまざまな分野において考えさせられる映画だった。そのため見終わったインパクトは最近にはない強烈なものであった。


 映画の範疇としてはこれは戦争映画になるのだろうか。太平洋戦争中、陸軍からの依頼ないし命令により、空前の破壊力を持つ原子核の力を利用した新型爆弾の研究(つまり今日でいう原子爆弾のことである)を託された京都大学の核物理関係研究室の教授とその院生の研究チームの話である。主人公はその研究チームの若き院生であり、映画はその院生に焦点を当てながらも、研究チームの実験研究の困難さ、そして都市を一発で破壊力する爆弾を作るについての是非(あくまでも是非、それは複合的な視点から見ていて、単に人道主義に基づく善悪感のみからの視点ではないところがいい)。そして主人公の家族のエピソードなどで構成されている。

 戦争映画ではあるが、悲惨な戦死の場面や、空襲で一般市民が殺されるシーンなどはない。しかし広島に原爆が投下されたあと研究チームが焼け野原の市内で調査するシーンがある。そこでもう無機物と化した被爆者の骨片を拾い、放射能の測定にサンプルとして持ち帰る場面、そして多くの遺体を集め火葬にするが猛火の中遺体の形は定かではないが、五本の指のある手らしきものがチラチラ見える所などは、戦場での戦死や空襲で逃げ惑いつつ死ぬシーン以上の恐ろしいものがある。

 リアルな戦死や空襲死などはないが市井の空襲時の防火のため否応なく強制的に家を取り壊すシーンがあり、京都市は結果的には空襲はほとんど受けなかったが、京都市でも戦時中は防火域設定のため家の強制取り壊しがあったことがわかり、防空壕とともにそのような空襲対策があったことがわかる。

 単なる反戦映画でないことは、院生(大学院)たちが原子核の実験教室で、原爆の是非について人道悪というような観点から(これなどはまったく現代から見た視点だが)ではなく、まず第一「果たして理論的に可能なのか、そしてそれをどのように具体化したらそのような爆弾ができるうるのか」、を議論し悩む。当時の厳しい戦時経済下、原材料、実験用具、進んでは大量生産の段取り、膨大な電力、などどれをとっても不可能に近い貧弱さである。院生・研究者の中には不可能だという者もいる。ただ可能である道筋つまり核分裂物質の生成の具体的方法、もちろん原料確保もだが、そのプロジェクトの青写真が出来れば、軍部は起死回生の兵器として、今以上に物量人員を投入してくれる、という意見もあり、結局、それが半々の意見となりながら核分裂の物質の精製に努力するのである。

 その議論の中である研究生(院生)が原子爆弾の威力を計算している、そのなかでもしアメリカのサンフランシスコでそれを使えばおよそ20万人が死亡する、という、すると別の一人がいや僕の見積もりでは30万だ。議論している若者は皆一様に驚く、一人が「こんな兵器は許されていいのか」と当然のことを口にする。それに対し別の一人は「もし我々が完成しなければアメリカが作り、またソ連も作るだろう。日本がやらなくても世界の大国はそれを作り戦争に使用する」という。これに反論できるものはいなかった。(実際アメリカが真っ先に完成すると、敵である日本に躊躇なく使った)結局、議論は、「なんとか日本が完成すれば戦争は終わる」というものであった。この最後の言葉は意味深である。これはもし軍部がきいたら、今まで想像も出来なかった一都市を一発で荒廃させる爆弾の完成で「大日本帝国が勝てる」という意味に取られるだろうが、この議論中の若き科学者の考えは、そうではあるまいと私は思っている。その心は「日本が完成させられるなら、科学者が多く物量も桁違いに多いアメリカも当然完成させるだろう、そうなる日本とアメリカは相互に核を持つことになる。相互に使えば、両国とも都市は全滅になりかねない。だからこれはむしろ完成された時点で使えない究極の兵器となり、戦争遂行にはお互いにブレーキがかかるはずだ、つまりもう戦争は出来なくなる」と私は読み解くのである。

 このような言説を映画の中で聞いたわけではないが 「戦争が終わる」という若き科学者の言葉に、原子爆弾の製造に関わる科学者の、ある「良心」いやそれは「言い訳」かも知れないが、そのように私は解釈したいのである。上記の「・・・お互いにブレーキがかかるはずだ」のフレーズは、冷戦期に「核抑止理論」に発展する。戦後、アメリカに続いて1949年ソ連が原子爆弾開発に成功する。その時点で米ソの一方が戦争で核を使えば必ず報復される、そして国全体が破壊されるだろう。それがブレーキとなって米ソは全面戦争が出来なくなったのである。

 これは戦後何十年かたって、ある日本のジャーナリストがオフレコということで、まだ生きていたアメリカの軍の当時の戦略政策の立案者であった高級軍人に次の質問をした。

 「もし、1945年8月の時点で、日本が原子爆弾を持っていたら、アメリカは広島に原子爆弾を落としましたか?」

 ときくとその軍人は、「いや、おそらく使わなかっただろう。同等の被害をアメリカ西海岸の都市に受けるのはアメリカは耐えられない。」といったという(これには大型爆撃機を日本が有しているという前提もあるが)。映画の中で日本の若き科学者の、「原子爆弾が完成すれば戦争が終わる!」と言ったことが、これに結びつくかどうかわからないが、少なくとも(米将軍の言葉を信じるなら)広島、長崎の被爆はなかったはずである。

 また研究室の指導教授は次のようなことをいっている。

 「日本はエネルギーの問題で(米の石油禁輸が戦争の引き金になったのはよく知られている)戦争になった。もしこの桁違いに大きい原子核のエネルギーを取り出すことが出来ればエネルギー問題は解決するだろう」

 と原子核のエネルギーを爆弾以外にも使えることを示唆している。これは後の原子力発電の事をいっている。

 ここまで書くと、ちょっと京大核物理学研究室を大げさに描きすぎているんじゃないかと思われようが、彼らは軍人ではなくあくまで科学者である。また京大の伝統として反権力がその底流に、たとえ戦時であっても根強く残っていたであろうことを考えると、好き好んで大量殺戮兵器を積極的に作ろうとしたとは思われない。理論の不完全性を埋めるためさらなる研究を(といいつつズッと引き延ばす)、とか、また原料不足を言い訳に、ほぼやる気がなく、ただ、研究室自身の目的、すなわち核物理学の学問的な研究の深化が第一目的でなかったのかと思われる。後に紹介する最近のアメリカの学者の日本での原爆研究に関する著作をみると、そもそも京大の研究教授や研究生には原爆完成の意欲などほとんどなかったのじゃないかと指摘されている。また教授が若き科学者を戦地にやりたくない目的のためこの研究計画を利用したことも事実である。

 映画で描かれる研究の困難さは、核分裂を起こす「ウラン235」、天然ウランにわずか0.7パーセントしかないのを取り出す装置を作る実験に終始する。失敗の連続である。また心当たりのある有用なウラン鉱山もない中、原料としては陶芸の釉薬につかう黄色顔料がウラン酸化物なのでそれを手に入れるところから始まる。お話にもならないわずかな量である。この研究室では濃縮は「遠心分離法」によっている。ただ実際にウラン原爆を完成させたアメリカは六フッ化ウランを気化させ、拡散法によってウラン235の大部分を生産している。日本でも六フッ化ウランを作り拡散法も研究されたようであるが、映画では描かれない。この「遠心分離法」はまったく無駄かというとそうではない。現代では北朝鮮やイランが行っているウラン235の濃縮は主に「遠心分離法」である。

 このような遠心分離装置製作の困難以前に、ウラン原料が陶芸のわずかな黄色釉薬しか手に入らないのではまず入り口から無理である。たとえ(今では当時の日本の植民地であった北朝鮮にウラン鉱山があるのがわかっているが)原料が大量に手に入ったとしても、装置を大量生産し、ウラン濃縮工場をつくるのは、資金、電力、工作機械何もかもない。ほぼ絶望と言って良い。ただ机上においては原子爆弾が理論上の作成可能であることはわかっていて、この京大の研究室のレベルは高かったことは言っておく。

 戦前の日本の科学レベルについてちょっとお話ししておきたい。原爆を含めあらゆる科学機器を利用した兵器についてアメリカより劣っていたのは事実だろう。それは物量・エネルギー潤沢な国との比較ではやむを得ない。しかし、現在我々が思っている以上に戦前の日本の科学のレベルは高かった。湯川博士の中間子論はすでに戦前に論文にされていたし、核物理学の大家、仁科芳雄や長岡半太郎もいた。戦後、ノーベル物理賞を日本人が多くとるのはこの基礎があったからである。第二次世界大戦が始まり海外の核物理学論文は各国の軍事戦略もあり入らなくなって、相互研究は途絶えるが、それでも核物理学研究は日本独自にも進められた。 おそらく皆さんは知らないが、広島に落とした原子爆弾の重要な技術に日本人の発明なるものが使われていた。下の写真をご覧ください、これが広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の写真であるが、黄色の印に注意して欲しい、これYGI-antennaと米国では当時読んでいたが、これは八木アンテナのことでこれは日本人が発明したものである、指向性のある超短波の受信発信に使われるもので、原爆の垂直位置をこのアンテナを使って感知したものである。原爆はあらゆる物理化学、工学、電磁気学の集大成であるが、日本人の発明もその中に入っているのである。

 これは一つの例であるが、私は、もし政府・軍部にこの爆弾の完成に強い意志があり、有能な指導者の下大きなプロジェクトを組み、アメリカのように潤沢な資金原料があり、全科学者を動員していれば、1945年8月に間に合ったかはともかく、原子爆弾の完成の可能性は高かったのじゃないかと思っている。しかし、この仮定のすべてのものがまったくと言っていい程なく、完成は不可能だった。

 私がこの映画に副題をつけるとすると『戦時中、原子爆弾研究に尽くしたある若き科学者の物語』になる。主演は柳楽優弥、主に実験担当で実験にのめり込むタイプの若い学者である。核物理学専攻なのに高等数学の計算が苦手なのは、ちょっと御愛嬌のような気もするが、実際にいそうな気がしてむしろリアル感がある。また彼の家族の物語も多くのエピソードとともに取り入れられていて面白みを増している。彼の弟も出てくる。学問肌の兄とは性格が違う、兄は理工系で軍依頼の研究室にいるため徴兵を免除されているが、その代わりだろうか、弟は軍に志願する。そしてなぜか長期の休みをもらって家族のもとに一時帰ってくる(なぜ長期の休暇をもらえたのかは、後で明らかになる

 映画のエンドロールを見るまで知らなかったのだが、この弟の配役は三浦春馬である。そのエンドロールで彼に対する追悼文が出てきて気がついた。彼、この撮影直後に自殺していたのだ。この映画はなんども言うように戦争物にしては悲惨な場面はほとんどない。しかしこんな場面がある。兄弟と幼なじみの娘と三人で美しい海浜に行く場面である。ほのぼのとしたシーンが続くが、場面が変わるとなぜか弟が一時姿を消し、探す兄の前で弟が海岸の深い海に向かって進んでいくところがある。自殺か!と驚いた兄は海の中へ入り止める、その時の弟の台詞、「おそろしい!(怖いだったかもしれない)」「死ぬのは!」「でもオレだけが死なないわけにはいかないんだ」、このとき、彼は特攻に志願していたのである。また別の海浜のシーンでは、海と戯れる兄弟は、やがて二人とも素っ裸になり、若々しい肉体を波に打たせる。(遠景だから見づらいが)

 波に戯れるギリシャ神話のアポロンのように若い肉体を持った美しい青年は、特攻で死ぬことを運命づけられている。しかしその青年は、劇中劇のシーンのなかから外部へ抜け出してやがて自死する。これは「現実世界の中に演劇舞台が存在しさらにその中にまた演じられる舞台が・・」という入れ子構造のようである。そのなかで劇中の弟というキャラで死に、またこんどはそこから別の世界に退いてそこで三浦春馬というペルソナ(仮面)を被って自死したのである。私はそこになんともいえぬ「映画俳優の運命的な悲劇」をみる。その意味で、この映画はちょっと異質なものなっている気がしてこれらのことは強く印象に残った。

 大日本帝国は原子爆弾を完成することなく崩壊する、二発の原爆を浴び多数の死者をだしながら。歴史にイフはないし、時を巻き戻せるわけではない。アメリカのある将軍が言ったようにもし当時、日本が原爆を完成させていれば、アメリカは使わなかったろうという確証も今は意味がない。京大の研究員が言ったように原爆の完成で「これで戦争が終わる(半永久的に戦争がなくなるという解釈で)」ということはなく、その後も戦争は断続しながら今現在まで続いている。ただし、核を所有した国に対しての直接の攻撃で核所有国同士の戦争は起こっていない。いわゆる「核抑止力」は働いていると言っていい。

 大日本帝国は崩壊し、その領土は日本本土を除くと6つの国に別れた。韓国、北朝鮮、台湾の3国、そして太平洋諸国3つ(パラオ、ミクロネシア、マーシャル)である。元は帝国領とはいえ、日本本土以外はその帝国の遺産を引き継いでいるとは言えないが、どこの国とは言わないが「偉大なる北の首領さまの国」といえば、どこかいわずもながだが、この国の核兵器に対する態度をみていると大日本帝国の「核の怨念」をもしや引き継いでいるのではと疑ってしまう。最貧国の経済ながら、ただ核兵器の開発所有のみに特化し集中し、核搭載ミサイルまで完成させた。巨大なアメリカと対峙したとき一瞬で踏み潰されそうであるが、核兵器一点のカードのみで生き延びようとしている。まるで1945年8月直前に日本が核爆弾(運搬手段も含め)を完成させていたら大日本帝国ははたしてどうなっただろうか?というシュミレーションを大日本帝国に代わって自ら演じているようなものではないか。この意味でかの国は、大日本帝国の核が完成していればなぁ、という怨念を引き継いでいるんじゃないかと思ってしまう。果たして核というカードでこれからも世襲の偉大なる首領さまの国が存続できるのか。

 映画を見終わった後、ブログを書くため図書館で借りたのが下の二冊の本。

 左は最新の新刊である。当時のアメリカの核製造の背景・歴史、同じくソ連、旧ドイツ、日本帝国、などいろいろな国の核製造の背景・歴史を叙述してあるが、米トルーマン大統領の「日本のような獣をやっつけるために原爆投下は当然」などという当時の言説を読むと、胸くそ悪くてアメリカの章は読んでいない。読んだのは当時の日本における核兵器のアプローチの章であるが、こちらは大変参考になった。映画で荒勝という教授が出てくる。架空の人物であると思っていた。私の今までの理解では、日本の原爆開発の第一人者は仁科芳雄博士と思っていたが、この本によって荒勝教授は実際にいて核分裂の研究に従事していたことがわかった。

 映画の最後に、実際に戦時中、原爆開発に関わった研究者のモノクロの集合写真が出てくる。これをみてもこの映画は全くのフィクションでなく、かなりな部分事実に基づいているということがわかる。なお、映画のナレーションとして時々、英語で語る人がいる。最後にこの人はアインシュタインであったことがわかる。彼の最後のナレーション

 「科学は人間の思惑を超え、進んでいく」(私はその語の後に、例えそれが悪魔的世界をもたらすものであっても、と付け加えたくなった)

2023年2月16日木曜日

えっとぶりじゃぁステーキ食べたのは

 

 昨日は友人に少し暇が出来たようなので昼飯とドライブにさそわれた。某ショッピングモルの食堂街で昼飯にステーキを食べた、結構脂肪も多いしスジもそれなりに入っている。それがライスとセットになっている。でも200gのステーキが1300円余だから安い。 
 ビンボ人の私にとってはステーキなんどは数年ぶりである。いったいいつだったか?コロナ前か、その頃コロナはもう蔓延していたか?というほどえっとぶりである。

 厚みのあるゴッツい黒の石の平鍋を十分熱して、その上に生のステーキをのせてあるのでトレイを受け取った時からジュウジュウ焼け続けている。自分でひっくり返したり時間を少しかけることによって、自分の好きな焼加減にできる。レア、ミディアム、ヴェルダン、好きな焼加減で食べられる。こういう形式のステーキは初めてだ。そうだ!これ、石焼きビビンバの熱した黒の平鍋といっしょだ。

 もちろんおいしかった。

 それからドライブということになったが、私の心づもりでは「梅見」か「鳴門のどこか」と思っていたが、梅見はどこか場所が思い浮かばなかったので、友人に「鳴門では?」ときくと承知してくれて北灘の手前まで走りそこから鳴門スカイラインに入った。

 しかしわかってはいることながら昨日は最高気温も6°あるかないか、車外へ出て景色を眺めるのも寒くておっくうである。車を止めてもほとんど車内からボ~っと眺めだけである。大昔、私がまだ20代の頃にスカイラインから少し入ったところにシェーンブルグというレストランがあって、ちょっと贅沢にそこへ何度か行ったことを思いだした。そこで友人とともにそこまで行った、いまは感じがかわってプライベートなホテルになっているようだ。

 四方見展望台から鳴門公園の突端までいったが、途中、なんと小雪が舞いだした(少しの間だが)。せっかくなら暖かい日だったらよかったのに残念。

 四方見展望台からの眺めの動画、外は寒かった。

2023年2月12日日曜日

2月12日

  特に書くことはないけれどもしばらくぶりに投稿します。

 昼はずいぶん暖かく、水際公園のこのようなところですわっていると、風もなく陽光も春らしい強さになっているので、ひなたぼっこ気分できもちよい。


 水際公園のボードウォークをあるいて東新町アーケードに入ると、休日でもいつもは閑古鳥が鳴いているのに今日は子どもを連れた家族が多い。「まちあそび」というイベントをアーケード内でやっているのだ。出店以外にも、さまざまな催しがあるようだ。カッコイイ白バイの横にはつなぎの服のパトロール隊員がいて、それからブルー系統の派手なパトカーも展示されている、子どもに大人気である。被写体に子どもを入れて撮影する親たちの順番待ち行列が出来ていた。

 一番の人気は下の模型のような小型列車、模型のようとはいいながら、何人も乗った大人や子どもを引っ張って20mほどシューポッポとそれらしい音を振りまきながら走っている。

 

 眉山の麓の天神さんの白梅は3~5分咲きだった。このまま暖かくなるとおもいきや明日天気が少し崩れ、その後、かなり強い寒波が来るという予報。まだまだ寒さを我慢せにゃならん。


2023年2月3日金曜日

今日は節分、まだまだ寒い

  寒い日が続いている。これからの数日予報を見ても、最低気温は0度、最高気温は10°にも達しない日がならんでいる。私が子どものときの昭和の30年代ならこれで普通といえたが、近年、暖冬が続いているし、それに加えて寄る年波のせいか格別寒く感じる。

 寒さの中憂鬱なのは、先月、電気料金大幅値上げの通知があったことである。諸物価ほぼ例外なく値上げの中、電気料金値上げは、貧弱な電気敷き毛布のみに頼る我が懐ばかりでなく、現実に我が身を寒からしめるものとなる。そんななか、昨日のニュースで80代のお年寄りが「低体温症」でなくなったとのニュースに接した。長野の安曇野だからこちらよりもっと寒い。救急の話に寄れば暖房不足による低体温症で老夫婦の80代の夫が死亡し、70代妻も同症で入院との事である。私のように暖房を節約したために起こった公算が強いが、なんとも哀れな話である。

 電気料金値上げについては政府補助として数パーセントの軽減の制度も適応されるようだが、同じく電気料金値上げに文字通りネをあげている西欧北欧諸国は福祉国家を目指すだけに20数パーセントの軽減措置があるようだ。日本も、とおもうが赤字財政でそうもいかないのだろう。

 このブログもぼやくことが多くなった。ネットで公開しているブログだけにぼやきなどはあまり書きたくない、ぼやいていいなら、毎日ズラズラとかけそうである。大昔(半世紀も前)、漫才師「人生行朗・生恵幸子」という夫婦漫才師がいた。社会のさまざまな話題についてぼやくことをそのウリにしていたが、最近はそういうのは流行らないのか、また笑いのネタにするには悲惨すぎるのか、ぼやきを話芸にしている人は見かけない。もうとうになくなったと思うが、彼らの最後の決め台詞、行朗「責任者でてこぃ~~!」、幸子「出てきたらどないすんねん」、行朗「あやまります」がオチである。最後には二人そろって「(ぼやいてばかりで)まことにご無礼いたしました」と丁寧に頭を下げた。いま生きていたらこの世相をかの二人はどのようにぼやくのだろうか、かなわぬことながらもう一度聞いてみたい気がする。


 暗い話題はここまで、さて今日は節分、明日は立春で、冬と春を区切る日と言われている。立春にはピンとこなくても「節分」は子供の頃からおなじみである。祖父母の家では大豆を煎って、毎年のように福は内・鬼は外の豆まきをやった。そして歳の数だけ豆を食べた。座敷にまき散らされた豆は踏んではいけないといわれた。この節分の豆まき行事は昔から我がふるさとでも一般的で各家庭で行っていた。しかし近年巻き寿司「恵方巻き」を吉方に向かって食べるという行事がここ徳島でも見られるようになってきた。昔は、少なくとも私の生まれたあたりではそんな節分の行事はなかった。これも吉方に向かってということで、福を呼ぶ、あるいは無病息災を願ってのことと思われる。

 私と同世代の友人に「恵方巻きなんどは昔しゃなかったなぁ?」ときくと、隣町の友人も頷いて、「あれは寿司屋の戦略じゃ、バレタインのチョコレト屋と同じ意図じゃわ」といわれ、なるほどと納得した。そういえば、ウチの近くの某コンビニでは、入り口付近にその「恵方巻き」の豪華な巻き寿司のポスターを貼りだし、予約受付、なんどと宣伝していた。巻き寿司の芯にはエビだのローストビフなんどが見え隠れしていたから、一本とは言え太く長い巻き寿司で、値段も結構するのだろう。

 今日は「節分」そして明日は「立春」と隣り合っている。これは大晦日と元日が隣り合っているのと同じである。旧暦は「太陰太陽暦」ともいうくらいで、月の(陰)動きと太陽「陽」の動きの双方を考慮しつくられたものである。そのため旧暦の元日は新月に持ってこざるをえないが、太陽の動きでいえば、元旦は「立春」にあるのが基準である。実際に約30年に一回は立春が旧暦の元日となる。旧暦の太陽の動きで言えば「立春」が元日となるべきであるが、新月が旧暦の一日となるため立春に近い新月を元日にしなければならないのである。そのため毎年、立春からプラスマイナス15日びゃぁの間を旧暦の元日が動くのである。

 立春手前の今日の節分を、このように大晦日となぞらえば、「福は内・鬼は外」は古代からある旧暦大晦日の追儺(鬼やらい)の儀式が節分の起源ではないのかと思える。以前に読んだ古典「蜻蛉日記」の最後の記述にこの大晦日の追儺の行事が出てくる。

『…暮れ果つる日にはなりにけり。…思へば、かう長らへ、今日になりにけるも、あさましう、御魂など見るにも、例の尽きせぬことにおぼほれてぞ、果てにける。京の果てなれば、夜いたう更けてぞ、たたき来なる。』

 この記述をもって右大将道綱の母(名は知られていない)の日記はとじるのであるが、この「たたき来なる」のたたきというのが「追儺」のことである。千年以上前の行事であるが時節といいこれが豆まきのルーツとなっているのではないか(調べるとその説は有力ではあるが直接的なルーツとなっているかについては疑問を投げかける説もある

午後から友人と鳴門・岡崎の海を見に行く

 ちょっと寒いが風もなく、穏やかな初春の海であった。たまには広々した海をみるのもいいもんだ。

 私の20代の頃、ここから淡路・福良まで小さな渡船があった(人と自転車のみ)、なんどか乗ったことがある。まだ大鳴門橋はなく、福良からバスを乗り継いで淡路北端からやはり渡船で明石に上陸し、電車で京阪神へ渡ったことを思い出す。


 沖に岩礁が見えるが(黄色い丸印)この横を小さな渡船が行き来した。岩礁といい鳴門海峡の急流といい今から思うと危うげな航路であった。